アルゴナウタイ同盟について

1900年代中ごろメトネル兄弟が加わっていた、作家・アンドレイ・ベールイがウラジーミル・ソロヴィヨフなどの思想に感化されて作った「日常の神話化」を目指すサークルである。なお、アルゴナウタイとは本当にそのまままさしく金羊毛を求めて旅に出たギリシア神話のアルゴス号の戦士のことで、普通にアルゴノーツのことである。

ということ以外に日本語で文献がほぼない。アンドレイ・ベールイについて研究していた鴻野わか菜を除くと、メトネル側に関する数少ない言及者である高橋健一郎が高橋健一郎(2006)で出典をあげている。ので、こちらに従いアンドレイ・ベールイの『Воспоминания о Блоке』という、アレクサンドル・ブロークに関する回顧録を見ていくことにする。

なお、この記事でそもそもさも主人公っぽく出てくる、アンドレイ・ベールイやアレクサンドル・ブロークといった、「ロシア銀の時代」を代表する面々は、トルストイやドストエフスキーに比べても日本では全くと言っていいほど知られていない(正直マヤコフスキーとかの方がまだマシなレベル)。ということで、以後メトネルの名前をかろうじて知っているレベルの人には、SSRやSRどころかR枠でもなさそうな人名をひたすら列挙する記事となっているが、そう思って「資料」欄にしたので、そこは気にしない方針で進めたいと思う。

前置き

なお、当然ロシア革命が起きてすぐのブロークの自殺の3週間後くらいに書かれた文章なので、文章がまず本人の書いたオリジナルかどうかや、本当に出てくる人名や人間関係が正しいかは未検証。

さらに言えば、「アルゴナウタイ同盟」という名前も本当にあったかどうか定かではない。この回顧録の中でベールイは、ブロークを自分を先導するアルゴス号的な存在と形容しているので、自分の周囲の人間関係をアルゴナウタイとたとえた程度かもしれない。

前提情報

なお、以後あまりにも長く、堅苦しい話が続くので、ここだけ適当な文体で書く。いろいろと申し訳ないが、ここは軽く押さえてすっ飛ばしてほしい。

前提①:象徴主義ってそもそも何だよ

面倒なので、いい感じの分量の『現代美術用語辞典ver.2.0』の記述を引用する。

19世紀末のフランスで興った芸術運動のひとつであり、その範囲は詩、文学、音楽、絵画など広範囲に及ぶ。

文学の概念としての「サンボリスム」は、『フィガロ・リテレール』に掲載されたJ・モレアスの「文学宣言」(1886)に由来する。

詩においてはボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌ、音楽においてはドビュッシーやヴァーグナーが代表的な人物として挙げられるが、ここでは主に絵画におけるサンボリスムについて記述する。他のジャンルと同じく、絵画におけるサンボリスムには19世紀末の科学や機械万能主義に対する反発が色濃く反映されている。シャヴァンヌ、モロー、ルドンらサンボリスムの画家たちに共通しているのは、人間の内面的な苦悩や夢想を絵画によって象徴的に表現しようとした点にある。様式的に見れば、それはレアリスム(写実主義/自然主義)に対する反発であったと言えるが、その背後には同時代の実利的な価値観の下での芸術の卑俗化に対する懸念があったと言えよう。

同様の傾向はフランス国内にとどまらず、世紀転換期のベルギーやオーストリアなどヨーロッパ各国に飛び火した。また、19世紀半ばのイギリスで興ったラファエル前派(ロセッティ、ハント、ミレイ)は、その態度や様式上の類似からサンボリスムの先駆と見なされている。

星野太『現代美術用語辞典ver.2.0』内「サンボリスム(象徴主義)」項

とてつもなく雑な理解で言うと、科学が進歩してきた結果、「リアルリアル云々言ってたけど、人間に知覚できないものってこの世界にいっぱいあるじゃん……」となった時に、「見えないモノを見ようとして」覗き込んじゃった感じの人たちである。

これが視覚芸術ならまだわかりやすいが、文学や音楽にも及んだというと、若干わかりづらいかもしれない。ただ、見えないモノを代わりに何かしらのシンボルで表そうとしたというのが、この象徴主義の芸術運動全般に言えることである。例えば、引用文にもある通り、ワーグナーがオペラの登場人物の個々のキャラクター性を「ライトモチーフ」と呼ばれるテーマ音楽的に使ったのが典型例である。

で、なんでフランスの話が引用文でされているのに、ロシアの話になるのかである。一言で言うと、前世代のインテリが、ナロードニキ運動などで社会変革しようとしたのを失敗したのが、そもそもの前提になる。この結果、インテリのある部分は今の社会を変えるのをあきらめてもう社会自体ひっくり返そうと革命運動をはじめ、もう片方の部分が、ひたすら世界の真実とかを探求する方に目を向けだしてしまった。ということで、流行った。

というか、おそらくエレナばあちゃまことブラヴァツキー夫人を筆頭にした19世紀末のオカルティズムがロシア発なのも、割と似たような土壌と思われる。

で、ロシアの象徴主義界隈で割と有名な人間として、以下がいる(以下の7人くらいが、だいたいSSRと考えればいい)。

第一世代の有名人

  • ドミトリー・メレシュコフスキー
    詩人。第一世代のドン。サンクトペテルブルクを拠点に、独自のオカルティズムなどを推進した
  • ジナイーダ・ギッピウス
    詩人。メレシュコフスキーの妻。サンクトペテルブルク側の人間で、思想的には大体メレシュコフスキーと同じ
  • コンスタンチン・バリモント
    詩人。モスクワ側の人間で、ラフマニノフなどの作曲家に詩が使われたという過程で日本でも言及されることの多い人物
  • ワレリー・ブリューソフ
    作家。モスクワ側の人間で、ベールイとの痴情のもつれによって誕生したのが、プロコフィエフがオペラ化した『炎の天使』らしい

第二世代の有名人

  • アンドレイ・ベールイ
    作家。モスクワ側の人間で、だいたい後で述べる
  • アレクサンドル・ブローク
    詩人。サンクトペテルブルク側の人間で、革命が起きてしばらくしてから自殺。だいたい後で述べる
  • ヴァチェスラフ・イヴァノフ
    詩人。サンクトペテルブルク側の人間で、「塔」と呼ばれる拠点を根城にしていた

前提②:ウラジーミル・ソロヴィヨフってそもそも誰だよ

簡単に言えば、19世紀末のロシアの代表的な哲学者。なお、本人的には象徴主義と対立していたのだが、後世に弟のミハイル・ソロヴィヨフらが象徴主義のサークルで思想を広めていたことが、なんかやけにソロヴィヨフの思想にみんなかぶれている経緯である。

正直ソロヴィヨフ思想については、別項でかみ砕きたいのだが、ちゃんとした研究者が日本にいくらでもいるにもかかわらず、ネットで一ミリも関係ないロシア宇宙主義と関連させられたりとひどい状態なので、軽く触れる。

簡単に言うと、中世からヘーゲル、ショーペンハウアーやハルトマンに至るまでのドイツ哲学を受け継ぎ、キリスト教にプラトニックな概念を持ち込んだ人物である。要するに、世界というのはイデア的な単一のあるナニカ、と言うか神から発生して生じたものであり、結局はそこから生まれたので最終的にそこに全統一できるとしていた(なお、ロシア哲学において、いわば「人類補完計画」みたいな気配がするのは、別にソロヴィヨフやフョードロフに始まったわけではないので、その辺は別項で触れたい)。

で、この辺りは議論があるのだが、ソロヴィヨフにとっては、その全一なる存在を女性的なソフィアと呼んで信仰の対象とすべき存在となったらしい。

そんなソロヴィヨフが、なんで芸術家の支柱になったかと言うと、以下の理由である。そんなすべては単一の理想的なナニカから生じているという思想の持ち主だったので、芸術作品とは、たとえば絶対的な理想を具現化する手段だったり、現実にあるモノをより理想に近い存在に変化させる手段だったりとしたからである(既製品のぬいぐるみが手に入らなかったから、自分自身でそれを再現したオリジナルのぬいぐるみを作ったりする感じのアレ)

ただ、このソロヴィヨフの思想をどう現実的にするかにあたって以後様々に分極化し、芸術家においてもアンドレイ・ベールイ、アレクサンドル・ブローク、ヴァチェスラフ・イヴァノフの第2世代象徴主義者は別々のやり方をしていくのである。

前提③:アンドレイ・ベールイってそもそも誰だよ

ロシアの小説家、詩人(1880~1934)。ニコライ・メトネル主観で言うと、同い年で、ウチに入り浸っていた一番上の兄ちゃんの同人仲間。

『銀の鳩』、『ペテルブルク』といったごく一部の作品しか和訳がないが、世界的には「銀の時代」の代表的な一角である。日本語で伝記も出てないけど。

とてつもなく簡単に経歴を追う。

モスクワに産まれ、ウラジーミル・ソロヴィヨフの遺族と親戚付き合いがあり、幼い頃からソロヴィヨフの思想にかぶれる。そのまま、大学を適当に過ごし、文学関係の出版社で仕事し、サンクトペテルブルクの方にいたアレクサンドル・ブロークという大体似たような存在に、会ったこともないのに激重感情を向ける。やがて、ブロークと会うにつれ、ブロークが「はーソフィアソフィア」と扱っていた嫁のリュボーフィに「そ……そんなにソフィアなの?」とこれまた激重感情を向け、三角関係を巻き起こし、ブロークに決闘騒動さえ持ちかけていき、ブロークから絶縁される。

その後、空いた隙間をエミリィ・メトネルに埋められ、「もしかして、俺たちでモスクワのてっぺん取れるのでは?」となり、出版社『ムサゲート』を設立する。ところが、海外旅行している中で、エミリィ・メトネルと音楽性思想信条の違いによりこれまた絶交。で、そのきっかけというのが、エレナ・ブラヴァツキーの弟子と言うか、死後の内ゲバを勝った存在の一人と言うかの、ルドルフ・シュタイナーという人智学協会のトップに弟子入りしたからである。

で、その後シュタイナーの近くでぶらぶらしていたのだが、「いや、世界大戦始まってるのに、何外国で兵役拒否しとるんじゃ」とロシアに連れ戻され、そのまま牛歩しているうちにロシア革命となる。ベールイは、革命を歓迎し、神秘主義思想と合わせた「光の騎士団」的な団体を作る。

ところが、ロシアに連れ戻された時に置いてきた妻が恋しくなり、1921年に出国する。のだが、ソ連の秘密警察網が張られていたとも言われている当時のベルリンで、あっけなくオルグされ、1923年にソ連に戻る。しかし、以後正直何の影響力も及ぼすこともなく、1934年に死んでしまった。

概要

アンドレイ・ベールイによると、おおよその活動時期は、1903年末ごろから、『ムサゲート』出版社の案件などを経て、エミリィ・メトネルとの内ゲバで『ムサゲート』から手を引く1910年までの7年くらいとしている。要するにベールイの家に何か話に来るメンバーであり、象徴主義に傾倒していた。

なお、1903年当初はベールイ以外にも、これらのサークルでは先輩格であるバリモントやブリューソフもリーダーシップを持っていた。なので、特にベールイのサークルというよりは、モスクワにいた象徴主義者が日曜日にはベールイの家に来ていた、と言うのが正しいというのは、ベールイ自身も述べている。

しかし、やがてブリューソフなどによる、出版社『スコーピオン』と『グリフィン』の喧嘩別れなどを経て、まず『グリフィン』の一派のみがベールイの陣営に残る変容をする。これがちょうどブロークがモスクワに訪れ、ベールイと初めて出会った頃の状態である。

固有名詞が多いので、いったんわき道にそれる。柿沼信明(2016)で簡単に把握できるが、この時期モスクワの象徴主義者のサークルは、泥沼になっていた。

もともとモスクワに象徴主義者の出版社は『スコーピオン』しかなく、この機関紙である『天秤座』に載ることができるかどうかは、ブリューソフ1人に依存していた。そこで、1903年にセルゲイ・ソコロフが第2の出版社である『グリフィン』を設立し、ブリューソフのお眼鏡にかなわなかった作品を出すようになる。

しかし、「結局『グリフィン』のやっていることは『スコーピオン』の二番煎じでは?」という声があったため、ソコロフは象徴主義者第一世代の重鎮である、バリモントを招いて構造改革を始めた。まではいいのだが、バリモントがソコロフの妻であるニーナ・ペトロフスカヤと不倫をした挙句、彼女を捨てる。ここで傷心の彼女の心に情がわいたため、1903年頃からベールイが愛人関係となる。

事態はさらに急旋回し、あまりにもベールイとの不倫関係に耐えられなかったニーナが、ブリューソフに相談し、ブリューソフの愛人になってしまう。最終的にニーナは1907年頃にソコロフと婚姻関係を解消し、ベールイの講演会の後にベールイかブリューソフのどちらに行ったか決着のつかないピストル発砲による殺害未遂を彼女が実行。

という感じで、この時期のモスクワの象徴主義者は、ブリューソフとバリモント、バリモントを引き継いだベールイの二極化が行われており、この片方の陣営が「アルゴナウタイ同盟」ということらしい。ただし、文学畑で結成された「アルゴナウタイ同盟」はブロークのモスクワ滞在時に既に、烏合の衆が空中分解を起こそうとしているとベールイに回顧されているレベルであり、その後かなり複雑な変遷を遂げる。

というよりはベールイが「アルゴナウタイ同盟」と思えば、だいたい「アルゴナウタイ同盟」になってしまう。正直、ベールイの主観的な当時の同志くらいのニュアンスで以後も使われているだけである。

上記の通り、1910年頃まではベールイの一派としての「アルゴナウタイ同盟」は存続していた。最終的に、ベールイ曰く1918年(おそらくロシア革命のせい)にもう完全に精神性も吹き飛ばされてしまったのだが、「自由哲学協会」のモスクワ支部の設立の際にある程度志を復活させ、対応したとのこと。

メンバー

このメンバーのリストにあたるものが、第1章で長々とベールイが記載している。ということで、以下それを列挙する。

なお、かなり当時の錚々たるメンバーであるが、まず後述の通りベールイの「アルゴナウタイ同盟」は段階的に色々な人間が出入りを繰り返したので、正直「テセウスの船」のような存在である。また、ベールイが喧嘩別れした相手もいちいち記していた。ので、彼らが一堂に会してなんらかの陰謀を企てたとかそういうわけではない。

『スコーピオン』、『グリフィン』関係者

名前生没年備考
レフ・リヴォヴィッチ・コビリンスキー(ペンネームはエリス)
Лев Львович Кобылинский(Эллис)
1879~1947詩人、『ムサゲート』設立者の一人
セルゲイ・リヴォヴィッチ・コビリンスキー
Сергей Львович Кобылинский
生没年不詳レフ・コビリンスキーの兄弟
セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ソロヴィヨフ
Сергей Михайлович Соловьёв
1885~1942哲学者・ウラジーミル・ソロヴィヨフの甥で詩人1
ミハイル・アレクサンドロヴィッチ・エルテル
Михаил Александрович Эртель
1920年代初頭没歴史家
ベールイはインドの叙事詩『ハリヴァンシャ』を翻訳した人かもと言っているが、違う
グリゴリー・アレクセーヴィッチ・ラチンスキー
Григорий Алексеевич Рачинский
1859~1939哲学者
ベールイの「自由美学協会」の議長
ヴァシーリー・ヴァシリエヴィッチ・ウラジミーロフ
Василий Васильевич Владимиров
1880~1931画家
アレクサンドル・セルゲーヴィッチ・チェリストチェフ(ペンネーム:クラスノセルスキー)
Александр Сергеевич Челищев(Красносельский)
1881~1921数学者、作曲家
検索した限りでは有名な貴族チェリストチェフ家の遠縁とも言われているが、出典は不明2
アレクセイ・セルゲーヴィッチ・ペトロフスキー
Алексей Сергеевич Петровский
1881~1958図書館司書として活躍した存在
ヴラディーミル・パブロヴィッチ・ポリヴァノフ
Владимир Павлович Поливанов
1881~?絵本作家
ニーナ・イワノヴナ・ペトロフスカヤ
Нина Ивановна Петровская
1879~1928詩人
ソコロフの妻で、ベールイは愛人
パーヴェル・ニコラエヴィッチ・バチュシコフ
Павел Николаевич Батюшков
1864~1930頃?神智学者
詩人・コンスタンチン・バチュシコフの孫
パーヴェル・イヴァノヴィッチ・アストロフ
Павел Иванович Астров
1866~1920弁護士
ニコライ・ペトロヴィッチ・キセロフ
Николай Петрович Киселёв
1884~1965歴史家
『ムサゲート』の業務にも務めた
ミハイル・イヴァノヴィッチ・シゾフ
Михаил Иванович Сизов
1884~1956物理学者
『ムサゲート』の設立者の一人
ヴラディーミル・オットノヴィッチ・ナイランデル
Владимир Оттонович Нилендер
1883~1965古典文献学者、翻訳家
復学後のベールイの同級生
セミョーン・ヤコブレヴィッチ・ルバノヴィッチ
Семен Яковлевич Рубанович
?~1930詩人、翻訳家
コンスタンティン・フェドロヴィッチ・クラフト
Константин Фёдорович Крахт
1868~1919彫刻家

その他枠

名前生没年備考
コンスタンチン・ドミートリエヴィッチ・バリモント
Константин Дмитриевич Бальмонт
1867~1942第一世代象徴主義詩人の代表格
ワレリー・ヤコブレヴィッチ・ブリューソフ
Валерий Яковлевич Брюсов
1873~1924第一世代象徴主義詩人の代表格
ユルギス・カジミロヴィッチ・バルトルシャイティス
Юргис Казимирович Балтрушайтис
1873~1944詩人、外交官
有名な美術史家は息子
セルゲイ・アレクシエーヴィッチ・ソコロフ
Сергей Алексеевич Соколов
1878~1936詩人、『グリフィン』出版社の創設者
ニコライ・エフィモヴィッチ・ポヤルコフ
Николай Ефимович Поярков
1877~1918詩人
『グリフィン』出版社創設にかかわるなど、ソコロフの関係者
ボリス・ニコラエヴィッチ・リプキン
Борис Николаевич Липкин
1874~1954画家
ヴィクトル・エルピデフォロヴィッチ・ボリソフ゠ムサトフ
Виктор Эльпидифорович Борисов-Мусатов
1870~1905画家
ヴラディーミル・イリオドロヴィッチ・ロシースキー
Владимир Иллиодорович Россинский
1875~1919画家
ミハイル・イヴァノヴィッチ・シェスターキン
Михаил Иванович Шестеркин
1863~1918画家
ニコライ・ペトロヴィッチ・フェオフィラクトフ
Николай Петрович Феофилактов
1878~1941画家
ヴァシリー・ヴァシリエヴィッチ・ペレプレチコフ
Василий Васильевич Переплетчиков
1863~1918画家
セルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフ
Сергей Иванович Танеев
1856~1915かの有名な作曲家
ベールイも来ている意図はよくわかっていないが、ブロークが来た頃からの常連で、同盟員とみなしていた
フセヴォロド・イヴァノヴィッチ・ブユキィ
Всеволод Иванович Буюкли
1874~1921ピアニスト
エミリィ・カルロヴィッチ・メトネル
Эмилий Карлович Метн
1872~1936哲学者、ニコライ・メトネルの兄
ニコライ・カルロヴィッチ・メトネル
Николай Карлович Метнер
1880~1951作曲家
グスタフ・グスタコヴィッチ・シュペート
Густав Густавович Шпет
1879~1937哲学者
ボリス・アレクサンドロヴィッチ・フォークト
Борис Александрович Фохт
1875~1946哲学者
ミハイル・オシポヴィッチ・ゲルシェンゾーン
Михаил Осипович Гершензон
1869~1925文芸批評家
ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ベルジャーエフ
Николай Александрович Бердяев
1874~1948宗教哲学者
セルゲイ・ニコラエヴィッチ・ブルガーコフ
Сергей Николаевич Булгаков,
1871~1944宗教哲学者
ウラジーミル・フランツェヴィチ・エルン
Владимир Францевич Эрн
1882~1917哲学者
ロシア革命とは特に無関係に早世
グリゴリー・アレクセーヴィッチ・ラチンスキー
Григорий Алексеевич Рачинский
1859~1939なぜか2回カウントされている
ヴァチェスラフ・イヴァノヴィッチ・イヴァノフ
Вячеслав Иванович Иванов
1866~1949象徴主義者の代表格
ドミトリー・セルゲーヴィッチ・メレシュコフスキー
Дмитрий Сергеевич Мережковский
1865~1941宗教哲学者、第一世代象徴主義詩人の代表格
ドミトリー・ウラジミロヴィッチ・フィロソーホフ
Дмитрий Владимирович Философов
1872~1940宗教哲学者、メレシュコフスキー・ギッピウス夫妻の協力者
アレクセイ・ペトロヴィッチ・パブロフ
Алексей Петрович Павлов
1854~1929地質学者
マリア・ヴァシリエヴナ・パブロワ
Мария Васильевна Павлова
1854~1938古生物学者、アレクセイ・パブロフの妻
イワン・アレクセーヴィッチ・カブルコフ
Иван Алексеевич Каблуков
1857~1942物理化学者
マルガリータ・キリロヴナ・モロゾワ
Маргарита Кирилловна Морозова
1873~1958モスクワのいわゆるサロンの女主人
この近辺の思想界に大きな影響を有していた
イーゴリ・アレクサンドロヴィッチ・キスチャコフスキー
Игорь Александрович Кистяковский
1872~1940弁護士、活動家

特別枠

名前生没年備考
アレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・ブローク
Александр Александрович Блок
1880~1921詩人
アルゴナウタイ同盟の面々に、きっと同志だと勝手に扱われていた存在

アレクサンドル・ブロークのモスクワ訪問時の顔ぶれ

また、第2章で1904年1月に、モスクワにアレクサンドル・ブロークが訪れた際、ブロークを囲う会に加わった同盟員をベールイが記載している。ということで、以下それを列挙する。

ブリューソフ本人はおらず、おそらく『スコーピオン』の関係者も絶縁になっており、いなさそうである。なお、全員で25名いたとのことで、ベールイも『グリフィン』の詩人のだれか忘れた人などを挙げており、全員の名前は挙がっていない。

名前生没年備考
レフ・リヴォヴィッチ・コビリンスキー(ペンネームはエリス)
Лев Львович Кобылинский(Эллис)
1879~1947既出なので割愛
セルゲイ・リヴォヴィッチ・コビリンスキー
Сергей Львович Кобылинский
生没年不詳既出なので割愛
ミハイル・アレクサンドロヴィッチ・エルテル
Михаил Александрович Эртель
1920年代初頭没既出なので割愛
コンスタンチン・ドミートリエヴィッチ・バリモント
Константин Дмитриевич Бальмонт
1867~1942既出なので割愛
セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ソロヴィヨフ
Сергей Михайлович Соловьёв
1885~1942既出なので割愛
ヴァシーリー・ヴァシリエヴィッチ・ウラジミーロフ
Василий Васильевич Владимиров
1880~1931既出なので割愛
セルゲイ・アレクシエーヴィッチ・ソコロフ
Сергей Алексеевич Соколов
1878~1936既出なので割愛
パーヴェル・ニコラエヴィッチ・バチュシコフ
Павел Николаевич Батюшков
1864~1930頃?既出なので割愛
アレクサンドル・セルゲーヴィッチ・チェリストチェフ(ペンネーム:クラスノセルスキー)
Александр Сергеевич Челищев(Красносельский)
1881~1921既出なので割愛
ニコライ・エフィモヴィッチ・ポヤルコフ
Николай Ефимович Поярков
1877~1918既出なので割愛
アレクセイ・セルゲーヴィッチ・ペトロフスキー
Алексей Сергеевич Петровский
1881~1958既出なので割愛
ニーナ・イワノヴナ・ペトロフスカヤ
Нина Ивановна Петровская
1879~1928既出なので割愛
クレオパトラ・ペトロヴナ・フリストフォロバ
Клеопатра Петровна Христофорова
1870頃~1934商人の娘で、神智学や人智学に傾倒した存在
ドミトリー・イヴァノヴィッチ・ヤンチン
Дмитрий Иванович Янчин
1888~1920数学教師
ベールイのギムナジウム仲間
イワン・アレクセーヴィッチ・カブルコフ
Иван Алексеевич Каблуков
1857~1942既出なので割愛
イーゴリ・アレクサンドロヴィッチ・キスチャコフスキー
Игорь Александрович Кистяковский
1872~1940既出なので割愛
マリア・ニコラエヴナ・キスチャコフスカヤ
Мария Николаевна Кистяковская
生没年不詳イーゴリ・キスチャコフスキーの妻

結成の経緯

以後、正直ブロークの回想録という性質もあり、ブロークとの関係性を述べている傍らで、あまりにもジェットコースターのようにモスクワのクローズドサークルの内ゲバが原文では記述されている。というか書いてる身でも、あまりにも好き嫌いの変化が急に起き、こないだまで殴り合っていた筈なのにいつの間にかよりを戻していたり、あんなに仲良かったのに簡単に絶縁になっていたりして、正直まとめるの辛かった。

ということなので、かなり駆け足でもややこしいことになっているのを、ご承知おきください。

若い頃

まず、そもそもの前提として、アンドレイ・ベールイは、哲学者・ウラジーミル・ソロヴィヨフの兄弟・ミハイル・ソロヴィヨフら一家と家族ぐるみの付き合いが幼いころからあった。そもそもミハイルの息子である、セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ソロヴィヨフと母方のはとこであったためである。このミハイル・ソロヴィヨフは、兄であるウラジーミル・ソロヴィヨフの熱心な布教活動を行っていた。この結果、アンドレイ・ベールイは、ウラジーミル・ソロヴィヨフの思想に幼いころからかなり親しんでいたのである。

この後、1903年くらいまではメレシュコフスキーやギッピウスといった「宗教哲学協会」を主導する人々ともそのサークルでつながりがあったのだが、ミハイル・ソロヴィヨフの病死と一瞬で行われた妻・オルガ・ソロヴィヨワの自殺によって、このソロヴィヨフサークルは根底から崩れてしまった。ただし、このサークルの内外ですでにベールイは友人を作っており、その一人がエミリィ・メトネルだったりする。

ブロークとの交流と最初の「アルゴナウタイ同盟」

なお、ちょうどこれと同時期に行われていたのが、アンドレイ・ベールイとアレクサンドル・ブロークの文通である。アレクサンドル・ブロークが、ミハイル・ソロヴィヨフの親戚だったことがきっかけである。ただし、この後、アレクサンドル・ブロークの結婚式も特に印象に残らないまま、『スコーピオン』出版社や『グリフィン』出版社の設立や「アルゴナウタイ同盟」の結成など、かなり忙しい日々をベールイは送る。

以後、アンドレイ・ベールイによると、『スコーピオン』、『グリフィン』の面々を母体にし、1903年末ごろにふわっと最初の「アルゴナウタイ同盟」が結成されたらしい。しかし、やがてブリューソフとのいさかいなどを経て、文学畑で活動を嫌がるようになった。結局、当の本人であるベールイも回顧しているように、烏合の衆であったこの集団は、1904年に一度空中分解したらしい。

その後、モスクワの象徴主義者サークルは、一度ヴァチェスラフ・イヴァノフの影響下に入るものの、ロシアにすらいない彼ではなく、結局ブリューソフを仰ぐしかないとベールイは認識していた。ちょうどこの時期にブロークの家にベールイが誘われ、ブローク夫妻との一連の事件の端緒となる。ただし、この招きには「アルゴナウタイ同盟」のソロヴィヨフとペトロフスキーも招かれていたりする。

余談だが、ブロークの最初の詩集『うるわしの淑女』を出版するためにベールイに使われたコネこそ、当時ニジニーノヴゴロドで公務員をしていたエミリィ・メトネルであり、彼が検閲官として右から左に受け流して出版されたらしい。

新たな「アルゴナウタイ同盟」

こうしてブロークの『うるわしの淑女』が称賛を浴びていた1904年。この年の秋に、ベールイはモスクワ大学に再入学3するが、本業の文献学ではなく、セルゲイ・トルベツコイ、レフ・ロパーチン、ボリス・フォークトなど、ものの見事にウラジーミル・ソロヴィヨフをある程度引き継ぐモスクワ大学の哲学系サークルに魅力を感じる。

そんな中で哲学科の学生がふわっとウラジーミル・ソロヴィヨフに関するサークルを立ち上げ、ベールイなども加わり、これがベールイ自身の新たな「アルゴナウタイ同盟」ともいうべき存在となった。やがて、パーヴェル・アストロフの”среды”と出会い、ベールイがエリスによってもたらされたと形容した何らかのいさかい後、和解してさらに数年はアストロフとともに主導する。

激動の1905年

こうして、ブローク夫妻などとひと悶着が始まった年になって行く。ソース元がアレクサンドル・ブロークの回顧録なのでこの記述も極めて重いが、この辺りの経緯は奈倉有里(2021)などに詳細に書かれているので、カットする。

とりあえず、背景としては、次第に、ブリューソフとの関係にぎくしゃくして悩んでいたベールイが、今度は宗教哲学者たちに接近し、結果一度サンクトペテルブルクのメレシュコフスキーを紹介される。

で、このメレシュコフスキーのところに遊びに来ている時に、血の日曜日事件に始まる第一次ロシア革命や、メレシュコフスキーとギッピウス夫妻のサークルを通じて、フィロソーホフだのソログープだのロザノフだのといったサンクトペテルブルクの重鎮たちと知り合って過ごす。

のだが、ベールイ曰くメレシュコフスキー夫妻の一派に対し、オカルティズムの話ばかりでウマが合わないと感じていたベールイや、上からの視点を持っているのみで街に出向かないと感じていたブロークは、メレシュコフスキー夫妻のサークルで孤立し、その年のうちに2人とも脱出した。この結果、ベールイはメレシュコフスキーの一派でもあったブリューソフと断交し、決闘騒動も起きていたりする。

この後、ベールイはマルガリータ・モロゾワのサークルに加わったらしく、そこにはエミリィ・メトネルやラチンスキーがいた。ただし、このサークルではトルベツコイ、ロパーチン、フヴォストフらにはあまり関心を持たれていなかったらしく、ベールイはトルベツコイとは和解できずに終わってしまったと回顧している。

一方、この頃エルンやスヴェンツィツキーといった割と古くから付き合いのあるメンバーが神秘主義などを掲げて求心性を持ち、ブルガーコフやアレクサンドル・セルゲーヴィッチ・グリンカ(ペンネーム:ヴォルジスキー)4といった、ベールイの友人たちをも取り込んでいったらしい。

この喧騒を避けるためにブロークの元を訪れるも、ブローク夫妻はよそよそしく、ベールイはむしろ一緒に来たソロヴィヨフと親睦を深めたレベルであった。しまいにソロヴィヨフとブロークが対立し、最終的に色々あった結果、この3人の親戚の友情はいったん破綻した。

この時期頃、エリスを通して「アルゴナウタイ同盟」もまた革命に身を投じ始めたのだが、ベールイがメンシェヴィキといった具合に、ここでもまた各人が別々の党派につく。おまけにアストロフは、兄がのちにモスクワ市長にもなる通り体制派で、ベールイもなんとなく間に入っていたのだが、かの有名な総督であるドミトリー・トレポフが民衆に対して強権を振るい始めたあたりで袂を分かつ。この結果、アストロフとの親交は続いたものの、アストロフのサークルとは分離したらしい。

が、革命派としてストライキに参加したことで、逆にブロークらとの関係が修復される。結果、ブロークとともにメレシュコフスキー夫妻のサークルの元を訪れ、ここでようやくイヴァノフらとも知り合う。のだが、メレシュコフスキー夫妻とイヴァノフはやや対立していたのをベールイは感じていたらしい。

そんなこんなしているうちに、ブロークはモスクワの激動を見に戻って行ってしまい、ベールイは後に取り残される。ベールイがモスクワに戻った頃には、全てはもう終わっていたらしい。

というところまでが、ほぼ1年の間に行われていったわけである。

ブロークとの断絶

一旦モスクワに戻った後、ベールイはベールイ陣営の「アルゴナウタイ同盟」に見送られて、サンクトペテルブルクに再度戻った。で、結局ベールイはブロークとの交際を選び、この辺りでブロークの妻であるリュボーフィ・メンデレーエワとの問題も目立つようになる。おまけにこのリュボーフィの問題でメレシュコフスキー夫妻の介入もあり、1906年2月に彼らが渡仏するまでには、ブロークとの亀裂も大きくなってしまう。

この中で、イヴァノフとの表面上の付き合いなどもしていったものの、モスクワに一度戻った後、1906年5月にデドヴォに住居を移る。ここでソロヴィヨフの母方の祖母であるコヴァレンスカヤの隣の家で暮らし、体制派である、コヴァレンスカヤの息子のニコライ・ミハイロヴィッチ・コヴァレンスキーとのぎくしゃくした関係と並ぶ形で、ついに手紙攻撃の後、モスクワに来ていたブロークに会い、決闘を申し込んだ。

さらに、数日後のコヴァレンスキーとのいさかいの後、ソロヴィヨフ、エリスやラチンスキーといった革命派に接近した。ソロヴィヨフは引き続きブロークとの仲を取り持とうとしたものの、サンクトペテルブルクを訪れている際に、ベールイが海外で暮らす条件などでブロークとの決着がついてしまった。

おなじく海外にいるメレシュコフスキー夫妻との交流や、シュタイナーとの接近などもあったが、この辺りはこの記事に何ら影響しないのでカットする。

サンクトペテルブルクとの対立の中で

1907年3月になるとベールイはモスクワに戻り、引き続きモスクワの文学界でリーダーシップを発揮する。が、ブローク批判の中で自分が思っていたポジションとは違う位置づけに着けられた。

要するにベールイは、エリスやソロヴィヨフなどと一緒くたに、サンクトペテルブルクのヴァチェスラフ・イヴァノフやブロークに攻撃する陣営とみなされた結果、第二世代象徴主義者は分裂し、ふわっと一番当初の「アルゴナウタイ同盟」も目的自体も破綻した。

で、モスクワの象徴主義者の雑誌であり、対立する「天秤座」、「金羊毛」、「峠道」の3誌をいい感じにベールイが取り持とうとしたのだが、「金羊毛」はベールイと対立して逆にブローク側に就き、モスクワにやってきたブロークに対してベールイは議論ののち和解できたらしい。

そして、ギッピウスのサンクトペテルブルク陣営への参戦などもあったが、結局ソコロフがキエフで仲を取り持ち、両陣営はある程度歩み寄りをする。しかし、ブロークやメレシュコフスキー夫妻とは異なり、結局イヴァノフとは敵対し、ベールイはモスクワに戻ったようである。

再始動するアルゴス号

で、こうした中で、ベールイは、モロゾワやラチンスキー、ブルガーコフらと行動を共にするようになる。このうちダルハイム夫妻とモロゾワのサークルに通うようになり、モロゾワのサークルで出会ったのが、後世『ムサゲート』設立にかかわる一人である、シュペートである。

が、革命闘争においてリーダーシップを発揮しようとするラチンスキーと断交し、エフゲニー・トルベツコイ、ブルガーコフ、エルンあたりともここで袂を分かつ。そして、前々から文通したり会ったりしてはいたのだが、この頃からベールイ曰くブロークの隙間を埋めるようにエミリィ・メトネルと仲良くなっていく。

かくして、1907年~1908年頃になると、ダルハイム夫妻のところを訪れるついでにメトネル家に入り浸るようになり、残っていた「アルゴナウタイ同盟」の中で、後に『ムサゲート』設立に向かう新たなサークルを形成していたらしい。

しかし、ニーチェ主義がモスクワを覆う中、モロゾワのサークルはモスクワの思想界の中立地帯として機能しており、モスクワの文化人たちは、個々では対立しつつも、ここに集まった。で、この中で、ベールイはモロゾワ、エミリィ・メトネルと自分の3人でモスクワでリーダーシップを発揮しつつ、エリス、エミリィ・メトネルと自分の3人で新しい計画に着手した。『ムサゲート』出版社の創設である。

こんな中で、セミョーン・ウラジミロヴィッチ・ルリエが『ロシア思想』発刊の計画のために、エフゲニー・トルベツコイの『モスクワ週報』の清算をもくろみ、さらにブリューソフを抱き込んで『天秤座』をたたむ噂まで出ていた。

これにモロゾワは抵抗し、トルベツコイのサークルと、ベールイの「アルゴナウタイ同盟」が招集された。さらにブリューソフでは『天秤座』を続けるのに頼りにならないと、アンナ・メトネルの連絡で豪商・セルゲイ・シチューキンにまでコンタクトを取ったが失敗。ついにはベールイたちがポリャコフやバルトルシャイティスといった『スコーピオン』のメンバーを抱き込み、何とか1年もたせてみせた。

同盟の終わり

1908年にベールイがうっかりブロークを攻撃してしまったために、「アルゴナウタイ同盟」として対ブロークのベールイ陣営が築かれた。そこにいるのはかつてのメンバーもいるが(なぜかラチンスキーなどもカウントされているが)、既にエミリィ・メトネルやナイランデルといった新しい顔ぶれもいた。しかし、この回顧録を書いた当時のベールイにとって、それはもう当初の志である「夜明けを夢見る」存在ではなかった。

その後、エリスがどんどん神秘主義にハマっていった結果、「アルゴナウタイ同盟」自体はベールイにも徐々にコントロールできなくなっていった。すがるようにモロゾワ、エミリィ・メトネル、ダルハイム夫妻のところに訪れていく。

ベールイがコヴァレンスキー家と和解したころ、メレシュコフスキー夫妻が海外から戻ってきた。なお、ここでピョートル・ストルーヴェによって伝統ある『ロシア精神』誌が復権した際、メレシュコフスキーが一瞬文学部門の長を務めたが、あっさりストルーヴェと喧嘩別れしたらしい。

この頃のエピソードとして、翻訳コンクールでのベールイの論争が記されている。つまり、文学者としてフョードル・エフゲニエヴィッチ・コルシュ、ブリューソフ、ベールイが、作曲家としてタネーエフ、ニコライ・メトネル、アレクサンドル・グレチャニノフが、音楽評論家としてユーリー・エンゲル、ニコライ・カシュキン、セミョーン・ニコラエヴィッチ・クルグリコフが審査員となり、コルシュとブリューソフがいない中ベールイが旧態然とした詩を選んだエンゲルと対決したというものである(なお、この時メトネル、タネーエフはベールイの陣営となった)。

ここでまた、サンクトペテルブルクのメレシュコフスキー夫妻の下に行き、ミハイル・ゲルシェンゾーン5と知り合うこととなる。というかもはや、この時の滞在は、これくらいしか良い思い出がないくらい、何も得られなかったようだ。例えば、ロザノフとの交流も、エミリィ・メトネルに「あんな風にはなれない」と愚痴るほどであった。

この頃、実は文芸時代の「アルゴナウタイ同盟」の頃から地味にいたのだが、クレオパトラ・フリストフォロヴァのサークルに通い始め、ブラヴァツキー夫人の神智学にも興味を持つ。のだが、ベールイは気が晴れない。明けて1909年にはイヴァノフと和解を始めるも、イヴァノフの講演会でパニックになって誰かを罵倒してしまい、イヴァノフらになだめられるほどになってしまった。

ブロークとの和解が若干癒しを与えたものの、あまりにも多くの論争と、エリスの些細なミスがすっぱ抜かれて大スキャンダルとなった結果、1909年にエリスがシュタイナー主義に傾倒する。一方で、ほぼ同時期に、『ムサゲート』が設立された。

ここで「アルゴナウタイ同盟」の面々によって一大事業が完成した。一方で、オレンブルクのフョードル・アウグストヴィッチ・ステパン、セルゲイ・イオィヴォヴィッチ・ゲッセンら、『ロゴス』と呼ばれる別組織と提携を結ぶ。この『ロゴス』は完全なドイツ哲学の純粋な団体で、最終的に神秘主義に向かいたい面々との軋轢を招くことになる。

また、この頃に彫刻家クラフトとの交流や、ダルハイム夫妻との交流をメトネルともどもやめるなどあったが、一番大きな事件としては、イヴァノフの影にいた神智学者のアンナ・ミンツロヴァとの和解である。

この結果、ベールイらはサンクトペテルブルクのイヴァノフの「塔」に向かい、グミリョフらアクメイストとの交流と並行して、イヴァノフの手でようやくブロークとの本当の和解に近づく。延命措置をしていた『天秤座』」がついにダメになった1909年の秋には、イヴァノフを『ムサゲート』に招くまでに至る。

こうしてツルゲーネフ一家との交流などをしていた1910年8月に、ミンツロヴァの蒸発が起きた。一方で、セッティングされたモスクワでのブロークとの和解会談もつつがなく終えていく。のだが、この頃になると『ムサゲート』は3つの軸があり、宗教哲学と「ロゴス」と結びつく純粋哲学の対立が徐々に起き始める。

ブロークとエミリィ・メトネルと交流や、ブロークの詩集を『ムサゲート』で出版する話をエミリィ・メトネルが二つ返事で通すなどが、ベールイにとって「アルゴナウタイ同盟」の最後の幸福の時間だったと思われる。

この後、ベールイがチュニジア旅行をしている際、エミリィ・メトネルは『ムサゲート』内で勢力拡大に励み、ベールイはこれを自分の排除と考える。さらに『ロゴス』の掲げる純粋哲学を継続するかどうかで、ベールイはこれまでと逆の反対派に回ってしまった結果、エミリィ・メトネルと完全に対立する。

エミリィ・メトネルとは、この後1915年に至るまで何度も対立と和解を繰り返すも、『ムサゲート』での「アルゴナウタイ同盟」の内ゲバを離れたいベールイは、『ムサゲート』から手を引き、サンクトペテルブルクで出版活動を行う。ここで、ブリューソフに断られたといってセンセーショナルを呼び、引く手あまたとなったのが、数少ない和訳されているベールイの小説『ペテルブルク』である。

こうしてイヴァノフの下でのブロークとの交流を経て、ついにベールイは人智学協会のシュタイナーに近づく。以後、この本ではブロークの本からインスピレーションを受けたイメージの話で幕を閉じる。もはや、ベールイにとって以後の人生に「アルゴナウタイ」は無関係なのだろう。

アルゴナウタイ同盟前後の変遷

ある程度母体になるソロヴィヨフ家のサークル

1章序盤に出てくる、ベールイなどが幼い頃、ミハイル・ソロヴィヨフらの周囲にあった、故ウラジーミル・ソロヴィヨフの思想を語り継ぐサークル。若干構成員に重複が見られるので、ここに記す。

名前生没年備考
ミハイル・セルゲーヴィッチ・ソロヴィヨフ
Михаил Сергеевич Соловьёв
1862~1903ウラジーミル・ソロヴィヨフの弟
オルガ・ミハイロヴナ・ソロヴィヨワ6
Ольга Михайловна Соловьёва
1855~1903ミハイル・ソロヴィヨフの妻
セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ソロヴィヨフ
Сергей Михайлович Соловьёв
1885~1942既出なので割愛
ドミトリー・N・ノヴスキー
Дмитрий Н Новский
生没年不詳セルゲイ・ソロヴィヨフの家庭教師
E・ウンコフスカヤ7
Е. Унковская
生没年不詳ベールイの回顧録に頻出の、ソロヴィヨフ家に出入りしていた女性
アレクサンドラ・グリゴリエヴナ・コヴァレンスカヤ
Александра Григорьевна Коваленская
1829~1924児童文学作家で、オルガ・ソロヴィヨワの母親
アレクセイ・セルゲーヴィッチ・ペトロフスキー
Алексей Сергеевич Петровский
1881~1958既出なので割愛
レフ・リヴォヴィッチ・コビリンスキー(ペンネームはエリス)
Лев Львович Кобылинский(Эллис)
1879~1947既出なので割愛
セルゲイ・リヴォヴィッチ・コビリンスキー
Сергей Львович Кобылинский
生没年不詳既出なので割愛
グリゴリー・アレクセーヴィッチ・ラチンスキー
Григорий Алексеевич Рачинский
1859~1939既出なので割愛
ヴァシリー・オシポヴィッチ・クリュチェフスキー
Василий Осипович Ключевский
1841~1911歴史家、クリュチェフスキー学派を率いた大家
セルゲイ・ニコラエヴィッチ・トルベツコイ
Сергей Николаевич Трубецкой
1862~1905宗教哲学者
ユーラシア主義のニコライ・トルベツコイは息子
ワレリー・ヤコブレヴィッチ・ブリューソフ
Валерий Яковлевич Брюсов
1873~1924既出なので割愛
ドミトリー・セルゲーヴィッチ・メレシュコフスキー
Дмитрий Сергеевич Мережковский
1865~1941既出なので割愛
ジナイーダ・ニコラエヴナ・ギッピウス
Зинаида Николаевна Гиппиус
1869~1945宗教哲学者、第一世代象徴主義詩人の代表格
ドミトリー・メレシュコフスキーの妻
ポリクセナ・セルゲーヴナ・ソロヴィヨワ(ペンネーム:アレグロ)
Поликсена Сергеевна Соловьёва(Allegro)
1867~1924詩人
ニコライ・ソロヴィヨフ、ミハイル・ソロヴィヨフらの妹
ピョートル・イヴァノヴィッチ・ダルハイム
Петр Иваныч д’Альгейм
1862~1922貴族、ジャーナリスト
歌手・マリア・ダルハイム(旧姓オレニナ)は妻

なお、この時期を代表する親交相手として、ベールイは以下の5人の名前をあげているので、併記する(普通に19世紀のドンともいうべき思想家が出てきているので、友人ほどカジュアルな枠ではないはず……)。

名前生没年備考
エミリィ・カルロヴィッチ・メトネル
Эмилий Карлович Метн
1872~1936既出なので割愛
ヴァシーリー・ヴァシリエヴィッチ・ロザノフ
Василий Васильевич Розанов
1856~1919宗教哲学者
コンスタンティン・ニコラエヴィッチ・レオンチェフ
Константин Николаевич Леонтьев
1831~1891後期スラヴ派の代表格
アレクセイ・セルゲーヴィッチ・ペトロフスキー
Алексей Сергеевич Петровский
1881~1958既出なので割愛
レフ・リヴォヴィッチ・コビリンスキー(ペンネームはエリス)
Лев Львович Кобылинский(Эллис)
1879~1947既出なので割愛

なお、ちょうどこの直後が海野弘(2017)での引用で知られる、ギッピウスやメトネル兄弟によって夜明けが始まった1900年代初頭と述べているあの箇所である。

再結成後の初期メンバー

名前生没年備考
ヴァレンティン・パヴロヴィッチ・スヴェンツィツキー
Валентин Павлович Свенцицкий
1881~1931神学者
パーヴェル・アレクサンドロヴィッチ・フロレンスキイ
Павел Александрович Флоренский
1882~1937神学者
逆遠近法のあの人
ウラジーミル・フランツェヴィッチ・エルン
Владимир Францевич Эрн
1882~1917既出なので割愛
セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ソロヴィヨフ
Сергей Михайлович Соловьёв
1885~1942既出なので割愛
ボリス・エフゲヴィッチ・シロエチコフスキー8
Борис Евгеньевич Сыроечковский
1881~1961デカブリストなどを専門にした歴史家

アストロフとの合流後にいたメンバー

名前生没年備考
パーヴェル・イヴァノヴィッチ・アストロフ
Павел Иванович Астров
1866~1920既出なので割愛
アレクサンドラ・ミハイロワ・アストロヴァ
Александра Михайловна Астрова
生没年不明パーヴェル・アストロフの妻
イヴァン・アレクサンドロヴィッチ・アスタフィエフ
Иван Александрович Астафьев
1844~1911以降画家
アナトーリ・オレストヴィッチ・シュクリャレフスキー
Анатолий Орестович Шкляревский
生没年不詳ギムナジウム教師
Y・エルテル
Я. Эртель
誰か不明
もしかしたら使った刊本に起因する、既出のエルテルの誤記かも
パーヴェル・ニコラエヴィッチ・バチュシコフ
Павел Николаевич Батюшков
1864~1930頃?既出なので割愛
ミハイル・イヴァノヴィッチ・シゾフ
Михаил Иванович Сизов
1884~1956既出なので割愛
セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ソロヴィヨフ
Сергей Михайлович Соловьёв
1885~1942既出なので割愛
クレオパトラ・ペトロヴナ・フリストフォロバ
Клеопатра Петровна Христофорова
1870頃~1934既出なので割愛
ニコライ・ヴィクトロヴィッチ・シュパーリング
Николай Викторович Шперлинг
1881~1940画家
スクリャービンとの絡みがあったり、亡命後地中海で活動したりしている
ヴラディーミル・パブロヴィッチ・ポリヴァノフ
Владимир Павлович Поливанов
1881~?既出なので割愛
グリゴリー・アレクセーヴィッチ・ラチンスキー
Григорий Алексеевич Рачинский
1859~1939既出なので割愛
ニコライ・イヴァノヴィッチ・アストロフ
Николай Иванович Астров
1868~1934パーヴェル・アストロフの兄
後世モスクワ市長となった後、白軍に身を投じ亡命
アレクサンドル・イヴァノヴィッチ・アストロフ
Александр Иванович Астров
1870~1919パーヴェル・アストロフの兄
赤色テロルでチェーカーに処刑される
ヴラディーミル・イヴァノヴィッチ・アストロフ
Владимир Иванович Астров
?~1919パーヴェル・アストロフの弟
赤色テロルでチェーカーに処刑される
ウラジーミル・フランツェヴィッチ・エルン
Владимир Францевич Эрн
1882~1917既出なので割愛
ヴァレンティン・パヴロヴィッチ・スヴェンツィツキー
Валентин Павлович Свенцицкий
1881~1931既出なので割愛
パーヴェル・アレクサンドロヴィッチ・フロレンスキイ
Павел Александрович Флоренский
1882~1937既出なので割愛

マルガリータ・モロゾワのサークル

ベールイがメレシュコフスキーの家を脱出し、モスクワでブリューソフらと起こした一連の騒動を終えたくらいにあったサークル。ぶっちゃけほぼ「アルゴナウタイ同盟」には関係ないのだが、ここでの交流がある程度グループの形成につながったともいえるので、記載する。

名前生没年備考
マルガリータ・キリロヴナ・モロゾワ
Маргарита Кирилловна Морозова
1873~1958既出なので割愛
アレクサンドル・ニコラエヴィッチ・スクリャービン
Александр Николаевич Скрябин
1872~1915作曲家、説明不要
エミリィ・カルロヴィッチ・メトネル
Эмилий Карлович Метнер
1872~1936既出なので割愛
グリゴリー・アレクセーヴィッチ・ラチンスキー
Григорий Алексеевич Рачинский
1859~1939既出なので割愛
エフゲニー・ニコラエヴィッチ・トルベツコイ
Евгений Николаевич Трубецкой
1863~1920哲学者
セルゲイ・トルベツコイの弟
レフ・ミハイロヴィッチ・ロパーチン
Лев Михайлович Лопатин
1855~1920心理学者
ヴァニアミン・ミハイロヴィッチ・フヴォストフ
Вениамин Михайлович Хвостов
1868~1920哲学者、法学者

1906年2月のベールイを見送ったメンバー

6章冒頭のベールイの見送りにいたメンバー。

アストロフの一派とは分離した後であり、こちらがベールイ陣営のメンツと思われる。ただし、ベールイは名前が思い出せないが他にもいた気がすると言っているので、全員ではない模様。

名前生没年備考
レフ・リヴォヴィッチ・コビリンスキー(ペンネームはエリス)
Лев Львович Кобылинский(Эллис)
1879~1947既出なので割愛
アレクセイ・セルゲーヴィッチ・ペトロフスキー
Алексей Сергеевич Петровский
1881~1958既出なので割愛
ミハイル・イヴァノヴィッチ・シゾフ
Михаил Иванович Сизов
1884~1956既出なので割愛
ニコライ・イヴァノヴィッチ・シゾフ
Николае Ивановиче Сизов
1866~1962作曲家
ミハイル・シゾフの弟
イヴァン・アレクサンドロヴィッチ・アスタフィエフ
Иван Александрович Астафьев
1844~1911以降既出なので割愛
ヴァシーリー・ヴァシリエヴィッチ・ウラジミーロフ
Василий Васильевич Владимиров
1880~1931既出なので割愛
セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ソロヴィヨフ
Сергей Михайлович Соловьёв
1885~1942既出なので割愛
ヴラディーミル・パブロヴィッチ・ポリヴァノフ
Владимир Павлович Поливанов
1881~?既出なので割愛
ニコライ・ミハイロヴィッチ・マラフィエフ
Николай Михайлович Малафеев
生没年不詳モスクワ大学の学生
ミハイル・アレクサンドロヴィッチ・エルテル
Михаил Александрович Эртель
1920年代初頭没既出なので割愛
パーヴェル・ニコラエヴィッチ・バチュシコフ
Павел Николаевич Батюшков
1864~1930頃?既出なので割愛

ダルハイム夫妻のサークル

ベールイがブロークと和解したくらいの時期に、ダルハイム夫妻のところで形成されていたサークル。これも「アルゴナウタイ同盟」ではないが、参考として併記。

名前生没年備考
ピョートル・イヴァノヴィッチ・ダルハイム
Петр Иваныч д’Альгейм
1862~1922既出なので割愛
マリア・アレクセーエワ・ダルハイム(旧姓:オレニナ)
Мария Алексеевна д’Альгейм
1869~1970メゾソプラノ歌手、ピョートル・ダルハイムの妻
セルゲイ・カジミロヴィッチ・ムラト
Сергей Казимирович Мюрат
生没年不詳ダルハイムのいとこ、フランス語教師
セルゲイ・リヴォヴィッチ・トルストイ
Сергей Львович Толстой
1863~1947作曲家
作家・レフ・トルストイの息子
グスタフ・グスタコヴィッチ・シュペート
Густав Густавович Шпет
1879~1937既出なので割愛
ワレリー・ヤコブレヴィッチ・ブリューソフ
Валерий Яковлевич Брюсов
1873~1924既出なので割愛
セルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフ
Сергей Иванович Танеев
1856~1915既出なので割愛
ユーリー・ドミトリエヴィッチ・エンゲル
Юлий Дмитриевич Энгель
1868~1927音楽評論家
ニコライ・ドミトリエヴィッチ・カシュキン
Николай Дмитриевич Кашкин
1839~1920音楽評論家
チャイコフスキーからモスクワ音楽院を引き継いだあの人
レフ・アレクサンドロヴィッチ・タラセヴィッチ
Лев Александрович Тарасевич
1868~1927微生物学者
ナタリア・アレクセーエワ・ツルゲーネワ(結婚後の姓:ポッツォ)
Вениамин Михайлович Хвостов
1888~1942彫刻家
アナーキスト・ニコライ・バクーニンの孫
アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ポッツォ
Александр Михайлович Поццо
1882~1941弁護士
ナタリア・ツルゲーネワの夫
グリゴリー・アレクセーヴィッチ・ラチンスキー
Григорий Алексеевич Рачинский
1859~1939既出なので割愛
タチアナ・アナトリエヴナ・ラチンスカヤ
Татьяне Анатольевне Рачинская
1864~1920グリゴリー・ラチンスキーの妻
豪商・アナトーリ・マーモントフの娘

ブロークとの和解後のモロゾワのサークル

ベールイがブロークと和解したくらいの時期に、マルガリータ・モロゾワのところで形成されていたサークル。これも「アルゴナウタイ同盟」ではないが、参考として併記。

名前生没年備考
マルガリータ・キリロヴナ・モロゾワ
Маргарита Кирилловна Морозова
1873~1958既出なので割愛
イヴァン・アレクサンドロヴィッチ・イリイン
Иван Александрович Ильин
1882~1954国粋主義者
ベールイとエミリィ・メトネルとの断交後、メトネル兄弟と仲良くなる
ガヴリール・オシポヴィッチ・ゴードン
Гавриил Осипович Гордон
1885~1942教育家
復学後のベールイの同級生
ボリス・アレクサンドロヴィッチ・フォークト
Борис Александрович Фохт
1875~1946既出なので割愛
グスタフ・グスタコヴィッチ・シュペート
Густав Густавович Шпет
1879~1937既出なので割愛
アレクセイ・コンスタンティノヴィッチ・トポルコフ
Алексей Константинович Топорков
1882~1934哲学者
ボリス・ペトロヴィッチ・ヴィシェスラフツェフ
Борис Петрович Вышеславцев
1877~1954哲学者、弁護士
アレクサンドル・ウラジミロヴィッチ・クビツキー
Эмилий Карлович Метнер
生没年不詳ロパーチンの学生
レフ・ミハイロヴィッチ・ロパーチン
Лев Михайлович Лопатин
1855~1920既出なので割愛
エフゲニー・ニコラエヴィッチ・トルベツコイ
Евгений Николаевич Трубецкой
1863~1920既出なので割愛
ヴァニアミン・ミハイロヴィッチ・フヴォストフ
Вениамин Михайлович Хвостов
1868~1920既出なので割愛
ボグダン・アレクサンドロヴィッチ・キスチャコフスキー
Богдан Александрович Кистяковский
1868~1920法学者

メトネル家のサークル

ラチンスキーらソヴィエト参画を目指す一部の面々と喧嘩別れした後、メトネル家と仲良くなったアルゴナウタイ同盟のメンバーが、ふわっと形成したメトネル家の夕食を囲う会的なもの。

名前生没年備考
ニコライ・カルロヴィッチ・メトネル
Николай Карлович Метнер
1880~1951作曲家
エミリィ・カルロヴィッチ・メトネル
Эмилий Карлович Метнер
1872~1936既出なので割愛
カール・カルロヴィッチ・メトネル
Карл Карлович Метнер
1874~1919ニコライ・メトネルの兄
アレクサンドル・カルロヴィッチ・メトネル
Александр Карлович Метнер
1877~1966作曲家、指揮者、ニコライ・メトネルの兄
レフ・リヴォヴィッチ・コビリンスキー(ペンネームはエリス)
Лев Львович Кобылинский(Эллис)
1879~1947既出なので割愛
グスタフ・グスタコヴィッチ・シュペート
Густав Густавович Шпет
1879~1937既出なので割愛
アレクサンドル・ボリソヴィッチ・ゴリデンヴェイゼル
Александр Борисович Гольденвейзер
1875~1961かの有名なピアニスト
ベールイには酔っ払いと書かれており、おそらく単なるメトネルの友人枠
レフ・エドゥアルドヴィッチ・コニュス
Лев Эдуардович Конюс
1862~1933音楽理論家、亡命後におけるメトネルのラフマニノフと並ぶ支援者
おそらく単なるメトネルの友人枠
ヴィクトル・カルロヴィッチ・シュテンベル
Виктор Карлович Штембер
1863~1920画家でメトネル兄弟のいとこ
メトネルの肖像画などを書いたあの人
アレクセイ・セルゲーヴィッチ・ペトロフスキー
Алексей Сергеевич Петровский
1881~1958既出なので割愛
マルガリータ・キリロヴナ・モロゾワ
Маргарита Кирилловна Морозова
1873~1958既出なので割愛

1908年のブロークとの論争時に同盟員とみなされたメンバー

色々あった結果、ほぼ様変わりしている。

名前生没年備考
アレクセイ・セルゲーヴィッチ・ペトロフスキー
Алексей Сергеевич Петровский
1881~1958既出なので割愛
レフ・リヴォヴィッチ・コビリンスキー(ペンネームはエリス)
Лев Львович Кобылинский(Эллис)
1879~1947既出なので割愛
エミリィ・カルロヴィッチ・メトネル
Эмилий Карлович Метн
1872~1936既出なので割愛
ヴラディーミル・オットノヴィッチ・ナイランデル
Владимир Оттонович Нилендер
1883~1965既出なので割愛
ニコライ・ペトロヴィッチ・キセロフ
Николай Петрович Киселёв
1884~1965既出なので割愛
ミハイル・イヴァノヴィッチ・シゾフ
Михаил Иванович Сизов
1884~1956既出なので割愛
グリゴリー・アレクセーヴィッチ・ラチンスキー
Григорий Алексеевич Рачинский
1859~1939既出なので割愛

『ムサゲート』社創設メンバー

最終的に『ムサゲート』の創設に携わったメンバー。

名前生没年備考
グリゴリー・アレクセーヴィッチ・ラチンスキー
Григорий Алексеевич Рачинский
1859~1939既出なので割愛
アレクセイ・セルゲーヴィッチ・ペトロフスキー
Алексей Сергеевич Петровский
1881~1958既出なので割愛
ミハイル・イヴァノヴィッチ・シゾフ
Михаил Иванович Сизов
1884~1956既出なので割愛
ニコライ・ペトロヴィッチ・キセロフ
Николай Петрович Киселёв
1884~1965既出なので割愛
ヴラディーミル・オットノヴィッチ・ナイランデル
Владимир Оттонович Нилендер
1883~1965既出なので割愛
ボリス・アレクサンドロヴィッチ・サドフスキー
Борис Александрович Садовский
1881~1952詩人
復学後のベールイの同級生
レフ・リヴォヴィッチ・コビリンスキー(ペンネームはエリス)
Лев Львович Кобылинский(Эллис)
1879~1947既出なので割愛
エミリィ・カルロヴィッチ・メトネル
Эмилий Карлович Метн
1872~1936既出なので割愛
アレクサンドル・メレンテヴィッチ・コジェバトキン
Александр Мелентьевич Кожебаткин
1884~1942『ムサゲート』の秘書
ヴィトルド・フランツェヴィッチ・アフラモヴィッチ(本名:アシュマリン)
Витольд Францевич Ахрамович(Ашмарин)
1882~1930『ムサゲート』の秘書
後世映画監督になる

参考文献

  • 海野弘(2017)『ロシアの世紀末』
  • 柿沼信明(2016)「ブリューソフの『炎の天使』 : 16世紀30年代のドイツの魔術的な世界」『札幌大学外国語学部紀要 文化と言語』64号 p.146~166
  • 高橋健一郎(2006)「同時代人の見たニコライ・メトネル(1)アンドレイ・ベールイ:「雪のアラベスク:メトネルの音楽」」『Slavistika : 東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室年報』31号 p.213~237
  • 奈倉有里(2021)『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』
  1. ネットで検索するとほぼ、父称まで全く同一の、歴史家である祖父しか引っかからないが、孫の方 ↩︎
  2. https://proza.ru/2023/03/02/1808 ↩︎
  3. なお、再入学のために年下のセルゲイ・ソロヴィヨフと同級生になってしまったようだ。 ↩︎
  4. 作曲家グリンカのひ孫 ↩︎
  5. なお、妻であるマリア・ボリソヴナ・ゲルシェンゾーン(1873~1940)は、ピアニスト・ゴリデンヴェイゼルの姉だったりする ↩︎
  6. 原文では父称のイニシャルはСだが、他に候補もいないため ↩︎
  7. 原文ではА. Упкооскуюだが、註にあるようにおそらく彼女 ↩︎
  8. 原文にはシロエチコフスキーとしか出てこないが、他に候補もいないため ↩︎
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