メトネル家の知らない陰謀

適当に検索をしていたら、おそらく一目見ただけでは、メトネルに関する先行研究と分からない論文を見つけた。よって、この論文の内容に関する紹介記事を作る。

概要

«Быть тебе в каталожке…» Сборник в честь 80-летия Габриэля Суперфинаという論文集がある。ガブリエル・ガブリエロヴィッチ・スーパーフィン(Габриэ́ль Гаври́лович Суперфи́н)という文献学者の、2023年の生誕80周年を記念した、日本でもよくある記念論文集の類である。そして、この論文集にアレクサンドル・リボヴィッチ・ソボレフ(Александр Львович Соболев)と呼ばれる文献学者の投稿した、Еще раз о происхождении дырочки в библиотечной карточкеと書かれた、タイトルを読む限りでは何一つメトネルに関わらなさそうな論文について、今回触れたい。

一言で言うとこの論文は、帝政ロシア期の内務省的な組織の下部にあった、「Особый отдел департамента полиции」という、憲兵というか秘密警察というか公安というか、そんな感じの組織が残した文書のうち、ロシア革命を経てたまたま残ったものをサンプルとして取り上げたものである。早い話、秘密警察が帝国内の疑いのある人物を極秘に調査した記録についての論文である。

で、メトネルとそんな秘密警察の文書がなぜ絡むかというと、メトネル家もある疑惑でそのターゲットにされてしまったからである。

事件の発端

1915年4月15日、この秘密警察的な政府の組織の事務所に、とある手紙が届いた。これが当初組織の注目を集めた理由は、かなり列挙できる。既に第一次世界大戦が始まって久しい時期に、モスクワからスイスのチューリッヒあてに送られていたこと、書いた人間が知識階級に属している女性というかなり珍しい存在であったこと、差出人とあて先がいかにもなドイツ系であったこと、などである。

種明かしをすると、これは、アンナ・メトネルが、第一次世界大戦を経て東部前線を挟んで分断されてしまった夫・エミリィ・メトネルにあてた、かなり個人的な手紙である。

しかし、こんな手紙が、うっかりお役所に見つかってしまったがために、戦争中なのによくそんなことやっていた暇があったなと言うレベルで、メトネル家周囲にかなり密偵の捜査網が敷かれてしまった。

メトネル家周囲の洗い出し

この警察組織の方に持ち込まれた手紙は、ソボレフによるとタイプライターでコピーされ、中にある極めて個人的な名前、ラフマニノフが誰だのアンドレイ・ベールイが誰だの、サーシャが誰だのコーリャが誰だのといった情報を、まず文化通の身内に尋ねて特定されていったらしい。

しかし、一定の段階で限界が来たようなので、警察組織はメトネル家の周囲の身元調査を行っていったらしい。

まず身元が洗われた相手は、ヴェーラ・ヴァシリエヴナ・ヴルフ(Вера Васильевна Якунчикова-Вульф)、ラフマニノフ、ゴリデンヴェイゼルらで、おそらくこれら3人は5月くらいまでに組織の誰かがこっそり調査したらしい。

続いて、7月頃には、秘密調査を命じた指令書すら残っている。例えば、7月7日にはメトネル家の身元調査、7月11日にグネーシン家の身元調査が秘密裏に命じられている。

このうち、まずグネーシン家は、7月15日に、エレーナ・グネーシナ、グリゴリー・グネーシンの個人情報が洗われた調査報告が残されている。経歴や現在何をして働いて、どこに住んでいるのかまで洗いざらい調べられていたようだ。

一方、メトネル家に関しては、7月10日にまずアンナ・メトネルと、当時一緒に暮らしていたニコライ・メトネル、イリーナ・メトネル(アレクサンドルの娘で、当時モスクワ音楽院でピアノを学んでいた)の2名の経歴が調査された。さらに、アンナ・メトネルがエミリィ・メトネルの妻で、なおかつエミリィ・メトネルが海外におり、ニコライ・メトネルとは恋愛関係にあることまで調べ上げられていた。

しかし、どうやら依頼者は、この現地担当者の調査報告に不満があったらしい。つまり、アンナ・メトネルの旧姓と子供がいるかどうかまで調べ上げろと、突き返したようである。結局、アンナ・メトネルが子供がおらず、旧姓がブラテンシーであることが2日後に挙げられてきたようである。

なお、最初の7月7日に、別の部隊にアンナ・メトネルの職場の調査が依頼されていたことは記録されているが、こちらの結果は不明である。

メトネル家があずかり知らぬところで巻き込まれた陰謀論

で、なぜここまでメトネル家の周囲が洗われたかという原因であるが、おそらく手紙の中にモスクワから追放されたというマイヤー゠グラーフェという、ある人物について話していたからである。この人物であるが、美術評論家・小説家のユリウス・マイヤー゠グラーフェその人である。

経緯を追うと、文化人として名高かったにもかかわらず、ユダヤ系ドイツ人としてドイツの東部戦線に志願した彼は、1915年にあっけなくロシア帝国につかまった。で、影響力があったので慈善団体や国際赤十字社からの解放要求もあったのだが、ロシアは彼を最終的にシベリアに送った。

そんな、メトネル家と全く無関係そうな文化人の話題を、なぜアンナ・メトネルが急に手紙でしたか。これに関しては、メトネル家の書簡がアーカイブ化されているので簡単にわかる。1915年3月5日(ユリウス歴)/18日(グレゴリオ暦)、エミリィ・メトネルが、まだモスクワにいるはずだから、ユリウス・マイヤー゠グラーフェが今何をしているか調べてほしいとアンナ・メトネルに頼んだからである。

というわけで、最初にしょっ引かれた手紙で、アンナ・メトネルは、律義にユリウス・マイヤー゠グラーフェと会うのはダメそうだけど、まあいろいろ頑張ってみると返答してしまった。

ここで、手短にこの秘密警察が何を考えたかを補う。海外から解放のためのあまりにも強力なロビー活動などが行われた捕虜の関係者として、アンナ・メトネルが何らかの情報源になると疑われてしまった。つまり、完全なとばっちりである。

この結果、アンナ・メトネルの身元の洗い出しが指令された7月7日に、まず秘密警察はユリウス・マイヤー゠グラーフェに関連する人物の洗い出しを、モスクワの担当者に依頼した。

しかし、この初動は、完全に無駄足に終わった。報告書を読む限り、現場担当者は捕虜ではなく、モスクワの軍属のグラーフェさんを洗ったからである。

一方で7月25日には、メトネルの両親も含めたメトネル家と、ヴルフ、ラフマニノフ、ゴリデンヴェイゼルらをまとめた調査報告が提出された、

ここで、この面々だけが報告として挙げられたというのは何かしら示してはいそうだが、よくはわからない。例えば調査まで行われたのは確実なグネーシン家は排除されていたし、手紙に他にいた、ベールイ、モロゾヴァ、コニュス、カトゥアール、ブルガーコフ、ニコライ・キセロフ、イヴァン・イリイン、ヴァレリアン・ボロダエフスキーといった、メトネル家の周辺人物は捨象された。ドイツ人のヘドヴィヒ・フリードリヒすらである。

事件のオチ

しかし、マイヤー゠グラーフェについては、その後も調査が続けられていたらしい。例えば、8月3日にはこの秘密警察から、ユリウス・マイヤー゠グラーフェの解放嘆願の関連資料として、エミリィ・メトネルの手紙がモスクワ側に提供された記録がある。

ところが、この事件は、ウラジーミル州の行政がしょうもないミスをしたことで、終わる。8月12日に秘密警察からユリウス・マイヤー゠グラーフェが現在どうなっているかと尋ねられたウラジーミル州の現場担当者が、2週間後にマイヤー゠グラーフェなる人間がもう生きていないことを返答したからである。

当然これは、ユリウス・マイヤー゠グラーフェが1935年没であることからも明らかに偽の情報である。早い話、戦争中という異常事態のさなか、捕虜について聞かれているとも知らない現場担当者が、よくわかりもしないまま返してしまったのだと思われる。

こうして、以後特に調査された記録は残っておらず、ここまでの情報でファイリングされて残されていた。結局、メトネル家は知らない間に謎の陰謀の加担者としてマークされ、知らない間に解放されたようである。

参考文献

  • Соболев, Александр(2023)Еще раз о происхождении дырочки в библиотечной карточке In: Ольга Розенблюм, Илья Кукуй (eds.) «Быть тебе в каталожке…» Сборник в честь 80-летия Габриэля Суперфина, 205-229. Frankfurt am Main: Esterum.
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