エミリィ・メトネル略伝

エミリィ・メトネルとは、ニコライ・メトネルの一番上の兄である。

ということ以外で、日本でかろうじて知られているのは、この弟に妻を奪われた逸話くらいである。

しかし、このエミリィ・メトネルは、言ってしまえばニコライ・メトネルの「指揮者」ともいうべき立場にあろうとした存在であり、メトネルの人生においてかなり重要な存在と言える。また、アンドレイ・ベールイやヴァチェスラフ・イヴァノフ、マルガリータ・モロゾワ、マリエッタ・シャギニャン、イヴァン・イリイン、といった、革命前のモスクワ文化人たちと関わっていった、コミュニティ内の重要人物でもある。

では、この流れでムサゲート出版社設立の中心人物でもあったような人間が、今一つこのロシア銀の時代の人間の中で忘れ去られたのはなぜか?原因としては、以下が3つが考えられる。

  1. あくまでも評論家どまりであり、作家や哲学者ともいうべき人間ではなかったので、作品らしい作品を残していなかった
  2. 当時からしてドイツかぶれとして名高く、第一次世界大戦以降に結局西側から帰ってこなかったので、ソヴィエト連邦的に都合の悪い存在だった
  3. ニコライ・メトネルの人生における恥部・暗部を押し付けるのにこれまたちょうどよかったので、一種のスケープゴートとして彼の人生ごと分離されてしまった

ただし、1994年に書かれたMagnus Ljunggrenの伝記を皮切りに、西側では大きな見直しが図られつつある。そして、ロシア側でも2010年代以降、エミリィ・メトネルの著作やアンドレイ・ベールイとの書簡集といった一次史料が出版され、それまでのニコライ・メトネルに対する一種の英雄史観ともいうべき状況も是正されつつある。

とはいえ、エミリィ・メトネルの伝記はこのMagnus Ljunggrenの『The Russian Mephisto』くらいしか存在せず、他の「語り」との比較ができないという欠点がある。この本は出典をきちんと明記しているので、流石にフォウビオン・バウアーズのような一種の好事家的な態度ではない誠実な著作だとは思う。が、メトネル家の一次史料がほぼ未刊行であることもあり、一次史料と突き合わせるいわゆるファクトチェックはできないのが現状である。

しかし、このMagnus Ljunggrenの著作が語るエミリィ・メトネルの人生を追わなければ、弟・ニコライ・メトネルの人生も1960年代的な英雄史観からアップデートできずに再生産され続けてしまうと考えてもいる。このため、あくまでも1990年代のスウェーデン人という、そこそこの他人が書いたものくらいしか参考文献はないのだが、エミリィ・メトネルの人生について軽くまとめてみたいと思う。

  1. 注意書きについて
  2. 主な登場人物
    1. 家族
    2. ロシア時代の男性の友人
    3. ロシア時代の自分、および友人と関係を持った女性
    4. スイス移住後の知り合い
    5. 敵対者
    6. 思想関係
    7. 政治家
  3. エミリィの誕生と成長
    1. 若き日のエミリィ・メトネルとニコライの誕生
    2. 学生時代のエミリィ
  4. エミリィ・メトネルとアンドレイ・ベールイの歩み
    1. ベールイとの出会い
    2. エミリィとベールイ
    3. アンナとの結婚
    4. アルゴナウタイの出航
    5. 三角関係の始まり
    6. 三角関係の悪化
    7. エミリィの再始動
    8. 続く三角関係
    9. ヴォリフィングの活動開始
    10. エミリィとドイツ音楽界の対立
    11. ベールイとブローク
    12. 第2の悲劇
    13. 再度の立ち直り
    14. 生産され続ける三角関係
    15. エミリィのドイツ生活
    16. ニコライの成長
    17. 人間関係の変化
    18. ムサゲート設立
    19. ベールイに打ち込まれたくさび
    20. ベールイとの対立への移行
  5. エミリィとベールイの破局と、イヴァン・イリインとの出会い
    1. ベールイとの対立の始まり
    2. ムサゲートの明暗
    3. 『モダニズムと音楽』への取り組み
    4. シャギニャンとの出会い
    5. 格上のシュタイナー
    6. シュタイナーへの抵抗
    7. ベールイの再始動
    8. イヴァン・イリインとの出会い
    9. エミリィとシャギニャン
  6. 新たな舞台
    1. フロイトとの出会い
    2. ベールイとシュタイナー
    3. エミリィとラフマニノフ
    4. ゲーテについての著作の完成
    5. 精神分析を受ける決意
    6. ロシアからの旅立ち
  7. エミリィとユングの出会いとベールイとの断交への道筋
    1. スイスへの追放とユングとの出会い
    2. 治療の始まり
    3. エミリィと女性たち
    4. 銃後の関係者たち
    5. ベールイとの再会
    6. 進行し始める破局へのカウントダウン
    7. エミリィと人智学協会
    8. ユングとの一時の別れ
    9. 人智学協会との断交へのカウントダウン
    10. ベールイとの熱戦
  8. 新たな人生の始まり
    1. ユング一派への参加
    2. マズダズナン思想との出会い
    3. ワルシャツカとのセラピー
    4. ドルナッハでの占星術の導き
    5. 新たな希望
    6. モンテ・ヴェリタでの日々
    7. ベールイの自伝
    8. ユングの治療への諦念
    9. ユング派への傾倒
    10. シャギニャンのラフマニノフからの卒業
  9. ベールイからユングへ
    1. エミリィの人間関係の見直し
    2. ベールイへのエミリィの打撃
    3. ユングとエミリィ
    4. イリインの参戦
    5. 二つの革命の間で
    6. ベールイからの解放
    7. ユングとの接近
    8. 『心理学的類型』とエミリィ・メトネル
    9. 革命によって起きた最後の変化
    10. 心理学クラブでのいさかい
    11. イリインとの疎遠化
    12. アメリカでのエミリィ
  10. ファシストとしての最期
    1. ファシズムへの共感の始まり
    2. ムッソリーニへの傾倒
    3. 心理学クラブへの復帰
    4. 精神分析家・エミリィ・メトネル
    5. エミリィの新しい友人
    6. ヒトラーとヒンデンブルク
    7. ロシアのメフィストフェレス
    8. ラフマニノフとの対話
    9. ヒトラーの躍進
    10. ヒトラーへの傾倒
    11. エミリィと女性の最終幕
    12. ユングとエミリィの最後の安定期
    13. 「空っぽの穴」
    14. 発狂の末の最期
  11. 脚注

注意書きについて

最初にLjunggrenのスタンスについて、この記事の作成者が感じた研究史での位置づけを、注意書きとして記載しておく。

かいつまんで言うと、この著者Ljunggrenは、エミリィ・メトネルを精神分析史において、特異な位置づけに配置できるユニークな存在としたいのである。

要するに、Ljunggrenにとっては、ユングの人生において、ザビーナ・シュピールラインやオットー・グロスのラインに、エミリィ・メトネルも付け加えられる、が一番言いたいことなのである。ここに、研究者として自分の研究のオリジナリティ、つまり一番力点が置けることだとLjunggrenはしていると私は考えている。

このため、この著者の描くエミリィ・メトネル像は、ユングの伝記の見直しなどが起きた近年に、どの程度通用するのかは、まだ未知数ともいえる。よって、ここに書かれている内容は、ロシア銀の時代史、ユングとその周辺のサークル史の、少なくとも2つのフィールドでどのようにその後展開していたかを考慮に入れる必要があり、少なくともこの記事自体ではまだできていない。

なので、一定の留保は読む際に置いておいてほしいと注意はしておきたい。

主な登場人物

以後、ニコライ・メトネルの人生とは全く異なる人間関係が形成されるので、エミリィ・メトネルに関する重要人物のインデックスを設ける。

家族

  • エミリィ・メトネル:ニコライ・メトネルの兄。この物語の主人公
  • ニコライ・メトネル:言わずもがな。
  • アンナ・ブラテンシー/アンナ・メトネル:上の二人とそれぞれ結婚した。この辺の経緯は詳細に触れる
  • カール・メトネル:父子の2人いるが、この物語で重要なのはエミリィ、ニコライの父親の方
  • アレクサンドラ・メトネル/アレクサンドラ・ゲディケ:メトネル兄弟の母親。音楽一家に生まれた歌手

ロシア時代の男性の友人

  • アンドレイ・ベールイ(ボリス・ブガエフ):第2世代象徴主義の重要人物で、銀の時代を代表する作家。ニコライ・メトネルと大体同世代
  • アレクサンドル・ブローク:ペテルブルクにいた、だいたいベールイと似たような存在
  • ヴァチェスラフ・イヴァノフ:象徴主義者で、「塔」を拠点にしたオカルトなどにも精通した存在
  • エリス(レフ・コビリンスキー):ベールイの親友で、ムサゲート出版社のメンバーの一人
  • セルゲイ・ソロヴィヨフ:ウラジーミル・ソロヴィヨフの甥で、ベールイの親戚
  • アレクセイ・ペトロフスキー:ベールイとエミリィの共通の友人。ムサゲート出版社のメンバーの一人
  • ミハイル・シゾフ:ムサゲート出版社のメンバーの一人
  • イヴァン・イリイン:ロシアのヘーゲル研究者および運動家。近年のロシアの右翼に「抵抗の思想家」として崇拝されてることでおなじみ
  • アルトゥール・ニキシュ:ビューローとフルトヴェングラーの間に位置する、ベルリン・フィルの指揮者として有名なあの人。エミリィは崇拝していた

ロシア時代の自分、および友人と関係を持った女性

  • アンナ・ツルゲーネワ:ベールイの最初の妻の芸術家。ツルゲーネフの親戚で、バクーニンの孫
  • ナタリア・ポッツォ/ナタリア・ツルゲーネワ:アンナ・ツルゲーネワの姉。思想家アレクサンドル・ポッツォの妻
  • タチアナ・ツルゲーネワ:アンナ・ツルゲーネワの妹。セルゲイ・ソロヴィヨフの妻
  • マルガリータ・モロゾワ:モスクワの金持ち。スクリャービンやニコライの生徒で、芸術家のパトロン
  • ヘドヴィヒ・フリードリヒ:メトネル兄弟と交流のあった、ドイツのピルニッツの金持ち。それ以外は一切不明
  • マルガリータ・サバシニコワ:画家。ヴァチェスラフ・イヴァノフの「塔」に出入りしており、マクシミリアン・ヴォロシンと結婚していた。後に神智学→人智学に傾倒していく
  • マリエッタ・シャギニャン:アルメニア系ロシア人の文学者。ラフマニノフの文通相手として彼の伝記ではおなじみだが、実際は本人が回顧録で語らなかった、かなり複雑な経緯がある
  • ニーナ・ペトロフスカヤ:出版社「グリフィン」の社長夫人。バリモント、ベールイ、ブリューソフらと不倫を繰り返した
  • アンナ・ミンツロヴァ:ある時期象徴主義者のサークルに出入りしていたオカルティスト。突然消えたらしい
  • ヨハンナ・ポエルマン゠ムーイ:オカルティスト。中世神秘主義に傾倒しており、エリスは彼女との出会いで人智学協会を足抜けした

スイス移住後の知り合い

  • カール・グスタフ・ユング:精神分析史におけるかの有名な大家。はじめは主治医として彼に関わったが、友人となりやがてベールイとの対立の再演が行われた。
  • ハンス・トリュープ:ユング派の精神分析家。一時期エミリィのことをライバル視しており、ユングと仲たがいしてブーバーに接近したのはともかく、イリインをほぼ彼に奪われる形となった
  • スージー・トリュープ:ハンスの妻。エミリィとは一種の愛人関係にあったらしい
  • エディス・マコーミック:ロックフェラー家の出身。彼女にパトロンを期待したことで、適当な性格の彼女に後半生を振り回された
  • レイチェル・ラビノヴィッチ:ユダヤ人女性。エミリィとは親しく民族アイデンティティに関する議論などを交わす仲
  • アレクサンドル・マルティノフ:メンシェヴィキの有名人。ユングの著書のロシア語訳を手伝ってもらった
  • セミョーン・セムコフスキー:メンシェヴィキの有名人。ユングの著書のロシア語訳を手伝ってもらった
  • アントニア・ヴォルフ(トニ・ヴォルフ):ユング派の精神分析家。ある種ユングの愛人的ポジション
  • ヘルマン・カイザーリンク:「知恵の学校」の経営者。出自などから彼に親しみを覚える
  • ヤコブ・ヴィルヘルム・ハウアー:ドイツのアーリア主義思想家の一人。ユングの下に出入りしていて接近した
  • ハインリヒ・ツィマー:インド学者。ユングの下に出入りしていて接近した
  • アドルフ・ヴァイツゼッカー:ナチスの精神科医。かつてエミリィが担当した患者
  • フローレンス・ホプキンス:エミリィが関係を持った英語教師
  • ヘティ・ヘイマン:エミリィが関係を持ったオランダ系ユダヤ人女性
  • マティアス・ハインリヒ・ゲーリング:ナチス党政権下の心理学界のトップ。ヘルマン・ゲーリングは親戚
  • フェルディナント・フォン・ウランゲル:アルプスのモンテ・ヴェリタの集落にいた老人。実はかの有名なアラスカ開拓のウランゲルの息子、つまりロシアの貴族で、チェンバレンの関係者

敵対者

  • エレナ・ブラヴァツキー:神智学協会の創設者。しかし、正直シュタイナーの引き立て役として軽く出てくるのみである
  • ルドルフ・シュタイナー:人智学協会の創設者。エミリィが一方的にライバル視していた
  • ピョートル・ダルハイム:メトネル家のはす向かいの住人。「歌の家」を運営しており、ニコライやベールイが通っていたにも関わらず、エミリィは敵視していた
  • セルゲイ・クーセヴィツキー:ユダヤ系ロシア人の指揮者。ニコライの1910年代のビジネスパートナーであるが、エミリィは内心憎悪していた
  • ヴァチェスラフ・カラトゥイギン:ペテルブルクの音楽批評家。ある種エミリィとは全く逆の音楽性を好んだ
  • アレクサンドル・スクリャービン:作曲家。ニコライの覇権を邪魔する存在として敵視
  • セルゲイ・ラフマニノフ:作曲家。ニコライの覇権を邪魔する存在として敵視。しかし亡命後は親しくなり、自分の理解者としている
  • マックス・レーガー:作曲家。当時のドイツ音楽の象徴として敵視
  • リヒャルト・シュトラウス:作曲家。当時のドイツ音楽の象徴として敵視
  • アルノルト・シェーンベルク:作曲家。当時のドイツ音楽の象徴とユダヤ人として敵視
  • グスタフ・マーラー:作曲家。当時のドイツ音楽の象徴とユダヤ人として敵視
  • ブルーノ・ワルター:指揮者。当時のドイツ音楽の象徴のユダヤ人として敵視
  • フランツ・リスト:作曲家。ある種ドイツ音楽をこうしてしまった存在として敵視
  • フェリックス・メンデルスゾーン:作曲家。ドイツ音楽をこうしてしまったユダヤ人として敵視
  • ジャコモ・マイアベーア:作曲家。ドイツ音楽をこうしてしまったユダヤ人として敵視
  • フョードル・ドストエフスキー:ロシアの文豪。エミリィはロシア人はこちらに向かってはいけないと嫌悪していた

思想関係

  • ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ:説明不要の、ファウストでおなじみの文豪。エミリィの推し
  • リヒャルト・ワーグナー:説明不要のオペラ作曲家。エミリィの推し
  • フリードリヒ・ニーチェ:説明不要の哲学者。エミリィの推し
  • イマヌエル・カント:説明不要の哲学者。エミリィはゲーテなどをカント的に理解すべきとしている
  • アルトゥール・ショーペンハウエル:説明不要の哲学者。エミリィは音楽を最上位に持ってきた美学観を重んじていた
  • セーレン・キェルケゴール:説明不要の哲学者。時折エミリィの中で扱いが高くなる時がある
  • ウラジーミル・ソロヴィヨフ:ソフィア論でおなじみの哲学者
  • ヒューストン・ステュアート・チェンバレン:かの有名な反ユダヤ主義論者

政治家

  • ユリウス・カエサル:説明不要の古代ローマの人間。ファシズムへの共感から急にエミリィの中で扱いが増した
  • ナポレオン・ボナパルト:説明不要のフランスの初代皇帝。ファシズムへの共感から急にエミリィの中で扱いが増した。
  • ベニート・ムッソリーニ:説明不要のイタリアのファシスト党のトップ
  • アドルフ・ヒトラー:説明不要のドイツのナチス党のトップ
  • パウル・フォン・ヒンデンブルク:第一次世界大戦のタンネンブルクの戦いの英雄で、ヒトラーを首相に指名した大統領

エミリィの誕生と成長

若き日のエミリィ・メトネルとニコライの誕生

ニコライ・メトネルの長兄・エミリィ・メトネルは弟の作曲家の生誕より7年くらい前にあたる、1872年12月20日(グレゴリオ暦)/12月8日(ユリウス暦)に生まれた。彼の父・カール・メトネルはモスクワ・レース工場の経営者の一人で、彼の言によれば若いころ自分の意志と異なり親戚の下で丁稚奉公に近いことをやっていたので、文化的な素養が伸ばせなかったことを悔いていたらしい。これに輪をかけたのが、カールの妻であるアレクサンドラの実家・ゲディケ家やそのさらに前のゲプハルト家が、代々文化人を輩出した家だったというものである。

このような家庭で、エミリィ・メトネルはどのように育ったかはあまり明らかではない。しかし、エミリィの言葉によれば、幼いころから悪夢に苦しみ、1881年のアレクサンドル2世の暗殺をきっかけにそれは悪化したらしい。

この中で、弟・ニコライが生まれた。幼いころから音楽の才能を発揮したニコライは、さながらペットのようにかわいがられ、その上の兄・アレクサンドルよりもめきめきとピアノ・ヴァイオリンを上達させた。おまけに作曲まで始めてしまったのである。

このような弟に、エミリィは自分が音楽を学ばなかったということもあり、さながらナルシスティックな執着を始めたとする。ただし、このエミリィ・メトネルを生涯にわたったある種のナルシストと描くのがLjunggrenの語りの特徴であり、実際はどうだったかはわからない。

しかし、エミリィはギムナジウムで学ぶなかで、偽メニエール病になったという。医者の診療では肉体的には全く健康だったのだが、彼は心理的な要因で右耳の聴覚が落ちてしまったのである。

この、音楽において重要な要素である聴覚を損なった事実は、エミリィをよりニコライに執着させ、ニコライを通して壮大なある願望を持ち始めた。おまけに、ただでさえ不愛想だった母親が、音楽の素養を持つニコライたち末の方の弟ばかり優先させたことも輪をかけた。これは後々エミリィに母の愛を渇望させ、逆にニコライに自立心を失わせるのとは別に、この壮大な願望を助長させた。

エミリィはニコライの指導者と化し、ある種父の役割を演じようとしたのである。

要するに、エミリィは、ニコライを自分の理想的な人間にさせることを、夢想したのである。悪く言ってしまうと、弟を操り人形にしようとしたとも言えるが、ニコライは少なくとも事実としてこれを受け入れていった。

学生時代のエミリィ

エミリィはこの夢の実現のために、音楽の理論面には詳しくなろうと努めた。この結果、経験不足のニコライは、エミリィを指導者と仰ぐようになる

しかし、一方でエミリィは、学校ではカジミール・パヴリコフスキーというラテン語教師に虐げられ、ギムナジウムを転校する羽目になってしまった。

やがてエミリィがモスクワ大学の法学部に進んだ一方で、ニコライは進路に迷ってしまう。しかし、ニコライはモスクワ音楽院に行く決心を固め、エミリィなどを味方につけ、反対する両親を説得し、兄・アレクサンドルとともに音楽院に入学する。

ここで、後世のエミリィの認識としては、ニコライを音楽院に行かせるために自分は指揮者の夢をあきらめたと思っていたらしい。この結果、エミリィは指揮者になれなかったという芸術的野心の放棄を悶々とし続け、その代わりに自分がニコライの指揮者になろうとしたのだと思い込んでいった。

1895年、エミリィは大学の傍ら、フリーランスの音楽評論家の活動を始めた。1896年にはウィーンにわたり、ハンスリックと知り合ったり、彼の家でブラームスも見たりといったように過ごした。この旅の結果、エミリィは指揮者・アルトゥール・ニキシュに自分の理想を見出し始めたようだ。

その一方で、この頃メトネル家の次男のカールが、ユダヤ人で正教に改宗した家のエレーナ・ブラテンシーと結婚した。ニコライは当初その妹で、モスクワ音楽院でヴァイオリンも修めたようなアンナに惚れたらしいが、両親が反対したようだ。一方でエミリィも、ブラテンシー姉妹のアンナとマリアの両方に関心を示し、やがて日記の中でアンナへの愛を宣言したらしい。

一方、エミリィは大学の頃から、ゲーテ、ニーチェ、ワーグナーらに関心を持ち始めた。これを後押ししたのが、母方の祖先であるゲプハルト家が、ゲーテやワーグナーと交流を持っていたという事実である。

こうしたエミリィは、強力な指導者が混沌とした大衆を均質な有機体に再構成することで、一種の新しい人間の星座と化して、未知のエネルギーを解放するという、そんな新しい集団を作る夢を持ち始めたらしい。

1899年の卒業試験中、エミリィの不眠症はひどくなったが、ラフマニノフとの逸話でおなじみのニコライ・ダーリ博士の治療で楽になったらしい。卒業後、徴兵され、ホモソーシャルの典型例である軍隊生活を送ったことで、ある程度落ち着いたらしい。

しかし、この時期にエミリィは、白い蛇と黒い蛇が戦い、最終的に白い蛇が黒い蛇を倒す夢を見たらしい。生涯にわたってエミリィの記憶に残るこの夢は、エミリィにとってはドストエフスキーを読むのと同様に、恐ろしいものであったとする。

エミリィ・メトネルとアンドレイ・ベールイの歩み

ベールイとの出会い

エミリィは、ロマノフ王朝の下で検閲官として働き始めた。この仕事は自分の信念として受け入れがたく、不眠症も再発してしまう。この結果、エミリィはアンナと結ばれて早く仕事から抜け出してしまおうという理想に執着し始める。

このなかで、1901年秋、ボリス・ブガエフ、つまり後世・作家アンドレイ・ベールイと呼ばれる、一回り下の男に出会った。共通の友人であるペトロフスキーに紹介されたらしい。

彼らは、お互いのことを狼のような風貌の男だと思ったと、知ってか知らずかそろって書き残している。エミリィはベールイともっと近づくために、1902年4月、モスクワの貴族会館で、アルトゥール・ニキシュがシューベルトの「ザ・グレイト」をリハーサルしているときに再会した。ベールイもニキシュに関心を持っていたためであったが、ここでエミリィは、自分の全知識を総動員して、ベールイに音楽の講釈を行った。ベールイによるとこの解説は、やがてニーチェなどにも言及した哲学的なものになり、エミリィのふるまいはさながらツァラトゥストラのように見えたという。

この延長線上で出版されたのが、ベールイの『第2シンフォニー』である。エミリィの目には、ベールイはソロヴィヨフだけではなく、ニーチェやゲーテ、ワーグナーらの影響も見いだせた。このため、エミリィはベールイをドイツ化させてしまおうという夢もまた、この頃から描き始めたらしい。

エミリィとベールイ

この2人は、1回りほど年が離れていたものの、鏡像のような存在だったと、少なくとも後世ベールイは語っている。しかし、逆に言えば1回りも年が離れていたので、エミリィは、ベールイに欠けた父性を持った兄的な存在に収まり始めていった。つまり、エミリィはベールイのカントやベートーヴェン、ワーグナーらの知識はまだあいまいとしており、そのギャップを埋める指導者になろうとしたのである。

ベールイは、ソロヴィヨフ的な「世界魂」、つまり女性的な「ソフィア」という、現代の救世主を据える使命を持っていた。ここで、ベールイにとっては1901年にその「ソフィア」に値するとみなしたマルガリータ・モロゾワとの出会いもあって、エミリィとベールイは、1901年を「夜明けの年」と宣言した。

おまけにこの2人は、幼少期に悪夢に苦しみ、別々のギムナジウムで同じパヴリコフスキーに虐げられ、ドストエフスキーにアンビバレントな感情を持っていたことから、すっかり意気投合したらしい。また、ベールイは、エミリィの関心のあった、人間の記憶の集合体を個は保存するのかどうかという考えに同じように共感を示したらしい。

こうした結果、この年にはエミリィはニコライにもベールイを会わせた。このときニコライが取り組んでいたピアノソナタ第1番の作曲において、第2主題で「夜明けの音」をとらえようとしたという共通点を見出したことから、ベールイとニコライもまた親しくなったらしい。

しかし、この3人の芸術観を鑑みると、革新的な手法を推進するベールイと、旧来の美学にこだわるニコライが実はそこそこ乖離があり、両方に共感を示すエミリィがある種の結節点となったのである。

アンナとの結婚

1902年秋、エミリィはアンナとの結婚を具体化させ始めたらしい。たまたまニジニーノヴゴロドの検閲官のポストがきまったので、アンナと結ばれてモスクワから脱出し、救いを得たかったのである。さらに、エミリィにとってこれはまだ通過点であり、真の目的はアンナとともにドイツに移住するということであった。

こうして、ベールイとニコライは11月の結婚式に呼ばれた。ベールイはエミリィがいなくなることにショックを受けつつも、文通を始めた。これが当時の象徴主義者の一級資料ともいわれる、ベールイとエミリィの書簡集となっていく。しかし、この傍らでエミリィがソロヴィヨフのソフィア崇拝の同志とみなした、アレクサンドル・ブロークとの文通も始めたことが、割とすべての大きな始まりでもあった。

しかし、エミリィは夫婦生活によって心身共にすり減っていったらしい。この時期、彼が新聞に載せた評論には、性的志向への警告が繰り返されているが、これが2人の性生活についても示唆しているとLjunggrenは主張している。

アルゴナウタイの出航

1903年6月、ベールイの父親が亡くなった。この直後の秋にベールイは「神的秘術について」というニコライの楽曲の評論などを含めたマニフェストをメレシュコフスキーの雑誌に投稿した1。要するにこれは、この年頃からベールイの周囲に成立し始めた、アルゴナウタイ同盟のマニフェストとして意図されたものである。

このアルゴナウタイ同盟は、アルゴナウタイ同盟についてでさんざん解説してしまったので詳細は省くが、ニーチェの太陽の象徴と結びついた、金羊毛を求めて旅立つアルゴノーツにちなんだものである。これはベールイの親友、レフ・コビリンスキー、通称エリスの入れ知恵であったが、エミリィの構想した新しい人間による星座の理想とも合致していった。

三角関係の始まり

一方、エミリィはアンドレイ・メルニコフを通じて、アンナ・シュミットといったニジニーノヴゴロドの似たような存在と知り合っていく。しかし、ここで弟のニコライが、エミリィ・アンナ夫妻の家に住み始めたことが、すべての始まりとなる。

どうやら、ニコライとアンナはあっさり燃え上がり、元鞘に戻ってしまったらしい。このタイミングで、ペトロフスキーなどにあてた手紙の中で、急にエミリィは自分のことをドイツ人とみなし始めた。このドイツ人というアイデンティティの確立は、当時ロシア帝国で盛んだったポグロムや、『シオンの議定書』の掲載といった形で流行していた反ユダヤ主義とも結びついた、アーリア主義に進んでいった。

すくなくとも、エミリィが攻撃的な性欲衝動をユダヤ人に帰す傾向にあったのと、女性性=ユダヤ教的とみなす傾向にあったのは、彼の晩年の著書からも事実であったらしい。こんなエミリィが、なぜかアンナやマリアといったユダヤ人女性に惹かれていったのは、生涯何度も繰り返されることではあるものの、謎の現象である。

この結果、1903年のエミリィは禁欲主義を説く手紙をベールイと繰り返す。ところが、アルゴナウタイ同盟についての序盤で触れたのだが、アレクサンドル・ブロークとリューボフィ・メンデレーエワの結婚に感化されたベールイは、精神とエロスの関係に関心を持ちニーナ・ペトロフスカヤと不倫をした挙句、ブリューソフなどを巻き込んで盛大にやけどをした。

ここで、ベールイはニジニーノヴゴロドのエミリィのもとに助けを求めに逃げてきて、エミリィはゲーテやカントの思想でベールイを教化していったようだ。

三角関係の悪化

立ち直ったベールイがやがて帰って行ったあと、ニコライがまたやってきた。この頃、ニコライはどうもスクリャービンが不倫問題によってロシアから逃げて行ったあと、彼の生徒だったマルガリータ・モロゾワを引き継いだらしい。このマルガリータ・モロゾワは、端的に言えばこの時代のサロンの女主人であり、モスクワの芸術家にとっての大きなパトロンであった。

つまり、ニコライは完全に将来への道が開けたのだが、そのことでエミリィは逆にアンナとの関係を若干譲ってしまったらしい。ところが、ニコライが知らないうちに、アンナがニコライの子を妊娠してしまったのである。

ニコライは当然そんなこともつゆ知らず、エミリィにピアノソナタ第1番をささげた。この後、この三角関係を構成する3人は、ドイツへと旅立って行った。ニコライがベルリンなどでコンサートを開いていた間、エミリィ・アンナ夫妻はエミリィのあこがれの地だったワイマールに向かった。なぜなら、ゲプハルト家はこのチューリンゲンの出身で、中でもワイマールはゲーテとニーチェの晩年の地だったからである。

ところが、1905年1月2日、アンナは子供を死産した。ここで、エミリィはニコライを呼び寄せ、ついにアンナの妊娠そのものから明かしたらしい。しかし、アンナがどちらも捨てることもできなかったこともあり、この3人は秘密を共有する一種の共犯者となり、さらに悲劇は続いていく。

エミリィの再始動

一方で、エミリィはゲーテやニーチェのアーカイブなどを訪れ、ニーチェの妹・エリーザベト・フェルスター=ニーチェや、ニーチェの友人ハインリヒ・ケーゼリッツ、通称ピーター・ガストらと知り合ったらしい。

これに後押しされたエミリィは気力を取り戻し、ベールイが投稿するためのプラットフォームとドイツ文化とロシア文化の懸け橋を兼ねた雑誌創刊を夢想し始めた。

また、ニコライは、アンナと知り合った若い資産家、ヘドヴィヒ・フリードリヒと交際を始めたらしい。これは、エミリィにとっては、出版社設立の計画における資金源になるとみなされた。

こうして彼ら3人がロシアに戻った時、彼らの国では「血の日曜日事件」が起きていた。

続く三角関係

これと全く同じタイミングで、ベールイとブローク夫妻は三角関係に陥る。この辺りの経緯は奈倉有里(2021)などに詳細に書かれているので、カットする。ただし、要するにベールイとブローク夫妻の関係は、ある種「兄」との同一化を「弟」が試みるというもので、メトネル家のそれと同様のものであったとLjunggrenは主張している。

一方で、ベールイはこのタイミングで、マルガリータ・モロゾワのサロンには入れたらしい。

ただし、エミリィは、革命の機運が高まりつつあったこんな状況であるにも関わらずツァーリ側で検閲をやるという仕事に精神を悪化させ、弟・ニコライとアンナの関係も続いたままだった。

ここで、アンナはモスクワにたびたび逃げ出したらしい。妹のマリアがメトネル家の実家の取り仕切りをやっていたというのが口実である。

しかし、1906年2月、ついにエミリィは仕事を辞めた。これは、公務員として要職のポストに任命されたのとほぼ同じタイミングであった。

かくして、エミリィは、『金羊毛』で編集を行う、編集者としての新しいキャリアをスタートさせたのである。

ヴォリフィングの活動開始

1906年3月、エミリィが公務員を辞めたことで、夫婦はモスクワの実家に戻ってきた。そこにはニコライが相変わらず暮らしていた。

ここで、ベールイによって、エミリィのペンネーム、ヴォリフィングがつけられたらしい。これは、ワーグナーの『ニーベルングの指環』でジークムントが最初に名乗ったWälsungにちなんだものである。

エミリィは、ヴォリフィングとして弟・ニコライの覇権を確立させようとした。ここでエミリィとベールイに目をつけられたのがラフマニノフとスクリャービンであり、彼らによってこの2人がネガティブキャンペーンをされる。一方、ニコライはベートーヴェン、シューマン、ワーグナーの延長線上にあるとされたのである。

アルゴナウタイ同盟の面々とも知り合いになっていったエミリィだったが、両親の家で偽メニエール病が悪化し、オーストリアのシュタイアーマルクで療養することとなった。ここで、エミリィは、よりにもよって反ユダヤ主義の第一人者とも言うべきヒューストン・ステュアート・チェンバレンの思想と出会い、彼を自分と同じ考えの先駆者とみなし始める。

こうした、反ユダヤ主義≒反エロスのエミリィの思想は、ベールイがブローク夫妻に撃退されたことと、アンナの弟・アンドレイが人妻と無理心中したことで、悪化した。逃げ出す羽目になったベールイがミュンヘンに向かったことはエミリィの入れ知恵であった一方、エミリィはベールイとアンドレイを、似たような存在だとみなしたようである。

エミリィとドイツ音楽界の対立

エミリィはペテルブルクの代表的な評論家・ヴァチェスラフ・カラトゥイギンをライバル視し、彼の推すドイツのマックス・レーガーを敵視した。なぜなら、カラトゥイギンはレーガーこそバッハ、ベートーヴェン、ワーグナーの後継者とみなしたのである。

ここで1907年1月、エミリィはニコライとともにミュンヘンでのレーガーのリサイタルを見に行き、レーガーをさながら『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のベックメッサーとみなす、攻撃的な論考を発表した。

また、2月にはおなじくカラトゥイギンのお気に入りであった、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』を見に行き、彼をツァラトゥストラになりすました道化だと攻撃した。

こうしたドイツ音楽界への攻撃的な論考は、やがてエミリィのアーリア主義と結びつき、人種差別的なものになっていく。ただし、この時点でエミリィはリヒャルト・シュトラウスをメンデルスゾーンとマイアベーアの延長線上に位置づけるなど、ワーグナーと近しい思想の持ち主である。しかし、こうした攻撃的な態度とは、要するにこの2人があまりにも人気であり、弟・ニコライの音楽性が受け入れられていないことの証明でもあった。

ベールイとブローク

ここで、まったく同じタイミングで、ベールイが『天秤座』でブロークらペテルブルク文学界を攻撃した。ベールイはエリスやブリューソフにも後押しされ、ソフィア論を放棄し、貶め始めた彼らを、だいたいエミリィと同じような口調で攻撃したのである。

しかし、この頃からベールイとエミリィの間に、若干の乖離が見始めた。ベールイは、ショーペンハウエル的な音楽を最高位に置く芸術観をもはや受け入れることができないとし、エミリィの主張に反し始めたのである。

この結果、『金羊毛』上でエミリィと論戦を繰り広げ、最終的に深刻な衝突を防ぐために外交的に解決した。この時点では、ベールイがブロークとの体験と、ワーグナー的な創作法を文学に持ち込んだ『第4シンフォニー』を、ギッピウスだけではなく、まだニコライにもささげられている。これは、ニコライの『8つの情景画』に影響されていたということによるもので、この頃はまだエミリィとベールイの関係は、ちょっとしたいさかいで途絶えるようなものでなかった。

第2の悲劇

このなかで、アンナはニコライの子供を再び身ごもった。エミリィはアンナの苦悩と自分の偽メニエール病を結び付け、精神的に追い込まれた。

ということで、3人は再びワイマールに逃げだした。ニコライは、ベールイがニーナ・ペトロフスカヤにささげた詩を歌にし、マルガリータ・モロゾワにささげる算段などを付けた。

ところが、1907年10月初旬、ニコライがドレスデンに向かった後、アンナがまた死産したのである。この悲しみと恥辱が3人にどのような感情を呼び起こしたかは、よくわからない。

再度の立ち直り

10月下旬には、ニコライはベルリンでクーセヴィツキーとコンサートを行った。クーセヴィツキーはユダヤ人なので、エミリィにとって都合は悪かったのだが、ニコライの立場強化のために利用できると考えていたようだ。しかし、ベルリン・ライプツィヒ・ドレスデンで行ったコンサートでは、ニコライはさながらモダニストと評価されてしまう。

こうして、ショックを受けたエミリィは、3人でロシアに戻ると、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガー、「堕落した」ドイツの音楽評論家を攻撃する論考を発表する。

また、エミリィは、ラフマニノフの交響曲第2番を聴き、この曲でラフマニノフは自分の心の中の「悪魔」から身を守れなかったと、肩透かしを食らったようなことを書いていた。

生産され続ける三角関係

1908年春、エミリィはベールイを自分に同一視した結果、ベールイが恋心を抱いていたマルガリータ・モロゾワに似たような感情を抱く。ここで、Ljunggrenは、エミリィ・メトネルという男を、ライバルがいなければ女性と関わることができなかった人間とみなし、三角関係を繰り返す人間と断じている。

しかし、エミリィにとっては、モロゾワはヘドヴィヒ・フリードリヒと同様、出版社設立のための資金源という、打算的な期待も持っていたらしい。しかし、ベールイ・モロゾワ・エミリィの3人はこのあとほぼ一体的に活動し、モスクワの知識人の中でリーダーシップを発揮する。あまりにも結び付きが強く、例えばベールイがモロゾワのことをメトネルと呼ぶことがあるほど、お互いのことを混同すらしてしまったようだ。

しかし、ベールイに対しては感情的なイエナ・ロマン派ではなくゲーテを手本とするように訓戒を述べていく一方で、エミリィは相変わらずアンナ・ニコライとともに実家暮らしであった。さらに、ベールイとともに自由美学協会や宗教哲学協会で知的交際を行っていく中で、ベールイはエレナ・ブラヴァツキーやルドルフ・シュタイナーの思想に感化され始め、これがエミリィを苛んだ。

さらに、アンナとニコライが両親などに疑惑の目で見られる中で、エミリィは自分を楽にするために、ドイツに再び単身で渡っていった。

エミリィのドイツ生活

エミリィは11月にベルリンに行き、マックス・デソワールらの講義に参加した。さらに、敵情視察といわんばかりに、ルドルフ・シュタイナーとも会ったりした。

しかし、ここでエミリィは、チェンバレンの思想にさらに感化されてしまい、人種闘争やこれまで以上に攻撃的な言動をするようになる。例えば、1908年12月の評論には、アジア的な出自のユダヤ人、例えばグスタフ・マーラーといった存在が、ベルリンの音楽生活を商業的・工業的に変えてしまい、これがヨーロッパに広まっているとしているのである。おまけにエミリィは、ユダヤ人ではないリヒャルト・シュトラウスやマックス・レーガーも、こうした動向から登場した存在だとみなし、ワーグナーのように彼らと戦っていく抵抗を見せなければならないとしたのである。

しかし、こうした人種差別的な言動は、Ljunggrenによれば、弟・ニコライとベールイへの羨望と自分の空虚さによるものの表れともしている。かくして、エミリィは、ベールイと自分をニーチェとワーグナーの関係だとみなし始め、この2人の断交の再現におびえていくようになる。

1909年3月、モスクワにエミリィが戻ると、モロゾワが直前に戻ってきていたスクリャービンをベールイらと知り合わせようとした。しかし、結局これはうまくいかなかった。この原因にはエミリィがいたともされる。

おまけに、こうした流れでモロゾワとスクリャービンも仲たがいをしてしまい、スクリャービンの側にはクーセヴィツキーが新しいパトロンとして付いた。

ニコライの成長

このクーセヴィツキーの活動として、新しい出版社が築かれることになり、ラフマニノフやスクリャービンなどの中に、エミリィはニコライも加えさせた。さらに、ニコライにはゲディケと同じタイミングで、モスクワ音楽院の教授職のオファーがあり、ニコライはこれを受け、エミリィは満足した。

要するに、エミリィは、ニコライとベールイに対し、スクリャービンにとってのクーセヴィツキーのようなポジションになりたかったのである。ここで頼りにされたのが、ヘドヴィヒ・フリードリヒといったパトロンになれる存在であった。

人間関係の変化

しかし、ベールイは『銀の鳩』の執筆に取り組むと、アンナ・ツルゲーネワと知り合う。知り合ったのは、フランス文化を重んじていたダルハイム夫妻が担っていた、メトネル家のはす向かいの「歌の家」でのことらしい。当然エミリィは、ダルハイム夫妻には敵対的である。

さらに、この頃ルドルフ・シュタイナーの影響が強い、アンナ・ミンツロヴァがアルゴナウタイ同盟に関わり始めた。ベールイは彼女によって神智学など神秘主義にのめりこみ、ペテルブルクのヴァチェスラフ・イヴァノフらと、東洋から身を守るための薔薇十字団になることを彼女から期待されていた。一方で、エミリィもまた、ベールイ、エリス、ペトロフスキーらと同じように、彼女に惹かれていたようである。

しかし、晩春、ついにメトネル家の両親が、真実を知ってしまったようである。結果、ニコライとアンナは堂々と海外旅行に行ってしまった。7月にドレスデン近郊のピルニッツでエミリィも合流し、実はフリーなのはニコライではなくエミリィであることを理解したヘドヴィヒ・フリードリヒは、エミリィとの関係を強めていく。こうしたヘドヴィヒに対し、出版社の資金源になるようエミリィは働きかけた。

一方で、ベールイはエミリィに喜ばれたいためか、エミリィの反ユダヤ主義をそっくりそのままロシアに置き換えた論考を発表した。この秋に、ピルニッツからエミリィはベールイに、出版社設立の計画が最終段階に入ったことを伝えた。

ムサゲート設立

ここら辺はアルゴナウタイ同盟についてで散々書いてしまったが、この時期旧来の象徴主義の出版社は危機に瀕していた。よって、エミリィやベールイらが、ミューズたちのリーダーであるアポロンにちなんだ、ムサゲートと名付けた新しい出版社で躍り出ようとしたのである。

ここで、エミリィの構想としては、ニーチェのディオニュソス主義的なものから、ロシア文学界をアポロン主義的に昇華させ、ロシア象徴主義者をドイツ化する壮大な構想を持っていたらしい。ベールイやブローク、ヴァチェスラフ・イヴァノフも、神秘主義への行きすぎを反省し、こうした流れをある程度歓迎していたのか、このころはドイツの雑誌『ロゴス』との連携にも特に何も言わなかった。

エミリィがロシアに戻ると、アルゴナウタイ同盟が実質的にムサゲート出版社のメンバーとなった。しかし、自分の目標を全うすることが近づいてきたことで、緊張が走ったエミリィの言行によって、ベールイはエミリィが自分やニコライを支配下に置きたい専制者なのではという疑念を抱き始めた。

ベールイに打ち込まれたくさび

エミリィはフランス音楽やフランツ・リスト、ムソルグスキーを広めようとする、「歌の家」のダルハイム夫妻を、弟・ニコライやベールイが参加していたにもかかわらず、はっきりと敵視し始めた。エミリィにとって、リストはリヒャルト・シュトラウスやマックス・レーガーの先駆者にあたる、さながらジークフリートに対しファフナーを送り込んだミーメであり、ムソルグスキーはドストエフスキー的な野蛮人だったので、同様に敵視していたのである。また、ダルハイム夫妻が神秘主義に通じていたのもこれを助長させた。

エミリィは、ベールイに対してツルゲーネワのようなフランス・カトリックと結びついているアジア人と関係を断つように迫ったり、『金羊毛』の最終号で「歌の家」のネガティブキャンペーンを張ったりと、ダルハイム夫妻を徹底的に攻撃した。

ところが、ベールイが新しく完成させた『銀の鳩』は、エリスの入れ知恵などもあり神秘主義的で、エミリィは受け入れがたく感じた。

1910年2月、ニコライがコンサートにペテルブルクに向かうと、アンナとエミリィもこれについてきて、エミリィはヴァチェスラフ・イヴァノフの「塔」に向かった。要するに、エミリィはイヴァノフを自陣営に加えようとしたのである。

エミリィはイヴァノフと今後の展開を具体化させていく一方で、ミンツロヴァを通じてマルガリータ・サバシニコワと知り合った。ここで、サバシニコワは、マクシミリアン・ヴォロシンという夫がいたにもかかわらず、エミリィに惹かれたらしく、すぐにエミリィの肖像画を描いている。

一方、ムサゲートと並行する形で、モロゾワが「道標」出版社を作った。

ベールイとの対立への移行

6月、エミリィはサバシニコワを説得してシュタイナーの講演会に行こうとした。要するに、自分の身近で影響力を増すシュタイナーを試そうとしたのである。

はじめ、サバシニコワはこれに同道できず、結局アンナ、ニコライとブルターニュを経由して、いつものようにピルニッツにわたった。しかし、10月初旬、チューリヒで、すでにシュタイナーにエミリィのことを伝えてきたサバシニコワと合流する。サバシニコワによると、シュタイナーはエミリィにも自分たちのやっている訓練が必要であるとされたらしい。

ここで、サバシニコワは、エミリィとともにゲーテの旅程をたどっていったらしい。エミリィはアンナに彼女との愛を語る手紙を送った一方で、ある大事件の一報が届く。アンドレイ・ベールイが、ツルゲーネワと婚約したのである。

エミリィとベールイの破局と、イヴァン・イリインとの出会い

ベールイとの対立の始まり

ここで、ベールイは、ツルゲーネワとエミリィで一つの家族関係になることを望んでいた手紙を送ったことが、余計事態を悪化させた。さらに、ニコライもまた、あっけなくモスクワ音楽院の教授職を投げ出したことで、いら立っていた。

この結果、エミリィはベールイがツルゲーネワとイタリアの新婚旅行の資金源のために出す旅行記に興味を持つことができなかったのである。

こうした中で、ベールイがムサゲートでの仕事にのめりこみだすと、ベールイはエミリィを専制君主のようにふるまっているとみなし始めた。加えて、エミリィは上記によって、ツルゲーネワとの結婚を裏切りなどと述べだし、旅行記の前払い金を盛大に無視したのである。

おまけに、ベールイは宗教哲学教会で、エミリィという師匠越えをするかのような、ドストエフスキーの講演会を12月に開く。結局のところ、ベールイは自身の成長によって、彼のコントロールから離れる試みをし始めたのである。

ムサゲートの明暗

一方で、アルゴナウタイ同盟についてで触れた、ベールイとブロークの和解に伴い、エミリィはブロークとも知り合った。というか、ブロークにとってエミリィは、デビュー作の検閲をいい感じにもみ消した恩人だった。

ということで、エミリィは、ベールイだけではなくヴァチェスラフ・イヴァノフやブロークらともムサゲートの活動を整え始め、本人的には一種の絶頂期にはあったのである。

こうして、ベールイが新婚旅行に向かったのとほぼ同時期に、エミリィ、アンナ、ニコライは実家を追いさだれた。1911年1月に、近郊に家を借りると、ここで暮らし始めた。

ベールイは、最初の内は反ユダヤ主義や反アジア主義が読み取れる恩着せがましい手紙を送っていたが、前払い金の分割をすぐに批判しだした。その応酬でエミリィとベールイは口論をエスカレートさせ、この流れでベールイはムサゲートからモロゾワの道標に近づき始めた。

つまり、ベールイは「真のヨーロッパ」はドイツなどではなく、ロシアの中にあるという愛国主義に傾き始めたのである。

もうすでに、ベールイはエミリィを、さながらミノタウロスであるかのように恐れ、非公式の義理の両親の屋敷に逃げだしていった。一方、ムサゲートではエリスやペトロフスキーといった、神智学に傾き始めた人々も現れ始めていた。

ついに、ベールイは、自分に支払う前払い金をムサゲートに負わせたエミリィを侮辱した。秋の初めに旅行記を投稿したものの、ベールイはモスクワから逃げ出し、田舎の別荘に居座った。

『モダニズムと音楽』への取り組み

一方で、エミリィもまたいつものようにアンナ、ニコライとピルニッツにわたった。ここで、エミリィはヘドヴィヒとの結婚も考えていたものの、離婚が困難であったことと、アンナ自身はまだエミリィを切れず反対していたことから、特にどうもなかった。

エミリィは、翌1912年の『モダニズムと音楽』出版に向けて、下準備を始めた。この著書に掲載された論考には、ユダヤ人であるにも関わらず反ユダヤ主義に与したオットー・ヴァイニンガーの影響もみられた。しかし、この背景には、つまるところニコライのような音楽が、ベルリンなどで受け入れられず、ロシアでもヤッシャ・ハイフェッツのような名人芸がもてはやされたいたことが大きい。

ここで、エミリィは、こうしたモダン音楽を女性的と断じたり、フランツ・リストをハンガリー人なんて大体ジプシーでユダヤ人みたいなもんだろと言ったりと、人権的に相当問題のあることも言っている。ただし、この時代にはこうした物言いはまだそれほど問題視されていなかった。こうしたメトネルの攻撃性は、エリスやサバシニコワが神智学の信者になったことで、ムサゲートが仏教とキリスト教の両方に根差した秘境的教義に囲まれたことで余計あおられたのである。

やがて年末になると、エミリィは燃え尽きて、年始にヘドヴィヒ・フリードリヒとともに旅行に向かった。一方で、この頃からベールイが書き始めたのが、かの有名な『ペテルブルク』である。この背景にはエミリィとの対立が大きく影響しているとLjunggrenは主張している。要するに、この小説での父と子の対立は、エミリィとベールイの鏡像としているのである。

こうしてムサゲートの雑誌「仕事と日々」が刊行され始めた。しかし、エミリィはもはやベールイを、寄稿は要求するが、自分のせいで小説出版を困難にさせていることにはまったくの無関心であった。

シャギニャンとの出会い

ここで、マリエッタ・シャギニャンとエミリィが出会う。マリエッタ・シャギニャンに関しては、本人がソ連で残した回顧録がこれまで主に参考文献にされてきたため、色々とセンセーショナルなことが漂白されてしまっている。エミリィ側の史料から見たシャギニャンは大きく異なっていると最初に断っておく。

端的に言うと、シャギニャンはラフマニノフの論文を投稿しにきたまま、エミリィに惹かれてしまったようである。彼女はメレシュコフスキーとギッピウスの三角関係から足を洗ったばかりであり、この代用としてピックアップされたのが、かの有名なラフマニノフへの励ましとみなし得るのである。

しかし、シャギニャンはユダヤ人でこそなかったものの、アルメニア系なのでエミリィにとっては大体同じ小アジアの人間であった。さらに、ラフマニノフまでほめたたえたので、エミリィは専制的にふるまったらしい。

格上のシュタイナー

一方で、ベールイとツルゲーネワはブリュッセルに身を落ち着かせた。さらに、ケルンでシュタイナーの講演会に加わり、このことがエミリィからの攻撃への応酬の一つとなった。

ここで、エミリィがやたらとシュタイナーを敵視していたのは、シュタイナーがオーストリア出身という本当のドイツ人により近い存在で、ゲーテやニーチェに通じた自分の完全な上位互換だったのも大きい。要するに、自分からベールイを奪おうとするシュタイナーに脅威を抱き始めたのである。

例によってエミリィはいつものメンバーとワイマールに向かうと、同じように神智学にのめりこむベールイに落ち込んでいたブロークの反応を見て落ち着き始めた。こうして、ベールイがシュタイナーの拠点で修業し始める一方、8月にエミリィ・アンナ・ニコライ・ヘドヴィヒはバイロイト音楽祭に向かう。

しかし、結局ベールイは「仕事と日々」の共同責任編集の座は蹴った。こうして、ムサゲートの「仕事と日々」は、当初の理想と異なり不定期刊行の雑誌になっていった。

シュタイナーへの抵抗

ただし、ベールイに対するシュタイナーのような存在が、シャギニャンにとってはエミリィだったらしい。エミリィはシャギニャンをドイツ化することで、ベールイへの一種の復讐心を晴らしたのである。この延長線上で、シャギニャンはラフマニノフとの文通の傍ら、ニコライを理想化するようになり、彼をラフマニノフと出会わせることでラフマニノフを救う願望を持ち始めたのである。

エミリィはシュタイナーへの対抗のために、「仕事と日々」誌でワーグナーの解説を始めた。つまり、ワーグナーが再発見した神話を解説することで、アジアの仏陀などに感化された神智学者らを批判しようとしたのである。

しかし、ベールイはアフォリズム的にニーチェやワーグナーを織り交ぜ、カントを揶揄する投稿を出し、エミリィを不快にさせた。

ただし、エミリィはここでようやく『モダニズムと音楽』をまとめ上げた。ところが、期待して送ったラフマニノフの反応は期待外れであり、ラフマニノフはシャギニャンにエミリィをメフィストフェレスとこっそり伝えていた。

そのうえ、12月になると、ブロークもヴァチェスラフ・イヴァノフも、「仕事と日々」から手を引いた。この時期唯一エミリィを喜ばせたのは、ニコライがグリンカ賞を受賞したことくらいであった。

ベールイの再始動

エレナ・ブラヴァツキー死後のお家騒動で、シュタイナーは神智学協会から人智学協会として独立した。しかし、この段階でもベールイは、あくまでもシュタイナーとの結びつきは個人的であるとエミリィを説得させようとした。要するに彼はサナトリウムかオカルト拠点かの二択を選んだ程度であり、シュタイナーはあくまでも精神科医であるとしているのである。

ここで、ベールイの縁戚であるセルゲイ・ソロヴィヨフもまた、精神を病んだ後ベールイの後を追い、ツルゲーネワの妹のタチアナと結婚して、イタリアでサバシニコワに紹介されてシュタイナーに近づこうとしていたのも後押しになると考えていた。

一方、ベールイの新しい小説である『ペテルブルク』出版の交渉を、ベールイにリーダーシップを残したいエミリィがまだ担わされていた。エミリィが1913年2月にブロークのもとを訪れたまさにその日に、ベルリンでベールイやツルゲーネワも加わった人智学協会の設立が行われた。

おまけに、修行を終えたことに加え、ベールイはエミリィへの新婚旅行時の借金を返せるようになったらしい。ソロヴィヨフがベールイとようやく会った際、エミリィの様子を心配していたように、エミリィはゲーテの論考集出版に取りつかれるほど、次第に精神的にやられていた。

イヴァン・イリインとの出会い

ここで、エミリィとニコライは、1913年春のモロゾワの家でのリサイタルで、イヴァン・イリインと出会ったらしい。母方がドイツ系で、断行した父方がロシア貴族の家系というイリインは、ある種エミリィと似たようなドイツをアイデンティティに持った身であり、ヘーゲル研究などで名をはせていた。

ここで重要なのは、イリインがジークムント・フロイトの著作を原書で読めるような人間だったことである。

エミリィとイリインは、エミリィがヘーゲル的な考えで知覚していることを論点に、論争を行ったらしい。ただし、イリインはエミリィをリスペクトし、挑発なども行わなかった結果、両者は敵対しなかった。

一方、ここでついにニコライとラフマニノフが本格的に知り合ったらしい。アンナとニコライが、エミリィとは別にヨーロッパ旅行している間である。しかし、エミリィはラフマニノフのロシア性への影響をおびえていた。

5月にイリインとエミリィは再び家で衝突したが、これはエミリィのエゴイスティックを本人に気づかせるきっかけとなった。

エミリィとシャギニャン

一方で、エミリィとシャギニャンの関係は続いていた。エミリィは「性」などを手紙でタブーにするように宣言したため、書簡にも全くそれらしきものが残っていない。ただし、エミリィとシャギニャンが”そういう”関係かそれに近かったことは、エミリィの手紙での呼びかけ方からも読み取れるとLjunggrenはしている。

イリインとシャギニャンとの交流で、ようやく感銘を受けたエミリィは、やっとゲーテの論考に着手でき始めた。つまり、ゲーテはロシアにとっての「医者」になるという主張がようやくまとまったのである。

この間、ベールイとツルゲーネワが人智学にのめりこむ一方、エリスがシュタイナーから足抜けをし始めたらしい。

新たな舞台

フロイトとの出会い

エミリィは例のごとく7月にピルニッツのヘドヴィヒ・フリードリヒのところに行ったが、エミール・ジャック=ダルクローズの舞踏学校で、規律ある集団組織の夢を再度抱き始めた。さらにエミリィは、この経験を伝え、思い切ってフロイトを教えてほしいと手紙でイリインに相談した。

ここで、イリインが、同僚ではなくフロイト本人に会わなければならないとしたのが、すべての始まりとなる。

この時期、エミリィは悪夢を見た。針仕事の姉妹は、長い間虐げられてきた妹がある日姉を殺したのだが、実は妹など初めからおらず、殺したのは自分自身による傷であったというものである。

エミリィは、シャギニャンにこの夢の内容を知らせたように、ベールイ、シャギニャン、ニコライと関係があると思っていた。こんな夢を記録したというのは、すでに入手していたエドゥアルド・ヒッチュマンの本などを通じて夢解釈などの考えに接してもいたのだろう。

エミリィはイリインとの手紙で、未だにゲーテの本を作れない原因の倦怠感と、エリスが反シュタイナーに鞍替えした喜びを伝えている。

一方、エミリィのもとをシャギニャンが訪れ、ドレスデンでエミリィとベールイは一度和解したらしい。しかし、エミリィはあくまでも一時の気休めで、最悪の事態を不安がる手紙をアンナに送っている。

ここで、ロシアに戻る途中、フロイトにようやく出会った。フロイトは、エミリィとシャギニャンの耳の苦しみは治すことができるとし、次の機会にまた来るよう求めた。

この頃から、エミリィは菜食主義にのめりこんでいった。

ベールイとシュタイナー

一方、ベールイはシュタイナーの講演会中、自分が神の母に代わったと感じ、完全にシュタイナーに身をゆだねようと決心した。しかし、エリスが反シュタイナーのパンフレットを出すと聞き、シュタイナーの元側近の彼に資料を暴露されるのではないかとおびえ、エミリィに中止の依頼を送った。

エミリィは完全にムサゲートの崩壊が具体化したことを察知し、そんなエミリィにシャギニャンは権力から解放されゲーテ的な無私の愛を見習うよう、投稿で示唆していた。

しかし、エリスのパンフレットはベールイにゆだねるとした決定の後、ドイツのベールイからはムサゲートを辞職する宣言が届いた。おまけに、ここでようやくエミリィは『ペテルブルク』の序盤を読むことになり、その内容に驚愕する。

ヴァチェスラフ・イヴァノフは新しい『ツァラトゥストラ』を書くようエミリィを励ましたものの、エミリィはショックのさなかにあった。チェンバレンの著書に感化された一方で、ベールイの裏切りの回顧録を作ろうとした。

この状況で初めて対面したのが、ラフマニノフであった。このため、エミリィは完全に上の空だった。

エミリィとラフマニノフ

諸事情でモスクワに部屋を借りたエミリィとニコライ・アンナであったが、エミリィの偽メニエール病はますますひどくなった。このときホメオパシー医学に身を任せたが、この状況で起きたのが、ラフマニノフの『鐘』の披露である。

エミリィは、リハーサルにわざと遅れてきて、この曲を攻撃していく。この結果、シャギニャンは自分がエミリィのある種奴隷であったと自覚したのである。

3月中旬に、イリインはドストエフスキーはゲーテ以上であると再びエミリィに挑戦してきた。要するに、ゲーテなんかで本を書く必要はないとしたのである。イリインは最後にわざと挑発したことを認めたが、ドイツのアイデンティティーも持つイリインにドイツ語を嘲笑されたことはエミリィにショックを与えていった。

ゲーテについての著作の完成

このタイミングで、ようやくエミリィはゲーテについての論文集を完成させた。エミリィは学問的な体裁を整える努力はしたものの、ベールイや自分をシュタイナーから守るために、シュタイナーをユダヤ人呼ばわりしたうえに、彼のゲーテ論を矮小化させて何とか論破しようとするような、かなり主観的なものではあった。

とはいえ、エミリィはようやく長年の目標を達成し、日記には霧の中にいるような気分と書き、シャギニャンには自殺するとさえ脅した。とはいえ特に死ぬこともなく、自分の人生の悲劇をすべてシャギニャンに負わせ、スクリャービンやストラヴィンスキーに腹立たしさを感じる日々を過ごしていく。

このタイミングで、ベールイの『ペテルブルク』の連載が完結したらしい。エミリィは、これは小説というよりも、ベールイの自伝だとあちこちで強調し、自身に対し文字通り人生のすべてを終わらせる必要性を決心したらしい。

シャギニャンもまた、そうしたエミリィの姿を見て、1913年の「仕事と日々」に終末を求めるヴォータンの論考を載せた。ちなみに、この後「仕事と日々」は毎年1回しかもう出さないと宣言したが、これすらまともに守られることはなかった。

精神分析を受ける決意

1913年5月にイリイン夫妻がフロイトに会いに訪独するというので、見送りに行った。そこでイリインの妻であるナタリア・イリインに、面と向かって「自己愛主義者」と言われてしまったらしい。これが、史料に残る生涯初めてナルシズムを指摘された言及であり、シャギニャンへの手紙でエミリィは、彼女のヘーゲル・フッサール的な思想を嘆いた。

やがてイリインから、精神分析をするように促すアドバイスの手紙が届き、そこで軽くユングがフロイトから離反したことも触れられていた。エミリィは自分がドストエフスキー的に病んでることを自覚しており、天啓のようにも思われた。

「終末」が明けたと自覚したエミリィは、まずベールイに人智学協会から逃げ出すよう電報を送ったらしい。なお、この頃ベールイはツルゲーネワと結婚していたものの、禁欲主義に打ち込んでいた彼女は当然性的関係を拒絶。結果として、彼女の姉のナタリア・ポッツォに惹かれていたらしい。

エミリィは、相変わらず精神分析への嫌悪感と必要性に葛藤していた。このため、イリインには、ゲーテですらただ自殺から遠ざけたくらいの救いにしかならなかった告白と、あまりにも遅すぎた治療による本能の解放への恐怖心を打ち明ける返答で済ませた。

ところが、せっかく完成したゲーテに関する著書の発売は遅れに遅れていた。ストライキのためである。

ヴァチェスラフ・イヴァノフやウラジーミル・エルンとの会話で、この国ではだれもゲーテを知らないことを思い知らされたエミリィは、いったん夏まで待つ決意をした。

ロシアからの旅立ち

イリインから新しい手紙が来たまさにその日に、サラエボ事件が起きた。エミリィはピルニッツを訪れることにし、アンナやニコライとクリミアであった後、オーストリアに到着した。

エミリィは、せいぜい6週間程度治療を終えた後、ウィーンに残りヘーゲルに関する論文を書いてしまおうというくらいのつもりであった。しかし、フロイトらは休暇に出ており、「狼男」など「原型的トラウマ」で忙しい彼にではなく、劣等感に注目していたアドラーにとりあえず会おうと考えたらしい。そこで、夏はいつものようにピルニッツのヘドヴィヒ・フリードリヒのところにおり、秋になったら精神分析を受けにウィーンに戻る程度のつもりであった。

一方、この頃、シャギニャンもまたドイツを訪れていた。旅行記を書くためである。彼女もドイツの文化的な名所、特にゲーテの生家などを訪れて、エミリィの影響下にまだあるようだった。

しかし、ついにドイツとロシアが戦争を始めた。第一次世界大戦の開始である。

エミリィとユングの出会いとベールイとの断交への道筋

スイスへの追放とユングとの出会い

エミリィは、ミュンヘンでワーグナーの『パルシファル』を聴いていた休憩時間に、宣戦布告を知った。3日後には『トリスタンとイゾルデ』を聴き、ヨーロッパに「神々の黄昏」がせまっていると感じたまさに次の日、ロシア人であると逮捕されて国外追放になった。

ここでエミリィは、スイスのチューリッヒに向かった。イリインからうっすらチューリッヒにもフロイトから分かれた精神分析の一派がいるのを聞いていたことと、金持ちのはとこであるロニア・ビューラーがいたためである。

ここで、エミリィはすぐにオイゲン・ブロイラーに連絡を取り、担当者のアサインを依頼した。ここでブロイラーに紹介されたのが、何の因果かこの時期フロイトから離反したばかりで、今後の身の上について悩んでいたユングだったのであった。

この、ユングも割と難局にあったというのが重要である。つまり、エミリィも悩んでいたが、ユングも師匠からの離反と戦争で悩んでいたところに、天啓のようにエミリィが現れたのである。ユングの60歳を祝う回顧録の中で、エミリィは彼との出会いを運命に決められたものだと述べた。

エミリィはただちにユングの著作を読み、自分のゲーテ観やワーグナー観に近しいものを見て取っていった。また、ユングがメレシュコフスキーといったロシア人にも目を通していたことに満足した。

Ljuggrenは、ユングはフロイトに出会うよりもよっぽどエミリィに適していたと評している。この最たる理由が、フロイトやアドラーと違い、彼はユダヤ人ですらなく、反ユダヤの思想をも持っていたためである。また、ユングは、フロイトが父を重んじたのと対照的に、母を重んじたのもエミリィにうってつけだった。

治療の始まり

ユングとエミリィは、上記の共通点によって、あっさり意気投合したらしい。ヨハン・ヤコブ・バッハホーフェンやヘンリー・ライダー・ハガードなどが話題に上がり、リビドーを性的にとどめず、生命エネルギー全般に拡張したユングをエミリィは受け入れやすいと感じた。

エミリィは週5日ユングの下に通い、10月には絶望感から解放された。一方エミリィもまた、ユングにロシアの知的体験を伝えるという得難い経験を与えた。ユングはエミリィを内向性とし、彼の攻撃性は一種の防衛機制によって心がさながら要塞化されたものともした。

つまり、ユングはエミリィを極度に内向性を帯びた思考と無意識に外向性を帯びた感情が激しく対立したとするのである。さらに、アメリカ大陸にすむイギリス人のように、ドイツ人というルーツがロシア人としてのアイデンティティ確立を妨げていたとみなした。

しばらくすると、ユングは、エミリィが治療を行っている自分に対し、これまで自身の癒し手であったゲーテを投影している「転移」をしていることに気づいたらしい。ユングもまた、祖父はゲーテの隠し子であるという家族に伝えられた口伝から、ゲーテに親しさを感じていたらしい。また、ユングはニーチェにも関係を受け、ある意味ルドルフ・シュタイナーとほぼ同じ時代に近しい解釈をした存在でもあった。

戦争によって割かれたアンナたちに対し、エミリィはユングがいなければ自分がニーチェと運命を共にして狂っていたのだろうと手紙を送っている。一方で、ユングもまた、大戦争という極限状態の中、ユニークな経験の持ち主であるロシア人文化人の語る経験に、魅力を感じたらしい。ここで、エミリィは自分がユングを魅了したことを惚れ惚れとアンナに自慢げに語っている。

エミリィと女性たち

シャギニャンもエミリィと同様に国外追放されてチューリッヒにいたらしい。ところが、エミリィは、ゲーテの著作を終えてしまったこともあり冷めており、自分を救い出そうとするシャギニャンの願望に恥辱を覚え始めたらしい。こんなエミリィに対し、ユングも距離を置くようにアドバイスし、週に一度以上会うことを拒否したとアンナに伝えている。しかし、シャギニャン側からすると、自分の救いでもあったエミリィを失ってしまった形となった。

なお、このころエミリィとアンナは正式に離婚していたものの、アンナはいまだにエミリィとニコライとの関係をはっきりさせていなかったらしい。しかし、この時点でエミリィはシャギニャンにもヘドヴィヒ・フリードリヒにも冷めており、エミリィが気まぐれに結婚でもするのではないかと不安がるアンナをなだめたようだ。

銃後の関係者たち

このタイミングでロシアのムサゲートは、エミリィのゲーテ論と、エリスの反シュタイナーのパンフレットを発売できたらしい。ただし、エリスのパンフレットはベールイが考えていたほど攻撃的ではなかった。

というか、エリスに関しては、人智学協会で出会ったオランダ人のヨハンナ・ポエルマン゠ムーイと、中世神秘主義の秘密結社を新たに結成したことによるもので、正直単なる宗派替えくらいのものだったのである。

また、ニコライも、エミリィとの別離によって新しい人生を始めた。エミリィがいなくなったことで翼を切り取られたように感じ、作曲ができなくなった。また、兄のベッドで眠り、兄のソファに座って読書をするなど、いなくなった兄とテレパシーか何かでコンタクトを取るかのようにふるまった。

そんな彼らを支えたのが、ロシアにあっけなく送り返されたイリインと、エミリィがいなくなったことで友情が強まったラフマニノフ夫妻らであった。しかし、宗教哲学教会は反ドイツの愛国主義にまみれ、出席したニコライやアンナの送るある程度控えめにしたエミリィへの情報共有でも、友人を失う覚悟をエミリィに持たせたという。

ちなみに、ベールイはこの頃、実はほぼエミリィのいるすぐそばのドルナッハでシュタイナーとともにいた。ユングはベールイにも興味を持ち、『銀の鳩』などを読み始めた。ユングはエミリィにとってのベールイを、ある程度自分にとってのフロイト的な存在だとみなし、エミリィにベールイやシュタイナーと和解すべきとしたのである。

ベールイとの再会

1914年11月末、シャギニャン一家は結局ロシアに戻っていった。その翌日、ツルゲーネワの姉のナタリア・ポッツォがエミリィの下を訪れた。そもそも1909年からはナタリア・ポッツォはエミリィと交流があり、妹がシュタイナーに感化されていくのと並行して、彼女の方は実はエミリィに惚れていったらしい。このため、Ljunggrenは、ここで自分はシャギニャンの代わりとして見初められたのではと思ったのかもしれないとしている。

ナタリア・ポッツォはベールイの動向をエミリィに伝え、早い話ベールイへのスパイの役割を担うことになったのである。ただし、エミリィの背後にユングがいることは知らず、あくまでもエミリィは純粋に人智学協会に興味があるものとは思っていらしい。

また、ユングはポッツォとの関係をある程度肯定的にとらえ、アンナ、モロゾワ、ヘドヴィヒ・フリードリヒ、サバシニコワ、シャギニャン、ポッツォという女性遍歴を分析していたらしい。なお、これらすべてはエミリィはアンナに伝えていた。

この数日後、エミリィはドルナッハの人智学協会に乗り込んだ。ここで久しぶりにベールイに対面したエミリィは、自分がシュタイナーを批判するゲーテ論を出したことを明かし、逆にそんなことでもう2人の友情は壊れないとも添えた。

エミリィはベールイのいた環境にすぐ魅力を感じ、とっくに菜食主義者ではあったものの、今受けている精神分析とオカルティズムの共通点を見出した。アンナには冗談で結局人智学協会員になるべきではないかとも伝えている。

進行し始める破局へのカウントダウン

一方で、エミリィがドルナッハを何度も訪れていく中で、ベールイはエミリィの本に込められたシュタイナーへの悪意に衝撃を受けたらしい。

結果、ベールイはゲーテやシュタイナーの著書を読み漁ることで理論武装しようと試みた。そのうち、どうもエミリィがシュタイナーの著作の4分の1くらいしか知らず、自分の独善的な極論を本で展開しているだけではないかと思い始めたらしい。

また、ゲーテの科学的な著作を読むうちに、シュタイナーの方がこれらの一般に評価されていないゲーテの著書をちゃんと咀嚼していると感じ始めたらしい。

早い話、本で自分を論破して和解しようというエミリィの試みに、ベールイは強力な反撃用の武器をそろえていったのである。

一方、エミリィは精神分析の治療を受けていると明言しなかったものの、瞑想に対応する何かを行っているとベールイは感じ始め、エミリィをスパイであるとみなし始めたらしい。後世ベールイは、シュタイナーの回顧録の中で、エミリィを「シュタイナー博士の最も邪悪な敵」と形容している。

エミリィと人智学協会

一方、そんなこともつゆ知らず、エミリィは人智学協会での日々も過ごしていった。第一次世界大戦の「最初の」クリスマスの頃、エミリィはシュタイナーに出くわした。その場にはベールイと、サバシニコワ、ペトロフスキー、シゾフなど、古くからの友人もいた。

エミリィはシュタイナーと目を合わせると、幼いころの蛇の夢を思い出したらしい。白い蛇と黒い蛇の戦いにおける、黒い蛇がシュタイナーであると感じ、シュタイナーへの恐ろしさが亡くなったのである。

エミリィはこの経験から、蛇の夢をユングと語ったらしい。2人は、お互いが見た蛇の夢の共通点と相違点を話し合い、それゆえに2人がどこまで距離が縮まり、どこで別れるかを、後世回顧させるものとなった。

しかし、なんやかんやで、エミリィはシュタイナーへの講習に参加する許可も得ていったらしい。エミリィは、例えば協会のリトミックダンスはダルクローズやイサドラ・ダンカンに比べてアマチュアと思ったものの、シュタイナーの「媒体」としての技量に魅力を感じ始めた。

エミリィは、シュタイナーの講演会のためにユングの次のセッションをキャンセルすると伝えた。ナタリア・ポッツォはエミリィにスイスで何かが行われていると感付き始めたが、エミリィはアプレイウスの『黄金の驢馬』を読む友人がいるくらいだとごまかした。

なお、このタイミングでモスクワからパステルナークがエミリィのゲーテ論をほめる手紙を送って起きており、エミリィは調子づいている。

ユングとの一時の別れ

1914年末、ユングは軍医として数か月南スイスに向かった。その間、助手のマリア・モルツァーがエミリィを引き継いだ。

1915年1月2日、エミリィはアンナに対し。これまでの精神分析の要約めいた手紙を送った。ついに彼は、アンナとニコライが、これまで自分の人生を浪費させた存在だと非難した。彼は、これまでの音楽評論家活動や、ドイツへの逃避、ムサゲートでの活動、2つの著作など、すべてを無意味な過ちだったとしたのである。

しかし、ユングとの別れを風邪で過ごせず、しばらくたってから、エミリィはアンナに、ユングの治療ですら自分の葛藤を解決できないのだと手紙を送った。そして、音楽を呪っていたが、音楽の外には自分の人生が全くない残酷を嘆いた。

しかし、結局のところ、シャギニャンやアンナへの八つ当たりは、自分の病気の本当の原因である、母親への不満をぶつけられない代わりでしかないとLjunggrenはみなしている。実際、エミリィはこの手紙の最後で、母親との疎外感と、まったく愛のないえせ教育で自分を破滅させたのだと、非難しているほどであった。

人智学協会との断交へのカウントダウン

エリスもまたヨハンナ・ポエルマン゠ムーイとともにバーゼルにいたらしく、エミリィは2人ともあっている。エミリィはヨハンナ・ポエルマン゠ムーイにモロゾワとミンツロヴァを併せ持つ、パトロンと媒介者が統合された存在だとみなしたらしい。

エリスとヨハンナ・ポエルマン゠ムーイが人智学協会をフェミニズムの温床と嘆く一方で、彼女の説く思想と精神分析に、集合的無意識に関する共通点を見出した。

エミリィは再びドルナッハの人智学協会を訪れた。エミリィはベールイの論調がだんだん熱くなっていたことに、何の警戒心も抱いていなかったらしい。しかし、ベールイは、エミリィの方がゲーテの解釈を誤っているのだと論破してもよいのではないかと次第に思い始めたらしい。

エミリィがチェンバレンの戦争に関する論文集に感銘を受ける一方で、ロシアではモロゾワがニコライを兵役を逃れ愛国的義務を放棄したと不満を漏らすほど、アンナとニコライは孤立していったらしい。宗教哲学教会でもドイツ人への攻撃が相次ぎ、それに数少ない抵抗している存在が、イリインだったのである。

エミリィは後任のモルツァーとセッションを始めたが、モルツァーのビジネスライクで淡々とした姿に不満を感じたらしい。また、エミリィはユングを自分の魅力で魅了したとしつつも、もう4月ごろには、目の前にいる患者が自分の人生の失敗を受け入れるということがどれほど屈辱的であるのかを理解しようともしない点で、ユングもモルツァーも世間知らずの浅はかな人間だとアンナに言い始めたのである。

一方で、ポッツォはエミリィに自分の役目を果たし続けたらしい。しかし、エミリィは彼女がもっと早く表れていれば、ムサゲート以外のものに導かれるような救済を得られたのにと、嘆いていた。

ベールイとの熱戦

ただし、このポッツォがベールイの用意していた反論を、まったくエミリィに伝えられなかったことが、エミリィにとっての悲劇であった。ポッツォはそんなこともつゆ知らず、エミリィにドルナッハに住むように迫っていた。

しかし、ついにシゾフがベールイが原稿の中で激しく攻撃している章を呼んだと伝えてきたらしい。エミリィは直ちにドルナッハに行くが、ベールイは受け入れられる文章にごまかしたものを見せたのみであった。

ところが、ベールイがムサゲートでこれを出したいと言ったとき、ベールイとツルゲーネワはエミリィのせいでムサゲートがバラバラになったのだと非難したのである。

エミリィは、屈辱のあまり激昂し、ベールイとツルゲーネワがもはや融合した存在であるかのように「ボラス」と浴びせ、憤慨して去っていった。ベールイはこんなことをしないと保証できるまでは会わないでほしいと手紙で述べた。

この結果、ベールイは不眠や悪夢に苦しみ、エミリィへの反論論文に取り憑かれたかのように取り組んでいったらしい。ベールイは自分の本をエミリィと同じくらいの分量にし、きちんと体裁を整えられるようシュタイナーらと協力していった。

一方、エミリィもまた同様の症状に苦しまされたらしい。アンナにこれまでの女性遍歴を披露し、ポッツォにはもう何の感情も抱いていないことと、精神分析は癒やすことができなかったものの、自分の助けになる偉大な発見だとほめたたえた。Ljunggrenは、この手紙から明らかなとおり、あれだけのことがあったにもかかわらず、エミリィはまだ前の妻との将来に希望を抱いていたととらえている。

新たな人生の始まり

ユング一派への参加

ユングが戻ってくると、モルツァーの治療を止めさせることはなかったらしい。ただし、以後ユングは、月に2回の自分のコミュニティーの集まりに、エミリィも参加させるようになった。

エミリィはドルナッハの人智学協会なんかよりも理にかなった精神分析の学派ができつつあるのを感じた。また、ベールイなどのロシア文学に精通した精神分析家のハンス・トリュープや、ロックフェラー家の出身でユングに治療されているエディス・マコーミックと知り合った。

こうして、エミリィは自分の激昂によって、ドルナッハの共同体との関係を元通りにできなくなった今、チューリッヒで孤独に過ごすことはなくなりつつあった。

また、チューリッヒで医学を学んでいた、ロシア系ポーランド人であり、ユダヤ系のレイチェル・ラヴィノビッチとも知り合った。エミリィは最初ロシア人だと告げずにドイツ語だけで話し、自分のことをヴェルフィングとも呼ばせた。エミリィは自分の反ユダヤ主義を彼女に披露し、彼女のことを「過去完了形」と呼んでも、特に彼女は気にしなかったらしい。

エミリィの方はアンナに顔が似ていたのを気に入ったらしいが、やがてお互いに民族アイデンティティについて活発で健全な議論をする仲になったらしい。レイチェル・ラヴィノビッチが、東欧のユダヤ人社会主義者のことを批判的に見ていたくらいの存在であったのもあるのだろう。

マズダズナン思想との出会い

7月にはエミリィは心機一転して部屋を移った。新しい部屋の大家は、20世紀初頭によってゾロアスター教をベースにオトマン・ザール・アドゥシュト・ハニッシュによって提唱されたマズダズナンの信者であった。

マズダズナンとは、ゲルマン民族の手によって選ばれし純潔のアーリア人によって千年帝国を築こうとする、第三帝国のアレにも繋がっていく思想である。オトマン・ザール・アドゥシュト・ハニッシュは人を人種的に純潔にするにはどうすればいいのかと具体的に逐一書いていたので、エミリィにはうってつけであった。この頃、17歳のパヴリコフスキーとの衝突以来、自分はおびえたトカゲのようにマヒしてきたのだと、母親に訴えてすらいた。

つまり、精神分析によって、エミリィには肉体と魂の相互作用で解放された領域にこそ、自分の人生における使命があるのだという、道筋が見えてきたらしい。結果、人智学協会とはある種似たようなオカルト団体ではある、マズダズナンの教義を、ツァラトゥストラやニーチェとの親和性から選び始めた。

ワルシャツカとのセラピー

エミリィはモルツァーのセラピーを終えると、直ちにチェコ生まれのマズダズナンのヴィルヘルム・ワルシャツカの下で4日間のコースを受けた。実はワルシャツカはモルツァーと同じビルに住んでいたので、ご近所さんだったのだが、2人にはそれ以上の関係はなかったようだ。

エミリィは、ワルシャツカの生理学・骨相学・頭蓋学の知見に興味を持った。エミリィは、ワルシャツカがこれまで自分が気づいてこなかった、魅力的な性格と武骨な顔つきに注目したことに、満足げだった。

また、エミリィは自分のゲーテ論への書評が全く載らなかったので、シャギニャンに依頼をしたらしい。しかし、アンナからシャギニャンの書評を手に入れたエミリィは、そのあまりにも行き過ぎの賛辞と、愛国的な国粋主義が気に入らなかったらしい。

ドルナッハでの占星術の導き

ワルシャツカとの交流で気を良くしたエミリィは、久しぶりにドルナッハに向かった。ポッツォがベールイと和解させようとしたが、失敗に終わった。

ベールイとのことよりも、むしろヨゼフ・エングレルトがエミリィとゲーテのホロスコープを比べたことの方が重要だったらしい。エングレルトは、エミリィが唱えるように、2人が太陽に関係が深い正午に生まれたことを説明した。ただしエングレルトは、エミリィがガイア(エミリィの言うエルダ)の息子である天王星との結びつきで、オカルティズムとの結びつきが強いこと、真の自己表現のチャンスがなければ人格が崩壊する恐れがあることも、エミリィに伝えた。

こうして、エミリィはワルシャツカとエングレルトの2人からそれぞれ受け取った説明で、やるべきことを見定めたらしい。

本を書き終え苦悩の中に沈んでいったようなベールイのことは、エミリィは避けていた。一方のベールイは、家族問題、エミリィとの決別、ドルナッハ内の対立などを抱え、まるで自分自身で自分の精神に実験をやっていたような状態だったらしい。さながら、暴力行為などを働かせようとする秘密の暗号を送ってくるような、闇の力に支配されたのではないかと思っていたと自分でも書き残している。

次第に、ベールイは自分がファウストで、ツルゲーネワやポッツォがメフィストフェレスからファウストを救った天使であるかのように夢想し始めた。ベールイは、自分がカール・メトネルの前でエミリィを論破し、エミリィが恥ずかしそうに顔を赤らめると、カールがゲーテともシュタイナーともよくわからない姿に変身する夢も見たらしい。

新たな希望

もちろん、エミリィはこんなことも何も知らず、ドルナッハでの日々をユングに報告していたらしい。ユングは追加のセッションを行い始めると、エミリィはユングが自分に魅了されているのだとアンナに送った。エミリィは占星術の話などをユングに話し、ラビノヴィッチのことを話すと次の2つを助言した。ラビノヴィッチをサンプルに精神分析を行ってみることと、自伝を書くことである。

ワルシャツカの研究にも理解を示したユングを見たエミリィは、世界大戦さえ終われば、科学的な統合によって世界が変わること、そのようなプロジェクトに自分も参加したいことをアンナに伝えている。

1915年の夏にはパラケルススの家や、マリア・アインジーデルン修道院など、ゲーテとユングにちなんだ旅に出た。

この頃、イリインから、ユングの精神分析はどうかという手紙が来た。イリインには、自分の精神は幼少期の段階にまで破壊が及んでいると伝えた。イリインは、エミリィの指揮者という幻想を真剣に受け止めており、自分がフロイトにされたように、ユングに昇華されてほしいと望んでいた。エミリィもまた、ユングやモルツァーが、自分が未来に進むために過去を取り戻す試みをしているのだろうとしていた。

モンテ・ヴェリタでの日々

1915年9月になると、エミリィはアルプスを巡った。そこで、20世紀初頭にアンリ・エーデンコーフェンやイダ・ホフマンらが作った、自由人たちの集落モンテ・ヴェリタに6週間ほど滞在した。彼らの行う太陽崇拝は、エミリィに希望を与えた。つまり、現世で新しく生まれ変わらなければならないという決心を固めた。

こうした結果、エミリィは精神の問題を肉体と結びつけなかったフロイトに、やはり関わらなくてよかったのだとも思った。エミリィはニーチェもまた、ツァラトゥストラ的な教義を肉体的に行わなかったので、おかしくなったのだと感じ始めた。

また、エミリィはこの山の中で、バルト系ロシア人のフェルディナント・フォン・ウランゲルと出会った。エミリィは父と同じ出自のこの老人を気に入り、戦争を客観視できるのはロシア系ドイツ人だけであるという彼の指摘に感銘を受けた。また、彼がチェンバレンと交流があり、チェンバレンが戦争で病んでいると知った結果、ますますチェンバレンに近しさを感じた。

ここで、エミリィは、父親・カールに対し、精神分析と父から勧められたある本の類似点を書いた長い手紙を送ったらしい。らしいというのは、現物は残っていないので、数日前に予備的に送った短いものから記載内容が推測されるのみだからである。

その本とは、ブレンティス・マルフォード、つまりニューソート運動の初動に関わった重要人物の著書である。エミリィはこの手紙を通して、同様に母親からは見放されていた父親を、精神分析に引き込もうとしたらしい。

ベールイの自伝

エミリィはこうしてすっきりとした気分で山を降り、ドルナッハを訪れた。ここで、ポッツォやサバシニコワから、ベールイが自分がいまだに書けていない自伝に取り組んでることを聞かされた。

エミリィはアンナへの手紙で、精神分析も知らないベールイなんて『ペテルブルク』の再演をやるだけだとなめ切っていた。ただし、実はベールイはシュタイナーを通じて表面的にフロイトなどの理論を学んでいた可能性は高かった。

ここで、エミリィはベールイもチューリッヒやアルプスを訪れていたことを知り、自分と同じ道をたどっているような感慨も受けた。

このときベールイが書いていたのが、”Котик Летаев (Kotik Letaev)”である。エミリィが唱えた集合的無意識に近い思想が過去作品よりも強く打ち出された作品であり、ユングの思想とも近しさを感じる。早い話、エミリィが達成すべき自伝をベールイの方が先に実現させてしまったのである。

ユングの治療への諦念

1915年12月、シャギニャンはニコライとアンナの家に住んでいた。彼女は最初の小説を書き始め、エミリィとの自虐的な友情から脱却しようとした。

なお、この頃スクリャービンを追悼する、ラフマニノフによるコンサートの感想をシャギニャンはエミリィに送ったらしい。ただし、アンナに対しスクリャービンの死をルシファーの恍惚とした信奉者が亡くなったと述べたエミリィが、ラフマニノフやクーセヴィツキーといった同類をどう受け止めたかは、察するところである。

なお、この年にクーセヴィツキーがモスクワ音楽院の教授職になり、ニコライにも手を差し伸べたらしい。この結果、アンナやシャギニャンはエミリィにモスクワの音楽状況のレポート的なものを提供するようになった。

エミリィは、ユングとの週に2回のセッションを再開させた。なお、この頃ヘドヴィヒ・フリードリヒもうわさを聞きつけてユングの治療を受けようとしていたらしい。しかし、ユングはヘドヴィヒ・フリードリヒを治療不可能だと論じ、エミリィはユングが自分のことを正直に彼女に話しすぎだという不満をアンナに漏らしている。

しかし、もうユングのセラピーは、何の魅力も感じなかったらしい。ユングは諦めていなかったが、1916年2月、エミリィはもう解決を諦め、モスクワで鬱々としていた1913年~1914年の方が、今に比べればまだ黄金時代だったととらえていた。

おまけに、エミリィはニコライに対し、精神分析と同じ課題を与え、「ありのままの自分」を受け入れるように促したことで、怒らせたらしい。エミリィは、結局自分がピアノの練習に注意を払わなかったことが、すべての不幸の始まりであり、ニコライは「音楽的な友人」で「音楽的な基準」であったエミリィを「永遠に」失ったことを強調した。

つまり、エミリィはもう自分のことを滅ぼしかけているのだととらえ、ニコライの作曲にも悪い結果をもたらすととらえているのである。アンナに対しても、ロシアに戻ることは最後の崩壊への一歩だと添えていた。

ユング派への傾倒

ユングの分析心理学を広めるためにアントニア・ヴォルフ(トニ・ヴォルフ)やエディス・マコーミックらが「心理学クラブ」を設立すると、エミリィもまた1916年2月26日の設立総会に出席した。

春の末にはマズダズナンへの関心が薄れた結果、信者の大家の下をさり、このクラブの敷地内に住み始めた。

エミリィはラヴィノビッチのみならず、マコーミックにマルガリータ・モロゾワやヘドヴィヒ・フリードリヒと近しい要素を見出し、関係を築き始めた。エミリィは、当初から彼女をムサゲートの資金源とし、ニコライの支援者にすることを考えていた。

つまり、チューリッヒでは、ユングがベールイの、マコーミックがモロゾワの、ラビノヴィッチがアンナの代理になったというわけである。

やがて、マコーミック、ユング夫妻、ヴォルフらとアルプスを10日間かけて旅した。目的地はニーチェにちなんだシルス・マリアで、この旅の中でエミリィはユングの博識や明るさからますます彼がゲーテ同様の救済者である、という認識になり始めた。

シャギニャンのラフマニノフからの卒業

一方、シャギニャンはコーカサスで新しい小説を作り始めていた。この小説は、フロイト、およびフロイト主義との対決を試みており、エミリィの精神分析があまりはかばかしい成果を上げていなかったことの影響だとLjunggrenはみなしている。

なお、このタイミングで起きたのが、回顧録に残るシャギニャンへのラフマニノフの内面の吐露、とくにニコライ・メトネルへの羨望の打ち明けである。

Ljunggrenはこうした動向から、ある種のラフマニノフとの決着もこの小説の執筆に込められていたとしている。回顧録が語るように、以後も手紙での交流は続けていくものの、このタイミングでシャギニャンはラフマニノフの人生の舞台からある程度降りていくことになる。

ベールイからユングへ

エミリィの人間関係の見直し

エミリィがロシアに戻れなくなった後、エミリィとの合意でムサゲートの経営はヴィケンティ・パシュカニスが引き継いでいた。このため、1916年にはヴァチェスラフ・イヴァノフの本や、久方ぶりの「仕事と日々」の最新号が刊行されている。

ただし、この「仕事と日々」の最新号は、エリスが翻訳したヨハンナ・ポエルマン゠ムーイのダンテ論、およびニコライ・ベルジャーエフの人智学批判といった、記事が主であった。

1916年秋、エミリィはチューリッヒでサバシニコワとナタリア・ポッツォの訪問を受けた。サバシニコワがもうほとんど人智学に傾倒した人間になっているとエミリィは感じた。一方で、ポッツォは妹のツルゲーネワを連れてきており、ベールイが徴兵でロシアに連れ帰らされていたことで彼女とはエミリィは和解することができた。

ベールイへのエミリィの打撃

しかし、後の1917年11月に出版されるベールイのエミリィへの批判論文が、ロシア側で一部分が徐々に出回り始めた。ベールイはエミリィへの批判に応え、人智学などへのデマの吹聴を整理することで、シュタイナーの思想が現在の世界の惨状にどのように役立つかを説くものであった。

このように、正直ベールイの論は学問的というよりは、印象主義的に連想ゲームをするエッセイ的なものではあったとLjunggrenはしている。結局のところ、この本はエミリィへの回答というより、ベールイが人智学協会で何を体験したかの記述が骨子になっているのであるとする。

ここで、ベールイの論展開として、Ljunggrenはエミリィへの個人攻撃的な文言も含む、大部の引用をしているが、肝心の原文にこの記事の作成者が当たれていないので、論旨には立ち入らない。

なお、エミリィは極めて偶然にも、ベールイの論文が姿を現し始めたのと同じタイミングでシュタイナーと再会した。経緯としては古くからの交流がある指揮者・アルトゥール・ニキシュのコンサートの一つで偶然にもシュタイナーの隣に座り、ニキシュの偉大さをシュタイナーに説いたらしい。

一方で、ベールイがこんな本を書いた結果、モスクワではマルガリータ・モロゾワの下で、ニコライとベールイの間で衝突が起きた。

この裏にいたのはイリインである。もともとベールイ、ヴァチェスラフ・イヴァノフ、エリス、シャギニャンらを等しく敵視していたイリインが、ずっと感じていた不安をまさに裏付けるという形で出版されたベールイの本のため、ニコライにいろいろ吹き込んだらしい。

イリインに関しては、この頃から徐々に、過激な反近代主義者への道を歩み始めていた。

ただ、ロシアでニコライやイリインがこの論を読むのと、エミリィが現物を見るのとでは時間差があったことが、エミリィにとってはある種の幸運をもたらす。

ユングとエミリィ

一方で、エミリィはマコーミックの力を借りて、ムサゲートでユングの著作のロシア語訳を考えていたらしい。マコーミックは、エミリィの提言を受けて戦争で経済的に困難にある芸術家のための基金すら設立していたほど、エミリィと接近していた。

エミリィは、ラビノヴィッチの人脈で、ロシア系ユダヤ人にこのプロジェクトを手伝わせた。ここで特に積極的に関わったのが、メンシェヴィキのアレクサンドル・マルティノフとセミョーン・セムコフスキーであった。

この2人は完全に政治屋だが、Ljunggrenもかかわった経緯は断定できていない。マコーミックの実家のロックフェラー家の資金を、ロシアの革命家にこの頃まだノンポリだったエミリィがある程度流した経緯は、よくわからないらしい。

1916年のクリスマスに、「心理学クラブ」でパーティーが開かれた、エミリィはユングに木製の剣と自作の詩を書いた糸巻きを送り、その詩にはユングをジークフリートやテセウスになぞらえ、「ドラゴン」との戦いへの勝利を祈る文言が書かれていた。

ここで、ユングが1917年に出版した『無意識の心理』に大きくエミリィが影響していたと、Ljunggrenは主張している。というのも、この本の中でユングがニーチェについて述べていることは、ほとんどエミリィにも当てはまり、エミリィのゲーテ論やニーチェ論にはエミリィやベールイらが先駆者として影響していると、Ljunggrenはみなしているからである。

イリインの参戦

1917年2月、イリインがベールイに対し、エミリィへの誹謗中傷への嫌悪を表明する公開書簡を送った。二月革命がすでに始まったさなか、ベールイや関係者は、この非難から身を守ろうとして、しばらく無視した。

しかし1917年4月上旬、モロゾワの盟友であるエフゲニー・トルベツコイがベールイを擁護する。この本に込められた厳しい物言いは、熱意の結果であると釈明したのである。

しかし、イリインはこの反論に対し、ベールイのエミリィを中傷しようとする野心を強調した。この著書は、ロシアの精神的指導者足ろうとする知識人の腐敗の兆候であるともみなしたのである。

要するに、イリインは、象徴主義運動全体を巻き込もうとする論争を、相手に仕掛けようとしていたのである。

ベールイはこれをかなり無視していた。ただし、この年の末にイリインのフロイト主義を揶揄して精神分析を批判する論文を載せたくらいなので、内心かなり怒っていたらしい。

ちなみに、この頃まだアンナとニコライは、エミリィにこの著書のコピーを送っていなかった。

二つの革命の間で

エミリィは二月革命ごろに、精神分析を終えていたらしい。エミリィのトラウマは結局癒えなかったという結論に本人は達した。

ただ、ここまで自分を苦しめていた偽メニエール病は、コンサートホール以外では、まったく出なくなったらしい。1917年3月には、アンナに、自分に残された選択肢は音楽を捨てることだという手紙を送っている。

エミリィはマコーミックの秘書としてアメリカでの新しい人生を夢見る一方で、ニコライの「指揮者」の夢を放棄しようとしたのである。

ユングの翻訳に関しては、二月革命後のロシアにマルティノフやセムコフスキーが戻るということで、進展があった。

彼らメンシェヴィキは、一緒に行動したくないというウラジーミル・レーニンとの対立もあり、ボリシェヴィキが秘密列車で帰国した後、数週間後に第二陣として戻っていった。この時間差が後世大きな影響を生じさせる一方で、マルティノフとセムコフスキーは、ユングの翻訳と、エミリィが「仕事と日々」の次の号に出したいとした原稿を持って帰っていったのである。

1917年5月、シャギニャンはアルメニア人と結婚した。また、1914年ごろからレーニンがエミリィの代わりになったようで、ボリシェヴィキに傾倒していった。

一方、ラビノヴィッチはジュネーブへの移住を考えており、ダルクローズの学校で体操を教わり始めた。エミリィはアンナにもう音楽を心から憎んでいるので、これは自分には関係のないことと述べたのみであった。

ベールイからの解放

エミリィは、イリインから公開書簡のコピーなどはもらっていたものの、1917年秋にようやく、「本当の」ベールイの批判論文を目にすることになった。つまり、ドルナッハで読んだものが、本物の攻撃性を隠すための偽物だったことにもここでようやく気付いたのである。

また、ベールイの味方を表明したペトロフスキーと仲たがいしたことを筆頭に、ドルナッハとの関係もすべて断ち切った。もはやエミリィには、イリインとエリスくらいしか、旧来の友人は残っていなかった。

ここで救いになったのが、レマン湖の東のシャトー・ドエックスでユングに1週間半行われたセラピーである。エミリィは今陥っている困難をすべてユングにぶちまけ、心の整理をユングは促した。

Ljunggrenは、こうしたユングの家族的な付き合いにすら至る友情に、ニコライとベールイを失ったエミリィにとって新しい代用品になったとする。このことを象徴するように、エミリィは「友は死んだ、友よ万歳!」をモットーにするくらい、ベールイに代わり、新しくユングに奉仕することが自分の使命だと思い始めていたのである。

なお、このタイミングで十月革命が起きた。このせいで世には出ることこそなかったものの、ユングの協力でベールイへの反論の執筆を行い、エミリィはいくらかうっ憤を晴らすことができた。

ユングとの接近

ここでザビーナ・シュピールラインと出会い、エミリィのロシア語訳が間違っていると指摘されたらしい。エミリィは気分を害したものの、仕事のやり直しを受け入れ、この仕事の責任者になった。また、それだけではなく「心理学クラブ」の新しい図書館の責任者にも任命された。

ユングはその後もエミリィと散発的なセッションを続け、エミリィはこの時期ユングにほとんどいなかった数少ない男友達と化した。また、東西論を交わす中で、ユングがウパニシャッドに注目する一方で、エミリィはハーフィズに注目し、本能をより肯定できるようになったようである。

1918年春、母親アレクサンドラが亡くなった。ニコライは母の冥福を祈るために、クーセヴィツキーとともに戦争への反応をもしめすピアノ協奏曲第1番を披露した。

この後、ソヴィエト連邦はロシア内戦に陥り、エミリィは1年半くらいロシアと連絡が取れなくなった。この結果、アンナとニコライの結婚を知るのもかなり遅れることとなった。

一方、エミリィはユングの家族の一員的なポジションになってきたらしい。加えて、ラビノヴィッチやマコーミックへの関心が薄れた一方で、ヴォルフとの交流は徐々に性的な気配を帯び始めた。

『心理学的類型』とエミリィ・メトネル

1919年7月、ユングが集合的無意識についての講演をロンドンで終え、論文を発表した。この後、チューリッヒの心理学クラブで同じ講演をした際、ユングはエミリィにこの論文は君との会話でできたと打ち明けたらしい。

しかし、このことが逆に、ユング派に巻き起こったオカルトへの関心もあって、エミリィにある危機感を抱かせたらしい。つまり、ユングの関心を脅威に感じたエミリィは、分析心理学を本来あるべきカント的志向性に戻そうと試み始めたのである。

1919年10月~11月、エミリィはベールイへの再批判なども流用した、カント主義に関する講演会を心理学クラブで行った。この公演は、要するにオカルティズムが科学の座に就こうとする試みを批判し、直感を即スピリチュアルな現象に結び付けてはいけないと強く主張するものであった。

ユングがちょうどこの頃『心理学的類型』を書いていたこともあり、エミリィの「直観」をきちんと正しく認識させようと試みる複数回の講演は、ユング派にある程度貢献したらしい。しかし、この講演を書籍にしようとするマコーミックの申し出を、エミリィはまだまとまっていないとして断った。

1920年春、ユングは北アフリカに旅立っていく。この後、エミリィは、ロカルノにいたエリスとヨハンナを訪れた。しかし、もはや彼らの秘教主義を受け入れられなくなり、友情は終わった。

1921年に、『心理学的類型』が出版されると自分にその資格があるとしたエミリィが、ヘルマン・ヘッセと並んで、批評記事を書いた。この記事の中で、エミリィはシラーとニーチェの双方を自分に重ねている。また、ユングが傾倒しつつあるグノーシス主義ではなく、理論的基盤をカントにこそ求めるべきだと、エミリィは主張した。

革命によって起きた最後の変化

エミリィはこの頃、ニキシュの65歳の誕生日を祝う短いエッセイを発表した。一方、エミリィは自分がユング夫妻、ヴォルフ、トリュープ夫妻、自分の「六重奏団」に属しているとみなしていた。ここで、人妻であるスージー・トリュープと関係を持っていたが、この関係には多数の「アニマ」を投影したのだと、エミリィは主張していた。

そして、このタイミングで、ついに弟夫妻が亡命してくることとなった。アンナとニコライはカールもユングに会わせようとしたが、直前に病死してしまっていた。

エミリィは、7年間別れて暮らし、疎遠になっていた2人と正直一緒になりたくはなかったらしい。あくまでもドイツに暮らした2人に、エミリィが12月に訪れたことで、ようやく再会することとなった。

1922年春、ニコライとアンナはチューリッヒにやってきて、エミリィからユングを紹介された、2人にはすでにアメリカに行ってしまったマコーミックにも、ラフマニノフが取り次いだらしく、直後にラフマニノフともドレスデンで再会している。

ニコライは、こうして西側でのキャリアをドイツで開始していく。一方で、エミリィは社会主義が招いた不運をロシア人自身に責任があるとみなし、もはやロシア人・ロシア音楽の両方を避けていた。また、セラピーが失敗に終わったとみなしたことによる恥ずかしさから、「哲学の船」でロシアを追われて西側にやってきたイリインにも、会おうとはしなかった。

心理学クラブでのいさかい

1922年8月、エミリィの言う「六重奏団」はキャンプをしたり、ハイキングをしたりして過ごしていた。しかし、「類型論」で示そうとした道をめぐるユングと反グノーシス主義のエミリィの対立に、エミリィとトリュープのライバル関係が大いに火をつけた。

要するに、エミリィの路線をさらに過激にした主張でトリュープがユングに対抗し始め、自分が会長を務めていたこともあり「心理学クラブ」からユングとヴォルフを追放したのである。

1年半後にトリュープが辞任したことで騒動は解決したものの、エミリィにも責任の一端があったので、ユングとの関係は若干冷え込みつつあった。

1922年10月、かつての講演録の出版のために、エミリィが定義のセクションを書き始めたのだが、そこでも引き続きオカルティズムはセム的な起源を持つという反ユダヤ主義とそれへの攻撃をエミリィはぶちまけた。要するに、今ユングが向かおうとしているグノーシス主義は、ユダヤ的なのでやめようと言い始めているのである。

イリインとの疎遠化

その傍らで、ユングと敵対したトリュープ夫妻は、かつての縁故から危機的な状況を何とかしようとベルリンでニコライ・アンナ夫妻を訪れた。そこで、夫妻はイリインを紹介したらしい。加えて、トリュープはこのベルリンでの生活中にマルティン・ブーバーに出会い、その弟子となったらしい。

この結果、トリュープはイリインやブーバーを心理学クラブに招くほどになる。これらの結果、イリインは自分と距離を置くエミリィよりも、トリュープと行動を共にするようになった。

アメリカでのエミリィ

しかし、イリインらが心理学クラブで講演を行っていた9月に、エミリィはアメリカにいた。そこで、本来エミリィが予定されていたマコーミックの秘書の地位を奪った建築家・エドヴィン・クレンに、マコーミックが振り回されていたのを見てしまう。

つまり、クレンはマコーミックを資金源に、壮大で非現実的なプロジェクトを試みていたらしい。エミリィはクレンをある種「冒険家」だとみなしていたが、アンナにあてた手紙で自分自身もいまだにマコーミックを利用したエゴイスティックな意図を持っていることは赤裸々に描いている。

要するに、クレンとは一種の自分の写身となっており、いまだにエミリィはマコーミックからのアメリカ行きの誘いを断ったのを引きずっていそうだった。

ファシストとしての最期

ファシズムへの共感の始まり

そんなアメリカで、エミリィはアンナに対し、未来は破滅に向かうか、ムッソリーニの覇権を許すかのどちらかだと述べている。これまでノンポリだったエミリィが、急に政治に興味を持ち始めたのである。

この理由は、おそらく精神分析を通して若干外交的な性格に代わったことと、イタリアのファシズムが芸術を志向していると考えたためである。この頃から、エミリィはファシズムを議会主義やボリシェヴィズムへの防衛策と考え始めたのである。

また、帰る途中のニューヨークでラフマニノフとエミリィは出会った。ラフマニノフはシャギニャンとの手紙は続けていたので、シャギニャンがエミリィから何の連絡もないことを不満に思っていると明かした。

皮肉なことに、ドイツには独裁者が必要だとエミリィが発言した3週間後には、チェンバレンがアドルフ・ヒトラーを訪れ、未来のドイツの救世主と宣言するあの逸話が起きた。また、ヒトラーが『我が闘争』を書き始めた直前には、エミリィが心理学クラブの会員を対象にし、ムサゲートの刻印を押した、反ユダヤ主義も交えた直観に関する講演録の著書を発行した。

要するに、ヒトラーの思想はエミリィがファシズムに感化されたのと、同時代的な現象とも言えるのである。

1924年5月にはエーミール・ルートヴィヒのナポレオン論や、ゲーオア・ブランデスのカエサル論を呼んだらしい。エミリィはナポレオンやカエサルへのあこがれをニコライに吐露し、ニコライやアンナもこのシンパシーを共有していたらしい。

一方、ここでニコライとアンナは、マコーミックやラフマニノフの援助でアメリカツアーに出かけた。さらに、1925年にヨーロッパに戻ってくるとフランスに腰を落ち着けた。

ムッソリーニへの傾倒

エミリィは1925年になるとスージー・トリュープとの関係を終えたらしい。エミリィはユングのロシア語版の序文のみならず、フランス語版の監修も引き受けていたものの、心理学から離れたいと考え始めた。

この中で、ムッソリーニに自分の理想を見出すようになった。ユングの友人アドルフ・ケラーがムッソリーニを本当は内気な人物であると評したのにも影響されたのか、エミリィはムッソリーニの顔をナポレオンに似ていると衝撃を受けたらしい。年末には、ニコライとアンナに、ナポレオンとムッソリーニがいかに似ているかを語る手紙を送っている。

この頃から急に、ニコライとアンナにエミリィはナポレオンもゲーテと同じくらい大事だと主張し始めた。先程出てきたケラーが11年くらい前にエミリィの顔立ちを軍人・バルトロメーオ・コッレオーニのようだといったことや、ワルシャツカの分析でナポレオンとの親近性があるといったことが思い出されたのかもしれない。

ここで、エミリィにとってユングのポジションがある程度ムッソリーニにスライドし始めたようである。エミリィは次第にユングの蔑称をも用いて、ムッソリーニを讃え始めた。

一方、エミリィは当面外交性をさらに発展させようと努めたらしい。しかし、しばらく接近しようとした英語教師のフローレンス・ホプキンスとの交流は、彼女がユングに近づきすぎて失敗したらしい。

なお、ここでLjunggrenは、エミリィが心理学クラブの舞踏会で初めて着たメフィストフェレスの衣装などで、チューリッヒの仮面舞踏会にエミリィが参加していたことを、おそらく意図的に挿入している。

ヘルマン・ヘッセがユングの下での治療を基にした『荒野のおおかみ』を発表したり、ベールイが『モスクワ』を発表したりした1925~1927年ごろは、あまりLjunggrenはエミリィに関する具体的なエピソードを書き残していない。せいぜい、ヴァチェスラフ・イヴァノフとの再会を書いているくらいである。

心理学クラブへの復帰

マコーミックが次第にエミリィへの翻訳プロジェクトの給料の支払いを滞らせつつあった結果、エミリィが愛憎合わさった感情を次第に彼女に抱き始めたらしい。ついには、1927年にもうユングの翻訳プロジェクトに報酬を支払う気がないと察し、ユングの仲裁はあったもののエミリィはフランス語訳の監修から手を引いた。

なお、Ljunggrenは、かつてジェイムズ・ジョイスにマコーミックが経済的援助をやめたのは、エミリィへの傾倒がきっかけであることをにおわせており、今回はその再演に過ぎないとする。騒動の原因は、あくまでも彼女の気まぐれな性格に帰しているのである。

一方で、ユングとトリュープとの和解に伴って、エミリィもユングと和解したらしく、心理学クラブでの活動を再開している。1927年5月に心理学クラブでエミリィは、ゲーテの芸術論をバッハとベートーヴェンに関連付ける講演をしている。

11月になると、ヘルマン・カイザーリンクのチューリッヒ訪問に伴い、ユング家にもエミリィは招かれた。カイザーリンクはダルムシュタットに創設した「知恵の学校」での活動も象徴的なとおり、東洋と西洋の統合を目指していたような人々である。

カイザーリンクはカール・メトネルやウランゲルと同様のバルト系ロシア人であり、ウランゲルと同じくチェンバレンに近しい人物であった。ユングは、カイザーリンクを貴族的で傲慢な人物だと思い、エミリィが仲介役になると考えていたらしい。

とはいえ、マコーミックからの資金援助が無くなり、ロシア語分もついに翻訳プロジェクトは中止した。エミリィは心理学クラブの司書くらいしか資金源が無くなり、チューリッヒの下宿の小さい部屋で暮らすようになった。

しかし、1927年~1928年はユングは『自我と無意識の関係』や「心的エネルギー論について」などを発表し続けており、エミリィが後世自分との対話もこれらの著作で引き続き使われているとみなすなど、和解によって両者の関係は元に戻りつつあった。こうした流れで1928年3月にエミリィは心理学クラブの会長に指名されるが、エミリィは辞退してヴォルフに任せた。

ユングはエミリィとの関係を明らかに回復させたがっており、「塔」にもしばしば招いた。

1929年5月、エミリィはニコライに、ドイツで「神話的な世界理解」がひそかに高まりつつあるとみなす手紙を送っている。その根拠として彼は、ニーチェやヘルダーリンの盛り上がりを挙げている。

1929年秋、ニコライ夫妻が渡米すると、彼らの家にエミリィがしばらく住むことになった。

エミリィはチューリッヒから離れられると喜んでおり、パリに向かいながらナタリア・ポッツォ、ニコライ・ベルジャーエフ、セルゲイ・ブルガーコフ、ヴァチェスラフ・イヴァノフらに会った。特に、ヴァチェスラフ・イヴァノフはユングと同じように、エミリィも回顧録を書くべきだと勧めたらしい。

精神分析家・エミリィ・メトネル

エミリィがパリ滞在中に、ベルリンの新ムサゲートから、かろうじて出来上がっていたユングの『心理学的類型』のロシア語訳が出版された。序文でエミリィは、ユングの思想とムサゲートで続けてきた象徴主義の思想の親和性を説きつつも、この本の売れ行きで翻訳プロジェクトの今後が決まると説いていた。

1930年4月、エミリィはチェンバレンの死後に刊行された書簡集を読んだ。おそらく確実に、ここでチェンバレンが送ったヒトラーへの手紙も読んでおり、ニコライにチェンバレンのドイツ愛を書き送っている。さらにチューリッヒでのワーグナーのコンサートをしばらく見ていると、ワーグナー的な価値観への関心が高まっているともニコライに送っている。

11月下旬には、ヴァチェスラフ・イヴァノフが1909年に書いた論文のドイツ語訳の書評を書いたが、これは論考をユング派的に解釈したものである。ヴァチェスラフ・イヴァノフはこれに気を良くし、1916年に書いた精神分析的な詩をエミリィにおくっている。

この年の末、エミリィは弟・ニコライの夢を一端の精神分析家らしく解釈したらしい。ニコライは、ロシアでペストに似た疫病が猛威を振るってる中、アレクサンドル3世とウラジーミル・レーニンが姿を現す夢を見たとする。エミリィは、子供時代にロシアを支配していた皇帝とレーニンがニコライの両極にあるとし、アレクサンドル3世を意識の、レーニンを無意識の語り手としている。そして、ニコライはそれぞれの両極端を、自我と同じ条件で受け入れなければならず、それを経ることで自我が両極を利用できるようになり、君主制からの脱却とファシストの反乱を達成できたムッソリーニのように新しいシンボルをも生み出せるのだ、と分析したのである。

この弟の夢の精神分析からもわかる通り、エミリィはムッソリーニのファシズムとユングの分析心理学を融合させようとした。エミリィは1931年の正月のムッソリーニのあいさつ動画を見ると、ニコライにムッソリーニを「国家の芸術家」と評する手紙をも送っている。

1931年1月、カイザーリンクがまたユングのもとを訪れた。昼食中にユングの家でエミリィとカイザーリンクが話している中で、カイザーリンクがエミリィから引き出そうとしたボリシェヴィキとアメリカの類似点に考え方が、急速にエミリィに魅力的に映り始めた。

また、この頃からエミリィは、急にキェルケゴールに再び関心を持ち始めた。しかし、ユングとのキェルケゴールに関する議論は、ユングが「どちらか一方」という過程を受け入れられなかったこと、「内的本性の経験主義者」という立場のユングはキェルケゴールの存在論を「アニマにあるもの」以外のものとして理解できなかった点などで、平行線をたどったらしい。

ここに、エミリィとユングが結局分かり合えず、その差が広がっていたことを、Ljunggrenは指摘している。

おまけに、マコーミックは司書としてのエミリィの給料の支払いまでも滞らせ始めた。この結果、ユングはエミリィに、少しずつ精神分析家としてセラピーを行い、それで生計を立てることを勧めた。

ここで、最初の患者の一人に、知識人でファシズムへの共感を示していたアドルフ・ヴァイツゼッカーがいたことで、エミリィはやる気が出たらしい。しかし、結局うまくいかなかった翻訳プロジェクトが、本当の使命から自分を奪った恨みつらみを、アンナには書き送っている。

ようやくチューリッヒの市民権をエミリィは得たのだが、ヴァチェスラフ・イヴァノフの勧める回顧録の執筆のために、ユングとの関係を断ちチューリッヒから離れることを夢見始めていた。特に暗黒の木曜日以降の経済危機を、自分と関連付けて悲観視し始めていた。

エミリィの新しい友人

1931年6月、ユングの家でヤコブ・ヴィルヘルム・ハウアーと出会った。シュタイナーに批判的な彼は、エミリィのゲーテ論も評価し、エミリィはユングよりもハウアーを身近に感じていたらしい。

8月にラフマニノフが訪れると、エミリィは歳を経たこともあり、最も自分を理解してくれる客だとラフマニノフをみなしたらしい。このときマコーミックなどピストルで脅してしまえなどと、あのラフマニノフが冗談を言える間柄になったらしい。また、ラフマニノフは『モダニズムと音楽』を再び読ませてほしいと述べ、今のニコライとの見解の一致に驚いたらしい。ラフマニノフは、この本が『シオンの議定書』のような珍品になったことを残念に思い、新版の出版も考えていたようだ。

ただし、確かにラフマニノフにも差別主義の側面がなかったわけではないのだが、エミリィの人種差別の激しさに衝撃を受けたらしい。

しかし、1年ほど関係を持っていたオランダ系ユダヤ人女性、ヘティ・ヘイマンがうつ病の末に自殺したらしい。エミリィはウォルフに警告されていたにもかかわらず、アンナに似た彼女に惹かれたらしい。そして、ユングも同様に惹かれ、彼女との愛をめぐってユングと競い合ったのだとエミリィは思っていた。エミリィは自殺を考えていく中で、自殺した彼女に次第に執着していくようになる。

ヒトラーとヒンデンブルク

エミリィは、おそらくこの頃からアドルフ・ヒトラーに関心を抱いた。そして、1932年のヒトラーとヒンデンブルクの選挙の前夜、エミリィはユングにヒトラーの写真を送り、分析してほしいと依頼した。

ユングは、ヒトラーを人相学的に魅力的だとみなしたらしい。しかし、これはエミリィには期待外れだった。アンナとニコライには、「もっとも偉大なカント主義者」であるヒンデンブルクを讃え、ヒトラーに懐疑的な気持ちを書き送っている。

Ljunggrenの中で、ある種ヒトラーの同時代人としてエミリィは描かれてきたが、彼がムッソリーニの代わりをドイツで遂行すると思っていたのは、この時点ではヒンデンブルクの方だったのである。

ロシアのメフィストフェレス

選挙後の3月22日、エミリィとヴォルフはゲーテ没後100年を記念する講演会を開いた。その講演で、ゲーテの秘密を説明できるのは、分析心理学だとし、ゲーテ主義とユング主義が今後も相互的に豊かになっていくことの期待を述べた。一方で、相変わらずゲーテを利用して自らの教義を広めようとするオカルティズムを批判した。

Ljunggrenはここでようやく伏線を回収するのだが、エミリィはこの講演で自分自身をメフィストフェレス、自分のアニマを『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』のミニョンだとみなしているようである。つまり、彼はニコライやベールイ、ユングといったファウスト博士を操る、メフィストフェレスになりたいのだとしているのである。

しかし、患者も碌におらず、マコーミックからの連絡もないため、エミリィは貯金を崩して生活しており、もはやなにも生み出せなかった。エミリィはアンナに、ドストエフスキーが正しかったのだと、ようやく認めた手紙を送った。

ラフマニノフとの対話

また、ラフマニノフが『モダニズムと音楽』の新装版を出そうという試みに、エミリィは手紙を出したらしい。エミリィ自身は、この本以降20年近く芸術を放棄したために、ニコライが「ヴォリフィング」になり、自分になり替わってしまったのだとしているのである。結果、エミリィは自分よりもニコライに考えを活字化させ、それをラフマニノフが支えるべきだとしたのである。

エミリィがラフマニノフと打ち合わせをしていく中で、リヒャルト・シュトラウスはモダニズム側じゃないだの、リストに対してそんな考えは受け入れられないだのをラフマニノフが表明した結果、ちょっとしたいさかいはあったらしい。しかし、世界恐慌もあって、悲劇的な流浪と深い悲観はお互いに持っているのだと分かち合い、ラフマニノフが「私たちの人生は邪悪の杯だ」と言うほど、親しくなったようだ。

ヒトラーの躍進

エミリィはマコーミックを訴える準備をしており、ユングもそれを支援したのだが、マコーミックは死んだ。結局、マコーミックの遺産も浪費つくされ、エミリィの経済的援助の望みは絶たれた。

1932年10月、ヤコブ・ヴィルヘルム・ハウアー、ハインリヒ・ツィマーらとユングの夕食会に出席した。ハウアーはユングへの懸念を述べたが、それはエミリィも共有していた。

1933年1月31日、ヒンデンブルクはヒトラーを首相に任命した。この翌日、ユングはエミリィにオリゲネスの『ケルソス駁論』を今読んでいることを述べた。また、プロティノスやプロクロスを経て、ヘーゲルやマルクスに至る類似性を見出そうとしているとも述べた。

これはかつてエミリィが直観に関する講義で追った道筋であり、要するにユングはヒトラーの台頭をユダヤ的なボリシェヴィズムへの反動だとみなしていたとされている。

しかし、この頃まだエミリィはヒトラーにムッソリーニほどの天才性を見出すのを留保していた。むしろ「大衆を支配する途方もない力」を持つ「悪魔的」人物だという別枠とみなしていた。

ヒトラーへの傾倒

ところが、ナチスの芸術に対する粛清が始まると、評価は一変する。特に、ユダヤ人指揮者ブルーノ・ワルターの解任は、エミリィに「決定的な浄化が始まった」という勝利宣言をさせた。エミリィの芸術観は変わっておらず、ラフマニノフがワルターを擁護すると動揺すらしたのである。

エミリィはどんどんナチスドイツから言葉を借用し、ヒトラーの演説をアンナとニコライに送っていた。この交流の中で、アンナに至っては、ユダヤ人として血筋を否定し、ヒトラーの反ユダヤ主義を受け入れ、ファシズムへのリベラルの鳥頭たちの抵抗に苛立ちすら覚えていたらしい。

ニコライもまた、エミリィから反モダニズムの著書の出版計画を応援されている。この中で、エミリィはあのシェーンベルクが教授職から追い出されたことに安堵すら伝えている。

さらに、エルンスト・クレッチマーがユダヤ人排除に抗議した結果ユングに辞めさせられると、エミリィはユングから「塔」に招かれたらしい。2人の話題は、「革命」とチュートン主義に関するものだと、Ljunggrenは推測している。

また6月26日、ユングは、エミリィのかつての患者で、現在はマティアス・ハインリヒ・ゲーリングの下で精神分析を担っているナチス党員のアドルフ・ヴァイツゼッカーからインタビューを受けた。このインタビューでヴァイツゼッカーは、ユダヤ人のフロイトやアドラーと異なり、ユングの心理学はドイツ精神と親近性を持っているとしたが、ユングもまたこれに喜ばしいようであった。

その数週間後、ヤコブ・ヴィルヘルム・ハウアーが「アーリア人」信仰を形成させようとする、「ドイツ信仰運動」も開始している。

エミリィと女性の最終幕

こうしてドイツに引き寄せられたエミリィは、唐突にヘドヴィヒ・フリードリヒと関係を再開させたらしい。エミリィは、ヴァイツゼッカーのようになれるかもしれないと、ヘドヴィヒ・フリードリヒに打ち明けている。

ここで、エミリィはヒトラーと融合したかのようにふるまったらしい。というか、エミリィがずっと抱いてきた理想的存在こそが、ヒトラーだったとLjunggrenはしているのである。

なお、ここでシャギニャンが、エミリィとヒトラーのようにスターリンを崇拝していたことを、Ljunggrenは寓話として挿入している。また、ルートヴィヒ・ビンスワンガーの下で、精神分析も受けたらしい。

ユングとエミリィの最後の安定期

ユングが国際医学会長に取り立てられると、ユングの指揮下で会報の編集をエミリィが担い始めた。しかし、1934年2月、グスタフ・バリーからユングはただマティアス・ハインリヒ・ゲーリングの言いなりなのではという疑惑を受けられて批判された。こうした批判は、ユングやエミリィがアーリア人とユダヤ人は区別できるし、国際的な学会はユダヤ人に支配されているという思い込みをより強めたとLjunggrenはしている。

やがて、ユングはアーリア人とセム人の精神の違いを論文で述べた。ここでのユングの反ユダヤ主義は、ある種非常にエミリィに近しく、Ljunggrenはかつてベールイに行ったのと同じように、ユングをエミリィが教化したのではないかとしている。

ヒトラーが突撃隊を「長いナイフの夜」で粛清した直後に、エミリィはドイツのピルニッツに到着した。8月2日のヒンデンブルクの国葬で、エミリィはその圧巻の演出に感銘を受けた。しかし、軍の指揮をもヒトラーが担いだし始めた結果、エミリィはドイツをワーグナー劇のように解釈する傾向が強まった。

1934年10月、エミリィはチューリッヒでの仕事のためにスイスに戻った。ヴォルフの発案で、ユング60歳の誕生日の祝典の準備を一部担うことになったのである。あくまでも名誉職だったものの、ここで支払われた記念論文などの報酬で、かつて負わされた借金の一部を支払うことができた。

ここで、参加したのは、ハウアーやツィンマー、リュシアン・レヴィ=ブリュール、ボリス・ヴィシェスラフツェフ、ハンス・トリュープなどの各界の人々であった。

帰宅中、オーストリアのナチスのシンパの小説家・ミルコ・イェルシッヒの『カエサル』を読んでいたらしい。ここで、エミリィは、ニコライにカエサルに関する交響詩を作るように勧めた。また、ファシストの鐘がなるだろうとエミリィはニコライに言った。

「空っぽの穴」

スイスに帰ると、エミリィはヒトラーへの恋しさや、高く狭い賃貸を見て独裁者の「拳」が必要だと述べた。自分の人生という「空っぽの穴」に向き合っているとニコライに伝えたエミリィだったが、ニコライも慢性的なうつ状態から、自分も同じ「穴」にいると添えた。

ここで、ニコライがようやく『ミューズとファッション』を完成させた。ラフマニノフはその反モダニズム的性格に満足し、出版させた。

一方で、エミリィは、ユングが東西をテーマにした文化的議論を行っていることに満足していたらしい。しかし、1935年1月のユングへの再訪問は失敗に終わった。中世の錬金術にエミリィが無関心であるとも気づかず、ユングはエミリィに長々と退屈な話をしたのである。

おまけにユングは錬金術に関する文献目録を作らないかとエミリィを誘い、エミリィの地雷を踏んだ。エミリィはかつてのベールイとの断交の再演が近づいているのだと感じていた。

このため、エミリィはユングにかなり矛盾した感情を隠しながら記念論文を書くというストレスを与え、自分が責任者の一端を担っている60歳祝いのレセプションの運営は「吐き気を催させた」と語らせた。結果、これまでのユング心理学との付き合いは失敗であるとアンナに打ち明け始めた。

この怒りのあまり、レセプションには出たものの、ユングに会うことはできなかったらしい。

発狂の末の最期

ついに、エミリィはヘドヴィヒ・フリードリヒに再びすがり始めた。ヘドヴィヒ・フリードリヒの下にいるときに、アンナに対して半年前にベールイを殺した硬化症に苦しんでいると手紙を送っている。

1935年秋、チューリッヒに戻ると、エミリィはニコライに38ページの長い手紙を送り、人生の無駄だった20年間を嘆き、残されたのは死だけだとした。ユングに失望したエミリィは、すべてに絶望したのである。

1936年3月、ヒトラーがラインラントに進駐し、フランスに抗議されると、フランス文化への憎悪がエミリィに沸き起こった。自分とヒトラーが、さながらヴォータンのように敵対者によって死の入り口に追い込まれていると述べた。

4月、別れを惜しむかのように、ロンドンでニコライとアンナを訪ねた。その後ボヘミアの温泉に入りに行き、数週間過ごした後ピルニッツに向かったが7月にめまいで重病になり、地元の精神科に入院した。

エミリィは退行した状態で支離滅裂に過去のことばかりを語り、現在を理解できないまま1936年7月11日に亡くなった。

ユングは、その後もヒトラーなどと歩みをそろえたが、回顧録でヴォルフにすら謝辞を述べない性格から、エミリィのことはまるっきり無視された。

Ljunggrenは、エミリィという人間の運命は、2人のヨーロッパ文化の偉大な代表者に利用されることであったとしている。ベールイとユングの仲介者であったのがエミリィだったのだが、そのことがベールイとユングになんらかの共通性があったのだと、Ljunggrenはみなしている。

脚注

  1. 高橋健一郎訳によってニコライ・メトネルに関する箇所は読める ↩︎
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