ニコライ・メトネル年表
2023.08.28
読んで字のごとく、ニコライ・メトネルに関するできごとが何年何月何日に起きたかをまとめていく。
なるべくグレゴリオ暦で統一したつもりだが、一部混在している可能性はある。
ロシア時代(1880年~1921年)
年月日 | 出来事 |
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1880年1月5日 | 誕生 |
1894年12月7日 | ベートーヴェンピアノ協奏曲第3番で演奏会デビュー |
1900年2月6日 | ヨーゼフ・ホフマンの来露 |
1900年5月29日 | 卒業コンサート |
1900年8月28日頃 | 第3回アントン・ルビンシテイン国際コンクール |
1900年9月6日頃 | ティロルで余暇 |
1900年10月24日 | モスクワでアントン・ルビンシテインのピアノ協奏曲演奏 |
1900年11月22日 | サンクトペテルブルクでアントン・ルビンシテインのピアノ協奏曲演奏 |
1902年10月25日 | エミリィとアンナが結婚 |
1902年12月6日 | ラフマニノフとともにヨーゼフ・ホフマンとの会談 |
1902年12月13日 | モスクワでアルトゥール・ニキシュの指揮の下チャイコフスキーのピアノ協奏曲を演奏 |
1903年1月19日 | モスクワでラフマニノフ『楽興の時』第3番ホ短調、リムスキー=コルサコフ『ノベレッテ』、自作の『音の絵』のラスト3曲を演奏 |
1903年3月26日 | ベートーヴェンピアノソナタ第7番ニ長調、シューマンピアノソナタ第3番ヘ短調などのリサイタル |
1903年11月15日 | いとこのアレクサンドル・ゲディケが交響曲第1番を発表 |
1904年11月2日 | 自分のピアノソナタ第1番を初演、他にはベートーヴェンのワルトシュタインやピアノソナタ第27番など |
1905年1月22日 | 血の日曜日事件 |
1905年9月5日 | ポーツマス条約で日露戦争終結 |
1906年11月7日 | 3部作ピアノソナタの初演 |
1906年12月19日 | マックス・レーガーやリヒャルト・シュトラウスを酷評する手紙が残る |
1907年10月29日 | ベルリンでコンサート |
1908年3月8日 | ポリーナ・ドベールとのコンサート |
1908年11月25日 | モスクワ音楽院の小ホールでコンサート |
1909年1月27日 | モスクワ音楽院で自作曲のリサイタル |
1909年10月19日 | アレクサンドル夫妻とコンサートをする |
1910年3月31日 | モスクワの貴族会館でコンサートをする |
1910年12月8日 | メンゲルベルクとのいさかいが始まる |
1911年2月20日 | クーセヴィツキーの室内楽のコンサートに加わる |
1911年12月21日 | 『夜の風』を完成させる |
1912年5月8日 | ラフマニノフがメトネルと交流することの不安をシャギニャンに吐露する |
1913年1月21日 | ペテルブルクでリサイタルを行う |
1913年1月23日 | カラトゥイギンから音楽性を批判される |
1913年1月26日 | ミャスコフスキーがプロコフィエフにメトネルの『夜の風』の称賛を送る |
1913年2月9日 | モスクワでリサイタルを行う |
1913年3月2日 | カラトゥイギンの批判に対しミャスコフスキーから擁護される |
1913年6月14日 | シャギニャンにラフマニノフとの交流を報告する |
1913年11月30日 | ラフマニノフの『鐘』の初演 |
1914年2月8日 | ラフマニノフの『鐘』がモスクワで演奏 |
1914年3月2日 | モスクワ音楽院からスタンチンスキーが注目株の作曲家の一人として紹介される |
1914年7月28日 | 第一次世界大戦開戦 |
1914年8月1日 | ロシアのドイツへの宣戦布告 |
1914年8月28日 | アナトーリ・リャードフの死 |
1914年10月6日 | アレクセイ・スタンチンスキーの死 |
1915年2月20日 | モスクワでリサイタル |
1915年4月27日 | アレクサンドル・スクリャービンの死 |
1915年6月19日 | スクリャービンの葬儀後風邪をこじらせ、セルゲイ・タネーエフが死亡 |
1916年10月24日 | コシェッツらとコンサート |
1917年1月25日 | ペトログラードを離れる |
1917年1月30日 | モスクワでリサイタル |
1917年2月5日 | プロコフィエフのスキタイ組曲を聴く |
1917年2月21日 | ポリテクニック博物館でおとぎ話を演奏 |
1917年3月12日 | 二月革命 |
1917年11月7日 | 十月革命 |
1917年12月22日 | ラフマニノフの亡命 |
1918年2月ごろ | 革命政府にカールが捕まっていたことが分かり、釈放の交渉を行う |
1918年3月26日 | 母親アレクサンドラの死 |
1918年5月12日 | ピアノ協奏曲第1番の初演 |
1918年12月24日 | クーセヴィツキ-とピアノ協奏曲第1番を演奏 |
1919年6月21日 | アンナと結婚する |
1920年3月ごろ | カールの戦死を聞く |
1920年6月20日 | エミリィとの連絡が回復する |
1921年9月10日 | モスクワを出発 |
1921年10月26日 | ドイツのVISAが手に入り出国 |
ドイツ時代(1921年~1925年)
年月日 | 出来事 |
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1921年11月1日 | シュテッティン到着 |
1921年12月22日 | エミリィと再会 |
1922年1月1日 | エミリィらとドレスデンへ旅行 |
1922年4月10日 | ベルリンでリサイタル |
1922年4月22日 | ベルリンでリサイタル |
1922年6月9日 | ラフマニノフと再会 |
1922年12月3日 | ユーリー・ポメランツェフとピアノ協奏曲第1番を演奏 |
1923年1月12日 | シュレーカー、ブゾーニ、シェーンベルクら現在のドイツの楽壇を批判する手紙をゴリデンヴェイゼルに送る |
1923年1月25日 | ヴァイオリン曲を中心としたリサイタルを行う |
1923年2月25日 | アレクサンドルがツアーで訪独し、再会 |
1924年3月31日 | イタリア旅行 |
1924年5月13日 | ラフマニノフ家とともにチューリッヒに |
1924年8月6日 | ヴァイオリンソナタ第2番を完成させたとゴリデンヴェイゼルに知らせる |
1924年9月27日 | エミリィやコニュス家、ヴェーラらと送別会を行う |
1924年10月9日 | アメリカ到着 |
1924年10月31日 | フィラデルフィア音楽院で演奏を行う |
1924年11月13日 | ニューヨークタウンホールでリサイタルが行われる |
1925年1月5日 | ニューヨークのボヘミアンクラブでメトネルのレセプションが行われる |
フランス時代(1925年~1935年)
年月日 | 出来事 |
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1925年4月1日 | ヨーロッパに戻り、ドイツではなくパリで暮らし始める |
1925年4月27日 | ソフィヤにロシアに帰りたい手紙を送る |
1927年1月20日 | ピアノ協奏曲第2番を完成させる |
1927年2月6日 | ソ連ツアーに向けてフランスを離れる |
1927年2月18日 | モスクワ音楽院でリサイタル |
1927年3月4日 | メトネルのコンサートにプロコフィエフを見かける |
1927年3月13日 | アレクサンドルとピアノ協奏曲第2番をモスクワ音楽院で演奏 |
1927年3月19日 | パリへの帰還を宣言 |
1927年9月10日 | ラフマニノフにパリの新居についての手紙を送る |
1928年2月11日 | ロンドンへのツアーを開始 |
1928年2月27日 | BBCでコンサート |
1928年5月28日 | ラフマニノフがソフィア・サーチナにアンナ・メトネルの病気を知らせる |
1928年11月1日 | クイーンズホールでコンサート |
1928年11月22日 | マンチェスターでコンサート |
1928年11月24日 | イギリスの国立音楽院でコンサート |
1928年11月25日 | パリに戻る |
1929年9月28日 | アメリカへのツアーを開始 |
1929年10月24日 | 暗黒の木曜日事件によって世界恐慌が開始 |
1930年1月9日 | トロントでコンサート |
1930年1月20日 | ニューヨークタウンホールでリサイタル |
1930年2月12日 | アメリカからイギリスへ移動 |
1930年3月20日 | エオリアンホールでコンサート |
1931年2月3日 | イギリスツアーを開始 |
1932年3月2日 | エコールノルマルでロシア人向けコンサート |
1932年11月9日 | エコールノルマルで2回目のリサイタル |
1933年1月3日 | バルト三国ツアーを終えフランスに帰国 |
1933年10月29日 | 熱情ソナタなどのリサイタル |
1933年12月7日 | ソ連へのVISAを申請する |
1933年12月11日 | ソ連に行くために一度フランスを離れる |
1934年12月8日 | コロンヌホールでベートーヴェンピアノ協奏曲第4番を演奏 |
1935年10月8日 | イギリスへの移住のためパリを去る |
イギリス時代(1935年~1951年)
年月日 | 出来事 |
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1936年2月19日 | エオリアンホールで最初のリサイタル |
1936年3月25日 | エオリアンホールでリサイタル |
1936年7月11日 | 兄エミリィの死 |
1937年2月13日 | ウィグモアホールでプーシキンにちなんだコンサートに参加 |
1937年3月9日 | BBCでヴァイオリンソナタト長調を披露 |
1939年2月10日 | ヴァイオリンソナタ第3番披露 |
1939年9月1日 | ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦開始 |
1942年9月29日 | バーミンガムタウンホールでコンサート |
1943年3月28日 | ラフマニノフ死亡 |
1943年4月20日 | 疎開を終えロンドンへ帰還 |
1943年11月12日 | ナショナルギャラリーでリサイタル |
1944年2月19日 | ロイヤルアルバートホールでピアノ協奏曲第3番初演 |
1944年6月5日 | ロイヤルアルバートホールでピアノ協奏曲第3番の2回目の演奏 |
1946年1月1日 | アーサー・アレクサンダーとコンサートを行う |
1946年6月2日 | 最後のコンサート |
1946年11月19日 | ジャヤ・チャーマラージャ・ワディヤールから援助の申し出の手紙が出される |
1946年11月24日 | HMVとのレコーディングが始まる |
1947年3月19日 | メトネル協会によって最初のレコーディングが行われる |
1948年11月23日 | 心臓の痛みを訴える |
1949年11月3日 | レコーディングに備えエオリアンカルテットと練習 |
1949年11月5日 | レコーディングに備えエオリアンカルテットと練習 |
1949年11月7日 | レコーディングに備えエオリアンカルテットと練習 |
1949年11月23日 | ヨーゼフ・マルクスからの手紙 |
1950年1月26日 | ウィグモアホールで70歳を記念したエドナ・アイルズなどのコンサート |
1950年3月11日 | エオリアンカルテットらとBBCでピアノ五重奏曲をレコーディング |
1950年10月16日 | シュワルツコップとレコーディング |
1950年11月14日 | シュワルツコップとレコーディング |
1951年10月31日 | 最後にピアノの前に座った日 |
1951年11月13日 | 死亡 |