ニコライ・メトネルとは何らかの経緯でライバル関係であったと言える人物に関するページである。
ロシア圏
アレクサンドル・スクリャービン
セルゲイ・プロコフィエフ
イーゴリ・ストラヴィンスキー
レオニード・サバネーエフ
アルトゥール・ルリエ―
アナトーリー・アレクサンドロフ
他地域
マックス・レーガー
リヒャルト・シュトラウス
フェルッチョ・ブゾーニ
1866年4月1日~1924年7月27日
ドイツを代表する新古典主義の第一人物。当時としては相当有力な存在なのだが、正直今となっては有名な世代と有名な世代の橋渡し役扱いをされている、若干不遇な存在の一人。
クラリネット奏者のフェルディナンド・ブゾーニと、ピアニストのアンナ・ブゾーニ(旧姓ヴァイス)の間に生まれたドイツ系イタリア人。8歳にならないうちに演奏会を開くほどの神童扱いをされ、エドゥアルト・ハンスリックからもワーグナーへの当てつけめいた好評を10歳の頃にされている。
1876年に家族でグラーツに移った後、ヴィルヘルム・マイヤーの下で作曲活動をはじめ、ジャコモ・レオパルディの『村の土曜日』を1883年までにオラトリオ化するなど、早熟っぷりを見せる。さらに北に向かい、カール・ゴルトマルクやブラームスの知己を得、1886年にブラームスの勧めで、カール・ライネッケに会いにライプツィヒにさらに移動する。そこではチャイコフスキー、グリーグ、シンディング、マーラー、ディーリアスといったそうそうたるメンツと知り合いになった。
以後同地で大バッハの作品の校訂や編曲を行い、そのあまりにもユニークなアレンジは論議を呼んだ。リーマンの推薦でヘルシンキに移った後、モスクワに移り結婚。ただし、モスクワ音楽院の教授の地位を捨てて、ピアニストとしてアメリカに向かった。
1894年にベルリンに腰を落ち着け、以後第一次世界大戦期を除いて同地で生涯を過ごす。この後も、多くの後期ロマン主義~近代音楽の初演に指揮者として携わり、前衛的な『新音楽美学試論』を出版した際に保守派のプフィッツナーとの論争を招く。また、『トゥーランドット』、『嫁選び』、『アルレッキーノ』、『ファウスト博士』などの劇音楽を作っていった。
作風としては一般的には新古典主義に属すると言われ、演奏技術としてはリストの延長線上にありながらも、ロマン主義的な標題音楽ではなく、バッハとモーツァルトの徹底的研究という過去の音楽性への回帰をもくろんだ。
作曲活動は主にピアノを中心に行われており、バッハのオルガン作品の編曲や改訂の最早別の曲ともいうべきアレンジっぷりは21世紀になった現代でも賛否両論である。確かにシェーンベルクほどの前衛性には一歩引いた考えは持っていたものの、革新を追究し、コンサートの寵児から一転して晩年はテオフォル・デメトリエスク、フリードリフ・シュナップ、クルト・ヴァイル、フィリップ・ヤルナッハといった一握りの弟子以外の支持を失い孤立したとされている。オペラ作曲家としても、芝居と音楽の融合を目指した、モーツァルト的な志向を目指していった。
メトネルがベルリンに移ったころ、ちょうどブゾーニの人生においては最晩年だったのだが、リヒャルト・シュトラウス、シュレーカー、シェーンベルクやルリエ―といった人物と並べて憎むべき存在とされている。なお、時期的にはメトネルが音楽院に入る以前にモスクワを去っているはずなので、流石にモスクワで会っているわけではないと思われる。
なお、ブゾーニの『新音楽美学』については服部龍太郎や二見孝平によって1920年代に和訳されている。
フランツ・シュレーカー
1878年3月23日~1934年3月21日
戦間期ドイツを代表するオペラ作曲家。
オーストリア生まれで、1892年から1900年までウィーン音楽院で、ロベルト・フックスなどからヴァイオリンと作曲を学ぶ。最初に作った楽曲は弦楽オーケストラとハープのための『ラブソング』だが、手稿譜は行方不明。卒業制作の女声合唱とオーケストラのための『詩編第116番』が注目され、カール・レーヴェに注目された。
以後、カール・レーヴェに楽曲が取り上げられつつも、構想していたオペラ『はるかな響き』を友人からの台本への冷たい反応でいったん置いておくことにした。1906年にはウィーン分離派のクンストシャウのオープニングでバレエ『王女の誕生日』を披露されたことで成功し、この年にはフィルハーモニー合唱団を設立した。
1909年に一部作っていた『はるかな響き』の「夜曲」が好評を得たことで完成に進み始め、1912年にこの作品が成功。一躍スターダムに駆け上がる。次回作である『玩具と姫君』はあまり成功しなかったものの、『刻印された人々』、『宝を掘る人』などのヒットに恵まれ、当時有力なオペラ作曲家の代表的な人物となった。
1920年にウィーンを離れ、ベルリン音楽大学の学長の地位に就く。しかし、以後はこの地位と過去の名声による権威しかなかっためいた扱いを『ニューグローヴ世界音楽大事典』の初版ではされており、それ以降の作品はあまり成功していない扱いをされている。
さらに、ナチスの台頭でユダヤ人だった彼は冷遇され、『クリストフォルス』の初演中止や『ヘントの鍛冶屋』の初演を台無しにされたどころか、1932年には学長職を解かれ、代わって向かったプロイセン芸術アカデミーの作曲のマスタークラスも1933年に解任。このショックでか心臓発作を起こし、そのままなくなってしまった。
基本的には『ニューグローヴ世界音楽大事典』初版では、ワーグナーとフランス印象主義の作風の間で綱引きをうまくやっていた前期の楽曲が高く評価されており、新古典主義的な後期作品は時代遅れの人間が無理に最新の流行を取り入れた扱いである。そんな彼はあくまでもアルバン・ベルクへの橋渡しをしたに過ぎない扱いをされており、正直彼が再評価されたのもここ最近であることがうかがえる。
メトネルとの関係は、シュレーカー側はドイツに来たメトネルに好意的に接したのだが、メトネルはシュレーカーの作風を全く受け付けず、ドイツの最近のダメな作曲家の列に彼を加えている。しかし、上記経歴を見ればわかる通り、ベルリンにいたころのシュレーカーは一世代前の旧態然とした作曲家といっても過言ではなく、逆にメトネルがよりどころとする音楽が、どれほど古めかしいかを見て取ることができる。