日本のゴシック・ロック概説

正直一番、動画は公式チャンネルやアートトラックのみ縛りがきつかったのだが、最大限努力はしたつもり。

前置き

1980年代とは、今更言うまでもないことだが、日本は「バンドブーム」の時代と回顧される。そして、その中で、この日本においても、1980年代にポジティブパンク/ポジパンを名乗る、ゴシック・ロックに近いことをやっていた勢力は確かにいた。

のだが、1980年代のロック音楽として名前が挙げられるのは、例えば以下のような面々である。

  • BOØWY1 2
  • サザンオールスターズ3
  • チェッカーズ4 5
  • RCサクセション6 7
  • X JAPAN8
  • REBECCA9
  • 米米CLUB10
  • THE BLUE HEARTS11
ギザギザハートの子守唄
X Japan Kurenai from "The Last Live" HD
JAL沖縄キャンペーン 夏離宮1990 テーマソング 「米米CLUB-浪漫飛行」
【公式】ザ・ブルーハーツ「TRAIN-TRAIN」【3rdシングル(1988/11/23)】THE BLUE HEARTS / TRAIN-TRAIN

上記はあくまでも普通の一般人が思いつく名前であり、いわゆるホコ天やイカ天といった人々は有名どころしか含まれていない。が、そもそも日本におけるポジパンを名乗る勢力は、この辺りの動向にも含まれない、1980年代のロック史におけるかなりのわき役である。

そんな中で、昨今に至るまで、日本でゴシック・ロックをやっているとされる勢力として、高頻度で名前が挙がるのが、おおよそ以下である。

  • AUTO-MOD
  • 「TRANS RECORDS」出身のいわゆるトランス系
  • バブル期以降のBUCK-TICKとそのフォロワー
  • 黒夢など名古屋系

が、結構面倒な問題がある。

第一に、日本においてはゴシック・ロックではなく、イギリスで一瞬プロモーションで使われた言葉である、ポジティブパンク、略してポジパンという、独自のジャンル名を掲げて、アイデンティティを持った。

第二に、『FOOL’S MATE』誌や『DOLL』誌といった拠点となる雑誌なども通して、このポジパンという言葉をアイデンティティにする勢力が、独自にガラパゴスな進化を遂げた。

第3に、MALICE MIZERといったポジパンとは無関係ながらもゴスを定着させる存在や、嶽本野ばらやPEACH-PIT、ALI PROJECT、妖精帝國、Sound Horizonといった具合に憧れは何であれ、『KERA』誌や『ゴシック&ロリータバイブル』誌などを聖典にしている、日本独自のゴシック&ロリィタ勢の存在など、海外とは異なるものの、日本も日本で複雑なセクト展開が起きた。

ということなので、日本において、そもそも原義通りのゴシック・ロックなるものが果たして存在していた瞬間があったのか、から怪しい。おまけに、日本のゴスとは、正直Trad Goth的な音楽とはかなり無縁である。

よって、以下は、かなり無茶な試みなのだが、原義通りのゴシック・ロックとポジパンをある程度区別しつつ、なんとか2010年代以降の展開まで描きたいと思う。

前史

まず、本当に日本のロック史の基本的なところに帰るのだが、1966年のビートルズの来日が、大きな分水嶺となる。もちろんそれ以前もバンドはいたのだが、まずここでグループ・サウンズのブームが起き、一旦しぼむ。

ガール・フレンド
好きさ 好きさ 好きさ
ブルー・シャトウ

そんな中、1970年代初頭に、アメリカ発ともされる、これまでの歌謡曲との親和などからの脱却も図る、「ニュー・ロック」のムーブメントが起きた。

で、この時期にもうカウンター・カルチャーとしてのロックをやるために、イギリスやアメリカの本場から学ぼうとする内田裕也などが出てきたり、『ニュー・ミュージック・マガジン』誌で内田裕也らとはっぴいえんどらによる「日本語でやるロックはロックなのか?」といった「日本語ロック論争」などが起きたりと、いろいろ何でもありの時代が始まってきた。

さらに1972~1973年頃に「ロックンロール・リヴァイヴァル」なども起き、フォークに変わってロックを聴く人も増え、地方発のバンドも多くなってきた。

Time Machine Ni Onegai

で、そんなうちにニューミュージックと呼ばれる、歌謡曲にバンド演奏が加わるといった形で、大衆化が始まる。

Vapor Trail / Hikouki Gumo
おいらぎゃんぐだぞ

こうした中で、Char、原田真二、世良公則&ツイストの「ロック御三家」というアイドル達も出てくる。

タイム・トラベル

一方で、「東京ロッカーズ」などを中心にした反商業のパンク・ロックの動きも始まった。

ザ・スターリン「THE STALIN LAST LIVE 絶賛解散中‼」(DVD)ダイジェスト映像!

また、YMOなどの電子音楽路線も出てきていた。

Yellow Magic Orchestra – “Rydeen“ (Official Music Video)

と、雑に1970年代の日本のロック史を追ってみた。もともとアメリカに占領されていたこともあって、日本には欧米レベルでリアルタイムで新しいロックの動きが入ってきたことが、この10年の間で急速に進化を遂げた要因として、割と大きいように思われる。なので、既に1970年代の時点で、英語でも日本語でも歌っていいだろとか、歌謡曲界に進出するアイドル路線とそれに反発するアンダーグラウンド路線の分極化とかが、起きていた。そして、アンダーグラウンドに属する人々が音楽を披露する場として、ライブハウスなどが徐々にできてきた。

ということなので、一言で言うと、1980年代に多様な音楽性のバンドが登場する土壌が、既にこの10年くらいで出来ていた。そして、そんな中から産声を上げたムーブメントの一つが、1980年代前半のポジティブパンク、ポジパンと思われる。

ただし、ここでまず前提として見ておきたいのが、この1970年代とは、ロックをやる人々が既存の芸能界に居場所を作った10年というのが、まだ正しい。まだバンドが有名になるには、ヤマハポピュラーソングコンテストやイースト・ウェストなどのコンテストで賞を取るか、ライブハウスを埋めているという評判でもってメジャーシーンに行くくらいしかなかった。

で、今でもぱっと思いつくような大衆向けのレコード会社とは別に、後者の人々に発表の場を提供する、インディーズレーベルなどがぼちぼち出てくるのは、もうちょっと後の時代である。その中で、1980年代初頭の第一次バンドブームを経て、DIYな自主制作でもロックをやりたいという人々が出て、彼らのためにインディーズレーベルが整理されていくというのが、この後の動向である。

ポジティブパンクの時代

ということで、第一次バンドブームの1980年代前半に移る。ただし、この時期のインディーズシーンとは、THE WILLARD、LAUGHIN’ NOSE、有頂天のインディーズ御三家などの方がよっぽど主流であるのは自明。以下はあくまでももっとアンダーグラウンドのムーブメントである。

ANGEL TRIP & LUCIFER KISS
LAUGHIN'NOSE - BROKEN GENERATION (MV)
有頂天/BYE-BYE 【Official Music Video】

ただ、一つ強調しておきたいのだが、以降列挙するポジパンの人々とは、当時において、ポストパンク的な軽くて(=ヘヴィじゃない)暗い、1980年前後のUKロックっぽいことをやっていた人々を、ざっくり一派としていた程度のものである。正直、AUTO-MODですらゴシック・ロックと断言できそうなのは『DEATHTOPIA』くらいだし、トランス系もかなり各バンドは音楽性が違う。

なのだが、この面々の「俺たちがポジパンって思ってるから、俺たちはポジパンやってるんだよ!」という精神性が2000年代くらいまではかなり日本の動向に影響するので、そこは前提としてあらかじめ断っておきたい。

GENETとAUTO-MOD

ここで重要な立役者となるのが、布袋寅泰がかつていたことで若干語られなくもない、AUTO-MODというバンドである。

第一次バンドブームの前夜、後にAUTO-MODのボーカルとなるGENETは、1970年代の東京のパンク・シーンにいた。そして、本人らの語る証言では、ロンドンにわたり、Bauhaus、Crassなどを目のあたりにし、後者からは政治性に、そして前者からは音楽性やライブ・パフォーマンスに影響を受けた。

現在でもパンクをやりたいであろうGENETの意志を若干無視する形になるのだが、この記事で重要なのは、Bauhausから影響を受けたことである。つまり、政治や性を独自の日本語の歌詞で高らかに歌いつつも、ゴシックなビジュアルやライブパフォーマンスで、ゴシック・ロックめいた音楽をやる、日本流ポジティブパンクの原点となったのが、このGENETの渡英と思われる。

ということなので、シングル時代のAUTO-MODはそこまでゴスっぽさはないのだが、1983年のライブを収録したファーストアルバムである『レクイエム』ごろから、独自の路線を歩み始める。一方で、鳴かず飛ばずのAUTO-MODは、この年もう既に、数年後の解散を宣言して、その下準備としてWechselbalg Syndicate(いわゆるヴェルセルバルク)と呼ばれるレーベルを設立した。

で、ここで重要なのは、「時の葬列」と呼ばれるギグを通して様々なバンドと関わり、ヴェクセルバルクに、GENETに共鳴するアーティストたちを所属させて囲ったのである。この結果、1984年にこれらのアーティストたちと『時の葬列』と呼ばれるコンピレーションアルバムを発表した。この『時の葬列』に参加した、AUTO-MOD、SADIE SADS、G-SCHMITT、Madame Edwardaの4バンドが、近年中古市場でポジティブパンク四天王と呼ばれて宣伝される存在である。

Sadie Sads "Pair Dog" live1983
MADAME EDWARDA / LORELEI version 2020(Lyric Video)

正直、これらのバンドはCDにすらなっていない音源も多く、公式に聴くすべはあまりない。ただし、はっきり言って、このアルバムをきっかけに日本でポジティブパンクってだいたいこういうことなのでは?ということが、示されたというのが重要である(正直各バンドは割と音楽性が違うことは置いておく)。

その傍らで、GENETとAUTO-MODは活動を続け、1985年に『DEATHTOPIA』でメジャーデビュー。『EESTANIA』、『BIBLE』の2枚のアルバムを立て続けに出し、宣言通り1985年11月3日の後楽園ホールにて、ライブ「時の葬列・終末の予感<最終夜>」を行い、解散した。なお、このライブを収録したのが、『CEREMONY』である。

なお、このヴェクセルバルクに属するバンドとしては他に、Nubile、SARASVATIなどが挙げられる。

北村昌士とトランス系

その傍らで、1977年に雑誌『FOOL’S MATE』が発刊されている。当初はプログレッシブロックの雑誌だったものの、初代編集長の北村昌士は一貫してイギリスのバンド音楽を発信し続けており、要するにポストパンクやニューウェーブ、ゴシック・ロックなどがこの雑誌を通して日本でも広まった。

で、ここで話が戻るのだが、この頃ようやく第一次バンドブームを経て、インディーズのバンドを支援しようとするインディーズレーベルが誕生していく時期になった。

まず、東京ロッカーズでフリクションが有名になり、レコード店「ジョージア」のスタッフがPASS RECORDSを1979年に設立。一方この流れでザ・スターリンなどが有名になり、ハードコアパンクを後押しする『DOLL』誌の森脇美貴夫が作ったシティ・ロッカー・レコードが1980年に誕生。同じ年にはジャンク・コネクションが設立するものの、色々あって1981年のTELEGRAPH RECORDSの設立につながり、ここから始めて音源を出したのが、前述のAUTO-MODである。また、ライブハウス主導のピナコテカなども1980年設立で、おおよそ1979年~1980年がインディーズレーベルが出始める境と考えられる。

そんな中で重要なのが、AUTO-MODや、GENETに囲われていたSADIE SADS、SODOMといったバンドの、女性人気である。早い話、アイドルではなく、バンド音楽に自分と似た価値観を感じるバンギャの出現もあって、1985年までに市場が拡大していった。この中で躍進したのが、前述のTHE WILLARD、LAUGHIN’ NOSE、有頂天あたりのバンドであり、有頂天のケラが自分のために作ったナゴムレコードの設立が1983年である。

という流れを経て、ようやく本題に戻るのだが、『FOOL’S MATE』誌の北村昌士もまた、自分のバンド活動であるYBO2を開始し、その発表の場として1984年にTRANS RECORDSを設立した。なお、宝島社によってキャプテンレコードが作られたのも1985年なので、おおよそこの時期を境に、インディー系のバンドをレコードでいつでも聴けるようになるマーケットの形成につながったと思われる。

ということで、各々ゴシック・ロックであるかどうかは置いておいて、TRANS RECORDSから売り出され、トランス系とされるバンド群にASYLUM、SODOM、Z.O.A、RUINS、BOREDOM、ILL BONEなどが他にいる。例えば、トランス系だが、元祖和製インダストリアルとも言われるほど音楽性が違うZeitlich Vergelterなんかもいる。

インディーズレーベルとポジパン

1980年代のポジパンを代表するバンドには他にPhaidiaがいる。このバンドは『Marquee Moon』誌が1981年に設立したレーベルMarquee Moonからデビューし、上述の『DOLL』誌のシティ・ロッカー・レコードを基軸に活動する。つまり、上のトランス系あたりと、だいたい同じような存在である。

Phaidia “IN THE DARK" [2015 Digital Remaster CD ] SPOT.

また、Marquee Moonやその派生であるL.L.E.には他にもL-Transが、シティ・ロッカー・レコードには他にもMannequin Neuroseがいた。

というか、この1980年代前半には、無茶苦茶似たような存在がいた。

たとえば、富山で活動していたPale CocoonにはFuneral Partyの草野達也が客演している他、ボーカルの244もGilles de Rai(1980年代後半に結成されたヴィジュアル系バンドではなく1980年に結成された同名の別バンド)にいた。これらのバンドは、1981年に設立された富山県のライブハウス「メディア」を基軸にしたローカルなレーベルである、パフェ・レコード(Pale Cocoon、Funeral Party)や、同じく1981年に守屋正によって設立されたアスピリン・レコード(Gilles de Rai)に属していた。

他にも、1982年に、神楽坂のライヴ・ハウス「エクスプロージョン」のオーナー・藤沢秀樹によって設立されたレーベルであるエクスプロージョンのうち、ポジパンをカテゴライズするためのレーベル内レーベルVital Plant Ltd.にはGaraやSurrealistic Menが属している。

1983年設立のレーベルだと、大阪府堺市のレコード店「名曲堂」サラリーマン・レコードにはThe Nonfictionや、ザ・スターリンの2代目ギタリストTAMが設立したADKにはComaがいた。

1985年設立のレーベルともなると、電動マリオネットの森田文章が作ったナイトギャラリーにはEX-ANS、Zarathustraが、サワキカズミが作った太陽レコードにThe Geil、幻覚マイムが、The Sadistのギターであった手島美智雄が設立したVanilla Recordsには当然The Sadistがいた。おおよそ1980年代中ごろまでに大体似たような動向としてくくれるバンドたちが、多くいたのである。

さらに、そこに至ってもいない、自費出版レベルの有象無象のバンドともなると、Böhm、Brand Of Cain、The Lautrec、Satin Doll、餓鬼道、少女人形、胎児といった具合になり、彼らを合法的に聴くすべはもはやほとんどないと思われる。

ただ、こうした、自費出版レベルでの活動しかやっていないが、息が長くレジェンド扱いされているバンドにNeurotic Dollがいる。彼らはGENETやLUCIFER LUSCIOUS Violenouéなどと今でもシーンを盛り上げている。

で、こうしたインディーズレーベルを追いかけるナゴム・ギャル、トランス・ギャルといった人々がいるのが、だいたい1980年代後半である。

ガールズバンドブーム

さらに、ここに別の動きが混ざる。1970年代のパンクムーブメントに煽られてインディーズシーンで巻き起こった、ガールズバンドブームである。

このムーブメントは、たまたま影響元がSiouxsie And The Banshees、The Raincoats、The Slits、Essential Logicといった同時代人だったこともあって、本人たちの意識とは異なり、ポジパンの音楽とみなされる楽曲もちらほらある。

その最たる例が、SCANDAL以前の日本で活動歴の長かったガールズバンドと言われる、ZELDAの一部の曲である。正直なところZELDAは完全にニューウェーブのバンドなのだが、デビュー前から歌っていた「真暗闇-ある日の光景-」だの「うめたて」だのといった初期の曲が、『C-ROCK WORK』あたりの格好をサムネイルにされて、海外のゴスに日本のゴシック・ロックバンドと紹介されているのを結構見かける。

このくくりに水玉消防団、Bárbara、OXZ、キャ→なども挙げられる。

(我等は何して)老ひぬらん

ぶっちゃけ、このくくりというのは、一部を除けば、後述の同時代人なので似たような土壌にいたバンドにも含められると思う。

総括

1983年にはポジティブパンク専門のクラブ「Club Walpurgis」が新宿に設営された。

また、1985年にはあぶらだこ、ALLERGY、SADIE SADS、Madame Edwardaらが出演したポジティブパンクのドキュメンタリー映画『aura aurora/オーラ・オーロラ』が作られた。同じ年には、ヤプールミュージックが『恋は信じる程に美しい = Love Is Beautful』というコンピレーションアルバムのソノシートも作った。

よって、だいたいホコ天やイカ天といった第二次バンドブームの始まる直前の、1985年くらいまでは、こうしたバンドの勢力は一定程度あったと言ってもよさそうである。

ポジティブパンクの同時代人たち

前述のZELDAあたりもそうなのだが、ゴシック・ロックとは完全に言い切れないながらも、同じくポストパンク、ニューウェーブの音楽に属する存在として、海外のオタクに何かとまとめられてしまうものもある。The BC Lemons、Phewなどがそれである。

また、こういったプレイリストの中には、ALLERGY、Chance Operation、Cioccolata、D-Day、E.D.P.S、Excentrique Noiz、Friction、Jack or Jive、LIBIDO、Non Band、Off Mask 00、Portray Head、Radio Insane、Still、Theatre Brook、Viola Renea、アーント・サリー、絶対零度、電動マリオネット、ミン&クリナメンあたりの、1980年代の第一次バンドブームくらいの面々が曲単位で混ざっていることも多い(「サブマリン」あたりであがた森魚とか、「Water Sister」あたりで遠藤ミチロウとか、そのレベル)。

ただ、こうした人々に関して言えるのは、後述のBOØWYのビートロックなんかも合わせて、だいたい同じような時代に同じようなものにあこがれていた、ということである。よって、バンドの方向性自体は異なりながらも、曲単位ではそれっぽいものがあったりするのは、よく考えると当たり前である。

この点においては、GASTUNK、THE WILLARDなどのヴィジュアル系前史に登場する他ジャンルのバンドにも、こうしたポジティブパンクの要素を見出す楽曲もあるとも言われる。なので、ヴィジュアル系前史においては化粧以外にも、ゴシック・ロック、およびポジティブパンクの時代とある程度の同時代性を持っていたとは言えなくはないのだ。

ただ、個人的に、このヴィジュアル系前史頻出で、ゴシックと形容されることの多いDer Zibetに関しては、ハードロック系で完全に違う領域の人たちであり、黒くて暗そうなバンドはゴシック・ロックと勝手に言われる感じのやつの一例と思わなくもない。

ポジティブパンクの時代の終わり

1980年代後半以降、ぶっちゃけポジティブパンクの動きは日本ではしぼんでいく。この経緯として、1985年8月8日にNHKで放送された「TV-TV インディーズの襲来」に出演時のMadame EdwardaのZINの発言に対して、『FOOL’S MATE』誌の瀧見憲司を筆頭にした大批判が起きた結果ともいわれる。しかし、実際のところはよくわからない。

ただし、1985年というのは、あくまでもGENETがAUTO-MODをやめ、ヴェクセルバルク系の人々の転機となった年程度でしかないと思われる。とはいえ、同じ年にPhaidiaも活動をやめているので、一種の時代の変わり目ではあったのだろう。

しかし、トランス・レコードの設立が1984年であることからもわかる通り、実は1980年代後半デビュー組は多い。この1985年以降にトランス・レコードから新たにデビューしたバンドにBardo Thödolなども存在する。1980年代後半デビューのバンドとしては、The Geil、Gregor Samsa、Jail Meating、Surrealistic Men、THE STUCK、Velvet Endroit、Voissなどがある。

さらに、Phaidiaが活動を終えた後も、ボーカルのGILLYが1985年にSex Android(当然同名のヴィジュアル系バンドとは無関係)を結成し、シティー・ロッカー・レコードから1980年代後半にアルバムを多く出している。また、LUCIFER LUSCIOUS ViolenouéというGENETと並ぶ一人のカリスマを産む、Gille’ Lovesといったバンドがデビューしたのも1987年である。

また、1988年には金子美樹らによってコネカ・レコードが作られた。「コネカバザール」などのイベント運営で知られるこのレーベルだが、Bardo Thödol、Sculla、Vector Ultra、黒色エレジーなどが属することとなる。このレーベルから1990年にリリースされたライブビデオ『Tokyo Acid Punk』には、Mother Goose、Sculla、EX-ANS、Neurotic Dollらの姿が見られる。

とはいえ、もともとわき役だったポジパン勢だったが、第二次バンドブームにおいて完全に置いていかれてしまったと思われる。

例えば、1989年の「三宅裕司のいかすバンド天国」といったイカ天や、この番組に出演するバンドの多くが出身である原宿駅前のホコ天といったムーブメントに乗っかったバンドには、ポジパン系はほとんど姿がない。正直、東のX、西のCOLORという文言に象徴されるような、より正統派なバンドに人気が出たインディーズシーンにおいて、細々と継承されていた程度のポジパンは完全に圧されてしまったと考えられる。

正直ホコ天やイカ天にどんなバンドがいたかは、よそのサイトだが「【厳選】’80年代末期の熱病「バンドブーム」を代表する50バンドを解説&名曲紹介(懐かCM付まとめ) | 死ぬ迄HR/HM」に割と書いてあるので、省く。

そして、もう一つ要因に数えられるものがある。ポジパンの牙城だった『FOOL’S MATE』が、1980年代末にもなると、日本のインディーズシーンと、クラブミュージックであるハウス・ミュージック等ばかり取り上げるようになったことである。

ついに、1990年には、UKロックの影も形の無いハウス・ミュージックなどのダンスミュージックがほとんどを占める洋楽の『MIX』と、以後ヴィジュアル系バンドの主要な発信源となった邦楽の『FOOL’S MATE』に分裂。さらに『MIX』自体5号で消えてしまい、あっけなくこの手の音楽の情報源が消えてしまったのである。

こうして、ふわっとトランスギャルなどが消えていき、ポジティブパンクは第二次バンドブームの中から出てきたヴィジュアル系バンドの一部、例えばBUCK-TICK辺りなどが継承していくと、ヴィジュアル系畑では言われている。ただ、ここはちょっと疑問があるので、後で述べていく。

ヴィジュアル系の時代

一般的には、1990年を境にポジティブパンクの時代が終わり、ポジティブパンクなどの1980年代UKロックを継承し、日本独自でガラパゴスに発展した新たな世代によるヴィジュアル系バンドが、出現していったのだ、ということになっている。

この世代交代を象徴するかのように、西新宿にあったポジティブパンクの拠点であるレコード店『UKエジソン』が1993年に閉店し、ヴィジュアル系専門の「ライカエジソン」が跡地に1994年に開店した(運営母体は無関係)。

ただ、正直、このヴィジュアル系に関して面倒な問題がある。この中に、一般的にポジティブパンクの継承者と言われているものの、別にポジティブパンクが土壌でもないしややポップな音楽性の多数派と、ポジティブパンクの残党とよろしくやっていた、正直ほとんど名前が知られていない少数派の、二派がいることである(なお、もっと多数派にハードロック路線をやっていた人々がいるのだが)。

おまけに、正直前世代の1980年代のポジパンもかなりガラパゴスな存在なので、いま改めて聴き返すと、どのバンドにおいて、あれ……これのどこがゴシック・ロックなんだ……?となる。ということなのだが、一応通史として、両方見ていく形としたい。

ビートロック―ネアカな異端児の本流たち―

上記の通り、ある時期から黒服をアイコンとして着始め、1990年の『惡の華』を境にポジパンの後継者と扱われるようになったのがBUCK-TICKである。ただし、D’ERLANGERだったり、ZI:KILLだったり、JUSTY-NASTYだったり、STRAWBERRY FIELDSだったりといった、1990年前後にいたこの系統のバンドに影響を与えたのは、AUTO-MODとかもある程度あるのだが、もっと別のバンドである。

それこそが、ビートロック、つまりBOØWYと思われる。

最初にも書いた通り、BOØWYとは1980年代を代表するバンドとしてかなり初手に名前が挙がる存在である。このBOØWYが代表格とされるビートロックとは、スネアドラムの目立つ8ビートのリズム、カッティングを多用したギター、キャッチーなメロディーなどが特徴である。

BOØWYはある意味、ニューウェーブやニューロマンティックといったイギリス音楽による第二次侵略ともいうべき世界的現象を、GENETや北村昌士とは違う形で影響された存在である。というか前述の通り、BOØWYに合流する布袋寅泰は、もともとAUTO-MODのギタリストである。

つまり、BOØWYとは、ポストパンクの時代やゴシック・ロックの時代がある程度過ぎた頃の、ポップでキャッチーなニューウェーブの音楽性を日本に持ち込んだ、1980年代UKロック受容の日本における第二陣と思われる。で、このビートロックが、軽く(=ヘヴィではない)小刻みな規則正しいテンポである点は、日本のロックの文化やめんたいビートからの影響とは別に、一つ言えることがある。ニューウェーブのシンセサイザーやキーボードをギターのみで行う感じにアレンジした方向で、1980年代のUKロックを追い求めていったということである。

結論を言う。そもそもビートロックとは、メジャーコードである点やギターを変に歪ませない点などは置いておいても、ポジパンの音楽と割と近しいのである。

そしてこのBOØWYは、当時からしてフォロワーも多い。例えばHMVが作ったビートロックのプレイリストにいる名前として、BOØWY解散後に布袋寅泰と吉川晃司が組んだCOMPLEX、REBECCA、PERSONZ、ユニコーン、JUN SKY WALKER(S)、UP-BEAT、Katzeなど、第二次バンドブームを代表する錚々たるメンバーが出てくる。

レベッカ「フレンズ」MUSIC VIDEO
PERSONZ / Dear Friends(Official Music Video)[Full ver.]
ユニコーン 『大迷惑』
JUN SKY WALKER(S) - 歩いていこう
UP-BEAT「Kiss in the moonlight」Music Video

で、一つ問題になるのが、このBOØWYフォロワーのかなり有名な例として、BUCK-TICKがいることである。彼らは当初はビジュアルを売りにし、BOØWY直系のビートロックを実践していた。

BUCK-TICK / 「JUST ONE MORE KISS」ミュージックビデオ

しかし、BOØWYがポジティブパンクめいた黒服を途中で脱ぎ、キャッチーなビートロックを打ち立てたのとは逆に彼らは向かった。BUCK-TICKはポジティブパンクの要素を途中から取り入れ、デカダンビートロックと称し、ある時期から黒服をアイコンとして着始めたのである。この結果が、1990年の『惡の華』である。

BUCK-TICK / 「惡の華」ミュージックビデオ

そしてこれがあまりにもシンボルと化した結果、ヴィジュアル系の一部に黒服を着た面々が勢力となった。そして、後世ゴス系の人々も聴いているのでBUCK-TICKはゴシック・ロックと言われる。のだが、正直ポジパンの系譜にもなく、一部の楽曲を除くと暗いビートロックが彼らの根底だとやはり思う(ただし、たとえば『狂った太陽』くらいの頃は、ポジパンっぽい楽曲も一部ちゃんと存在しなくはないのだが)。

BUCK-TICK /「M・A・D」

このビートロック系統として名前が挙がる存在として、1989年デビューのJUSTY-NASTYがまず存在する。

そして『惡の華』の1990年には、メタル寄りだったD’ERLANGERがポジティブパンクに感化されたサディスティカルパンクを標榜した『BASILISK』を(ただしこの年解散)、スラッシュメタル+ポジティブパンクのポジティブメタルを標榜し始めたZI:KILLが『CLOSE DANSE』をリリースした。

さらに、元JUSTY-NASTYのLEZYNAと元D’ERLANGERのDIZZYらが組んだ、STRAWBERRY FIELDS、西川貴教がいたことでおなじみのLuis-Mary、元D’ERLANGERのKYOと元ZI:KILLのYUKIHIROらが組んだ、DIE IN CRIESも名前が挙がる。

こうした人々に感化されて、REDIEAN;MODEなども出てきている。

つまり、1980年代のUKロックにあこがれたAUTO-MODなどの要素をエッセンス的に使いつつも、よりメインストリームにいたBOØWYに感化された後進達が、黎明期のヴィジュアル系の中に、局所的に密集していた。ただし、BUCK-TICKやD’ERLANGERはともかく、そもそも影響元がBOØWYなので、これらのバンド群は明るいのである。

で、こうしたビートロックを好む人々によって、1994年のフェミ男ブームなどを境にSOPHIAやGLAYあたりのソフトヴィジュアル系ムーブメントにつながっていくのだが、これ以降は関係ないので触れない。

SOPHIA / 街(Official Music Video)
GLAY / グロリアス

名古屋系―直系だったはずの私生児―

で、そんなD’ERLANGER、ZI:KILLみたいな、ビートロックめいたバンドがどの地域にも結構いた。そして、名古屋も同様であった。例えば、後世Silver~Rose、Sleep My Dear、DIE-ZW3E、Of-Jといったバンド群が名をあげていくが、その中で不満を抱く存在がいた。トランス系やGASTUNKみたいな暗い音楽をやりたいという、後に黒夢のボーカルとなる清春である。

まず、そもそも論として、名古屋にはGille’ LovesのLUCIFER LUSCIOUS Violenouéという、ゴスのカリスマが一人いた。で、清春は彼女らにあこがれながら、先輩格である真宮馨とSus4やGARNETで活動していった。

そんな清春は、GARNETの解散後、黒夢を結成した。名古屋系とコテ系のうち、名古屋系の方を代表するバンドである。で、この黒夢みたいな音楽性の名古屋系もまた、ゴシック・ロックと言われることが多い。

前述したビートロック勢に比べると、初期の名古屋系は確かにポジパンをはっきりと好んでいた。特にMerry Go RoundはBauhausのカバーすらしている。のだが、一つ面倒な問題がある。メジャーデビューである。

この時期のヴィジュアル系特有の問題として、メジャーデビューすると音楽性がガラッと変えられてしまうことが多い。黒夢ですら、黒服を脱ぎ棄てソフトヴィジュアル系の一派っぽくなったのは有名だし、東芝EMI時代の代表曲である「For Dear」だの「Ice My Life」だの「優しい悲劇」だのあたりから、ポジパンの要素を見出すのはかなり困難である(「カマキリ」はこの辺にキレて作った説は置いておく)。

ので、実は名古屋系のバンドたちがポジパンっぽいことをやっていた時代の楽曲を、探すのはかなり困難である(Merry Go Roundみたいな例外もいるけど)。とはいえ通史を追っていく。

黒夢が1993年頃から躍進していく中で、Laputa、ROUAGE、FANATIC◇CRISIS、Merry Go Roundといった第一世代が誕生していく。

1996年を境に、第二世代に移る。D’elsquel(新潟出身だが)、Lamiel、kein、babysitter、Poisonous Doll、Syster、Sallyなどが続く。

kein『嘘』(Official Lyric Video)

deadmanやGULLETらがいた2000年代初頭までは、ポジティブパンクの衣鉢を受け継いだ名古屋系というアイデンティティは確かに存在したらしい。

follow the night light (MUSIC VIDEO)

しかし、以後名古屋はlynch.、Deathgazeといったヘヴィなバンドのメッカとなり、名古屋系の精神性の後継者とされるLycaonやアルルカンにしても、音楽性は名古屋系本来のものとは程遠い。

ΛrlequiΩ「手放して掴む零」MV FULL

ざっくり見てきたが、彼ら自身はポジパンのレジェンドたちからも認められ、ポジパンの後継者扱いされていたのは事実である。例えば、清春はAUTO-MODのトリビュートアルバムに参加している(D’ERLANGERやSTRAWBERRY FIELDSにいた、DIZZYこと福井祥史もいたけど)。

ただ、彼らはあくまでもビートロックのカウンターカルチャーめいた存在であって、ポジパンそのものをやっていたわけではない。そして、メジャーデビュー後は音楽性も変わっていくことで、通史においてきちんと組み込みづらい存在なのである。

日本のゴスのカリスマとしてどうしても触れざるを得ないバンド

なお、当たり前の事実だが、日本にゴス層を形成させた大きな要因となったバンドとして、MALICE MIZERがいる。

しかし、良くも悪くも彼らが日本でゴスのファッションリーダーになってしまったがために、日本ではゴス=MALICE MIZERっぽいものとのみ定義されてしまっていなくもない。のだが、彼らの音楽性はポジパンの伝統などとはかなり無関係で、その上全くゴシック・ロックではないは、はっきりと言い切れるとは思う。

また、MALICE MIZERの影響で、日本におけるゴス=Romantic Gothで、原義通りのTrad Gothなどが完全に押し流されてしまったりする。

ということなので、当然後継バンドのMoi dix Moisにも触れない。また、いわゆるゴスロリ系アーティストも特に触れない。

ネクラな正統派の反主流派

確実にGENETやLUCIFER LUSCIOUS Violenoué、Neurotic Dollなどとある程度歩調を合わせたヴィジュアル系バンドに近い存在は、1990年代前半に存在した。が、ぶっちゃけこの人たちは、ヴィジュアル系史にもほとんど出てこない、かなりマニアックな存在である。

例えば、1994年2月10日に大阪で開催されたGothic Nightにはこれら前世代のカリスマに加え、Jelsomena、Jubilee、Judithなどが参加している他、Bleeding Rosesなどもこの動向に含められそうである。

その他散発的ながら、ヴィジュアル系バンドには、このポジティブパンクの音楽性を踏襲したと言いきれそうなバンドが存在する。たとえば、ALUCARD、ART MARJU DUCHAIN、Mercuro、ROSES OF DEAD ESSENCESなどがいる。

このかなり有名な例としては、SPEED-iD、VELVET EDENなどがよく言及されるが、実は彼らは一つある問題がある。1990年代以降ゴスの中で、マリリン・マンソン的なEBMの影響を受けるという、世界的な現象が日本でも起きたことである。よって、彼らの代表曲とはロックですらなく、Cyber Gothの人が踊ってそうな音楽性になってからの方がよっぽど活動歴が長い。

SPEED-iD "薔薇と摩天楼" 1995 at VOGUE Kumagaya,Saitama

最近

ポジティブパンクの影響下にあるヴィジュアル系バンドとは別に、1990年代にもGENETはほそぼそとGenet/Rock of Romanceとしてソロで活動を続けていた。やがて、マリリン・マンソンなどに感化されて、20世紀の末にAUTO-MODを再始動した。

2000年にはGENETは、「TOKYO GOTH & DARKWAVE」を開催し始めた。これがのちに「TOKYO DARK CASTLE」となり、ポジティブパンクにとらわれずにゴシック・ロック、ダーク・ウェーブ、EBMなどの音楽アーティストを発信し続けている。関西の「KOBE UNDERGROUND FESTIVAL」も含めて、2000年代にはゴス系のアーティストが大量にこの手の動きに加わっていた。

TOKYOLOGY - Tokyo Dark Castle - Hosted by Carrie Ann Inaba - HD
【緊急告知】TOKYO DARK CASTLE Vol.100 開催SPOT (Japan Goth Club)

なお、この中には、SPEED-iDプロデュースの、functioncodeこと声優の森永理科もいたりするが、このバンドのリスペクト元は1990年代~2000年代初頭のアメリカロックなので、ゴシック・ロックやポジパンとは異なる音楽性である(これも黒服着てバンド音楽やればゴシックロック扱いされる感じのやつ)。

function code(); / OVER THE END

21世紀になってからも、前世代からいるメンバーによる発案とかではない、過去のポジティブパンクめいたポストパンクの音楽性を踏襲したバンドもいる。例えば、THETHEKURO、Zwecklos、堕空-dakuu-などである。

THETHEKURO - Salvation - 2012/02/04 live @ Tokyo Dark Castle

これらのバンドは、例えば、2005年に発売された『Kobe Underground Festival 2004-2005』、2007年に発売された『Tokyo Dark Castle』といった前述のフェス参加者のコンピレーションアルバムや、フランスのZorch Factory Recordsから2010年にリリースされたコンピレーションアルバム『Plan-X From The Eastern Dark』などで聴くことができる。

こうした参加者の中で自分たちのアルバムを出せているのは、†13th Moon†や堕空-dakuu-、Darkside Mirrors、lloy、The Lechery From Marsあたりがいる。

†13th Moon† - Witch Hunt (live)
THE LECHERY FROM MARS PV-Illegal Dark Line

海外ゴス層からすると、日本にも同じように第四波の動向に括れるバンドもいるとされている。この例が、†13th Moon†やNEHANNである。

NEHANN - Under the Sun

なお、ポストパンクやダーク・ウェーブなども漁っていくと、ODDLY、Nao Katafuchiあたりが界隈でも知られている。

Nao Katafuchi - Inishie (feat. Joanna Badtrip)

参考文献

書籍

  • 池上尚志監修(2020)『ジャパニーズ・ロック80’s』
  • 井上貴子・難波弘之編(2009)『証言!日本のロック70’s Vol.1』
  • 井上貴子・難波弘之編(2009)『証言!日本のロック70’s Vol.2』
  • 大島暁美(2013)『VISUAL ROCK PERFECT DISC GUIDE』
  • 音楽出版社編(1999)『ロック・クロニクル・ジャパン Vol.1』
  • 音楽出版社編(1999)『ロック・クロニクル・ジャパン Vol.2』
  • 月刊「ON STAGE」編集部編(1990)『日本ロック大系1957-1979[上]』
  • 月刊「ON STAGE」編集部編(1990)『日本ロック大系1957-1979[下]』
  • 篠原章(2005)『日本ロック雑誌クロニクル』
  • 宝島編集部編(1988)『別冊宝島ロックファイル Vol.2』
  • 宝島編集部編(1991)『日本ロックバンド大事典』
  • 宝島編集部編(1992)『日本ロック大百科 年表篇』
  • 辰巳出版編(2015)『私たちが熱狂した 80年代ジャパニーズロック』
  • 冬将軍(2022)『知られざるヴィジュアル系バンドの世界』
  • 宮沢章夫(2006)『東京大学[80年代地下文化論]講義』
  • 宮沢章夫(2015)『東京大学「80年代地下文化論」講義 決定版』
    上記の増補改訂版。ただし、図版が小さくなったため、改訂前のものも持っていた方が良い

ウェブサイト

脚注

  1. https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/2101195/ ↩︎
  2. https://nhk-groupmall.jp/blogs/read/playback-01 ↩︎
  3. https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/2101195/ ↩︎
  4. https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/2101195/ ↩︎
  5. https://nhk-groupmall.jp/blogs/read/playback-01 ↩︎
  6. https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/2101195/ ↩︎
  7. https://nhk-groupmall.jp/blogs/read/playback-01 ↩︎
  8. https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/2101195/ ↩︎
  9. https://nhk-groupmall.jp/blogs/read/playback-01 ↩︎
  10. https://nhk-groupmall.jp/blogs/read/playback-01 ↩︎
  11. https://nhk-groupmall.jp/blogs/read/playback-01 ↩︎
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