ニコライ・メトネルとは何らかの経緯で友人関係であったと言える人物に関するページである。
ロシア時代
セルゲイ・ラフマニノフ
アンドレイ・ベールイ
イヴァン・イリイン
アレクセイ・スタンチンスキー
1888年3月21日~1914年10月6日
メトネルの後輩。もっと長生きしていたら相当玄人好みの作風になっていたであろうところ、あっけなく若死にしてしまった。
当初はヨゼフ・レヴィ―ンにピアノを学び、モスクワ音楽院に入学後はコンスタンチン・イグムノフから正式に教育を受ける。一方で16歳ごろから作曲に取り組み、ジリャーエフとタネーエフの両名に師事した。
当初はムソルグスキーに近い簡潔な作風から、印象主義的なスクリャービンやグリーグに近しい独自の夢幻的な世界観を確立した。ところが、1908年に父親を失うと、心を病み、病院への1年間の入院後は、これらの作品を嫌悪し、ソナタヤフーガ、カノンなどの形式的な音楽構造への偏重を始める。
以後、こうした玄人好みの作風が実際に玄人に受け、1914年に音楽雑誌に取り上げられ、師匠のジリャーエフも猛烈にプッシュするなど次世代の期待の星と化したが、その年に友人の別荘の川のほとりで死体になって発見された。死因は不明。
以後、スタンチンスキーの遺された作品、および本人が破棄した作品のうち復元できたものを、師匠のジリャーエフと友人のアレクサンドロフが出版計画を立てる。第一次世界大戦とロシア革命による中断はあったものの1930年代までには完了した。
この短い生涯のうち、最後の1年程度の間にメトネルとの交流を重ねた。このため、そこまで長い付き合いではなかったのだが、彼の死後メトネルはいくつかスタンチンスキーの追悼にささげた曲を作っている。
亡命後
マルセル・デュプレ
ヨーゼフ・マルクス
1882年5月11日~1964年9月3日
オーストリアの作曲家。守旧派な歌曲中心の作曲家。
当初はグラーツ大学で博士号を取り、家族に法律の道に進むことを期待されたが、26歳で作曲の道に入る。以後歌曲を大量に作り、その功績が評価されて1914年には若くしてウィーン音楽アカデミーの教授、1924年には学長となった。
また、1930年代前半にはトルコ政府の顧問となり、アンカラに音楽院を築くなど、国際的な活動を行う。一方で1930年代以降批評を中心に行い、独自の音楽哲学を展開していった。
ただし、彼の書いた著書の索引には当時最新鋭のシェーンベルク、ベルク、ヒンデミットらの名前が見受けられないなど、極端に保守的な人物であることは明白で、多くの門下生の中にも音楽史的に目立った活躍をした存在はほとんどいなかった。
作風はヴォルフ同様歌曲に偏重的で、印象派風なロマンチックな楽曲であることは、シェーンベルクと同じ『月に憑かれたピエロ』を作曲していることから、何かと比較される。ただし、それ以外の作品は、所詮ブルックナー、ブラームス、レーガーの亜流程度の扱いを『ニューグローヴ世界音楽大事典』の初版などではされていた。
という上記経緯を見てもわかる通り、公的なポストについていたか否かは置いておいても、メトネルとポジション的には似た存在である。ということで、メトネルに敬意を持ち、第二次世界大戦後のメトネルに対して接触した記録が残っている。