その他

ニコライ・メトネルと関係者なのかそうでないのか、いまいち判断できなかった人物に関するページである。

ロシア圏

ニコライ・ミャスコフスキー

Dmitry Masleev: Myaskovsky - Piano Sonata No. 2
Symphony No. 10 in F Minor, Op. 30
Symphony No. 21 in F-Sharp Minor, Op. 51

他地域

ハンス・プフィッツナー

1869年5月5日~1949年5月22日

ドイツの作曲家。メトネルと同レベルにはやべー守旧派。

Hans Pfitzner: "Palestrina" - Prelude to Act II / Nelsons · Berliner Philharmoniker

Pfitzner: Palestrina - Musical legend in three acts - Prelude to Act I. Ruhig (Andante)

ザクセンのフローブルクの音楽監督や聖歌隊指揮者を務めた祖父・ゴットフリート・プフィッツナーや、ヴァイオリニストやフランクフルト市立劇場の音楽監督を務めた父・ロベルト・プフィッツナーという音楽家の家系に生まれた。

父がちょうどモスクワに行っていたころに生まれたのでモスクワ生まれだが、特にだからどうということはなく、フランクフルトのホーホ音楽院でイヴァン・クノルに音楽理論を、ジェームズ・クヴァストにピアノを学ぶ。

1890年の卒業までにはいくつか楽曲を作っており、台本家のジェームズ・グルンとともに最初のオペラである『哀れなハインリヒ』を、続いてハンス・トーマの絵にインスピレーションを受けた『愛の花園の薔薇』を作った。1899年にはかつての恩師の反対を振り切り、クヴァストの娘のミーミ・クヴァストと結婚した。

やがてミュンヘンに向かうと、ルドルフ・ルーイ、ルートヴィヒ・トゥイレらのミュンヘン楽派の一員となった。その後シュトラスブルクに音楽院の院長と交響楽団の指揮者に就任したことで移り、1910年にはオペラ監督に就任した。そこで1914年にプフィッツナーの代理に任命されたのが、あのオットー・クレンペラーである。

1920年にベルリンに戻ると、プロイセン芸術アカデミー作曲科のマスタークラスで教鞭を振るい、1925年には功労賞を受けてミュンヘンのドイツ・アカデミーの理事に就任。1927年にはバイエルンのマクシミリアン勲章を受章し、ミュンヘン音楽アカデミーの終身会員となった。

1926年に妻に先立たれたものの、『暗黒の帝国』や『心』といった最後の活発な作曲活動を行った時期に入る。しかし1934年に健康面の不調から、終身ポストから解放された。ナチスの時代は指揮者、伴奏者、作曲家として活動は続けていたものの、連合軍の空襲で家も破壊され、あちこちを渡り歩く(なお、渡辺護大がかつてライナーノーツでウィーンで空襲されているさなか防空壕でプフィッツナーと会話をした話を残しているが、事実かは不明)。戦後、ミュンヘンの老人ホームに落ち着いたものの、家財を失っており、マックス・レーガーの妻であるエルザなどからの援助を得た。

人間としてのプフィッツナーはバリバリの攻撃的な保守陣営であり、トーマス・マンやブルーノ・ワルターくらいしか友達がいない。彼自身の保守とは、シューマン、ブラームス、ワーグナー的なロマン主義の伝統であり、愛国主義者だったこともあって、アナクロニズムの旧態然とした存在として扱われており、現在もあまり存在を知られていない。

そのうえ、彼自身はユダヤ人であるブルーノ・ワルターと長年連れ添うなど、ナチズムには共感を覚えなかったので、ナチス政権では冷遇され、何重の意味でも不遇の存在である。

なお、ショーペンハウアーを愛好するなど、メトネルとはかなり近い立場の存在なのだが、調査不足なこともあって、メトネルが彼の演奏を一度見た記録しか両者の接点はまだ見つけられてはいない。

Hans Pfitzner cello concerto in G major
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