正直、いわゆるデマ、ガセビアとしては擬人化ゲームにすら影響を与えているのではっきり言っておきたいことがある。スクリャービンの死因が虫刺されという言説である。
結論から言うと、この記述は、日本語としてもフランス語圏の辞書類の和訳の『ラルース音楽世界音楽事典』に唯一記述されているレベルであり、世界どころかかつては日本でも一般的には全く言及されていなかったものである。のだが、おそらくこれのみを参考文献として、2006年1月18日に日本語版Wikipediaに書き込まれたことでフランス語圏だけではなく日本にも広がった。いわゆるWikipedia史観ではないのだが、同レベルのものとして断罪して良いほどである。
正直既に結論は出ているのだが、バウアーズやサバネーエフ、シリョーツェルだけを参考文献にしてスクリャービンを語る以上の愚行のため、軽くまとめておきたい。
前提としてスクリャービンの死因について
知っての通り、スクリャービンの死因は敗血症である。経過としては、1914年3月のロンドンの演奏旅行中に発症した右の口髭の下にできたこぶのような腫瘍がそのときはすぐ収まったものの、1年かけて細菌汚染を引き起こしたのか1年後に鼻と上唇を囲む顔の部分に大きくできものができる再発がおき、誰も治療できずそのまま死んだ、というものである。
そして、上記記述を踏まえてほしいのだが、世界的にはスクリャービンの俗説として有名なのは、スクリャービンがニキビで死んだというものである。
2017年に刊行された”The Alexander Scriabin Companion: History, Performance, and Lore”という研究書がある。この第5章”Madness and Other Myths”という、Matthew Bengtsonがサバネーエフ、シリョーツェル、バウアーズといった西側でスクリャービンの伝記を書いたお歴々がどれだけ有害だったかを強調する章で、一つの神話としてスクリャービンがニキビや切り傷でできたおできで死んだというのが触れられている。ここで彼がまさにこの神話を端的に表したものとして、2015年にステファン・ドイッチュが書いた小説”Zweck:A Novel and Mostly Reliable Musical History”を引用している。
A little fellow; very frail. In fact, he died of blood poisoning from a shaving cut, I am told, which doesn’t surprise me. You could call him a walking factory of bizarre misfortune. And he just couldn’t sit still for long, maybe a nervous tic.
Deutsch, Stephen(2015)”Zweck:A Novel and Mostly Reliable Musical History”pp.149
Anyway, the main reason he interested me was because of his work on synaesthesia. This interests me because certain keys show me different colours; in my mind’s eye, anyway. . . . So all this colour business came to nothing. But he was extremely famous while he was alive, and then almost completely forgotten after his death. Today he’s just a curiosity whose piano music is difficult to play and whose orchestral music is impenetrable to most people. Of course, he goes crazy in the end, because he was seduced by all sorts of mysticism and also very serious about Nietzsche, not to mention metaphysics.
Such a cocktail could turn anyone loopy. Now this is interesting: he had a younger cousin called Vyacheslav Scriabin, who at the time of the Russian revolution changes his name because the Scriabins come from an aristocratic family. So he changes it to Molotov! Scriabin’s music has visions of hell in it.
上記は、簡単に言うとバーナード・ロビンズというキャラクターが1970年代にかつて様々な音楽家と交わった親戚から思い出話を聞かされている場面である。そして、ここでソ連の高官モロトフがスクリャービンのいとこ(実際は同姓だがほぼ無関係)と書かれているように、あくまでも現代の一小説家がスクリャービンをどう思っているかが露骨に表れている。そこで書かれているのが、髭剃りの切り傷で死んだというものである。
スクリャービンが吹き出物で死んだというのは当時から定番のネタだったらしく、Matthew Bengtsonはストラヴィンスキーがシミの手入れをしているのを見た母親が「スクリャービンがそれで死んだのだから気をつけろ」と言及したエピソードも挙げている。(注を見る限りおそらく出典はジョージ・アンタイルの自伝”Bad Boy of Music”のストラヴィンスキーへの言及)。
このくだりはこの程度の言及で終わっており、虫など1回も出てこない。つまり、世界的には「俗説としてはスクリャービンは吹き出物で死んだが、実際は敗血症」というのが共通見解なのである。再度繰り返す。虫刺されなどどこにも出てこない。
日本でのスクリャービンの死の言及について
というわけで、一度スクリャービンの死が日本で書籍媒体でどう言及されているのか、時系列順に並べてみたいと思う。ただし、上記の通りすべての原因が『ラルース世界音楽事典』であることがわかっているので、それを取り除きたい。
この音楽会はスクリアビンが上唇の激痛に烈しく苦しみ始めたので、突然中止になつた。この唇の激痛は癰になつた。スクリアビンは千九百十五年四月十四日ロンドンにて死んだ。
柿沼太郎(1942)『現代作曲家群像』pp.153
一九一四年から一五の冬にかけては戦傷兵のための演奏会をなん度もモスクワとペテルスブルクでひらいた。彼が最後に講演したのは四月十五日(露暦二日)にペテルスブルク音楽院の講堂であつた。それがすむと二日後にモスクワへ帰った。十九日(露暦六日)に気分が悪いので、翌日は一日じゅう床に伏していると、上唇にデキモノができた。その前の年にも同じようなデキモノが唇にできたことがあるが、それはすぐになおった。しかしこんどのデキモノは急激に化膿してヨウになってしまった。そして体温はあがる一方であった。医者は三日間に三回の手術をしたが、むだであった。二十六日(露暦十三日)に血毒症から肋膜炎を併発し、その晩、意識がなくなるにつれて、苦痛はやわらいでいった。夜中の三時に聖霊をとり、その数時間後、一九一五年四月二十七日(露暦十四日)の朝八時五分に四十三才をもって死んだ。
服部龍太郎(1956)『ロシア音楽2日曜日をなくした人たち』pp193-194
14年ロンドン滞在中上唇にできた腫瘍がもとで翌年初頭のペトログラードでの演奏会を最後に手術の甲斐なく43歳で世を去った。
伊藤恵子(1982)『新音楽辞典(人名)』にある「スクリャビン,アレクサンドル」の項目 pp.285
14年2月イギリスに渡り演奏、その演奏会は成功したが、このとき、死の原因となったできものがはじめて上唇にできる。15年4月17日のペトログラードでの演奏会を最後に、上唇のできものから敗血症にかかり4月27日に没した。
佐野光司・岡田敦子(1983)『平凡社音楽大事典』3巻にある「スクリャービン」の項目 pp.1287
そして2年後の1915年4月27日、スクリャービンは43歳でこの世を去った。死因は敗血症であった。
伊達純・岡田敦子(1985)『スクリャービン全集』2巻 pp.(4)
14年にロンドンに訪問した際にできた上唇の腫れ物が、やがて腐敗性の炎症に悪化する。15年初めにはペトログラードで3回のリサイタルを開いたものの、何度も手術を受けなくてはならず、それでも敗血症の進行を食い止めることができずに、同年4月27日にこの世を去った。
Macdonald, Huch(1995)『ニューグローブ世界音楽大事典』初版和訳版9巻にある「アレクサンドル・スクリャービン」の項目(佐野光司訳)pp.160
しかしながら、英国におけるゴタゴタのさ中に、彼は病にかかる。彼の右の口髭の下の上口唇の吹出物が大きくなって、信じられないくらいの苦痛に襲われた。英国人の医者が切開した。スクリャービンは自動人形のように動いてデビューした。
(中略)
一九一五年の四月四日、ロンドンでの吹出物がもどってきた。四月七日、彼は病に臥した。体温はぐんぐん上がり、一.六度にもなった。四月一一日、モスクワの指導的な専門医が呼び集められ、スクリャービンの顔の切開がなされる手筈になっていた。スクリャービンを敬愛するボゴロツキーは、彼にまつわる神秘の内部聖所の一員だったのだが、患者の顔を切れなかった。四月一二日、別の医者が来て、別の切開がなされた。不思議なことに、吹出物は「癰」に変わり、「根太」となり、連鎖状ぶどう状球菌による敗血症と菌血症をおこしていた。感染の大きな広がりはスクリャービンの全身に及んでいた。四月一三日、最後の言葉を吐く。「それにしてもこの苦痛は耐えがたい……これは終りということよ……だが、これは破局だ!」。そして、夜中に、「そこにいるのは誰だ」と叫んだ。
バウアーズ、フォウビオン(1995)『アレクサンドル・スクリャービン――生涯と作品』(佐藤泰一訳)pp139,145
一九一五年の春、スクリャービンはキーエフとペトログラードで演奏会を行った。彼はいつものように、作品の構想に満ちて、モスクワへ戻った。そしてそこで彼は発病した。彼の上唇に腫瘍が現れたのである。これは何か運命のあざけりのようだった。スクリャービンは生涯、用心深く、几帳面で、伝染病を恐れ、外では手袋をはずさず、丁寧に洗うか、火を通したもの以外は口にしなかったというのに。
病気は軽い症状から始まり、それから熱が四十度にまで上がり、化膿性の炎症へと悪化していった。医師たちは何度か続けて顔に手術を施したが、それもどうにもならなかった。破滅への進行はもはや止めようもなかった。当時の医学は、まだこれに必要な治療法を見いだしていなかったのである。
こうして、ほとんど突然に、スクリャービンは一九一五年四月十四日に亡くなった。
クリューコフ、ミハイーロフ・ホプローヴァ、ヴァシレンコ・バルッチェヴァ(1995)『ロシア音楽史Ⅱ』(森田稔・梅津紀雄訳)pp.268-269
ロンドン滞在の間、スクリャービンはこれまで以上に、ほぼ毎日、タチヤーナに宛てて細々とした記録と、「会いたい」との言葉を書き送っていた。しかし、作曲家にはすでに死が忍びよっていた。「小さなできものが唇の上にでき、非常な痛みがある。医者に見てもらったが、ただつっ突いて、何かの液で洗ってくれただけだ。このようなできものは風邪からか、あるいは神経からくることが多い、と医者は言っていた。だが、消えそうもなく、これでは、ふくれあがった口でイギリスの聴衆の前に立たねばなるまい。こんなみじめな状態でのコンサートは初めてのことであるが、今度のような成功もこれまでになかったものだ」(三月十五日付)。「芝居を見に行ったが、劇場で気分が悪くなった。翌日は一日ベッドから出られなかった。医者が呼ばれ、これは口のねぶとのためだからと、手当――治療ではなく――をしてくれた。『慈悲のシスター』(看護婦のこと)が三日の間、二時間おきに包帯を変えてくれた。ピアノの練習がまったくできないのは苦しい」(三月十九日付)。
(中略)
ペテルブルグでの演奏会に顔を出した作曲家は、四月四日にモスクワに帰り着いた。上唇の吹き出物が再びあたわれ、熱が出てきたため、彼は七日から床についた。「まるで紫の火のようだ」と彼自身も認め、大学病院から医師が呼ばれた。新聞は作曲家の重態を伝えはじめていた。タチヤーナから報せを受けた身内の者たちが集まってくる。伯母のリュボーフィは「いつも、あんなに病気をうつされることに気づかっていた子なのに」と言っただけだった。「何というスキャンダルを仕出かしてしまったんだ」と作曲家はつぶやいていたという。
四月十一日、高熱を発し、医師は患部の切開を試みたが、膿は出なかった。親しい友人サバネーエフのところにはすでに「追悼記事」の依頼がきていた。サバネーエフは「まだ生きているんだ」と怒鳴りつけた。スクリャービンは次第に幻覚にとりつかれるようになっていった。「そこにいるのは誰だ。」これが最後の言葉となり、作曲家アレクサンドル・スクリャービンは一九一五年四月一四日朝八時に息を引きとった。折りから復活祭の週間であった。皮肉にも、最後の住まいとなったモスクワの屋敷は、この日で賃貸契約の期限が切れていたという。
藤野幸雄(1996)『モスクワの憂鬱スクリャービンとラフマニノフ』pp.198-200
帰国後は意欲作をつぎつぎと発表するが腫瘍のために世を去った。
伊藤恵子(2002)『新編音楽中辞典』にある「スクリャービン,アレクサンドル」の項目 pp.340
しかし唇の腫物を原因とする敗血症のため15年4月27日急逝。
大宅緒(2006)『ロシア音楽事典』にある「スクリャービン」の項目 pp.169
20世紀初頭にいちはやく調整離脱を果し、ロシア象徴主義を音楽において担ったスクリャビンは、唇にできた腫物から敗血症を引きおこし、1915年4月に43歳で急死した。
岡田敦子(2008(初版1998))『新訂標準音楽辞典 第二版』ア-テにある「スクリャビン,アレクサンドル・ニコラエヴィッチ」の項目 pp.948
また、スクリャビンは”カイゼルひげ”が自慢だったが、唇にできた腫瘍が悪化して他界した。
中村菊子、大竹紀子(2011(初版2003年))『ピアノ作曲家作品事典: 152人の作曲家たちとピアノ曲のすべて【改訂版】』にある「スクリャビン、アレクサンドル・ニコラエヴィッチ」の項目 pp.200
四月九日ごろだったか、玄関先の電話に呼び出された。エレーナ・グネーシナからの電話で、スクリャービンがペテルブルクから帰って酷い病気になり、丹毒性炎症が顔に表れていると伝えてきた。だが処置はなされたという。その日は行くことができなかった。いや私が病気を知って駆けつけ、夫妻を心配させたくなかった。病気の深刻度については、考えも及ばなかった。翌日、『ロシアの朝』紙で、デルジャノーフスキーが書いたと思われる「スクリャービンの深刻な症状」と、そのための慈善コンサートの延期を告げる小記事を読んで驚愕した。すぐに彼のところに向かった。玄関に足を踏み入れると、状況は予測以上によくないことが直ちに判った。簡潔な言葉で、病歴とその特質が語られた。すなわち英国でできた同じ上唇の瘍であった。何も知らなかったジリャーエフ、それに前線にいたシペルリンクを除き、友人は皆そこにいた。パドガエツキー、医師(バガロツキー)。イヴァノフはまだ。イヴァノフ夫人が、ビール酵母を手に入れようとしていた。公爵夫人(ガガーリナ)とレールモントヴァが待たれた。彼は寝室だったが、私はすぐには会うことはできなかった。書斎では皆が戸惑っていた。「普通の病気ではないぞ」と私は直感した。恐ろしい感情が心にうごめき、意思に反してどんな追悼文を書こうかと考えている自分に気がついた。恐ろしい考えは、追い払ってもまた頭に入り込んだ。タチヤーナは白い看護服を着て憔悴していたが、我慢して現れ、私は彼女の大きな心に驚いた。病状の深刻さへの動揺を顔に表していないのだ。医師(バガロツキー)私に病状を長々と語った。スクリャービンは眠っていた。
「彼は吹き出物に注意しなかったんだ」と医師(バガロツキー)。「同じものがロンドンで出たのに、同じ唇に。熱が急に上がって心配し始め、私に見せた。見ると事は深刻だった!患部の色が非常に良くない。あんなのを私は見たことが無い。患部は赤ではなく、ほとんど藤色だ、火にあるような藤色。そして体温は四十度……」。
(中略)
次の日私は朝からスクリャービン家に出かけた。手術がなされたことが伝わったあと、すぐにであった。
医師(バガロツキー)は心配そうな、憂鬱な表情で私を迎えた。「どうだった?」と、芳しくない結果を感じて私は尋ねた。
医師(バガロツキー)は答えた。「切開したんだよ、君、そして何もなかったんだ、膿のかけらもね。一滴もない。恐ろしいことだ、君、自分はもうどうしてよいか判らない!」
体の中で何かが冷たくなった。全ての景色がぼんやりと、無意味なものになった。医師(バガロツキー)は続けた。
「毒は、非常に強烈だ。全身症状的な蜂巣炎(丹毒)だ。連鎖球菌の感染だ。膿がどこにあるかが判れば取ることができるが、たとえそれを除去したとしても?!」と彼は叫びだしそうに言い、「浮腫みがさらに酷くなった。ここを切開したが、もう今では既にここに炎症が」と医師(バガロツキー)は自分の顔で、炎症の[最初と今の]部位を示した。
(中略)
夜じゅうほとんど眠れない。朝早く電話に駆け寄った。八時を過ぎた頃だった。聞いたことのない声が運命的な宣告を発した、「スクリャービンはほぼ十分前に亡くなりました」と。すぐさま恐怖の舞台に駆けつけた。扉は広々と開けられ、階段に大勢の人、まったく面識のない人たち。そして見舞いが遅れたボリスに遭った。
昨日彼は生きていて、胸の苦しみに悶え、「お仕舞いだ。破滅だ!』と言った。明瞭に耳にした彼のこの最期の言葉は、記憶に引っ掛かって消えない。
サバネーエフ、レオニード(2014)『スクリャービン晩年に明かされた創作秘話』(森松皓子訳)pp.267-275
このように、戦前から21世紀に至るまで、専門家が書いたスクリャービンの伝記的記述に虫刺されなど出てこない(なお、有名な逸話だが、スクリャービンの伝記には復活祭の時期に死んだ日をずらす捏造を行ったサバネーエフなど、多々問題があることは指摘しておく)。ところが、前述のWikipediaに虫刺されで死んだと書かれた2006年以降、ライターの書いた伝記的記述にスクリャービンの死因が虫刺されと書かれることもみられるようになった。ただし、やはりマイノリティである。
ある日、蚊に唇を刺されたことから病気を併発し、43歳でこの世を去ってしまった。
オヤマダアツシ(2012)『ロシア音楽はじめてブック』pp.73
一九一四年、初めてのロンドン演奏旅行が成功したので、翌年彼はロシア国内の演奏旅行を計画した。だがそれを実行に移す前、どうしたものか唇に腫れ物ができてしまった。結局、この腫れ物が悪化して敗血症をおこし、一九一五年四月二十七日、ロシア暦四月十四日、この神秘主義音楽家は四十三歳の生涯を閉じた。
萩谷由喜子(2013)『クラシックの作曲家たち』pp.238
その後ロシアへ戻り、作曲と演奏活動に精を出す中、唇にできた腫瘍が元で、15年、モスクワで敗血症のため43歳という短すぎる生涯を終えた。
中島克磨(2014)『音楽史順で読む決定版クラシック作曲家ファイル』pp.104
音、光(色彩)、香気、舞踏による究極の総合芸術を目指していたが、実現前に敗血症で43年の短い人生を終える。
カジポン・マルコ・残月(2020)『墓マイラー・カジポンの世界音楽家巡礼記』pp.136
出どころについて
この記述が初めて日本語版Wikipediaに登場したのは、上記の通り2006年1月18日である。それ以前の記述とそれ以降の記述を比較してみよう。
しかし1915年、膿瘍による敗血症がもとでモスクワで急死した。
日本語版Wikipedia「アレクサンドル・スクリャービン」項目2006年1月14日 (土) 16:28リビジョン
虚弱体質の反動から、生涯にわたって心気症の気味があったが、皮肉なことに、1915年に虫刺されが炎症を起こし、膿瘍による敗血症がもとでモスクワで急死した。
日本語版Wikipedia「アレクサンドル・スクリャービン」項目2006年1月18日 (水) 03:45リビジョン
で、この時の編集コメントが以下である。
加筆。部分的に英語版参照。
日本語版Wikipedia「アレクサンドル・スクリャービン」項目2006年1月18日 (水) 03:45リビジョン時のコメント
ところが、当時参照できた英語版の記載は2005年12月28日18時17分時点のものだが、以下の記述のみである。
A hypochondriac his entire life, Scriabin died in Moscow from septicemia.
英語版Wikipedia「アレクサンドル・スクリャービン」項目2005年12月28日 (水) 18:17リビジョン
そう、英語版にスクリャービンが虫刺されで死んだという記載などない。そもそもこの段階で英語版Wikipediaにスクリャービンの詳しい経歴はほとんど載っていない。
しかし、2006年以前に日本語で書かれた、スクリャービンが虫刺されで死んだという記述が一つだけある。1989年に発行された『ラルース世界音楽事典』およびその人名のみの抜粋である『ラルース世界音楽人名事典』である。元となった原語版の書籍、および訳者が同一なので訳文も同一であり、『ラルース世界音楽人名事典』の記述のみを以下で引用する。
炭疽病を媒介する蠅に唇を刺されてかかった伝染病が1915年に彼の命を奪った。
遠山一行・海老沢敦編(1989)『ラルース世界音楽人名事典』にある「スクリャービン,アレクサンドル・ニコラエヴィッチ」の項目 pp.586
ciniiには原書編集責任者: アントワーヌ・ゴレア、原書監修: マルク・ヴィニャルとあるように、要するに上記事典はフランスのあの「ラルース」の和訳である。正直、上記日本語記述を見つけた時点で経路は絞れているのだが、もう一つの可能性を提示したい。Wikipediaフランス語版である。
そう、何を隠そうWikipediaフランス語版にはこの時点で虫刺されで死んだと明記されていたのである。
Il meurt prématurément en 1915 d’une infection du sang consécutive à une piqûre au visage.
フランス版Wikipedia「アレクサンドル・スクリャービン」項目2006年1月4日 (水) 9:46リビジョン
そして、実は地味にこの死因は現在のフランス語版からも、出典も明記されていない癖に消されていないのである。
Les circonstances de son décès n’ont pas été éclaircies, certains la relient à une piqûre de mouche charbonneuse qui aurait entraîné une infection sanguine, d’autres ont évoqué une pleurésie[réf. nécessaire], ou un empoisonnement causé par un furoncle à la lèvre[4].
フランス語版Wikipedia「アレクサンドル・スクリャービン」(2025年7月1日(火)22:20閲覧)
ということで回りくどくなったが、フランス語圏でだけ、スクリャービンが虫刺されで死んだという伝承があった。あの「ラルース」に書かれるレベルでである。このソース自体は全く不明であり、出所自体は現在のWikipediaも黙して語らない。
それを、「ラルース」の日本語版を基にしたか、Wikipediaをそのまま訳したかのいずれかは不明だが、Wikipedia日本語版に書かれたことで日本語圏にも着弾してしまった、以上である。しかし、このような記述は、スクリャービン伝記の伝統にはなく、なぜかフランス語圏と日本語圏だけで語り継がれているデマである。ガセである。大嘘である。
ポスト・トゥルース、ポスト真実の時代と言われるようになり既に10年以上が過ぎた。近年登場した生成AIに至っては、「設計思想上元文書の文章を一字一句違わず引用文として伝えてくるシチュエーションなどありえないどころか、ありもしない文献を無から作り出す」にも関わらず、いちいち確かめずに多くの人が真に受ける時代。大宅壮一の例の言葉が一億から百億になりかねない状況だからこそ、他山の石にしたいものである。