前置き
フランスはオルガン楽曲を作曲する作曲家を多く輩出している。が、正直、オルガンというあまりにも日本でそうやすやすと演奏できない楽器ということもあり、一般的に知名度があるのは、カミーユ・サン=サーンスの交響曲第3番か、辛うじてセザール・フランクか、といった具合である。
ということで、この記事では、まずこのフランスにいるオルガン系の楽曲を作っていた作曲家、誰が誰かわからんという人への忘備録めいた列伝を書いていく。
古典派以前
フランスは、16世紀ごろからオルガン音楽が作られるようになったものの、政情不安などのために100年近く散発的に作られていたのみだった。その後政情が安定したバロック時代のフランス古典期になると、多数のオルガン音楽が作られていったが、フランス革命に伴う教会の破壊でいったん衰退した。
フランソワ・クープラン
1668~1733
フランスの多くの作曲家のあこがれの一人である、クープラン一族のいわゆる大クープランことあの人。一般的にはクラブサンの人というイメージで、正直その通りでオルガン作品の作曲自体は若いころを中心にしており、数少ない。のだが、オルガニストだった父を受け継ぎ、ルイ14世に王室オルガニストに任命されるなど、経歴自体は立派なオルガニストである。
代表曲は『2つのミサからなるオルガン作品』。
二コラ・ド・グリニー
1672~1703
ランスで代々オルガニストを務めてきた家門の出身。早世した人物だが、この頃に全フランス的に流行していた「オルガン曲集」というジャンルの、『オルガン曲集第1巻』を作っている。この作品は、足鍵盤を多用したり、ジャン=バティスト・リュリがオーケストラで行っていたかのような5声部の楽曲を多数収録したりと、光る作品集で、ドイツで大バッハやヴァルターに書写されている。
19世紀
フランス革命で大打撃を受けたオルガン音楽は、ドイツでは19世紀に入ったころに盛んになったのと比較しても、19世紀半ばまで、特筆すべき動きはあまりなかった。その空白時代を変えたのが、19世紀中ごろのセザール・フランクの出現で、彼の薫陶を受けたフランキスト達が、その後弟子をどんどん増やしていくのである。
アレクサンドリ・ボリエー
1785~1858
革命後のフランスにあって、ドイツ音楽をフランスに導入した存在。同時代人がモーツァルト的なスタイルを取り入れていたのに対し、ボリエーは大バッハをフランスに紹介した点で、オルガン史において重要な人物である。
フランソワ・ブノワ
1794~1878
カミーユ・サン=サーンスとセザール・フランクの師匠としてのみ最早有名な人物。ただし、要するにこれまで各教会に任せていた音楽教育を、パリ音楽院に集約した際に、オルガンクラスの教授となったのがこのブノワであり、ある意味この人物がいなければ始まらないのである。
セザール・フランク
1822~1890
フランス人ではなく厳密に言えばベルギーの出身。ドイツ音楽の影響を受け、ブノワの後を継ぎ、多数の弟子を育て、フランスに一大勢力を築いた。
セザール・フランク登場の前提として、19世紀にアリスティド・カヴァイエ=コルという新進気鋭のオルガン製作者が現れたことである。このカヴァイエ=コルの作った新しいオルガンは、ドイツやイギリスの製法をまねしながら、オーケストラのように弱い音から強い音まで出せるようになった点が特徴であった。
このカヴァイエ=コルの作ったオルガンが、セザール・フランクがオルガニストになったサント・クロチルド教会に翌年設置されたのが、両者が同時並行的に展開していた象徴である。つまり、技術革新と大バッハ~リストまでのドイツ音楽に感化されたセザール・フランクの両者が、ちょうどマッチングしたのが、全ての始まりということなのだ。
フランクは、それまでフランスになかったオルガン交響曲をフランスに持ち込み、管弦楽的な書法でオルガンの独奏曲を作ったという画期である。当然その楽曲は1つの主題が何度も形を変えて出てくる循環形式など、同時代のロマン派的な手法に立っていた。
このフランクの3つあるオルガン曲集のうち、最後の第3集「3つのコラール」は、グレゴリオ聖歌のリリシズム、ワーグナー的な半音階、伝統的な対位法、ベートーヴェン風のドラマチックな展開、バッハの影響と、まさにドイツ志向なフランクの集大成めいた楽曲になっていた。
シャルル=マリー・ヴィドール
1844~1937
フランクの次の教授。名前で検索しようとすると某ヴィジュアル系バンドが大量に引っかかるので日本語で調べづらい人。
フランクの弟子ではなく、ジャック=二コラ・レメンスの系統だが、要するにこのレメンスも大バッハの流れの存在のため、パリ音楽院のオルガニストたちはフランク時代とヴィドール時代を受けて自分たちがバッハの伝統に紐づいていると自負していた。
彼の楽曲の特徴としては、スタッカートなどのアーティキュレーションが頻繁に登場し、強弱などの表情付けが強い。フランクに続いて彼が作曲した10のオルガン交響曲は、交響曲といいつつも組曲集みたいなものではあるが、バラエティーあふれた楽曲になっている。
レオン・ボエルマン
1862~1898
いわゆるアルザス地方生まれ。同じく大バッハの系譜におり、彼の『ゴシック組曲』の方が実は上記ヴィドールよりも交響曲的だったりする。
20世紀
1899年、カヴァイエ=コルが亡くなった。この死と軌を一にして、科学技術の進歩によるオルガンそのものの変質が始まり、ポストロマン派的なフランク、ヴィドールの弟子たちが、ペル・エポックの時代に花開く。
しかし、その傍らグレゴリオ聖歌の復興が、「旋法和声」やドビュッシー的な脱調性の動きに結びつき、オルガン音楽も、フランク、ヴィドール、ヴィエルヌ、デュプレ的な、ロマン派の延長線上にあるサンフォニストと、典礼音楽を基盤にしたトゥルヌミールからデュリュフレ、メシアン、アランの神秘主義の2系統に大別できるようになる。その後、マルセル・デュプレの弟子筋であるオリヴィエ・メシアンの手によって、前衛音楽へと羽ばたいていった。
ただし、その前提として、この100年を通して、フランスにおいて様々な種類のオルガンが作られたことに触れておく。
まず、20世紀初頭には、電気を用いモーターなどが設置された、カヴァイエ=コル的な構造は保ちつつも、新しいポストロマン派オルガンが誕生した。ところが第一次世界大戦後になると、ノルベルト・デュフルク、アンドレ・マルシャル、ヴィクトル・ゴンザレスらが、新古典主義オルガン運動を起こした。つまり、革命前のオルガンを復活させつつも、最近の楽曲も弾けるオルガンが新しく作られていったのである。そして第二次世界大戦後になるとこれが、いやもともとのオルガンをちゃんと作れよと、オリジナル主義として先鋭化し、フランスオルガン・ルネサンスが起きた。
要約すると、フランスは、古典時代に戻ろうとするオルガンを作る動きと、ロマン派時代の流れを引き継ぎつつも改良型のオルガンを作り続ける動きと、21世紀的なコンピューターなどが導入されたさらに新しいオルガンの3タイプが共存しているのが、現在ということである。
ルイ・ヴィエルヌ
1870~1937
生まれつき盲目で、幼いころフランクのオルガンを聴いたことで憧れ、盲学校でフランクに教わるも、パリ音楽院に入った矢先にフランクが死去。次いでヴィドールの薫陶を受けた。その死もオルガン演奏中である。
ヴィエルヌのオルガンの特徴は、ヴィドールのオルガン交響曲を引き継ぎつつも、明らかに20世紀初頭的な半音階の多様である。一方、『幻想的小品集』に収録された「ウェストミンスターの鐘」という、ウェストミンスターのチャイム(要するに学校のキーンコーンカーンコーンの元ネタ)をモチーフにしたとても聴きやすい曲があるので、これからはいるのがおすすめな気がするってみんな言ってる。
シャルル・トゥルヌミール
1870~1939
フランクとヴィドールの弟子その2。彼の代表的な業績がフランク、ヴィドール的な楽曲とグレゴリオ聖歌などを融合させた『神秘的オルガン』で、この流れがデュリュフレ、ラングレ、メシアンらに神秘主義として受け継がれていく。
マルセル・デュプレ
1866~1971
ヴィドールやヴィエルヌに学んだ世代。このサイトではメトネルのお友達の一人として頻出の存在。
バッハの全楽曲を暗譜で演奏しきった天才的な記憶力の持ち主。20世紀中ごろのパリ音楽院の教授となり、フランク、ヴィドールらの伝統をさらに促進させた。
モーリス・デュリュフレ
1902~1986
トゥルヌミールの弟子。オルガニストを終生務めたが、作曲家としては佳作で、オルガン楽曲も6曲のみとなっている。ただし、合唱とオルガンによる『レクイエム』など、難曲ながらも優れた楽曲として愛されている曲が目立つ。
ジャン・ラングレ
1907~1991
デュプレの弟子筋で、トゥルヌミールからも個人的に薫陶を受けた。2歳の時に失明し、元は盲学校にいたが、パリ音楽院ではリテーズ、メシアンと同級生でデュプレの教育を受けた。その後トゥルヌミールからサント・クロティルド教会のオルガニストを受け継ぐ。
ラングレは師匠のデュプレを引き継ぎ、演奏活動に精を出し、アメリカなどで数々のコンサートを行っていった。
ガストン・リテーズ
1909~1991
リテーズも盲学校の出身で、ラングレ、メシアンの同級生。サン・フランソワ・グザヴィエ教会のオルガニストを務めた。
オリヴィエ・メシアン
1908~1992
オルガニストというか、トゥランガリラ交響曲などを作った、第二次世界大戦後のブーレーズなどの前衛作曲家の師匠筋の人として現代音楽界で有名なあの人本人。
当然そのオルガン楽曲も、ロマン派を出発点としつつ、リズムにおいてグレゴリオ聖歌からポリリズムを学び、ギリシャの韻律法、古代インドのリズムの研究と、どんどん伝統を脱していった。音色も、基音なしで上に重ねる倍音のみを引き出すことで、自然界の音を再現しようとするなど、デュプレの弟子筋としてはやけに異様な境地に達してしまった。
ジャン・アラン
1911~1940
デュプレの弟子の一人で、あのマリー=クレール・アランの兄という謳い文句がつくあの人。
才能あふれた存在だったが、第二次世界大戦中の兵役でドイツとの交戦中に死亡した。
メシアン以降
グザヴィエ・ダラス
1934~1992
デュリュフレとメシアンの弟子で、パリ音楽院院長も務めた。教会の残響を利用した、沈黙を音楽の構成要素とした『オルガヌムⅠ』などが知られる。
ジルベール・アミー
1936~
同じメシアンの弟子のブーレーズとともに1960年代的な前衛を追究した。この流れを受けた彼のオルガン楽曲が、新境地を開いていった。
ジャン=ルイ・フローレンツ
1947~2004
リヨン大学やパリ大学でアラビア文学や自然科学を学んだ後に転校してメシアンに学んだ作曲家となった存在。
メシアン的な音色と、ワールドミュージックの融合を進めた。
ナジ・アキム
1955~
レバノン生まれでラングレの弟子。民族音楽からジャズまで様々な音楽を網羅した、自由なオルガン楽曲が知られる。
ティエリー・エスケシュ
1965~
デュリュフレの後任としてサン・テティエンヌ・デュ・モン教会のオルガニストになった存在。オルガンを一種の音響装置であるかのように扱い、強烈な世界観を作り出す。