モスクワ音楽史

16世紀以前

モスクワにおける音楽についての最古の言及は、15世紀の皇帝付き聖歌隊、総主教付き聖歌隊の2つについてである。つまるところ、王権・教権の双方が主体となって聖歌隊を設け、ここで専門家教育が行われる土壌となった。

一方で、イヴァン4世期には、すでに職業歌手の存在が確認され、上記聖歌隊はこうした階層の出身者もリクルートしていったのである。

17世紀

ルーシ地域における大動乱時代で徐々にモスクワの覇権が確立されるにつれ、同地で教会聖歌の整備が行われるようになった。これを主導したのが、アレクサンドル・メゼネツ、イヴァン・シャイドゥルら修道士であり、17世紀後半にはウクライナに由来する、パルテス唱法といったポリフォニー様式が流行。ニコライ・ディレツキイの活躍や、ヴァシーリー・ティトフのモスクワ楽派の確立に続いていく。

一方、すでに近世に入って久しいこの時期は、教会音楽だけではなく、民衆内の歌謡も盛んにおこなわれた。これを後押ししたのが、皇帝付き聖歌隊が結構暇していたことで、この合間に彼らもまた民謡歌唱などを個人の家で許されていたのである。

こうした流れを受け、モスクワに来訪する音楽家たちも増え、私設合奏団を抱える貴族も現れ始めた。結果、旧来の民族固有の楽器が徐々に姿を消し、ラッパやオルガンといった、西洋的な楽器がそれに代わっていった。ロシアにおけるオルガン演奏興隆は20世紀のゲディケ楽派の成立を待たなければならないと述べる本もあるが、すでに1650年代にはグトーフスキーといったオルガン工房を担う存在が確実にいたのである。

また、並行して勃興したのが舞台演劇である。また、ピョートル1世による軍隊の増強に伴う軍楽隊の整備もあった。かくして、モスクワは言ってみれば皇帝やそれに付随する貴族と聖職者らにパトロネージされる形で、音楽の発展が進んだのである。

18~19世紀

ピョートル1世主導による西洋化は、それまでの民謡と教会音楽から、オペラを中心にした西洋的な音楽へと音楽も変えていった。ただし、モスクワは政治的にはサンクトペテルブルクの下に立ったのだが、女帝の時代こと18世紀後半にはこのモスクワでもモスクワ大学付属の貴族寄宿学校がまじめに音楽教育を行い始めた。

1779年頃からヨハン・ケルツェリが担うコミック・オペラの時代が四半世紀ほど続くが、彼の開設した音楽大学は貴族から農奴までを射程に入れ、指揮者でもあったケルツェリによって、コンサート活動も活発に行われるようになった。

1806年、モスクワに帝室劇場が設立される。ここにはいわゆる農奴劇団の人々が加わり、オペラとバレエが主に行われる。その後1820年代にはマールイ劇場やボリショイ劇場に枝分かれしていくこの劇場だが、ボリショイ劇場は1853年に一度焼失し、1856年に再建された。

このボリショイ劇場で活躍したのが、アレクセイ・ヴェルストフスキーである。彼は19世紀中ごろに数々の役職を遍歴し、モスクワの音楽水準を高めた。また、このボリショイ劇場を筆頭にした帝室劇場は四旬節の期間に閉鎖されており、この間にコンサートが多数実施された。ドイツ人が重用された女帝の時代と異なり、すでにダニール・カーシン、アレクセイ・ジーリン、イヴァン・ヨハネスら自国の演奏家も活躍するようになったこの時期は、モスクワにも外国から様々な音楽から演奏などのために姿を現したのである。

一方、こうしたいわば皇帝のおひざ元を別とすると、音楽活動の主体は大学の私的サークルであった。しかし、ルビンシテイン兄弟の弟こと、ニコライ・ルビンシテインが現れる。ロシア音楽協会モスクワ支部の一翼を担った彼は、指揮者としてモスクワで音楽活動を盛んに行う。また、1860年にはモスクワ音楽院の前身が誕生し、ピョートル・チャイコフスキーらが教師陣に加わる。この影響下から、セルゲイ・タネーエフやアントン・アレンスキーなどの、1880年代組ともいうべき次世代の作曲家が誕生していった。

また、この時期音楽活動、というか文化活動全般を担うようになったのは、サーヴァ・マーモントフを筆頭とした、商人のパトロンである。マーモントフの活動自体は19世紀末前後くらいまでだったのだが、早い話旧来の皇帝など主導のポストに人材をリクルートする役割として、専門家や金持ちを主体とした、音楽教育熱の高まりが、爆発的に増したのが1900年前後までのロシア音楽界だったのである。

革命直前

こうした熱を受け、グネーシン一族を筆頭にした人々が、私立の音楽学校を設けていく。加えて、ダヴィード・ショールの開いたベートーヴェン・スタジオの活動に代表的な、演奏活動の斡旋も行われた。そのうち、楽譜出版も旧来の工房にとって代わる、グートヘイリ(1859年)、ユルゲンソン(1861年)、クーセヴィツキーのロシア音楽出版(1909)などが大規模なものである。

日露戦争と血の日曜日事件を経た20世紀初頭には、雑誌の創刊や演奏団体の設立も相次いだ。また、それまでの西洋音楽一辺倒から、言ってみれば東欧のバルトークやコダーイ的な、民謡の収集研究も盛んになった。

しかし、マリエッタ・シャギニャンの、この時期のサークルは小規模なもので、ほぼ顔見知りが互いに論評しあっていたという言及もある(党への配慮もあるリップサービスも混ざってはるのだと思うが)。早い話、この時期のモスクワの音楽というのは、まだ一部の人間だけが独占していた状態だった、と思われる。

革命後

十月革命以後、アナトリー・ルナチャルスキーなどの活動もあり、レーニンらボリシェヴィキ政権は思想浸透のため、文化も重視していた。この時期特に重視されたのが、室内楽曲である。また、プロレタクリトなど、大衆に音楽教育を行うべしという機関の設立が相次いだ。こうした運動には自分の作風を流行らせたい音楽家も加わり、旧来の音楽リソースもある程度維持されたのである。

革命後のモスクワの文化を主導したのは、コンスタンチン・スタニスラフスキーや、ヴラディーミル・ネミロヴィチ=ダンチェンコといった、劇場の担い手である。また、指揮者のアレクサンドル・ヘーシンによって、実は初めての国営コンサート組織がこのタイミングで初めて設立される。1920年代には指揮者無しで演奏を行う実験的なペルシムファーンスや、かの有名な赤軍合唱団など、ソヴィエト連邦の文化を担う人々が登場し始めていった。

また、1934年に設立された全ソ劇場協会オペラ・アンサンブルも、シャポーリンやプロコフィエフ、モルチャーノフ、シェバリーンといった、社会主義的リアリズムを主導する作曲家たちのオペラを各地で演奏していった。さらに言えば、第二次世界大戦の独ソ戦によってスターリンらは文化政策の見直しを量り、むしろ独ソ戦を境に多数の団体の設立が相次いだのであった。

戦後

最近

参考文献

  • ニューグローヴ世界音楽大辞典初版(1995)
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