北欧音楽史

北欧とは、ドイツと国境線を取り合ったデンマークや大陸側の情勢に介入したスウェーデン、様々な国の支配地域として近世、さらには近代までその歴史をたどったノルウェーやフィンランドなど、国民楽派が興隆した辺境地域の中でも限りなくヨーロッパの中心に近い存在である。それは絶対王政期に政治的にも文化的にもドイツ地域と一体的だった、という点にも見出せる。また地理的には離れた存在であるが、文化的には一体性を帯びた存在だったアイスランドを忘れることもできないだろう。

そこで北欧という地域がどのような歴史を背景に、芸術音楽を紡いでいったかを見ていきたいと考える。

16世紀以前

中世における北欧は、キリスト教化されつつも、それ以前はヴァイキング、ヴァリャーグといった地中海世界とは別の文化の持ち主であった。つまり、西欧文明にコーティングされつつも、自らの伝統を保存していくこととなり、後々大きな影響を与える結果をもたらす。

中世の音楽については、独自の音階や、『ダウマ王妃の死』に代表されるようなサガ・エッダの音楽化といった固有性を持ちつつ、キリスト教の宗教音楽が広まっていく。

カルマル同盟が崩壊し、デンマークとスウェーデン、そして両国に領有される諸地域に分かれた北欧は、西欧と同様に絶対王政と、キリスト教文化を基底としていた。例えば、音楽史の観点から後者を見るとスウェーデン支配下のフィンランドで歌われた、16世紀の聖歌集『ピエ・カンツィオーネス』をあげることができる。

17世紀~18世紀

時代は17世紀、バロック時代へと移る。17世紀、最初に際立った作曲家として挙げられるのは、デンマークのクリスチャン4世の宮廷で活躍した、モウンス・ペーザスンである。一方スウェーデンにもグスタフ2世、クリスティーナ女王といった人々の宮廷に、デューベン父子などが現れた。

この時期の大陸音楽との境目はあいまいで、ドイツ地域で活躍したディートリヒ・ブクステフーデ、ユーハン・ユーアキム・アグレル、逆に大陸から渡ってきたゲオルク・フォン・ベルトゥフ、ヨハン・ヘンリク・フライトヨフといった人々の名前が北欧音楽史でもあげられる。

こうした宮廷音楽の最期の輝きともいえるのが、スウェーデンのグスタフ3世統治期である。グスタフ3世は叔父のフリードリヒ大王に似た啓蒙専制君主であり、彼の宮廷で活躍したフランチェスコ・ウッティーニ、ヨハン・ゴットリープ・ナウマン、ゲオルク・ヨセフ・フォーグラー、そしてヨーゼフ・マルティン・クラウスといったドイツ下りの作曲家たちがいたのである。

しかしグスタフ3世はやがて暗殺され、160年にわたる北欧の宮廷音楽の時代は終わり、バロック時代から古典派音楽の時代も終わっていく。

19世紀

19世紀、ついにロマン派の時代がやってくる。北・東ヨーロッパ地域におけるロマン派とは、あくまでも西欧側における後期ロマン派と並行して現れてきた、国民主義に属する作曲家を中心としてのみ語られることが多い。もちろん後に北欧五カ国となる地域でも国民主義の作曲家が多く現れ、民族的な音楽が多数作られていき、これらの地域での音楽活動を発展させていった。

しかし東欧と異なり、ここまでドイツといった音楽文化の中心世界と密接に結びつき、芸術音楽の伝統がすでに根付いていたこの地域では、必ずしも国民主義のみで語ることができるわけではない。そこでまず、北欧全体を段階的に見る前にデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドの4国にそれぞれ分けてみていく。

デンマークは、もともと北欧地域を主導する立場にあった、独立した国家ではあったのだが、19世紀前半は政治的に激変の時代であった。当時ナポレオン戦争などの影響からイギリスによる進攻やノルウェーのスウェーデンへの譲渡などがあって、戦争や政治的困難に陥っていたのである。しかし、デンマークの文化には重大な被害はなく、すべての児童に対し初等教育を受けさせようとする活動もあって、一般市民に知識が普及し1820~1850年にかけてはデンマーク文化の黄金時代となったのである。

デンマークではロマン派の先駆けとして、クリストフ・エルンスト・フリードリヒ・ヴァイゼやフリードリヒ・クーラウらが出た。特にクーラウは、ドイツにおける古典派からロマン派の様式とデンマークの民俗音楽様式を合わせた、デンマーク様式を用いて多数の曲を作った。ただしクーラウ自体はもともとドイツで生まれ育ち、そこから亡命してデンマーク王家に雇われている身分ということを踏まえる必要はあり、まだ純粋に国民主義的な作曲家が現れたわけではなかった。

そういう意味ではデンマークの音楽を発展させ確立させたのがニルス・ゲーゼともいえる。彼は初期の『交響曲第一番ハ短調』や序曲『オシアンの余韻』において国民主義的傾向を見せたが、次第に彼自身の作風は若いころライプツィヒで学んだメンデルスゾーンやシューマンの流れをくむドイツ・ロマン主義へと戻っていった。しかし1866年にコペンハーゲン音楽学校を設立するなど後進育成及び北欧諸国の音楽発展にも力を注ぎ、グリーグやニールセンにも教授し「北欧の国民楽派の祖」ともいえる人物であった。彼とその義父であるヨーハン・ペーター・エミリウス・ハルトマンによって19世紀デンマークの黄金時代が象徴されるのである。

こうした民族主義が流行していくデンマークには、さらにカール・ニールセンが現れた。ニールセンは、前述したとおりゲーゼに師事しているなど、出発点は民族主義的なロマン派であったが、標題音楽をあまり好まず、やがて過剰な音楽に反発し新古典主義へと向かっていった。

スウェーデンもまた、この時代まで独立を維持してきたかつての大国であったが、こちらもかつてほど影響力がなく、デンマークと似た状況にあった。しかし、デンマークが文化を発展させ黄金時代に向かっていったのに対し、スウェーデンは刷新、若返りの時代へと入っていったために文化の発展が比較的緩慢であった。

しかしそのようなスウェーデンの文化状況でも、フランス・アドルフ・ベールヴァルドという存在が出てきた。しかし、ベールヴァルドは生前あまり高い評価は得られず、さらに彼自身はあまり国民主義的でなかった。

スウェーデンにおける国民主義的運動は、ベールヴァルドよりも半世紀ほど後に生まれた、アウグスト・セーデルマンによってはじめられた。そしてこの後ドイツの影響が強いヴィルヘルム・ステンハンマルや、国民主義的作曲家ヒューゴ・アルヴェーンが続き、スウェーデンの音楽を確立していったのである。

ノルウェーはもともとデンマーク領であり、それが19世紀前半にナポレオン戦争の後始末でスウェーデンに移り、当時まだ独立国ではなかった。しかしノルウェーでも19世紀前半から、ヴァイオリン奏者であったオーレ・ボルネマン・ブルが国際的にも活躍していたのである。

そしてノルウェーにおける国民主義的運動は、ブルの少し下の世代で現在のノルウェー国歌の作曲者でもある、リカルド・ノルドロークが民族主義作曲家として活動を始めていった。さらに次に現れるのがピアニストや指揮者としても活躍したエドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグやヨハン・スヴェンセンである。

グリーグはライプツィヒ音楽院の卒業生であり、初期はドイツ・ロマン主義の影響が強かったが、やがて64年のブルとのノルウェー旅行やノルドロークの影響もあり国民主義的音楽を作るようになった。このグリーグが、イプセンの自身が民話をもとにして作った詩劇に付ける音楽を求める依頼を引き受け作曲したのが、代表曲のひとつである『ペールギュント』である。

その後ノルウェーではヨハン・ハルヴォルセンなど様々な民族主義音楽家が続いていく一方、ドイツ・ロマン派の影響を強く受けたクリスティアン・シンディングのような民族音楽にほとんど関心を示さない者もいた。

フィンランドは、中世以来スウェーデン領となっていたのが、ナポレオン戦争をきっかけに全土が完全にロシアの支配下に移行した。19世紀前半にはクラリネット奏者でもあったベルンハルト・ヘンリク・クルーセルが古典派作曲家として活躍していた。

その後指揮者としても活動していたロベルト・カヤヌスがフィンランドの英雄叙事詩『カレワラ』を用いて交響詩『アイノ』を作曲した。その曲に影響されたのが、ヘルシンキ音楽院で学び当初民族とはかかわりのないドイツ的手法で作曲を行っていたジャン・シベリウスである。

シベリウスは、同じく『カレワラ』を用いたクレルヴォ交響曲を作曲した。彼はその初演後に民族的伝統文化への認識が浅いことを痛感した。彼は、カヤヌスの依頼等もあり、地理的に近いものの民族系統から根本的に異なる他の北欧諸国の文化ではなく、フィンランド独自の文化に基づいた曲を作曲していった。

当時ロシアに自治が侵されつつあったことに対してナショナリズムが高まったこともあり、彼は同じ1865年に生まれたデンマークのニールセンとは対照的に、標題音楽の分野でロマン主義的、国民主義的な曲を作曲していった。こうしてシベリウスが言ってしまえばフィンランド的な音楽を確立し、シベリウスの師事を受けたレーヴィ・マデトヤなど多数の国民主義的作曲家がフィンランドにも出てきたのである。

ここまで見てきて分かるように、各国それぞれを取り巻く環境によって微妙に差異が生じているが、各国とも大まかな流れは共通しているということである。

それぞれの国は19世紀前半にすでに、その国独自の一般大衆のための娯楽音楽や民族音楽とは別に、大陸側のドイツなどの芸術音楽の領域で作曲活動を行っていく素地がすでに出来上がっていた。つまり、以前から北欧出身の作曲家たちがその作曲法に基づいて活動を行い活躍していたのである。その理由は、これらの国々ではすでに大陸側、特にドイツやイタリアの芸術音楽に刺激を受けて、18世紀までには古典派作曲家として活躍する人物も、大陸側ほどではないが現れていたためである。

やがて、この19世紀前半という時期に、あくまでもこの流れの延長線上ではあるが、大陸側の音楽に加えて自分たちの民族の持つ様々なものを刺激にして、それを自身の音楽に持ち込む作曲家が現れてきた。これがノルドロークやゲーゼ、セーデルマンやカヤヌスといった人々である。

彼らは自らの民族固有のものから着想を受けて作曲活動を行い、それらの曲を演奏活動などで広めていく。それと同時に、自身の民族の素材を用いていくことで独自の芸術音楽を作るという民族主義的発想を北欧地域に広めていくこととなった。

こうして19世紀後半には、音楽の分野において決して中心ではなかったこれらの地域に、国民主義的音楽とそれを用いた北欧地域での音楽活動が定着したのである。こうした傾向はグリーグやニールセン、アルヴェーン、シベリウスといったといった作曲家たちによってさらに発展していき、やがて国民主義にとどまらず作曲活動がさらにその先の段階に移されていく。

そして、フランスが万博を通じて他地域の音楽に刺激されたように、大陸側と互いに影響しあいながら20世紀前半の近代音楽にもつながっていくのである。

20世紀~21世紀

こうして時代は20世紀に移っていく。ここまで見てこなかったアイスランドでも、スヴェインビョルン・スヴェインビョルソンといった国民主義的な作曲家が誕生するなど、19世紀以来の傾向はまだ続いていた。しかし、時代は新ウィーン楽派や新古典主義、印象派といった近代音楽に移り、やがてそれらを継承した現代音楽の時代に移っていく。

さらに前提条件に付け加えるとすれば20世紀前半の二度の世界大戦も無視できない。ソヴィエト連邦とナチスドイツの抗争地域となった北欧諸国では、占領や他国からの圧力などが相次ぎ、国民主義がいっそう高揚したのである。この経験は以後の北欧諸国の政治動向にも影響し、現代政治とも密接にかかわることとなる。

20世紀初頭は、次第に無調音楽など近代音楽に脱皮しつつあったニールセンやシベリウスが、なおも活躍していた。一方、聴衆からは受け入れられなかったものの、フィンランドのアーッレ・メリカントのような前衛的な作曲家も現れ始めていた。バルト海を挟んだエストニアにもミカユロス・コンスタンティナス・チュルリョーニスが活動していた。

第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパ全土に前大戦の記憶を残したまま、つかの間の平穏が訪れる。この時代に現れてきたのが、ドイツの新ウィーン楽派やロシア・アヴァンギャルドといった十二音音楽や未来主義の作曲家たちである。

北欧にも当然この運動に属する作曲家たちが綺羅星のごとく現れていったのだ。列挙していけば、ノルウェーのファッテイン・ヴァーレン、スウェーデンのヒルディング・ルーセンベリ、デンマークのヴァウン・ホルムボー、フィンランドのエーリク・ベリマン、エイナル・エングルンド、エイノユハニ・ラウタヴァーラといった人々である。

しかし時代はナチスドイツの誕生と北欧全土が戦渦に巻き込まれた第二次世界大戦へと移る。ナチスドイツに占領されたノルウェーでは、ハラール・セーヴェルーが抵抗三部作を作り、中立国という綱渡りの立場で抵抗したスウェーデンではラーシュ=エーリク・ラーションが『偽装の神』を作りラジオで全土に流していった。この当時スウェーデンにはアイスランドから亡命してきたヨウン・レイフス、エストニアから亡命してきたエドゥアルド・トゥビンなども滞在していた。

しかし、やがて大戦は終わり、現代音楽の時代が始まる。

デンマークではホルムボーの弟子で「新しい単純性」をリードした「偉大なる二卵性双生児」と称されるイブ・ネアホルムとペレ・グズモンセン=ホルムグレンの両名、「無限セリー」の手法を開発したペア・ネアゴーといった1930年代生まれのブロックがあり、その下の1949年生まれのポウル・ルーザスが世界的な名声を得ている。

スウェーデンではラーションと同世代のグンナル・ド・フルメリ、グスタフ・アラン・ペッテションといった20世紀初頭の生まれの下には、イングヴァル・リドホルム、スヴェン=ダーヴィド・サンドストレムといった大戦以前の生まれが続き、『モーターバイク協奏曲』でおなじみのヤン・サンドストレムといった戦後世代もいるなど、層が分厚い。

ノルウェーでは北欧合唱界の重鎮ともいうべきクヌート・ニーステッド、文化省の創設した賞の名前にもなったアルネ・ノールヘイムといったそうそうたる顔ぶれに、マグネ・ヘルダールやラッセ・トゥーレセンといった1940年代生まれが続く。

フィンランドはおそらく現代音楽の分野では一番有名で、前出のベリマン、エングルンド、ラウタヴァーラの10~20年代生まれの3名の下にはペール・ヘンリク・ノルドグレン、カレヴィ・アホ、カイヤ・サーリアホ、マグヌス・リンドベルイといった作曲家たちが今もなお活躍している。

海を隔てたアイスランドでも、ヨウン・ノルダル、グンナル・レイニル・スヴェインソン、アトリ・ヘイミル・スヴェインソン、ソルケットゥル・シグルビョエルンソンといった戦前生まれのみならず、戦後生まれではカロウリナ・エイリクスドウッティル、アンナ・トルヴァルズドウッティルといった女性作曲家の活躍も目立つ。

さらにバルト海を挟んだバルト三国、特にエストニアでも現代音楽が盛んである。エストニアからは、世界的に有名なアルヴォ・ペルト、先に挙げたエドゥアルド・トゥビン、そしてウルマス・シサスク、ラトヴィアからはペトリス・ヴァスクス、といった人々の名前が知られている。

またアイスランドは、オーラヴル・アルナルズやヨハン・ヨハンソンといった作曲家に代表されるように、ポストクラシカルのメッカでもある。ポストクラシカルがクラシックかどうかの線引きは難しいが、それだけクラシックの文脈の作曲活動が活発に行われているということなのだ。

参考文献

  • 大束省三(2000)『北欧音楽入門』
  • 新田ユリ(2019)『増補改訂版 ポホヨラの調べ ーシベリウス、ニルセンからラウタヴァーラまで 実演的! 北欧名曲案内』
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