エミリィ・メトネルとアンドレイ・ベールイの歩み
ベールイとの出会い
エミリィは、軍隊生活を終えるとロマノフ王朝の下で検閲官として働き始めました。

仕事が決まったのはいいが、知識人を虐げる検閲官なんて!

ああ、早くアンナと結ばれてこんな生活から抜け出してしまいたい
このなかで、1901年秋、ボリス・ブガエフ、つまり後世・作家アンドレイ・ベールイと呼ばれる、一回り下の男に出会います。

ベールイと呼ばれるのはもう少しあとなのですが、面倒なので以下はベールイとして統一します。
この出会いは共通の友人・ペトロフスキーがもたらしたものでした。

やあエミリィ、これがボリスだよ

狼みたいな顔の男だ

狼みたいな顔の男だ
彼らは、お互いのことを狼のような風貌の男だと思ったと、知ってか知らずかそろって書き残しました。
エミリィはベールイともっと近づくために、1902年4月、モスクワの貴族会館で、アルトゥール・ニキシュがシューベルトの「ザ・グレイト」をリハーサルしているときに再会します。ベールイもニキシュに関心を持っていたためです。
ここでエミリィは、自分の全知識を総動員して、ベールイに音楽の講釈を行いました。

~というわけで、
ニキシュの奏でる音楽というのが理想的なものということが、おわかりいただけただろうか?

彼は、まるでツァラトゥストラみたいだ……
この延長線上で出版されたのが、ベールイの『第2シンフォニー』でした。
エミリィの目には、ベールイはソロヴィヨフだけではなく、ニーチェやゲーテ、ワーグナーらの影響も見てとれました。

ベールイには才能があるし、
ドイツ文化への興味も持っているようだ

せっかくなら彼を、
骨の髄までドイツ文化に染み込ませてしまおう
エミリィとベールイ
この2人は、1回りほど年が離れていたものの、鏡像のような存在だったと、少なくとも後世ベールイは語っています。しかし、逆に言えば1回りも年が離れていたので、エミリィは、ベールイに欠けた父性を持った兄的な存在に収まり始めていました。

~というわけで、
ニーチェはワーグナーの音楽をそう語ったのだよ

頼りになる人間だ。
本当の兄さんがいたら、きっとこんな風だったのだろう

ベールイはまだ知識不足だ
ちゃんと教えて、伸ばしてやらないと……
一方で、ベールイは、ソロヴィヨフ的な「世界魂」、つまり女性的な「ソフィア」という、現代の救世主を据える使命を持っていました。

あまり本筋に関わりないので詳細は省きます。
ざっくり、キリスト教の神的なものだと思ってください
ここで、ベールイにとっては1901年にその「ソフィア」に値するとみなしたマルガリータ・モロゾワとの出会いました。

彼女を一目見て思ったんだ
神なんじゃないかって

とはいえ、まだ知り合う前で、
一方的に姿が見られたくらいの関係でした

もしかして、1901年にこれだけ運命の出会いをするなんて、
何か特別なことが起きているのでは?

その通り!
これは「夜明けの年」なんだ!
おまけにこの2人は、幼少期に悪夢に苦しみ、別々のギムナジウムで同じパヴリコフスキーに虐げられ、ドストエフスキーにアンビバレントな感情を持っていたことから、すっかり意気投合したようです。
また、ベールイは、エミリィの関心のあった、人間の記憶の集合体を個は保存するのかどうかという考えに同じように共感を示します。

エミリィとは似たような人生を送ってきたし、
興味深いことも言っているので今後も長い付き合いになるのだろうな
こうして仲良くなると、この年にはエミリィはニコライにもベールイを会わせます。このときニコライが取り組んでいたピアノソナタ第1番の作曲において、第2主題で「夜明けの音」をとらえようとしたという共通点を見出したことから、ベールイとニコライもまた親しくなったようです。

へえ、これは「夜明けの音」をとらえようとしているんだね

でも、まったくまだうまくいかないんです……
しかし、この3人の芸術観を鑑みると、革新的な手法を推進するベールイと、旧来の美学にこだわるニコライには、実はそこそこ乖離がありました。このため、両方に共感を示すエミリィがある種の仲介者となったわけです。
アンナとの結婚
1902年秋、エミリィはアンナとの結婚を具体化させ始めます。さらにたまたまニジニーノヴゴロドの検閲官のポストがきまったので、アンナと結ばれてモスクワから脱出し、救われたいとのことでした。

アンナと2人で、静かに暮らそう
モスクワにい続けたら頭がおかしくなってしまう

そのあと蓄えも貯まったら、
2人でドイツに逃げだそう。それがいいに違いない
こうして、2人は結婚しました。ベールイとニコライは11月の結婚式に呼ばれます。ベールイはエミリィがいなくなることにショックを受けつつも、文通を始めます。

頼りにしていたのに、いなくなってしまうなんて……

まあ、毎日手紙でもやりとりし続けようじゃないか
しかし、この傍らでベールイがソロヴィヨフのソフィア崇拝の同志とみなした、アレクサンドル・ブロークとの文通も始めたことが、今後のベールイの人生の騒動のすべての始まりになりました。

あなたは生涯の同志になるかもしれない……

まあ、よろしくやりましょう

ブロークの妻です
しかし、エミリィは夫婦生活によって心身共にすり減っていったようです。この時期、彼が新聞に載せた評論には、性的志向への警告が繰り返されています。

夫婦関係などあるとはいえ、人間禁欲的に生活するのが良いのでは?
アルゴナウタイの出航
1903年6月、ベールイの父親が亡くなります。この直後の秋にベールイは「神的秘術について」というニコライの楽曲の評論などを含めたマニフェストをメレシュコフスキーの雑誌に投稿します。要するにこれは、この年頃からベールイの周囲に成立し始めた、アルゴナウタイ同盟のマニフェストとして意図されたものでした。

なあ、エミリィよ。
あのアルゴナウタイのように、真の美を求める探求に行こうではないか?
ニコライもそれを実現する器に値するのではないのか?

その通りだ!
一緒に金羊毛を探しに出航する、同志となろう!
このアルゴナウタイ同盟は、ニーチェの太陽の象徴と結びついた、金羊毛を求めて旅立つアルゴノーツにちなんだものです。これはベールイの親友、レフ・コビリンスキー、通称エリスの入れ知恵でした。ただし、エミリィの構想した新しい人間による星座の理想とも合致していたので、エミリィにも歓迎されました。

通称エリスです。
以後面倒なので、エリスで統一します
三角関係の始まり
エミリィはアンドレイ・メルニコフを通じて、アンナ・シュミットといったニジニーノヴゴロドの似たような存在と知り合っていきました。
ここで弟のニコライが、エミリィ・アンナ夫妻の家に住み始めたことが、すべての始まりとなります。

用もあるし、しばらく兄さんの家に居座ろう
どうやら、ニコライとアンナはあっさり燃え上がり、元鞘に戻ってしまったようです。
このタイミングで、ペトロフスキーなどにあてた手紙の中で、急にエミリィは自分のことをドイツ人と言い始めます。

どうも、ドイツ人のエミリィです

え?
このドイツ人というアイデンティティの確立は、当時ロシア帝国で盛んだったポグロムや、『シオンの議定書』の掲載といった形で流行していた反ユダヤ主義とも結びついた、後世でいうところのアーリア主義に進んでいきます。
少なくとも、エミリィが攻撃的な性欲衝動をユダヤ人に帰す傾向にあったのと、女性性=ユダヤ教的とみなす傾向にあったのは、彼の晩年の著書からも事実であったようです。

性欲に従うなんて野蛮な真似、あんな連中くらいだよ
こんなエミリィが、なぜか生涯何度もユダヤ人女性に惹かれていったのは、まじめに謎です。
この結果、1903年のエミリィは禁欲主義を説く手紙をベールイと繰り返しました。

性欲衝動に身を任せるなんていけないよ

でも……
ところが、アレクサンドル・ブロークとリューボフィ・メンデレーエワの結婚に感化されたベールイは、精神とエロスの関係に関心を持ちニーナ・ペトロフスカヤと不倫をした挙句、ブリューソフなどを巻き込んで盛大にやけどをしました。

「グリフィン」出版社のトップ・セルゲイ・ソコロフの妻です。
とりあえず不倫に疲れたので、誰でもいいから死んでください

とんでもないことになったー!?
ここで、ベールイはニジニーノヴゴロドのエミリィのもとに助けを求めに逃げてきて、エミリィはゲーテやカントの思想でベールイを教化していったようです。

一時のテンションで愛欲に身を任せるのは、よくないことなのかもしれない……

ゲーテだってこう言ってるじゃないか!
とりあえず、もっとドイツ文化に親しみなさい……
三角関係の悪化
立ち直ったベールイがやがて帰って行ったあと、ニコライがまたやってきました。この頃、ニコライはどうもスクリャービンが不倫問題によってロシアから逃げて行ったあと、彼の生徒だったマルガリータ・モロゾワを引き継いだようです。

離婚もできないし、
いったん落ち着くまで国外に行こう

とりあえずいろいろ裏から助けてあげるので、
代わりの先生をどうにかしてください

それで、お鉢が回ってきたと……
このマルガリータ・モロゾワは、端的に言えばこの時代のサロンの女主人であり、モスクワの芸術家にとっての大きなパトロンでした。
つまり、ニコライは完全に将来への道が開けます。しかし、そのことでエミリィは、逆にアンナとの関係を若干譲ってしまったようです。

とはいえ、兄がいる家であそこまで開けっぴろげに、
ピアノの侵略を受けるなんて……
ところが、ニコライが知らないうちに、アンナがニコライの子を妊娠してしまいます。

え?妊娠した?
全く心当たりがないし、常識的に考えてニコライの子供では
ニコライは当然そんなこともつゆ知らず、エミリィにピアノソナタ第1番をささげました。

兄さんのおかげだよ

無知というのは、罪なのかもしれない……
この後、この三角関係を構成する3人は、ドイツへと旅立って行きました。
ニコライがベルリンなどでコンサートを開いていた間、エミリィ・アンナ夫妻はエミリィのあこがれの地だったワイマールに向かいます。なぜなら、母方の先祖のゲプハルト家はこのチューリンゲンの出身で、中でもワイマールはゲーテとニーチェの晩年の地だったからです。

ドイツは素晴らしいなあ
やはり性根はドイツ人なんだ
ところが、1905年1月2日、アンナは子供を死産しました。ここで、エミリィはニコライを呼び寄せ、ついにアンナの妊娠そのものから明かしたようです。

今からお前にすべてを話そう
もしかして、お互い一緒に入院してしまった方がいいのかもしれないなあ

え!アンナが妊娠……以前に父親が……!?
しかし、アンナがどちらも捨てることもできなかったこともあり、この3人は秘密を共有する一種の共犯者となっていきました。
エミリィの再始動
一方で、エミリィはゲーテやニーチェのアーカイブなどを訪れ、ニーチェの妹・エリーザベト・フェルスター=ニーチェや、ニーチェの友人ハインリヒ・ケーゼリッツ、通称ピーター・ガストらと知り合いました。

ニーチェの妹です
これに後押しされたエミリィは気力を取り戻し、ベールイが投稿するためのプラットフォームとドイツ文化とロシア文化の懸け橋を兼ねた雑誌創刊を夢想し始めます。

ようし!まずは旗艦となる雑誌を作らないと
また、ニコライは、アンナと知り合った若い資産家、ヘドヴィヒ・フリードリヒと交際を始めたようです。これは、エミリィにとっては、出版社設立の計画における資金源になるとみなされました。

こんな悲劇を生まないうえに、
いい出資者にもなるだろうから、一石二鳥かな?
こうして彼ら3人がロシアに戻った時、彼らの国では「血の日曜日事件」が起きていました。

民衆を撃つような皇帝など、国のリーダー失格ではないか!

日露戦争やってる中でさらにまずいことになったな……
続く三角関係
これと全く同じタイミングで、ベールイとブローク夫妻は三角関係に陥ります。このあたりの経緯は、エミリィの人生に無関係なので、カットします。

もしかして、リューボフィは「ソフィア」なのでは?

え?

え?
一方で、ベールイはこのタイミングで、マルガリータ・モロゾワのサロンには入れたようです。

あなたの騎士として忠誠を誓いましょう

なかなか面白そうな男だ
一方で、エミリィは、革命の機運が高まりつつあったこんな状況であるにも関わらずツァーリ側で検閲をやるという仕事に精神を悪化させ、弟・ニコライとアンナの関係も続いたままでした。

世の中が変わろうとしているのに、
いったい何をやっているのだろう……
ここで、アンナはモスクワにたびたび逃げ出したようです。その口実として、妹のマリアがメトネル家の実家の取り仕切りをやっていたのが使われました。
1906年2月、ついにエミリィは仕事を辞めました。これは、公務員として要職のポストに任命されたのとほぼ同じタイミングで、今後の栄転が(少なくとも当時時点では)約束されていたのですが、全部投げました。

もういい!
自分の人生をちゃんと生きよう!
こうして、エミリィは、『金羊毛』で編集を行う、編集者としての新しいキャリアをスタートさせたのです。
ヴォリフィングの活動開始
1906年3月、エミリィが公務員を辞めたことで、エミリィたち夫婦はモスクワの実家に戻ってきていました。そこにはニコライが相変わらず暮らしています。

よくよく考えたら、
もう30手前なのに浮いた話の一つもなく実家暮らしなのか……

そこは、良くも悪くも一途ということで……
ここで、ベールイによって、エミリィのペンネーム、ヴォリフィングがつけられます。これは、ワーグナーの『ニーベルングの指環』でジークムントが最初に名乗ったWälsungにちなんだものでした。

ヴォリフィング……いい名だ……
なんだか狼っぽいし
エミリィは、ヴォリフィングとして弟・ニコライの覇権を確立させようとしました。ここでエミリィとベールイに目をつけられたのがラフマニノフとスクリャービンであり、彼らによってこの2人がネガティブキャンペーンをされていきました。一方、ニコライはベートーヴェン、シューマン、ワーグナーの延長線上にあるとされたのです。

ラフマニノフもスクリャービンも大したことないですよ。
ドイツ音楽の正統な後継者である、ウチのニコライが一番ですよ

そーだそーだ!

普通に逆効果なような……
アルゴナウタイ同盟の面々とも知り合いになっていったエミリィでしたが、両親の家で偽メニエール病が悪化しました。

また右耳が……
こうして、オーストリアのシュタイアーマルクでエミリィは療養することになりました。ここで、エミリィは、反ユダヤ主義の第一人者とも言うべきヒューストン・ステュアート・チェンバレンの思想と出会い、彼を自分と同じ考えの先駆者とみなし始めます。

チェンバレンの思想は我が意を得たりという感じだな

とはいえ、実は最後まで会うことはなかったのですが……
こうした、反ユダヤ主義≒反エロスのエミリィの思想は、ベールイがブローク夫妻に撃退されたことと、アンナの弟・アンドレイが人妻と無理心中したことで、悪化します。

人の妻に横恋慕して……
もうお前なんか知らん!

ひぃ!
逃げ出す羽目になったベールイがミュンヘンに向かったことはエミリィの入れ知恵であった一方、エミリィはベールイとアンドレイを、似たような存在だとみなしました。

そもそも悪いのはあの女なのでは……?

え?
エミリィとドイツ音楽界の対立
エミリィはペテルブルクの代表的な評論家・ヴァチェスラフ・カラトゥイギンをライバル視し、彼の推すドイツのマックス・レーガーを敵視しました。なぜなら、カラトゥイギンはレーガーこそバッハ、ベートーヴェン、ワーグナーの後継者とみなしたからです。
ここで1907年1月、エミリィはニコライとともにミュンヘンでのレーガーのリサイタルを見に行き、レーガーをさながら『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のベックメッサーとみなす、攻撃的な論考を発表します。
また、2月にはおなじくカラトゥイギンのお気に入りであった、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』を見に行き、彼をツァラトゥストラになりすました道化だと攻撃します。

いや~ドイツ音楽の後継者は、
何をどう考えても普通にマックス・レーガーやリヒャルト・シュトラウスなのでは?

何!許せん!

よくよく考えたらただの巻き添えな気がする……

正直面識もないし……
こうしたドイツ音楽界への攻撃的な論考は、やがてエミリィのアーリア主義と結びつき、人種差別的なものになっていきました。ただし、この時点でもエミリィはリヒャルト・シュトラウスをユダヤ人であるメンデルスゾーンとマイアベーアの延長線上に位置づけるなど、ワーグナーと近しい思想の持ち主でした。
しかし、こうした攻撃的な態度とは、要するにこの2人があまりにも人気であり、弟・ニコライの音楽性が受け入れられていないことの証明でもありました。

ウチのニコライがドイツ音楽の後継者なんだ!

兄さん……
ベールイとブローク
ここで、まったく同じタイミングで、ベールイが『天秤座』でブロークらペテルブルク文学界を攻撃します。ベールイはエリスやブリューソフにも後押しされ、ソフィア論を放棄し、貶め始めた彼らを、だいたいエミリィと同じような口調で攻撃したのです。

いやもうソフィアとか知らないし……
そんな価値もないんじゃない?

だからってこないだの『見世物小屋』みたいなのは、
喧嘩売りすぎでしょう……
しかし、この頃からベールイとエミリィの間に、若干の意識の差が出始めました。ベールイは、ショーペンハウアー的な音楽を最高位に置く芸術観をもはや受け入れることができないとし、エミリィの主張に反し始めたのです。

音楽が芸術の中で一番上なのは、やはりおかしいのでは?

何!
この結果、『金羊毛』上でエミリィと論戦を繰り広げ、最終的に深刻な衝突を防ぐために外交的に解決しました。

別にあなたと戦いたいわけではないので、
落ち着いてください
この時点では、ベールイが新しく出版した『第4シンフォニー』が、ベールイの先輩格のギッピウスだけではなく、ニコライにもまだささげられていました。この著作は、ベールイがブロークとの体験と、ワーグナー的な創作法を文学に持ち込んだもので、ニコライの『8つの情景画』に影響されていたということによるものでした。

これはあなたにも送りましょう
あなたの曲に感銘を受けたこともあるので

ありがとう!
この頃はまだエミリィとベールイの関係は、ちょっとしたいさかいで途絶えるようなものでなかったのです。
第2の悲劇
このなかで、アンナはニコライの子供を再び身ごもります。エミリィはアンナの苦悩と自分の偽メニエール病を結び付け、精神的に追い込まれました。

すべてつながっているのでは……?
ということで、3人は再びワイマールに逃げだしました。ニコライは、ベールイがニーナ・ペトロフスカヤにささげた詩を歌にし、マルガリータ・モロゾワにささげる算段などを付けていきます。
ところが、1907年10月初旬、ニコライがドレスデンに向かった後、アンナがまた死産します。この悲しみと恥辱が3人にどのような感情を呼び起こしたかは、よくわかりません。

兄さん……

……
再度の立ち直り
10月下旬には、ニコライはベルリンでクーセヴィツキーとコンサートを行いました。クーセヴィツキーはユダヤ人なので、エミリィにとって都合は悪かったのですが、ニコライの立場強化のために利用できると考えていたようでした。

もう今ではヨーロッパ時代のことはあまり触れられませんがね

後々のことを考えると、
クーセヴィツキーに与したのは失敗だったのでは?
しかし、ベルリン・ライプツィヒ・ドレスデンで行ったコンサートでは、ニコライはさながらモダニストと評価されてしまいます。

ふざけるな!
ドイツ音楽の正統な後継者であるウチの弟が、あんな低俗な連中と一緒にされるなんて……
こうして、ショックを受けたエミリィは、3人でロシアに戻ると、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガー、「堕落した」ドイツの音楽評論家を攻撃する論考を発表しました。
また、エミリィは、ラフマニノフの交響曲第2番を聴き、この曲でラフマニノフは自分の心の中の「悪魔」から身を守れなかったと、肩透かしを食らったようなことを書いています。

ラフマニノフもいい線行ってはいると思うが、
さすがに今回の交響曲第2番は微妙だったな……
生産され続ける三角関係
1908年春、エミリィはベールイを自分に同一視した結果、ベールイが恋心を抱いていたマルガリータ・モロゾワに似たような感情を抱き始めます。

なるほど……彼女がソフィアか……

?
しかし、エミリィにとっては、モロゾワはヘドヴィヒ・フリードリヒと同様、出版社設立のための資金源という、打算的な期待も持っていたようです。
しかし、ベールイ・モロゾワ・エミリィの3人はこのあとほぼ一体的に活動し、モスクワの知識人の中でリーダーシップを発揮していきます。しかし、あまりにも一体化していたので、時にはこのようなこともありました。

メトネル?

モロゾワです
エミリィは、ベールイに対しては、感情的なイエナ・ロマン派ではなくゲーテを手本とするように訓戒を述べていく一方で、相変わらずアンナ・ニコライとともに実家暮らしでした。

とはいえ、ニコライはあまりにトラウマになったのか、
もうそういう気はないようだ
一方で、ベールイとともに自由美学協会や宗教哲学協会で知的交際を行っていく中で、ベールイはエレナ・ブラヴァツキーやルドルフ・シュタイナーの思想に感化され始めます。

神智学の思想、これはなかなかいいかもしれない……

ちなみにもともとはロシアの出身です

この頃はまだ神智学協会の人間です

あんなオカルト思想を!?
これがエミリィを苦しめていくことになります。
さらに、アンナとニコライが両親などに疑惑の目で見られる中で、エミリィは自分を楽にするために、ドイツに再び単身で渡っていきました。

ああ、もうすべてが嫌になった。
一度ドイツに行ってすっきりしよう
エミリィのドイツ生活
エミリィは11月にベルリンに行き、マックス・デソワールらの講義に参加します。

PSI能力の語源になった超心理学の提唱者です
さらに、敵情視察といわんばかりに、ルドルフ・シュタイナーとも会いました。

あれが、シュタイナーねえ……

誰?
しかし、ここでエミリィは、チェンバレンの思想にさらに感化されてしまい、人種闘争やこれまで以上に攻撃的な言動をするようになりました。
例えば、1908年12月の評論には、アジア的な出自のユダヤ人、例えばグスタフ・マーラーといった存在が、ベルリンの音楽生活を商業的・工業的に変えてしまい、これがヨーロッパに広まっているとしたのです。おまけにエミリィは、ユダヤ人ではないリヒャルト・シュトラウスやマックス・レーガーも、こうした動向から登場した存在だとみなし、ワーグナーのように彼らと戦っていく抵抗を見せなければならないとしたのでした。

あんなマーラーみたいなのがいるからいけないんだ

マックス・レーガーやリヒャルト・シュトラウスの責任まで取らされるのは……
1909年3月、モスクワにエミリィが戻ると、モロゾワが直前に戻ってきていたスクリャービンをベールイらと知り合わせようとします。しかし、結局これはうまくいきませんでした。

やっとロシアに戻ってこれました

スクリャービンを紹介しましょう

スクリャービンなんかにベールイが感化されたら困る!

そう言うなら仕方ないか……
おまけに、こうした流れでモロゾワとスクリャービンも仲たがいをしてしまい、スクリャービンの側にはクーセヴィツキーが新しいパトロンとして付きました。

もうついていくのは無理そうです……

資金面に関してはウチで面倒見てあげるよ

とはいえ、クーセヴィツキーがパトロンみたいなポジションだったのは、
一瞬のことだったんだけどね

例の私の記録が始まるのが大体このくらいからです
ニコライの成長
このクーセヴィツキーの活動として、新しい出版社が築かれることになり、ラフマニノフやスクリャービンなどの中に、エミリィはニコライも加えさせます。

ラフマニノフと協力して、新しい出版社を進めることにしたよ

昔からお互い世話になってますからね

その計画、ウチの弟も噛ませてくれ!
さらに、ニコライにはゲディケと同じタイミングで、モスクワ音楽院の教授職のオファーがあり、ニコライはこれを受けます。

ピアノ科の教授って言っても、
本当にそんなたくさんの人間の面倒を見切れるのかな……

不安がってるようだが、これで将来安定かな……?

スクリャービンの裏にいるクーセヴィツキーみたいに、
ベールイやニコライのマネジメントやパトロネージをしないと……
人間関係の変化
しかし、ベールイは『銀の鳩』の執筆に取り組むと、アンナ・ツルゲーネワと知り合います。

ツルゲーネフやバクーニンは親類です

西洋人とはまた別の美しさの持ち主だ
知り合ったのは、ツルゲーネワの親戚で、フランス文化を重んじていたダルハイム夫妻が担っていた、メトネル家のはす向かいの「歌の家」でのことでした。

室内声楽をロシアに広めるために頑張らないと

ご近所さんだしお手伝いしますよ
当然エミリィは、ダルハイム夫妻には敵対的でした。

なんで弟もベールイもあんなフランスかぶれなんかに……
さらに、この頃ルドルフ・シュタイナーの影響が強い、アンナ・ミンツロヴァがアルゴナウタイ同盟に関わり始めました。ベールイは彼女によって神智学など神秘主義にのめりこみ、ペテルブルクのヴァチェスラフ・イヴァノフらと、東洋から身を守るための薔薇十字団になることを彼女から期待されていました。

あの日本のような東洋から身を守るために、
我々で結束するのです

ソロヴィヨフの思想ともあっているような気がする

なかなか面白い人だろう?
エミリィもまた、ベールイ、エリス、ペトロフスキーらと同じように、彼女に惹かれていたようでした。

なかなか面白い人かもしれない

やはり、我々が進むのはあの神秘主義なのでは?

アルゴナウタイの進む道先を照らしてくれそうだ

本当は進むべきなのはこの道なのかもしれない……
しかし、晩春、ついにメトネル家の両親が、真実を知ってしまったようでした。結果、ニコライとアンナは堂々と海外旅行に行きます。

もう何年も我慢したけど、
これで堂々と一緒に行動できる

とはいえ、こっちと縁が切れたわけでもなく、
今一つよくわからない関係に落ち着いてしまったな……
7月にドレスデン近郊のピルニッツでエミリィも合流し、実はフリーなのはニコライではなくエミリィであることを理解したヘドヴィヒ・フリードリヒは、エミリィとの関係を強めていきます。こうしたヘドヴィヒに対し、出版社の資金源になるようエミリィは働きかけました。
一方で、ベールイはエミリィに喜ばれたいためか、エミリィの反ユダヤ主義をそっくりそのままロシアに置き換えた論考を発表しています。

やはり、あんな連中に文化的に侵略されてはいけない
この秋に、ピルニッツからエミリィはベールイに、出版社設立の計画が最終段階に入ったことを伝えました。

資金も集まったし、
そろそろ出版社もできそうだろう

おお、いよいよ
ムサゲート設立
この時期旧来の象徴主義の出版社は危機に瀕していました。よって、エミリィやベールイらが、ミューズたちのリーダーであるアポロンにちなんだ、ムサゲートと名付けた新しい出版社で躍り出ようとします。

我々アルゴナウタイが、ムサゲートで象徴主義を新しい段階に移す
エミリィとしては、ニーチェのディオニュソス主義的なものから、ロシア文学界をアポロン主義的に昇華させ、ロシア象徴主義者をドイツ化する壮大な構想を持っていたようです。ベールイやブローク、ヴァチェスラフ・イヴァノフも、神秘主義への行きすぎを反省し、こうした流れをある程度歓迎していたのか、このころはドイツの雑誌『ロゴス』との連携にも特に何も言いませんでした。

これからの象徴主義は、
ドイツ流の堅実なやり方で進めさせてもらう

ということですよ?
ペテルブルクのみなさん?

まあ、流石に前世代のあの人たちが、
その辺しっかりしてくれなかったからねえ

特にないんでパス
エミリィがロシアに戻ると、アルゴナウタイ同盟が実質的にムサゲート出版社のメンバーとなりました。
しかし、自分の目標を全うすることが近づいてきたことで、緊張が走ったエミリィの言行によって、ベールイはエミリィが自分やニコライを支配下に置きたい専制者なのではという疑念を抱き始めました。

あと一歩なんだ!
しっかり言うこと聞いてくれよ!

本当は、他人を操りたい性分なのでは……?
ベールイに打ち込まれたくさび
エミリィはフランス音楽やフランツ・リスト、ムソルグスキーを広めようとする、「歌の家」のダルハイム夫妻を、弟・ニコライやベールイが参加していたにもかかわらず、はっきりと敵視し始めました。

元をたどればドイツ音楽がああなったのなんて、
ハンガリー人のリストのせいじゃないか

リストがワーグナーを引き立てたって言ったって、
あんなのファフナーをけしかけたミーメでしかないよ

ムソルグスキー!
あんなのドストエフスキーと一緒だ!劣っている!
また、ダルハイム夫妻が神秘主義に通じていたのもこれを助長させました。
エミリィは、ベールイに対してツルゲーネワのようなフランス・カトリックと結びついているアジア人と関係を断つように迫ったり、『金羊毛』の最終号で「歌の家」のネガティブキャンペーンを張ったりと、ダルハイム夫妻を徹底的に攻撃します。

頼むから、あんなアジア系と仲良くしないでくれよ

なんだかどんどん煌めきが薄れているような……
ところが、ベールイが新しく完成させた『銀の鳩』は、エリスの入れ知恵などもあり神秘主義的でした。この内容を、エミリィは受け入れがたく感じます。

なんだ今度の新作は!

エリスがいい題材を持ってきたのでね

やはり、神秘主義は良いものでしょう?
1910年2月、ニコライがコンサートにペテルブルクに向かうと、アンナとエミリィもこれについてきました。このとき、エミリィはヴァチェスラフ・イヴァノフの「塔」に向かいます。要するに、エミリィはイヴァノフを自陣営に加えようとしたのです。

これまでのことはいったん置いておいて、
我々ムサゲートと一緒にやりませんか?

具体的なアイデアもすでにあるよ?
エミリィはイヴァノフと今後の展開を具体化させていく一方で、ミンツロヴァを通じてマルガリータ・サバシニコワと知り合います。

裕福な家の出の画家です

ついこないだイヴァノフといろいろあって別れた妻です。
もっとも、生涯交流を続けるのですが……
ここで、サバシニコワは、エミリィに惹かれたらしく、すぐにエミリィの肖像画を描いています。

エミリィ……
なかなか魅力的な人ね

よくわからないが、
気に入られたようだ
一方、ムサゲートと並行する形で、モロゾワが「道標」出版社を作りました。

ムサゲートができたとはいえ、
出版社問題はここ数年ずっと象徴主義界隈の懸念事項でしたからね
ベールイとの対立への移行
6月、エミリィはサバシニコワを説得してシュタイナーの講演会に行こうとします。要するに、自分の身近で影響力を増すシュタイナーを試そうとしたのです。

一度シュタイナーを試しに行きたいんだ

ごめんなさい……
すでに予定が……
はじめ、サバシニコワはこれに同道できず、結局アンナ、ニコライとブルターニュを経由して、いつものようにピルニッツに向かいました。
しかし、10月初旬、チューリヒで、すでにシュタイナーにエミリィのことを伝えてきたサバシニコワと合流します。サバシニコワによると、シュタイナーはエミリィにも自分たちのやっている訓練が必要であるとしたようです。

先に様子を見てきたけど、
結構好意的な印象……

次はそのエミリィとやらも連れてきなさい

予定も狂っちゃったし、今回はあくまでも旅行にするかあ
ここで、サバシニコワは、エミリィとともにゲーテの旅程をたどっていきます。エミリィはアンナに彼女との愛を語る手紙を送った一方で、ある大事件の一報が届きました。
アンドレイ・ベールイが、ツルゲーネワと婚約したのです。