エミリィとユングの出会いとベールイとの断交への道筋
スイスへの追放とユングとの出会い
エミリィは、ミュンヘンでワーグナーの『パルシファル』を聴いていた休憩時間に、宣戦布告を知ります。3日後には『トリスタンとイゾルデ』を聴き、ヨーロッパに「神々の黄昏」がせまっていると感じたまさに次の日、ロシア人であると逮捕されて国外追放になりました。
ドイツから追放するだって!
ドイツ系に対してなんて仕打ちだ
ここでエミリィは、スイスのチューリッヒに向かいます。
なんかスイスにも精神分析家のグループとやらがいるし、
中立国のスイスでも精神分析も受けられるか……
まあ、金持ちのはとこのロニアもいるし、
何とかなるだろう
スイスにビューラーグループを築いた私の息子の内、
4男に嫁いでいました
ここで、エミリィはすぐにオイゲン・ブロイラーに連絡を取り、担当者のアサインを依頼します。ここでブロイラーに紹介されたのが、何の因果かこの時期フロイトから離反したばかりで、今後の身の上について悩んでいたユングだったのでした。
精神分析を受けに来たので、
担当医を紹介してください
じゃあ、ユングが今空いてるよ
今更触れますが、あのユング本人ですよ
この、ユングも割と難局にあったというのが重要です。つまり、エミリィも悩んでいたのですが、ユングも師匠からの離反と戦争で悩んでいたところに、天啓のようにエミリィが現れたのです。
後世、ユングの60歳を祝う回顧録の中で、エミリィは彼との出会いを運命に決められたものだと述べました。
エミリィはただちにユングの著作を読み、自分のゲーテ観やワーグナー観に近しいものを見て取っていきます。また、ユングがメレシュコフスキーといったロシア人にも目を通していたことに満足しました。
フロイトやアドラーじゃないのか……と思ったけど、
知性もあるし、なかなか見る目がありそうだ
治療の始まり
ユングとエミリィは、ユングとエミリィが近しい思想の持ち主だったこともあって、あっさり意気投合したようです。ヨハン・ヤコブ・バッハホーフェンやヘンリー・ライダー・ハガードなどが話題に上がり、リビドーを性的にとどめず、生命エネルギー全般に拡張したユングをエミリィは受け入れやすいと感じました。
エミリィは週5日ユングの下に通い、10月には絶望感から解放されます。一方エミリィもまた、ユングにロシアの知的体験を伝えるという得難い経験を与えました。
へえ、ロシアではそんな考え方が広まっているんですか?
話しやすいうえに、こちらの話に興味を持ってくれるので、
やりやすい相手だ
ユングはエミリィを内向性とし、彼の攻撃性は一種の防衛機制によって心がさながら要塞化されたものとしました。
つまり、ユングはエミリィを、極度に内向性を帯びた思考と無意識に外向性を帯びた感情が激しく対立したとするのです。
あなたはアメリカに渡ったイギリス人のようなものです。
自分をドイツ人と思い込んで、ロシア人になることを妨げているのです
そういうものなのでしょうか……
しばらくすると、ユングは、エミリィが治療を行っている自分に対し、これまで自身の癒し手であったゲーテを投影している「転移」をしていることに気づいたようです。
あなたは私を救ってくれる存在のようだ
どうやら、私をゲーテの類だと思い始めたようだ……
戦争によって割かれたアンナたちに対し、エミリィはユングがいなければ自分がニーチェと運命を共にして狂っていたのだろうと手紙を送っています。一方で、ユングもまた、大戦争という極限状態の中、ユニークな経験の持ち主であるロシア人文化人の語る経験に、魅力を感じたようです。ここで、エミリィは自分がユングを魅了したことを惚れ惚れとアンナに自慢げに語りました。
私の魅力にユングはすっかりメロメロのようだ
エミリィと女性たち
シャギニャンもエミリィと同様に国外追放されてチューリッヒにいました。
ところが、エミリィは、ゲーテの著作を終えてしまったこともあり冷めており、自分を救い出そうとするシャギニャンの願望に恥辱を覚え始めました。こんなエミリィに対し、ユングも距離を置くようにアドバイスし、シャギニャンに週に一度以上会うことを拒否したとわざわざロシアにいるアンナにも伝えています。
あの女性とは距離を置いた方が良いでしょう
お願いだ。
週に1回会うか会わないかくらいの関係でいいだろう?
そんな……
しかし、シャギニャン側からすると、自分の救いでもあったエミリィを失ってしまった形となりました。
なお、このころエミリィとアンナは正式に離婚していたものの、アンナはいまだにエミリィとニコライとの関係をはっきりさせていませんでした。しかし、この時点でエミリィはシャギニャンにもヘドヴィヒ・フリードリヒにも冷めており、エミリィが気まぐれに結婚でもするのではないかと不安がるアンナをなだめたようです。
アンナと別れたとはいえ、
結婚を前提にしたお付き合いをしている人もいないし、何かの拍子によりを戻すこともありそうだな……
銃後の関係者たち
このタイミングでロシアのムサゲートは、エミリィのゲーテ論と、エリスの反シュタイナーのパンフレットを発売できました。ただし、エリスのパンフレットはベールイが考えていたほど攻撃的ではありませんでした。
エリスに関しては、人智学協会で出会ったオランダ人のヨハンナ・ポエルマン゠ムーイと、中世神秘主義の秘密結社を新たに結成したことが原因で人智学協会から抜けたので、正直単なる宗派替えくらいのものだったのです。
人智学協会じゃ、かつてミンツロヴァが語ったような理想も叶えられないって思ったからね……
また、ニコライも、エミリィとの別離によって新しい人生を始めます。エミリィがいなくなったことで翼を切り取られたように感じ、作曲ができなくなりました。また、兄のベッドで眠り、兄のソファに座って読書をするなど、いなくなった兄とテレパシーか何かでコンタクトを取るかのようにふるまいました。
こうすれば、エミリィ兄さんがそばにいるんじゃないかって思えて仕方ないんだ……
そんな彼らを支えたのが、第一次世界大戦の勃発によってロシアにあっけなく送り返されたイリインと、エミリィがいなくなったことで友情が強まったラフマニノフ夫妻らでした。
力になりますよ
お兄さんとはいろいろあったが、
ウチには財産もあるし困ったときには助けてやるからな
ありがとうございます……
しかし、宗教哲学教会は反ドイツの愛国主義にまみれ、出席したニコライやアンナの送るある程度控えめにしたエミリィへの情報共有でも、友人を失う覚悟をエミリィに持たせました。
今日は戦争について語り合いましょう
『ファウスト』のオチに象徴されるように、ドイツ文化なんて劣っているよ
カントの思想が今クルップ社の大砲につながってるんだろうね
あんな汎ゲルマン主義を掲げてる小人の「ミーメ」よりも、ロシアの方が優れているよ
あいつらは所詮竜の「ファフナー」なんだから、
我々にはあいつらから解放する使命があるんだ
みんな一体何を言っているんだ!?
ちなみに、ベールイはこの頃、実はほぼエミリィのいるすぐそばのドルナッハでシュタイナーとともにいました。ユングはベールイにも興味を持ち、『銀の鳩』などを読み始めます。ユングはエミリィにとってのベールイを、ある程度自分にとってのフロイト的な存在だとみなし、エミリィにベールイやシュタイナーと和解すべきとしました。
どうせ目と鼻の先にいるんだから、
直接会ってきて片を付けたらいいんじゃないのかい?
そういうものなのでしょうか……?
ベールイとの再会
1914年11月末、シャギニャン一家は結局ロシアに戻っていきます。その翌日、ツルゲーネワの姉のナタリア・ポッツォがエミリィの下を訪れました。
そもそも1909年からナタリア・ポッツォはエミリィと交流があり、妹がシュタイナーに感化されていくのと並行して、彼女の方は実はエミリィに惚れていったようです。
ベールイの人智学協会での様子を、
どうか逐一教えてほしいんだ……
シャギニャンを追い出したようだし、
これをちゃんとこなせば彼女に代わって見初められるかもしれない……
ナタリア・ポッツォはベールイの動向をエミリィに伝え、早い話ベールイへのスパイの役割を担うことになったということです。。ただし、エミリィの背後にユングがいることは知らず、あくまでもエミリィは純粋に人智学協会に興味があるものとは思っていたと思われます。
また、ユングはポッツォとの関係をある程度肯定的にとらえ、アンナ、モロゾワ、ヘドヴィヒ・フリードリヒ、サバシニコワ、シャギニャン、ポッツォという女性遍歴を分析していきます。なお、これらすべてはエミリィはアンナに伝えていました。
今ポッツォに色目を使っているのは浮気じゃないよ。
単純に一夫多妻的な傾向がメンタル面にあるだけだよ
この数日後、エミリィはドルナッハの人智学協会に乗り込みます。ここで久しぶりにベールイに対面したエミリィは、自分がシュタイナーを批判するゲーテ論を出したことを明かし、逆にそんなことでもう2人の友情は壊れないとも添えました。
この本にはシュタイナーへの批判がたくさんあるけど、
きっとこれを読めば全部元に戻るから!
え?
エミリィはベールイのいた環境にすぐ魅力を感じ、とっくに菜食主義者ではあったものの、今受けている精神分析とオカルティズムの共通点を見出します。アンナには冗談で結局人智学協会員になるべきではないかとも伝えていました。
もしかしたら、最初からこっちも人智学に染まっていれば、全部うまくいったのかな……?
進行し始める破局へのカウントダウン
一方で、エミリィがドルナッハを何度も訪れていく中で、ベールイはエミリィの本に込められたシュタイナーへの悪意に衝撃を受けます。
エミリィが書いたこの本おかしいよ……
結果、ベールイはゲーテやシュタイナーの著書を読み漁ることで理論武装しようと試みます。そのうち、どうもエミリィがシュタイナーの著作の4分の1くらいしか知らず、自分の独善的な極論を本で展開しているだけではないかと思い始めたようです。
また、ゲーテの科学的な著作を読むうちに、シュタイナーの方がこれらの一般に評価されていないゲーテの著書をちゃんと咀嚼していると感じ始めました。
実はゲーテについて本当にちゃんとわかっているのは、
エミリィじゃなくてシュタイナー先生の方なのでは……?
早い話、本で自分を論破して和解しようというエミリィの試みに、ベールイは強力な反撃用の武器をそろえていったのでした。
一方、エミリィは精神分析の治療を受けていると明言しなかったものの、瞑想に対応する何かを行っているとベールイは感じ始め、エミリィをスパイであるとみなし始めます。
なんだか怪しい動きもしているし、
あれはもはや、シュタイナー先生の「最も邪悪な敵」なのではないだろうか……
エミリィと人智学協会
一方、そんなこともつゆ知らず、エミリィは人智学協会での日々も過ごしていきます。第一次世界大戦の「最初の」クリスマスの頃、エミリィはシュタイナーに出くわします。その場にはベールイと、サバシニコワ、ペトロフスキー、シゾフなど、古くからの友人もいました。
やあ諸君
あっ、シュタイナー先生!
シュタイナー先生!
ほらエミリィ、シュタイナー先生のお出ましだぞ
まるで教師に群がる子供だな……
エミリィはシュタイナーと目を合わせると、幼いころの蛇の夢を思い出します。白い蛇と黒い蛇の戦いにおける、黒い蛇がシュタイナーであると感じ、シュタイナーへの恐ろしさが消えたのです。
どうしたんだい?
この男は、幼い頃に見た夢の黒い蛇なんだ!
エミリィはこの経験から、蛇の夢をユングと語り合いました。
ユングは、知性があり知的な会話を長くできる良い相手だ
でも、完全に分かり合うことは、やはりできないんだろうなあ……
なんやかんやで、エミリィはシュタイナーへの講習に参加する許可も得ていきます。エミリィは、例えば協会のリトミックダンスはダルクローズやイサドラ・ダンカンに比べてアマチュアと思ったものの、シュタイナーの「媒体」としての技量に魅力を感じ始めました。
シュタイナーは、自分の考えを他人に伝えることにかけては、
才能のあるカリスマと言ってもいいだろう
エミリィは、シュタイナーの講演会のためにユングの次のセッションをキャンセルすると伝えました。ただし、ナタリア・ポッツォはエミリィにスイスで何かが行われていると感付き始めます。
やけにチューリッヒと連絡を取り合っているようだけど、
あの町に誰かいるの?
いやあ、ただ友達とアプレイウスの『黄金の驢馬』を読んでいるだけだよ
なお、このタイミングでモスクワからパステルナークがエミリィのゲーテ論をほめる手紙を送ってきました。
エミリィさんの本読みました!
あれは良いものです!
褒められるってのは嬉しいことだねえ
ユングとの一時の別れ
1914年末、ユングは軍医として数か月南スイスに向かいます。その間、助手のマリア・モルツァーがエミリィを引き継ぎました。
そんな、ユングがいなくなるなんて……
その間は私が引き継ぎますよ
1915年1月2日、エミリィはアンナに対し、これまでの精神分析の要約めいた手紙を送ります。
アンナとニコライのせいで、人生を浪費してしまったんだ!
これまでの人生、全部が無駄だった……
そんな、兄さん……
しかし、ユングとの別れを風邪で過ごせず、しばらくたってから、エミリィはアンナに、ユングの治療ですら自分の葛藤を解決できないのだと手紙を送ります。そして、音楽を呪っていたが、音楽の外には自分の人生が全くないという残酷を嘆きました。
精神分析も結局無駄だったのかもしれない……
他にどんな人生を送ったらいいのか、まったくわからないんだ……
しかし、結局のところ、シャギニャンやアンナへの八つ当たりは、自分の病気の本当の原因である、母親への不満をぶつけられない代わりでしかないと言われています。実際に、エミリィはこの手紙の最後で、母親との疎外感と、まったく愛のないえせ教育で自分を破滅させたのだと、非難しているほどでした。
ははっ……本当に悪いのは、ウチのカーサンなのかもしれないな……
人智学協会との断交へのカウントダウン
エリスもまたヨハンナ・ポエルマン゠ムーイとともにバーゼルにいたらしく、エミリィは2人とも会いました。エミリィはヨハンナ・ポエルマン゠ムーイにモロゾワとミンツロヴァを併せ持つ、パトロンと媒介者が統合された存在だとみなしました。
エリスとヨハンナ・ポエルマン゠ムーイが人智学協会をフェミニズムの温床と嘆く一方で、彼女の説く思想と精神分析に、エミリィは集合的無意識に関する共通点を見出しました。
ヨハンナを紹介してくれてありがとう!
お互い達者でな!
ああ!
エミリィは再びドルナッハの人智学協会を訪れます。エミリィはベールイの論調がだんだん熱くなっていたことに、何の警戒心も抱いていませんでした。しかし、ベールイは、エミリィの方がゲーテの解釈を誤っているのだと論破してもよいのではないかと次第に思い始めていました。
後戻りできない覚悟で、もう全部終わらせてもいいのかもしれない……
?
エミリィがチェンバレンの戦争に関する論文集に感銘を受ける一方で、ロシアではモロゾワがニコライを兵役を逃れ愛国的義務を放棄したと不満を漏らすほど、アンナとニコライは孤立していました。
この戦争の中で兵役を逃れるなんて、
ニコライは非国民ですね
え!?
宗教哲学教会でもドイツ人への攻撃が相次ぎ、それに数少ない抵抗している存在が、イリインでした。
ドイツ人が今クルップで大砲を量産しているのは、カントのせいなんだよ!
ドイツ人がいなければ、今の哲学なんてないんですよ!
エミリィは後任のモルツァーとセッションを始めました。しかし、モルツァーのビジネスライクで淡々とした姿に不満を感じました。
では、今日も治療を始めましょう
淡々と進めるなあ……
ユングとは大違いだ……
また、エミリィはかつてユングを自分の魅力で魅了したとしつつも、4月ごろにはもう、目の前にいる患者が自分の人生の失敗を受け入れるということがどれほど屈辱的であるのかを理解しようともしない点で、ユングもモルツァーも世間知らずの浅はかな人間だとアンナに言い始めます。
人間がそう簡単に過去の過ちを受け入れるもんか!
そんな風に人間を考えているなんて、アイツラ世間知らずの大バカ者だよ!
この間、ポッツォはエミリィに自分の役目を果たし続けました。
あーあ、ポッツォがもっと早く人生に現れていればなあ……
もっとまともな人生を送れたのかなあ……
ベールイとの熱戦
ただし、このポッツォがベールイの用意していた反論を、まったくエミリィに伝えられなかったことが、エミリィにとっての悲劇でした。ポッツォはそんなことも知らず、エミリィにドルナッハに住むように迫っていました。
一緒に人智学協会で暮らしましょう?
う、うん……
しかし、ムサゲートから人智学協会に行った面々の一人であったシゾフが、ベールイが原稿の中で激しく攻撃している章を呼んだと伝えてきます。エミリィは直ちにドルナッハに行きます。しかし、ベールイは受け入れられる文章にごまかしたものを見せたのみでした。
聞いたんだが、今度の本で盛大に人のことバッシングするだって!?
そ、そんなことないですよ……
ところが、ベールイがムサゲートでこれを出したいと言ったとき、ベールイとツルゲーネワはエミリィのせいでムサゲートがバラバラになったのだと非難しました。エミリィは、屈辱のあまり激昂し、ベールイとツルゲーネワがもはや融合した存在であるかのように「ボラス」と浴びせ、憤慨して去っていきました。
そもそも、元をたどればこんなことになったのはあなたのせいじゃないか!
その通りです!
こっ……このっ……
ボラス!
ベールイはこんなことをしないと保証できるまでは会わないでほしいと手紙で述べました。
こんなことするようなら、二度とドルナッハに来ないでくれ
この結果、ベールイは不眠や悪夢に苦しみ、エミリィへの反論論文に取り憑かれたかのように取り組んでいっきます。ベールイは自分の本をエミリィと同じくらいの分量にし、きちんと体裁を整えられるようシュタイナーらと協力していきました。
エミリィを打ち負かしたいんです
話は聞いているよ。
そのノウハウもないようだし、協力しようじゃないか
一方、エミリィもまた同様の症状に苦しまされたらしい。アンナにこれまでの女性遍歴を披露し、ポッツォにはもう何の感情も抱いていないことと、精神分析は癒やすことができなかったものの、自分の助けになる偉大な発見だとほめたたえました。
ひどい目に合ってしまった……
でも、精神分析を受けたおかげで、自分を客観視できるようになったのかもしれない……
やはり、アンナたちと一緒にいるのが、一番いいのかもしれないな……