ベールイからユングへ
エミリィの人間関係の見直し
エミリィがロシアに戻れなくなった後、エミリィとの合意でムサゲートの経営はヴィケンティ・パシュカニスが引き継いでいました。このため、1916年にはヴァチェスラフ・イヴァノフの本や、久方ぶりの「仕事と日々」の最新号が刊行されていました。
ただし、この「仕事と日々」の最新号は、エリスが翻訳したヨハンナ・ポエルマン゠ムーイのダンテ論、およびニコライ・ベルジャーエフの人智学批判といった、記事が主でした。
そもそも私、そこまで付き合いあったっけ?
1916年秋、エミリィはチューリッヒでサバシニコワとナタリア・ポッツォの訪問を受けました。
久しぶり
もうすっかり人智学協会の人間だな
今日は妹も連れてきたの
ベールイは徴兵でロシアに連れ帰らされてしまって……
仲直りしましょう
ベールイへのエミリィの打撃
一方で、ロシア側では、後の1917年11月に出版されるベールイのエミリィへの批判論文が、一部分が徐々に出回り始めました。ベールイはエミリィへの批判に応え、人智学などへのデマの吹聴を整理することで、シュタイナーの思想が現在の世界の惨状にどのように役立つかを説くものでした。
ロシアにいない間にエミリィとかがデマを広めたようだが、
人智学協会の思想は決してそんなんじゃないんだ
このように、正直ベールイの論は学問的というよりは、印象主義的に連想ゲームをするエッセイ的なものではあったようです。結局のところ、この本はエミリィへの回答というより、ベールイが人智学協会で何を体験したかの記述が骨子になっていました。
なお、エミリィは極めて偶然にも、ベールイの論文が姿を現し始めたのと同じタイミングでシュタイナーと再会しました。経緯としては古くからの交流がある指揮者・アルトゥール・ニキシュのコンサートの一つで偶然にもシュタイナーの隣に座り、ニキシュの偉大さをシュタイナーに説いたとのことです。
おや、久しぶりじゃないですか?
素晴らしいでしょ?ニキシュの演奏は……
今日ずっと隣の席で話を聞かなければならないのか……
一方で、ベールイがこんな本を書いた結果、モスクワではマルガリータ・モロゾワの下で、ニコライとベールイの間で衝突が起きました。
いくらなんでもこれじゃただの罵倒じゃないか!
君までそんなことを言うんだね……
この裏にいたのはイリインでした。もともとベールイ、ヴァチェスラフ・イヴァノフ、エリス、シャギニャンらを等しく敵視していたイリインが、ずっと感じていた不安をまさに裏付けるという形で出版されたベールイの本のため、ニコライにいろいろ吹き込んだようです。
イリインに関しては、この頃から徐々に、過激な反近代主義者への道を歩み始めていました。
やはり、エミリィさんはあんな象徴主義の連中と一緒にいたから、
おかしくなってしまったのでは……?
ただ、ロシアでニコライやイリインがこの論を読むのと、エミリィが現物を見るのとでは時間差があったことが、エミリィにとってはある種の幸運をもたらします。
抜き刷りを送ってほしいって言われたけど、
こんなのとてもじゃないけど送れないよ……
ユングとエミリィ
一方で、エミリィはマコーミックの力を借りて、ムサゲートでユングの著作のロシア語訳を考えていました。マコーミックは、エミリィの提言を受けて戦争で経済的に困難にある芸術家のための基金すら設立していたほど、エミリィと接近していました。
ユングの思想は素晴らしいので、
ロシア語に訳してもっと広めたいのです
素晴らしい考え!
そのための資金なら任せて!
エミリィは、ラビノヴィッチの人脈で、ロシア系ユダヤ人にこのプロジェクトを手伝わせました。ここで特に積極的に関わったのが、メンシェヴィキのアレクサンドル・マルティノフとセミョーン・セムコフスキーでした。
ロシア共産党・メンシェヴィキのマルティノフです
同じく、セムコフスキーです
なんだかよくわからないけど、2人はユダヤ系のロシア人なんだね
よろしく
ロックフェラー家の資金がこの2人にも流れていたの、
後の歴史を考えると大丈夫なのだろうか……?
1916年のクリスマスに、「心理学クラブ」でパーティーが開かれました。エミリィはユングに木製の剣と自作の詩を書いた糸巻きを送り、その詩にはユングをジークフリートやテセウスになぞらえ、「ドラゴン」との戦いへの勝利を祈る文言が書かれていました。
ああ、ユング。
あなたはあのジークフリートやテセウスのように、「ドラゴン」を退治するのです
ここで、ユングが1917年に出版した『無意識の心理』に大きくエミリィが影響していたとも言われています。というのも、この本の中でユングがニーチェについて述べていることは、ほとんどエミリィにも当てはまり、ユングのゲーテ論やニーチェ論にはエミリィやベールイらが先駆者として影響していると思われます。
そうなの!?
まあ君、伝記でほとんど無視されてるって書かれたのが、
この記事の種本だからねえ……
イリインの参戦
1917年2月、イリインがベールイに対し、エミリィへの誹謗中傷への嫌悪を表明する公開書簡を送りました。二月革命がすでに始まったさなか、ベールイや関係者は、この非難から身を守ろうとして、しばらく無視します。
いくらなんでも、ベールイのあの物言いはひどすぎる!
今そんなこと蒸し返してる状況じゃなくない!?
しかし1917年4月上旬、モロゾワの盟友であるエフゲニー・トルベツコイがベールイを擁護します。この本に込められた厳しい物言いは、熱意の結果であると釈明したのである。
いやあ、流石にベールイもただ罵倒したいわけじゃないと思うよ。
ただ、論に熱がこもっただけっていうか……
しかし、イリインはこの反論に対し、ベールイのエミリィを中傷しようとする野心を強調しました。
いくらなんでも、この本はエミリィへのただの誹謗中傷ですよ!
こんな本を擁護するなんて、ロシアの精神文化の指導者だと気取ってるあなたたち象徴主義者は、腐敗しているんじゃないですかね?
ベールイはこれをかなり無視していました。ただし、この年の末にイリインのフロイト主義を揶揄して精神分析を批判する論文を載せたくらいなので、内心かなり怒っていたようです。
やっぱり、フロイトなんかにかぶれたやつはダメだな
ちなみに、この頃まだアンナとニコライは、エミリィにこの著書のコピーを送っていませんでした。
いやあ……流石にこれは……
二つの革命の間で
エミリィは二月革命ごろに、精神分析を終えました。エミリィのトラウマは結局癒えなかったという結論に本人は達したようです。
はい!精神分析で癒えることなんてありませんでした!
もう諦めます!
ただ、ここまで自分を苦しめていた偽メニエール病は、コンサートホール以外では、まったく出なくなりました。1917年3月には、アンナに、自分に残された選択肢は音楽を捨てることだという手紙を送っています。
もう音楽とかニコライの「指揮者」とか知らない!
マコーミックの秘書として、アメリカで新しい人生を送ろう!
ユングの翻訳に関しては、二月革命後のロシアにマルティノフやセムコフスキーが戻るということで、進展がありました。
え?ロシアに帰るんですか?
なんか、ドイツ政府がこっそり電車で送ってくれるらしくて……
彼らメンシェヴィキは、一緒に行動したくないというウラジーミル・レーニンとの対立もあり、ボリシェヴィキが秘密列車で帰国した後、数週間後に第二陣として戻っていきました。
いや、同じ共産党だけどさ、
いくらなんでも君らメンシェヴィキと行動するなんてまっぴらだよ
それはこっちのセリフ
この時間差が後世大きな影響を生じさせる一方で、マルティノフとセムコフスキーは、ユングの翻訳と、エミリィが「仕事と日々」の次の号に出したいとした原稿を持って帰っていきました。
ロシアに帰ることになりました
なんかよくわからないけど、
それはウチの雑誌の次の号の大事な原稿になるんで、持って行ってくださいね
そんなことやってる状況なのだろうか……
1917年5月、シャギニャンはアルメニア人と結婚しました。また、1914年ごろからレーニンがエミリィの代わりになったようで、ボリシェヴィキに傾倒していきました。
これからは象徴主義なんかじゃなくて、社会主義の時代なのかもしれない……
一方、ラビノヴィッチはジュネーブへの移住を考えており、ダルクローズの学校で体操を教わり始めました。エミリィは、もう音楽を心から憎んでいるので、これは自分には関係のないこととアンナに述べたのみでした。
ベールイからの解放
エミリィは、イリインから公開書簡のコピーなどはもらっていたものの、1917年秋にようやく、「本当の」ベールイの批判論文を目にすることになりました。つまり、ドルナッハで読んだものが、本物の攻撃性を隠すための偽物だったことにもここでようやく気付いたのです。
今まで誰も送ってなかったんですね……
これがベールイのあなたへの反論です
え!?
前見たのと全然違う!?
また、ベールイの味方を表明したペトロフスキーと仲たがいしたことを筆頭に、ドルナッハとの関係もすべて断ち切りました。もはやエミリィには、イリインとエリスくらいしか、旧来の友人は残っていませんでした。
普通にベールイの肩を持ちますよ
あー、ベールイもペトロフスキーもシゾフもサバシニコワもポッツォももう知らん。
ロシアにいる連中ももうこっちの味方じゃないし……
エミリィさんに味方しますよ
そもそも人智学協会の連中とはもう縁も切ってるし、
何かあったら頼ってくれ
ここで救いになったのが、レマン湖の東のシャトー・ドエックスでユングに1週間半行われたセラピーでした。エミリィは今陥っている困難をすべてユングにぶちまけ、心の整理をユングは促します。
まあ、家族みたいなもんだと思ってくれ。
何かあったら力になってあげるよ
ユングに奉仕することが自分の使命なのかもしれない……
友は死んだ、友よ万歳!
なお、このタイミングで十月革命が起きます。
話が脱線するので、
とりあえず私が政権を取ったところまでは飛ばす
正直私は出ません
このせいで世には出ることこそなかったものの、ユングの協力でベールイへの反論の執筆を行い、エミリィはいくらかうっ憤を晴らすことができました。
ユングのおかげで、なんだかベールイのことなんてもうどうでもよくなっちゃったなあ……
実際、この後のエミリィの人生に、ベールイはもうほとんど関わってきませんでした。
ユングとの接近
ユングの知り合いのザビーナ・シュピールラインと出会い、エミリィのロシア語訳が間違っていると指摘されました。エミリィは気分を害したものの、仕事のやり直しを受け入れ、この仕事の責任者になりました。また、それだけではなく「心理学クラブ」の新しい図書館の責任者にも任命されました。
ユングの概念用語のロシア語訳がおかしくない?
これはやり直した方がいい
なんだって?
でも、言われてみればそうだなあ……
まあ、その分いいポストにつけて、毎月ちゃんとお給料払いますよ
ユングはその後もエミリィと散発的なセッションを続け、エミリィはこの時期ユングにほとんどいなかった数少ない男友達と化します。また、東西論を交わす中で、ユングがウパニシャッドに注目する一方で、エミリィはハーフィズに注目し、本能をより肯定できるようになったようです。
インドのウパニシャッド哲学ってのは、なかなか興味深いねえ
今役に立ちそうなのは、ペルシャのハーフィズの詩の方かな
そもそもヨーロッパでも名の知られた人間でしたからね
1918年春、母親アレクサンドラが亡くなりました。ニコライは母の冥福を祈るために、クーセヴィツキーとともに戦争への反応をもしめすピアノ協奏曲第1番を披露しました。
この後、ソヴィエト連邦はロシア内戦に陥り、エミリィは1年半くらいロシアと連絡が取れなくなります。この結果、アンナとニコライの結婚を知るのもかなり遅れることとなりました。
ダメだ、ロシアが内戦状態になってしまって、
まともに連絡も取れやしない
一方、エミリィはユングの家族の一員的なポジションになりました。ラビノヴィッチやマコーミックへの関心が薄れた一方で、ヴォルフとの交流は徐々に性的な気配も帯び始めました。
『心理学的類型』とエミリィ・メトネル
1919年7月、ユングが集合的無意識についての講演をロンドンで終え、論文を発表します。この後、チューリッヒの心理学クラブで同じ講演をした際、ユングはエミリィにこの論文は君との会話でできたと打ち明けます。
「集合的無意識」ってあれ君のおかげでもできたんだよ
そうなの!?
しかし、このことでユング派に巻き起こったオカルトへの関心もあって、逆にエミリィにある危機感を抱かせます。ユングのオカルト領域への関心を脅威に感じたエミリィは、分析心理学を本来あるべきカント的志向性に戻そうと試み始めたのです。
オカルトに興味を持った友人を失うなんて、
これじゃベールイの再演じゃないか
1919年10月~11月、エミリィはベールイへの再批判なども流用した、カント主義に関する講演会を心理学クラブで行います。この公演は、要するにオカルティズムが科学の座に就こうとする試みを批判し、直感を即スピリチュアルな現象に結び付けてはいけないと強く主張するものでした。
人間が持ってる「直観」をスピリチュアルな現象にすぐに結び付けちゃあいけないよ
あれは科学でもなんでもないんだから
ユングがちょうどこの頃『心理学的類型』を書いていたこともあり、エミリィの「直観」をきちんと正しく認識させようと試みる複数回の講演は、ユング派にある程度貢献しました。しかし、この講演を書籍にしようとするマコーミックの申し出を、エミリィはまだまとまっていないとして断ります。
この講演、ぜひとも本にしましょう!
せめてちゃんと本としてまとまった状態にできるようになってから……
1920年春、ユングは北アフリカに旅立っていきました。この後、エミリィは、ロカルノにいたエリスとヨハンナを訪れます。しかし、もはや彼らの秘教主義を受け入れられなくなり、友情は終わりました。
結局我々の友情もここでおしまいか……
でももう、わざわざ付き合わなくてもいいかなって……
1921年に、『心理学的類型』が出版されると自分にその資格があるとしたエミリィが、ヘルマン・ヘッセと並んで、批評記事を書きました。この記事の中で、エミリィはこの本に出てくるシラーとニーチェの双方を自分に重ねています。
『心理学的類型』は偉大な本だ!
だが、この先は、グノーシス主義なんて胡乱な方にじゃなくて、カントを理論的基盤にしてしっかりさせないと……
革命によって起きた最後の変化
エミリィはこの頃、ニキシュの65歳の誕生日を祝う短いエッセイを発表しました。一方、エミリィは自分がユング夫妻、ヴォルフ、トリュープ夫妻、自分の「六重奏団」に属しているとみなしていました。ここで、人妻であるスザンナ・トリュープ(スージー・トリュープ)と関係を持っていたのですが、この関係には多数の「アニマ」を投影したのだと、エミリィは主張していました。
スージーはユングのアニマのヴォルフの姉妹。
さらにベールイのアニマの姉妹のナタリア・ポッツォと、ニコライのアニマの姉妹のマリア・ブラテンシーの特徴もある、まさに適役!
いや、ウチの妻……
このタイミングで、ついに弟夫妻が亡命してくることとなりました。アンナとニコライはカールもユングに会わせようとしましたが、直前に病死してしまっていました。
まさか本当にニコライとアンナが西側に来るなんて……
困った……
エミリィは、7年間別れて暮らし、疎遠になっていた2人と正直一緒になりたくはなかったようです。あくまでもドイツに暮らした2人に、エミリィが12月に訪れたことで、ようやく再会することができました。
あー、ついに結婚してたんだ……
兄さん……
国を出たとたん、父さんも死んだよ……
1922年春、ニコライとアンナはチューリッヒにやってきて、エミリィからユングを紹介されました。2人にはすでにアメリカに行ってしまったマコーミックにも、ラフマニノフが取り次いだらしく、直後にラフマニノフともドレスデンで再会しています。
マコーミックはもうアメリカに行っちゃったけど、
どうする……?
え
そのマコーミックに言われてわざわざアメリカからやってきたよ
ニコライへ。
お兄さんから聞いているので、アメリカに一度来なさい
ニコライは、こうして西側でのキャリアをドイツで開始していきました。一方で、エミリィは社会主義が招いた不運をロシア人自身に責任があるとみなし、もはやロシア人・ロシア音楽の両方を避けていました。また、セラピーが失敗に終わったとみなしたことによる恥ずかしさから、「哲学の船」でロシアを追われて西側にやってきたイリインにも、会おうとはしませんでした。
主義主張に反する人間は、
命だけは見逃すから全員まとめて国外追放って……
いやもう、流石に昔馴染みと会いづらい状況なんで……
心理学クラブでのいさかい
1922年8月、エミリィの言う「六重奏団」はキャンプをしたり、ハイキングをしたりして過ごしていきます。しかし、「類型論」で示そうとした道をめぐるユングと反グノーシス主義のエミリィの対立に、エミリィとトリュープのライバル関係が大いに火をつけます。
要するに、エミリィの路線をさらに過激にした主張でトリュープがユングに対抗し始め、自分が会長を務めていたこともあり「心理学クラブ」からユングとヴォルフを追放したのです。
いくらなんでも、オカルト路線はおかしいと思います
エミリィなんて外様に好き勝手言われる前に、ポジション見定めてください
このクラブ、私の思想を広めるためのものじゃなかったっけ?
はい
1年半後にトリュープが辞任したことで騒動は解決したものの、エミリィにも責任の一端があったので、ユングとの関係は若干冷え込みました。
1922年10月、かつての講演録の出版のために、エミリィが定義のセクションを書き始めました。ただし、そこでも引き続きオカルティズムはセム的な起源を持つという反ユダヤ主義とそれへの攻撃をエミリィはぶちまけます。要するに、今ユングが向かおうとしているグノーシス主義は、ユダヤ的なのでやめようと言い始めているのです。
あんな連中の思想に感化されちゃいけません
イリインとの疎遠化
その傍らで、ユングと敵対したトリュープ夫妻は、かつての縁故から危機的な状況を何とかしようとベルリンでニコライ・アンナ夫妻を訪れます。そこで、夫妻はイリインを紹介しました。
今ピンチなんです!
お兄さんと仲良くしてたし、力になってください!
知り合いにイリインっているけど……
私?
加えて、トリュープはこのベルリンでの生活中にマルティン・ブーバーに出会い、その弟子となりました。
この人も力になってくれそう……
私?
この結果、トリュープはイリインやブーバーを心理学クラブに招くほどになります。これらの結果、イリインは自分と距離を置くエミリィよりも、トリュープと行動を共にするようになりました。
ニコライとはずっと付き合いがあるけど、
エミリィとは疎遠になっちゃったなあ……
アメリカでのエミリィ
イリインらが心理学クラブで講演を行っていた9月に、エミリィはアメリカにいました。そこで、本来エミリィが予定されていたマコーミックの秘書の地位を奪った建築家・エドヴィン・クレンに、マコーミックが振り回されていたのを見てしまいます。
つまり、クレンはマコーミックを資金源に、壮大で非現実的なプロジェクトを試みていたようです。エミリィはクレンをある種「冒険家」だとみなしていましたが、アンナにあてた手紙で自分自身もいまだにマコーミックを利用したエゴイスティックな意図を持っていることは赤裸々に描いていました。
要するに、クレンとは一種の自分の写身となっており、いまだにエミリィはマコーミックからのアメリカ行きの誘いを断ったのを引きずっていたわけです。
あの時とっととマコーミックについていけば、
あんなふうになれたのかなあ……