ファシストとしての最期
ファシズムへの共感の始まり
そんなアメリカで、エミリィはアンナに対し、未来は破滅に向かうか、ムッソリーニの覇権を許すかのどちらかだと手紙で述べています。これまでノンポリだったエミリィが、急に政治に興味を持ち始めたのです。
ムッソリーニに世界を渡さないと破滅だよ
この理由は、おそらく精神分析を通して若干外交的な性格に代わったためと、イタリアのファシズムが芸術を志向していると考えたためと思われます。この頃から、エミリィはファシズムを議会主義やボリシェヴィズムへの防衛策と考え始めたのです。
ムッソリーニのファシズムが、
きっと危険な思想の防波堤になるんだ……
また、帰る途中のニューヨークでラフマニノフとエミリィは出会います。ラフマニノフはシャギニャンとの手紙は続けていたので、シャギニャンがエミリィから何の連絡もないことを不満に思っていると明かしました。
シャギニャンが便りがないって不満みたいなんだが……
今更!?
皮肉なことに、ドイツには独裁者が必要だとエミリィが発言した3週間後には、チェンバレンがアドルフ・ヒトラーを訪れ、未来のドイツの救世主と宣言するあの逸話が起きました。また、ヒトラーが『我が闘争』を書き始めた直前には、エミリィが心理学クラブの会員を対象にし、ムサゲートの刻印を押した、反ユダヤ主義も交えた直観に関する講演録の著書を発行しました。
要するに、あのヒトラーが思想を強めている時期とだいたい同時代人ということです
1924年5月にはエーミール・ルートヴィヒのナポレオン論や、ゲーオア・ブランデスのカエサル論を読みます。エミリィはナポレオンやカエサルへのあこがれをニコライに吐露し、ニコライやアンナもこのシンパシーを共有していたようです。
ナポレオンやカエサルは素晴らしい!
確かにかっこいい人たちだけど、
兄さんこんなキャラだったっけ……?
ここでニコライとアンナは、マコーミックやラフマニノフの援助でアメリカツアーに出かけました。
アメリカにいればすぐに力になれるのに……
申し出はありがたいけど……
ありがたいけどさ……
さらに、1925年にヨーロッパに戻ってくるとフランスに腰を落ち着けました。
もうドイツはこりごりだ。
パリは自信はないが、ドイツよりはましだろう
ムッソリーニへの傾倒
エミリィは1925年になるとスージー・トリュープとの関係を終えたようです。ここで、エミリィはユングのロシア語版の序文のみならず、フランス語版の監修も引き受けていたものの、心理学から離れたいと考え始めました。
結局、「心理学クラブ」に関わってるのが間違いなのでは?
この中で、ムッソリーニに自分の理想を見出すようになります。ユングの友人アドルフ・ケラーがムッソリーニを本当は内気な人物であると評したのにも影響されたのか、エミリィはムッソリーニの顔をナポレオンに似ていると衝撃を受けました。
ムッソリーニはああ見えて、内気な人物らしいですぞ
確かに!ムッソリーニはナポレオンに似ているかもしれない!
え?
年末には、ニコライとアンナに、ナポレオンとムッソリーニがいかに似ているかを語る手紙を送っています。
知ってるか?
ムッソリーニはナポレオンに似てるんだぞ!
え?
この頃から急に、ニコライとアンナにエミリィはナポレオンもゲーテと同じくらい大事だと主張し始めました。先程出てきたケラーが11年くらい前にエミリィの顔立ちを軍人・バルトロメーオ・コッレオーニのようだといったことや、遥か昔のワルシャツカの分析でナポレオンとの親近性があるといったことが思い出されたのかもしれません。
みんな軍人みたいな顔って言うし、
もしかしたらナポレオンは近しい人間なのかもしれない
ここで、エミリィにとってユングのポジションがある程度ムッソリーニにスライドし始めたようです。エミリィは次第にユングの蔑称をも用いて、ムッソリーニを讃え始めました。
あんなユングなんかよりも、
ムッソリーニの方が素晴らしいに決まっている
一方、エミリィは当面自分の外向性をさらに発展させようと努めました。
今日は仮面舞踏会だし、メフィストフェレスの格好でもしよう!
しかし、しばらく接近しようとした英語教師のフローレンス・ホプキンスとの交流は、彼女がユングに近づきすぎて失敗します。
ヘルマン・ヘッセがユングの下での治療を基にした『荒野のおおかみ』を発表したり、ベールイが『モスクワ』を発表したりした1925~1927年ごろは、エミリィに関する具体的なエピソードはありませんでした。せいぜい、ヴァチェスラフ・イヴァノフとの再会くらいです。
みんなまとめて「哲学の船」で追い出されたんだよ
みんな大変なんだなあ……
心理学クラブへの復帰
マコーミックが次第にエミリィへの翻訳プロジェクトの給料の支払いを滞らせつつあった結果、エミリィが愛憎合わさった感情を次第に彼女に抱き始めました。ついには、1927年にもうユングの翻訳プロジェクトに報酬を支払う気がないと察し、ユングの仲裁はあったもののエミリィはフランス語訳の監修から手を引きます。
マコーミックがこんな人間だなんて思わなかった!
もう翻訳プロジェクトなんてこりごりだ!
一方で、ユングとトリュープとの和解に伴って、エミリィもユングと和解したらしく、心理学クラブでの活動を再開しました。1927年5月に心理学クラブでエミリィは、ゲーテの芸術論をバッハとベートーヴェンに関連付ける講演をしています。
11月になると、ヘルマン・カイザーリンクのチューリッヒ訪問に伴い、ユング家でのカイザーリンクのもてなしにエミリィも招かれました。カイザーリンクはダルムシュタットに創設した「知恵の学校」での活動も象徴的なとおり、東洋と西洋の統合を目指していたような人々です。
カイザーリンクはカール・メトネルやウランゲルと同様のバルト系ロシア人であり、ウランゲルと同じくチェンバレンに近しい人物でした。ユングは、カイザーリンクを貴族的で傲慢な人物だと思い、エミリィが仲介役になると考えていました。
どうも、カイザーリンクです
なんだか傲慢そうなやつだな……
チェンバレンの知り合い?
もしかしたらうまく付き合えるかも?
とはいえ、マコーミックからの資金援助が無くなり、ロシア語分もついに翻訳プロジェクトは中止しました。エミリィは心理学クラブの司書くらいしか資金源が無くなり、チューリッヒの下宿の小さい部屋で暮らすようになりました。
その日暮らすのもしんどい生活になってしまった……
しかし、1927年~1928年はユングは『自我と無意識の関係』や「心的エネルギー論について」などを発表し続けており、エミリィが後世自分との対話もこれらの著作で引き続き使われているとみなすなど、和解によって両者の関係は元に戻りつつありました。
え?私を「心理学クラブ」の会長に?
流石に力不足ですよ。ヴォルフにしてください
いいと思ったんだけどねえ
ユングはエミリィとの関係を明らかに回復させたがっており、「塔」にもしばしば招きました。
1929年5月、エミリィはニコライに、ドイツで「神話的な世界理解」がひそかに高まりつつあるとみなす手紙を送っています。その根拠として彼は、ニーチェやヘルダーリンの盛り上がりを挙げていました。
フランスに行ったからわからないだろうけど、
どうもドイツはワーグナー的な世界認識が今トレンドのようだ
そうなんだ
1929年秋、ニコライ夫妻が渡米すると、彼らの家にエミリィがしばらく住むことになりました。
エミリィはチューリッヒから離れられると喜んでおり、パリに向かいながらナタリア・ポッツォ、ニコライ・ベルジャーエフ、セルゲイ・ブルガーコフ、ヴァチェスラフ・イヴァノフらに会いました。
いろいろあったけど、
10年も経つとみんな新しい人生を送ってるんだなあ……
特に、ヴァチェスラフ・イヴァノフはユングと同じように、エミリィも回顧録を書くべきだと勧めました。
そういう君だって、
一度回顧録を書くべきなのでは?
そういうもんかねえ……
精神分析家・エミリィ・メトネル
エミリィがパリ滞在中に、ベルリンの新ムサゲートから、かろうじて出来上がっていたユングの『心理学的類型』のロシア語訳が出版されました。序文でエミリィは、ユングの思想とムサゲートで続けてきた象徴主義の思想の親和性を説きつつも、この本の売れ行きで翻訳プロジェクトの今後が決まると書いていました。
結局10年以上従事させられて、
出せたのはこの1冊くらいかあ……
1930年4月、エミリィはチェンバレンの死後に刊行された書簡集を読みました。おそらく確実に、ここでチェンバレンが送ったヒトラーへの手紙も読んでおり、ニコライにチェンバレンのドイツ愛を書き送っています。
チェンバレンはやはりドイツという国を愛していたようだ
それに、前も言ったけど
今はワーグナーみたいなオペラがちゃんと流行ってるいい時代だぞ
そうなんだ
11月下旬にエミリィは、ヴァチェスラフ・イヴァノフが1909年に書いた論文のドイツ語訳の書評を書きました。これは論考をユング派的に解釈したものでした。ヴァチェスラフ・イヴァノフはこれに気を良くし、1916年に書いた精神分析的な詩をエミリィにおくっています。
今までいろいろあったけど、
これからは仲良くできそうだね
この年の末、エミリィは弟・ニコライの夢を一端の精神分析家らしく解釈しました。
ロシアでペストに似た疫病が猛威を振るってる中、
アレクサンドル3世とウラジーミル・レーニンが姿を現す夢を見たんだ……
たぶん、子供時代にロシアを支配していた皇帝とレーニンが両極にあるんだよ。
アレクサンドル3世は「意識」の、レーニンは「無意識」の語り手なんだ
それぞれの両極端は、「自我」と同じように受け入れなくてはならないよ。
それを経て、「自我」は「意識」と「無意識」を利用できるようになるんだ
そうすれば、新しいシンボルも生み出せるんだ。
君主制からの脱却とファシストの反乱を実行できた、ムッソリーニのようにね
そうなんだ
この弟の夢の精神分析からもわかる通り、エミリィはムッソリーニのファシズムとユングの分析心理学を融合させようとしていました。エミリィは1931年の正月のムッソリーニのあいさつ動画を見ると、ニコライにムッソリーニを「国家の芸術家」と評する手紙をも送っています。
ムッソリーニの正月のあいさつを見たかい!
彼は「国家の芸術家」だよ
そうなんだ
1931年1月、カイザーリンクがまたユングのもとを訪れます。昼食中にユングの家でエミリィとカイザーリンクが話している中で、カイザーリンクがエミリィから引き出そうとしたボリシェヴィキとアメリカの類似点という考え方が、急速にエミリィに魅力的に映り始めました。
ソ連のボリシェヴィキとアメリカってのは、
似てると思いませんかねえ?
!
我が意を得たり!
また、この頃からエミリィは、急にキェルケゴールに再び関心を持ち始めます。しかし、ユングとのキェルケゴールに関する議論は、ユングが「どちらか一方」という仮定を受け入れられなかった点、「内的本性の経験主義者」という立場のユングはキェルケゴールの存在論を「アニマにあるもの」以外のものとして理解できなかった点などで、平行線をたどったようです。
キェルケゴールねえ……
ユングとの分かり合えなさが、
年々広まっているような気がする……
マコーミックは司書としてのエミリィの給料の支払いまでも滞らせ始めました。この結果、ユングはエミリィに、少しずつ精神分析家としてセラピーを行い、それで生計を立てることを勧めます。
マコーミックがこんな人間だったなんて!
まあ君もずっと受けてきたんだし、
精神分析で食っていくのもいいんじゃないのかな……?
ここで、最初の患者の一人に、知識人でファシズムへの共感を示していたアドルフ・ヴァイツゼッカーがいたことで、エミリィはやる気が出たようです。
こういう人間と出会えるのなら、
これを職にするのもいいかもしれない
しかし、結局うまくいかなかった翻訳プロジェクトが、本当の使命から自分を奪った恨みつらみを、アンナには書き送りました。
やっぱり、あんな翻訳プロジェクトに10年以上もかかわらされたせいで、
人生無駄にしたんだ
ようやくチューリッヒの市民権をエミリィは得ました。しかし、ヴァチェスラフ・イヴァノフの勧める回顧録の執筆のために、ユングとの関係を断ちチューリッヒから離れることを夢見始めていました。特に暗黒の木曜日以降の経済危機を、自分と関連付けて悲観視し始めていたのです。
世界はどんどん良くない方に向かってるし、
もう人生ダメなのかもしれない
エミリィの新しい友人
1931年6月、ユングの家でヤコブ・ヴィルヘルム・ハウアーと出会います。シュタイナーに批判的な彼は、エミリィのゲーテ論も評価し、エミリィはユングよりもハウアーを身近に感じていたようです。
インド学者のハウアーです
あなたの本は素晴らしいですね
ユングなんかよりもいい人そうだなあ
8月にラフマニノフが訪れると、エミリィは歳を経たこともあり、最も自分を理解してくれる客だとラフマニノフをみなしました。
マコーミックなんておかしなパトロン
必要ならリボルバーで脅してしまえばいいんですよ
まさか君と冗談を言い合える関係になるなんてなあ
また、ラフマニノフは『モダニズムと音楽』を再び読ませてほしいと述べ、今のニコライとの見解の一致に驚きます。ラフマニノフは、この本が『シオンの議定書』のような珍品になったことを残念に思い、新版の出版も考えていたようです。
あなたが昔出した『モダニズムと音楽』ですが、
ニコライの今の音楽観とも近いので、新しく出し直しても良いのでは?
ただし、確かにラフマニノフにも差別主義の側面がなかったわけではないのですが、エミリィの人種差別の激しさに衝撃を受けたようです。
ここまで骨の髄まで人種差別が激しいとはなあ……
しかし、エミリィと1年ほど関係を持っていたオランダ系ユダヤ人女性、ヘティ・ヘイマンがうつ病の末に自殺しました。エミリィはヴォルフに警告されていたにもかかわらず、アンナに似た彼女に惹かれていたのです。そして、ユングも同様に惹かれ、彼女との愛をめぐってユングと競い合ったのだとエミリィは思っていました。エミリィは自殺を考えていく中で、自殺した彼女に次第に執着していくようになります。
自殺……ヘイマン……自殺……
ヒトラーとヒンデンブルク
エミリィは、おそらくこの頃からアドルフ・ヒトラーに関心を抱きました。そして、1932年のヒトラーとヒンデンブルクの選挙の前夜、エミリィはユングにヒトラーの写真を送り、分析してほしいと依頼しました。
ヒトラーの顔を分析してほしいんだ
人相学的には魅力的な人間だねえ
ふうん?
ヒンデンブルクの方がいいと思ってるんだけどなあ
エミリィには、アンナとニコライには、「もっとも偉大なカント主義者」であるヒンデンブルクを讃え、ヒトラーに懐疑的な気持ちを書き送っています。
ドイツでムッソリーニの代わりになってくれるのは、
あの「もっとも偉大なカント主義者」のヒンデンブルクの方だと思うんだ
そうなんだ
ロシアのメフィストフェレス
選挙後の3月22日、エミリィとヴォルフはゲーテ没後100年を記念する講演会を開きます。その講演でエミリィは、ゲーテの秘密を説明できるのは、分析心理学だとし、ゲーテ主義とユング主義が今後も相互的に豊かになっていくことの期待を述べました。
ゲーテの秘密を説明できるのは、きちんとした科学に基づいた分析心理学ですよ。
あんなオカルティズムじゃありません
エミリィはこの講演で自分自身をメフィストフェレス、自分のアニマを『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』のミニョンだとみなしているようでした。つまり、彼はニコライやベールイ、ユングといったファウスト博士を操る、メフィストフェレスになりたいのだと言われています。
いいじゃあないか、「メフィストフェレス」ってのは
しかし、患者も碌におらず、マコーミックからの連絡もないため、エミリィは貯金を崩して生活しており、もはやなにも生み出せませんでした。エミリィはアンナに、ドストエフスキーが正しかったのだと、ようやく認めた手紙を送ります。
本当に今度こそ、これじゃあドストエフスキー作品の登場人物みたいだな
ラフマニノフとの対話
また、ラフマニノフが『モダニズムと音楽』の新装版を出そうという試みに、エミリィは手紙を出しました。エミリィ自身は、この本以降20年近く芸術を放棄したために、ニコライが「ヴォリフィング」になり、自分になり替わってしまったのだとしているのです。結果、エミリィは自分よりもニコライに考えを活字化させ、それをラフマニノフが支えるべきだとしました。
あの本を再度出すよりも、ニコライに本を書かせなさい。
もう「ヴォリフィング」はあっちの方がよっぽどふさわしい
あなたがそう言うなら、
そうしましょう
エミリィがラフマニノフと打ち合わせをしていく中で、リヒャルト・シュトラウスはモダニズム側じゃないだの、リストに対してそんな考えは受け入れられないだのをラフマニノフが表明した結果、ちょっとしたいさかいはあったようです。
リストがドイツ音楽をおかしくした元凶!?
リヒャルト・シュトラウスがモダニズム側!?
そこからダメだったかあ
しかし、世界恐慌もあって、悲劇的な流浪と深い悲観はお互いに持っているのだと分かち合い、親しくなりました。
お互い、同じような身の上なんですよ
私たちの人生は邪悪の杯だ
ヒトラーの躍進
エミリィはマコーミックを訴える準備をしており、ユングもそれを支援します。ところが、マコーミックは死にました。結局、マコーミックの遺産も浪費つくされ、エミリィの経済的援助の望みは絶たれました。
マコーミックが死んで、遺産もすっからかん!?
これじゃあ、もうマコーミックから給料を取り戻す試みもそもそも不可能じゃないか!?
1932年10月、ヤコブ・ヴィルヘルム・ハウアー、ハインリヒ・ツィマーらとユングの夕食会に出席します。ハウアーはユングへの懸念を述べましたが、それはエミリィも共有していました。
ハウアーと同じインド学者のツィマーです
ユングはちょっと頼りないのでは?
まあ、そうですね……
1933年1月31日、ヒンデンブルクはヒトラーを首相に任命します。
皮肉なもんだな。
こないだ選挙で勝った私が、お前を首相にするんだから
これが国民の声なのですよ?閣下
この翌日、ユングはエミリィにオリゲネスの『ケルソス駁論』を今読んでいることを述べました。また、プロティノスやプロクロスを経て、ヘーゲルやマルクスに至る類似性を見出そうとしているとも言っています。
これはかつてエミリィが直観に関する講義で追った道筋であり、要するにユングはヒトラーの台頭をユダヤ的なボリシェヴィズムへの反動だとみなしていたようです。
かつて異端思想がヘーゲルを経てマルクスになったと言ったが、
実際そうなのかもしれないなあ……
あれから10年以上経ちましたが、実際そうでしょう?
しかし、この頃まだエミリィはヒトラーにムッソリーニほどの天才性を見出すのを留保していました。むしろ「大衆を支配する途方もない力」を持つ「悪魔的」人物だという別枠とみなしていたようです。
ヒトラーはムッソリーニとは違う気がするんだよなあ……
ヒトラーへの傾倒
ところが、ナチスの芸術に対する粛清が始まると、評価は一変します。特に、ユダヤ人指揮者ブルーノ・ワルターの解任は、エミリィに「決定的な浄化が始まった」という勝利宣言をさせました。
エミリィの芸術観は変わっておらず、ラフマニノフがワルターを擁護すると動揺すらしたのです。
プフィッツナーたちとよろしくやって、今まで国に貢献した私ですら、
追い出すのか……
やった!
これでドイツ音楽が正しくなる!
ワルターなんて偉大な人間をクビにするなんて、
おかしいですよ
え?
エミリィはどんどんナチスドイツから言葉を借用し、ヒトラーの演説をアンナとニコライに送っていきます。この交流の中で、アンナに至っては、ユダヤ人として血筋を否定し、ヒトラーの反ユダヤ主義を受け入れ、ファシズムへのリベラルの鳥頭たちの抵抗に苛立ちすら覚えていたほどでした。
ヒトラー万歳!ナチス万歳!
ニコライもまた、エミリィから反モダニズムの著書の出版計画を応援されていました。この中で、エミリィはあのシェーンベルクが教授職から追い出されたことに安堵すら伝えています。
ほら見ろ。
あの音楽もどきの生みの親・シェーンベルクがいなくなったぞ
さらに、エルンスト・クレッチマーがユダヤ人排除に抗議した結果ユングに辞めさせられると、エミリィはユングから「塔」に招かれました。2人の話題は、「革命」とチュートン主義に関するものだと思われます。
こんな排斥主義、間違ってますよ!
じゃあクビ
これからますます忙しくなるな……
また6月26日、ユングは、エミリィのかつての患者で、現在はマティアス・ハインリヒ・ゲーリングの下で精神分析を担っているナチス党員のアドルフ・ヴァイツゼッカーからインタビューを受けます。このインタビューでヴァイツゼッカーは、ユダヤ人のフロイトやアドラーと異なり、ユングの心理学はドイツ精神と親近性を持っているとしました。ユングもまたこれに喜ばしいようでした。
こりゃあ、我が世の春が来たって感じかな?
その数週間後、ヤコブ・ヴィルヘルム・ハウアーが「アーリア人」信仰を形成させようとする、「ドイツ信仰運動」も開始しました。
「アーリア人」信仰を現代に作るのです!
エミリィと女性の最終幕
こうしてドイツに引き寄せられたエミリィは、唐突にヘドヴィヒ・フリードリヒと関係を再開させました。エミリィは、ヴァイツゼッカーのようになれるかもしれないと、ヘドヴィヒ・フリードリヒに打ち明けています。
ここで、エミリィはヒトラーと融合したかのようにふるまったようです。というか、エミリィがずっと抱いてきた理想的存在こそが、ヒトラーだったとみなしていたようです。
あの男こそ、きっと地上に「人間の星座」を作るんだ
あの男みたいになりたい!
なお、シャギニャンは、エミリィとヒトラーのように、スターリンを崇拝していました。また、ルートヴィヒ・ビンスワンガーの下で、精神分析も受けたようです。
もうエミリィの人生とは全く関係ないですがね
ユングとエミリィの最後の安定期
ユングが国際医学会長に取り立てられると、ユングの指揮下で会報の編集をエミリィが担い始めます。しかし、1934年2月、グスタフ・バリーから、ユングはただマティアス・ハインリヒ・ゲーリングの言いなりなのではという疑惑を受けられて批判されました。
御用学者・マティアス・ゲーリングの言いなりだって!?
ナチスのあのゲーリングは親戚です
まあ、気にすることはないさ。
あっちがおかしいんだよ
こうした批判は、ユングやエミリィにおいては、アーリア人とユダヤ人は区別できるし、国際的な学会はユダヤ人に支配されているという思い込みをより強めただけのようでした。
やがて、ユングはアーリア人とセム人の精神の違いを論文で述べます。ここでのユングの反ユダヤ主義は、ある種非常にエミリィに近しく、かつてベールイに行ったのと同じように、ユングをエミリィが教化したのではないかと言われています。
やはり、人種というのは区別できるものなのかもしれないなあ……
そうそう、私の言う通り
ヒトラーが突撃隊を「長いナイフの夜」で粛清した直後に、エミリィはドイツのピルニッツに到着します。
俺を殺すなら、あの伍長殿自らがすべきだ
もう手遅れさ。
もっと早く詫びるんだったな
8月2日のヒンデンブルクの国葬で、エミリィはその圧巻の演出に感銘を受けました。軍の指揮をもヒトラーが担いだし始めた結果、エミリィはドイツをワーグナー劇のように解釈する傾向が強まります。
あのヴィルヘルム2世が閣下をもっと早く認めていれば、
ドイツはこんなことにはならなかったはずだ!
こりゃあ、まるでワーグナーのオペラじゃないか……
1934年10月、エミリィはチューリッヒでの仕事のためにスイスに戻ります。ヴォルフの発案で、ユング60歳の誕生日の祝典の準備を一部担うことになったのです。あくまでも名誉職だったものの、ここで支払われた記念論文などの報酬で、かつて負わされた借金の一部を支払うことができました。
あなたには迷惑をかけてしまったのだから、
これはお詫びと思って構わないです
これで少しは生活も楽にはなるかな
ここで参加したのは、ハウアーやツィマー、リュシアン・レヴィ=ブリュール、ボリス・ヴィシェスラフツェフ、ハンス・トリュープなどの各界の人々でした。
帰宅中、オーストリアのナチスのシンパの小説家・ミルコ・イェルシッヒの『カエサル』を読みます。ここで、エミリィは、ニコライにカエサルに関する交響詩を作るように勧めました。
カエサルで交響詩を作るんだ、ニコライ!
きっとファシストの鐘がなるだろう……
そうなんだ
「空っぽの穴」
スイスに帰ると、エミリィはヒトラーへの恋しさや、高く狭い賃貸を見て独裁者の「拳」が必要だと述べました。自分の人生という「空っぽの穴」に向き合っているとニコライに伝えたエミリィでしたが、ニコライも慢性的なうつ状態から、自分も同じ「穴」にいると添えました。
自分の人生は「虚ろな穴」でしかないんだよ……
同じだよ兄さん……
同じ穴にこっちもいるんだ……
ここで、ニコライがようやく『ミューズとファッション』を完成させます。ラフマニノフはその反モダニズム的性格に満足し、出版させました。
やっぱり、音楽ってのはこうじゃなきゃいけないと思うんだ
私でもよくわからないですね……
出版社経営してるから、
ウチから出す?
一方で、エミリィは、ユングが東西をテーマにした文化的議論を行っていることに満足していました。しかし、1935年1月のユングへの再訪問は失敗に終わります。中世の錬金術にエミリィが無関心であるとも気づかず、ユングはエミリィに長々と退屈な話をしたのです。
おまけにユングは錬金術に関する文献目録を作らないかとエミリィを誘い、エミリィの地雷を踏みます。エミリィはかつてのベールイとの断交の再演が近づいているのだと感じていました。
エミリィ、錬金術に関する文献目録を作って、
研究を手伝ってくれないか?
20年近くいったい何を聞いていたんだ!?
このため、エミリィはユングにかなり矛盾した感情を隠しながら記念論文を書くというストレスを抱え、自分が責任者の一端を担っている60歳祝いのレセプションの運営は「吐き気を催させた」とまで語りました。結果、これまでのユング心理学との付き合いは失敗であるとアンナに打ち明けます。
結局ベールイと同じオチになりそうだし、
ユングなんかに関わったのは、無駄だったのかもしれない……
この怒りのあまり、レセプションには出たものの、ユングに会うことはできませんでした。
発狂の末の最期
ついに、エミリィはヘドヴィヒ・フリードリヒに再びすがり始めます。ヘドヴィヒ・フリードリヒの下にいるときに、アンナに対して半年前にベールイを殺した硬化症に苦しんでいると手紙を送っていました。
ベールイって半年前に死んだだろう?
あれと同じ病気になってしまったんだ……
正直とどめさしたの脳出血ですよ
1935年秋、チューリッヒに戻ると、エミリィはニコライに38ページの長い手紙を送り、人生の無駄だった20年間を嘆き、残されたのは死だけだとしました。ユングに失望したエミリィは、すべてに絶望したのです。
ああ、ユングなんかに関わってからの20年間はすべて無駄だったんだ。
もう人生終わりさ……
兄さん……
1936年3月、ヒトラーがラインラントに進駐し、フランスに抗議されると、フランス文化への憎悪がエミリィに沸き起こります。自分とヒトラーが、さながらヴォータンのように敵対者によって死の入り口に追い込まれていると述べました。
ああ、フランス文化が忌々しい!
あいつらはやはり、ドイツ文化を滅ぼそうとする敵なんだ!
4月、別れを惜しむかのように、ロンドンでニコライとアンナを訪ねます。
そういえば、イギリスに行ってから一度も会いに行かなかったねえ
そう思って一度来たんだ
この間あんな手紙送ってきたけど、
元気そうでよかった……
その後ボヘミアの温泉に入りに行き、数週間過ごした後ピルニッツに向かったのですが7月にめまいで重病になり、地元の精神科に入院しました。
エミリィは退行した状態で支離滅裂に過去のことばかりを語り、現在を理解できないまま1936年7月11日に亡くなりました。
ここはどこなんだ……?
ああ、白い蛇と黒い蛇が戦っている……うっ……