マリア・アレクセーヴナ・オレーニナ゠ダルハイム(Мария Алексеевна Оленина-д’Альгейм)(1869年~1970年)とは、モスクワにあるメトネル家のはす向かいの家で「歌の家」と呼ばれる文化活動に従事していた人物である。
メトネルの人生に関して、この女性に対しては2つの異なる評価が行われている。
1つは、Dolinskaya(2014)など、ニコライ・メトネルがご近所さんとして彼女たちの活動に密接にかかわったという、好意的な評価。もう一つが、アンドレイ・ベールイの回顧録などを典拠とする、Ljunggren(1994)を筆頭にした西側の、ドイツ系文化の拠点であったメトネル家と敵対するフランス系文化の文化人とみなす、対立的な評価である。
とはいえ、そもそもの問題点として、この人物が具体的に行った活動は日本語で全くまとめられていない。日本語で検索した場合、このサイトの図表中の言及が上位に引っかかる時点で、お察しである。
ただし、Alexander Tumanovによって、1995年に伝記自体はまとめられている。経緯としてはソヴィエト連邦時代に命令で本人に取材などを行った著者が、ムソルグスキーを西側に紹介した人物として高く評価したマリアの伝記を書きたいと思い立ったというもの。内容的には、ある程度客観性を求めて史料引用を基軸にしてまとめた略伝である。
この伝記は2000年代に英訳され、2017年に出版された新装版は電子書籍としてGoogle Playなどで購入できるので、比較的アクセスしやすい。ただし、確かに上記経緯を見る限り、雪どけ期やペレストロイカを経た結果可能になった、西側に行った人物の顕彰目的が強いと思われる(おそらくメトネルに対するDolinskayaの旧版などと同様)。
特にTumanovの記述は、以下の2点が問題点だと筆者は考える。
- 「歌の家」活動が始まったあたりから、マリアの音楽哲学を丹念に追おうとするあまり、肝心のマリアの生涯のエピソードの記載が断片的になっている
- ソヴィエト連邦成立後のマリアの亡命以後の人生すべてを悲劇的に描いており、50年近い残りの人生でマリアがなしたことに対してはほとんどエッセンス的にしか言及されていない
上記点以外にも問題点がありはすると思うのだが、他に伝記らしい伝記も存在しないため、一度この伝記に基づきマリア・オレーニナ゠ダルハイムの生涯をまとめておきたい。
幼少期のマリア
実家オレーニン家
マリア・アレクセーヴナ・オレニーナは、貴族オレーニン家の娘としてロシア帝国リャザンで生まれた。貴族オレーニン家は2つの系統がいるが、彼女は芸術アカデミーのトップを務めたアレクセイ・オレーニンの方の家で、そのひ孫である(この曾祖父は坂内知子の専論がある)。
オレーニン家は中流貴族であったが、曾祖父アレクセイの閨閥によってある程度のし上がった。ところが、おそらくはアレクセイの長男・ニコライがボロジノの戦いで戦死し、弟でマリアの祖父・ピョートルが若くして継いだことで、親族から支えられる側になったと思われる。このためか、どちらかと言えば国政よりも文化面の事績が残される。例えばマリアの名付け親である大叔母・アンナ・アレクセーヴナは、プーシキンの詩で賛美され、グリンカにレッスンを受けているような歌手だった。
このうち、ピョートルの息子であるアレクセイが、トヴェリ総督・アレクサンドル・ニコラエヴィッチ・バクーニンの娘であるバルバラと結婚したことで、マリアが生まれた。当然、このバクーニン家とは、かの有名なアナーキストである、ミハイル・バクーニンの親族である。
ただし、どうもこの父・アレクセイ・オレーニンには両親の遺産は与えられず、オレーニン家の家産の多くは叔父のニコライの方に移った。そのうえ、これまたよくある話だが、マリアの語るところによると父・アレクセイは彫刻にのめりこみ、資産を食いつぶしているような有様であった。没落とまでは言わないが、いわゆる貴族の末端にいる道楽息子とも言うべき家系に生まれたらしい。
マリアの誕生
この夫婦の間に、1869年10月1日(ユリウス暦では9月19日)にマリアが生まれた。なお、この夫婦の間には、マリアのほかに息子のピョートルとアレクサンドル、娘のバルバラ(母親と同姓同名のため以後少しややこしい記述になる)、養子のアレクサンドル・ステファノフの4人の子がいた。
マリア本人の語るところによると、生まれてすぐ視力に障害を示したらしい。しかし、マリア自身の認識としては、そのおかげで聴覚が発達し、音楽の才覚を得たということらしい。
マリアが生まれ育った家は、1860年に父親が買い取ってイタリア風に改造したウサージパのある、イストミンの家である。簡単に言えば、農民がすぐそばで働いているような、自然に囲まれた環境で育ったということである。ここでマリアは、両親、養子も含めた他の4人の兄弟、そしてなぜか一緒に暮らしていた母方のおば・エカチェリーナ・バクーニナの8人家族で暮らした。
マリアへの教育とモスクワ入り
男兄弟は貴族の子弟として英国の家庭教師もつけられたとのことだが、マリアも含めて兄弟たちの幼少期は原則「自由教育」を家訓として、学校にも入れられずに自発的に興味関心に従って才覚を伸ばさせようとされた。この結果、体系的な学問の習熟はできなかったものの、マリアにとっては想像力の成長が幼少期から進んだらしい。やがて、マリアはこの頃から歌手になりたいという、周囲からは奇異の目で見られる夢を持ち始めた。
一方、道楽息子とは言え才覚はあったらしく、父・アレクセイは能力が認められて、1880年にストロガノフ芸術工芸学校の校長となり、最初の年の冬はモスクワのおじ・ニコライ・バクーニンの家で過ごし、翌年以降は学校内に家をかまえた。なお、彼女の人生にはまだ関係はないが、このサイトとしてはこの出来事がニコライ・メトネルの誕生直後というのは記載しておきたい。
このモスクワへの進出に伴い、彼女にようやく学校教育が行われようと試みられ、この年にメシェルスキーの女学校に試験もなしに入れられた。のだが、案の定彼女は成績のバランスの悪さを示し、おまけに彼女が寄宿生活を拒絶したため、母親の理解もあって1年もしないうちに辞めさせられた。ということで、他の兄弟と違って彼女はついに正規の教育は行われなかった。
一方で、モスクワに来た途端、おば・エカチェリーナの指導もあり、歌の才能を示すようになった。父もこれを認めていったことで、マリアに道が開かれることとなった。
サンクトペテルブルクへの移動
ところが、1884年頃に、父・アレクセイは今度アストラハンの漁業局長的なポストを譲り受けられ、モスクワから移ることとなる。このことはマリアは家に何の実りももたらさず、破滅への一歩となったとみなす。なお、マリア本人の回顧において、ストロガノフ校を出る羽目になったのをはじめ、基本実家の不幸は父親のせいとしがちな点は、伝記著者のTumanovにも指摘されているので、注意したい。
その後、音楽の道に進んだ兄弟・アレクサンドルの学友であるセルゲイ・ニルス(かの有名なシオン賢者の議定書のあのセルゲイ・ニルス本人)と姉のバルバラが婚約し、一度マリアはバルバラの下に移ったらしい。ところが、この婚約はその後あっけなく破談になり、姉妹は一度バクーニン家に移った後、1887年にサンクトペテルブルクの一家のもとに合流した。
ロシア5人組との出会い
ここでは兄弟のアレクサンドルが引き続き音楽に邁進しており、この縁で力強い一団、いわゆる「ロシア5人組」との関係が生まれた(ボロディンとムソルグスキーはすでに故人だが)。ここで、マリアの語るところでは5人組に近しい歌手・ユリア・プラトノヴァに師事したらしい。
しかし、兄弟アレクサンドルの語るところによると、自分のロビー活動もあって、当初はユリアに面接に行ったが、ユリアに才能を見出された後に、最終的に5人組などの議論によって、リムスキー゠コルサコフの妻・ナデージュダの妹であるアレクサンドラ・プルゴリド゠モラスの生徒となったとのことで、微妙に食い違う。この2人のどちらの記憶が正しいかは、実際のところよくわからない。
とはいえ、マリア本人の意識として、一度でもムソルグスキーに近しいユリア・プラトノヴァに師事したことが重要であり、その回数や期間は問われないと思われる。実際マリアはプラトノヴァを通じてムソルグスキー音楽を崇拝するようになるわけであり、そもそもプラトノヴァも彼女のことが気に入った結果5人組に紹介したのもある。
とはいえ、この後もマリアを5人組やチャイコフスキーの前でデビューさせた会合の経緯、バラキレフやスターソフにどのように才能を認められたか、チャイコフスキーの歌曲を歌ったのはこの時か、別の日があったかに至っても、両者の回顧は食い違いを見せている。このため、経緯は少しあいまいなのだが、プラトノヴァにマリアが紹介されたことで、5人組らに才能を認められたまでを確実な事実としておきたい。
マリアの語るところでは、この後もプルゴリド゠モラスのレッスンや、5人組との交流、オペラ鑑賞などの音楽生活がサンクトペテルブルクの生活での中心を占めていった。
後の姻族・ダルハイム家
また、父方の親族であるイワン・ダルハイムと交流が生まれたのはこの頃からである。
マリア曰く、この親族のダルハイム家はもともとはフランス風のド・リモザンという名字だったが、パーヴェル1世にドイツ風の名字にさせられダルハイムとなったとのこと。
このように、ダルハイムという名字ながら、フランスにルーツを持つ家であり、イワンはフランスに住んでいたころはバルビゾン派の画家と親しくしていた。このイワンの息子が後の夫・ピョートルであったが、この頃彼はフランスにおり、特に関係は持っていない。
後の夫・ピョートル・ダルハイムについて
種本の伝記と順番は異なるのだが、ここで夫となるピョートル・ダルハイムについての結婚以前の半生を記載したい。まず、先ほどイワンの息子と述べた点について、確かに血縁上はそうなのだが、厳密に言えばすでに離婚した前の妻との子である。
経緯としては、イワンとボブリシェフ゠プーシキン家のタチアナ(Татьяна Сергеевна Бобрищева-Пушкина)が結婚し、2人の間には娘・マグダレーナやこのピョートルが生まれた。のだが、芸術家として活動していたタチアナの妹がイワンに横恋慕したらしく、最終的にイワンとこの妹・アレクサンドラが結ばれ、タチアナは離婚されることとなった。
結果として、ブルゴーニュのラ・ロッシュという地に置き去りにされたタチアナ一家は、村人に支えられ、タチアナもしばらく後にルイ・フランソワ・カシミール・ムラト(Louis Francois Casimir Murat)と再婚した。
やがてタチアナの母方のポルトラツキー家のおばが支えとなってパリに移る。ただし、普仏戦争の直前くらいに母は、当時イギリスにいた歌手・ナデージュダ・ネベドムスカヤ(Надежда Алексеевна Неведомская-Дюнор)に預けた。この頃ネベドムスカヤからは音楽教育を受ける。
普仏戦争が終わると、ピョートルは再びパリの母親のもとに戻り、この後特に音楽家の道に進まされると言ったこともなく、普通にリセ・コンドルセに入れられる。この頃、ピョートルはまだ10代ながらも政治運動を行い、学内でレオン・ガンベッタの支援キャンペーンを行っていたらしい。このため学長ににらまれ、一時逼塞したが、ガンベッタが政権を取った際復権する。
また、母親が家としてデカブリストの係累にいたために、ピョートルにはディドロなど啓蒙思想家の著書が送られたらしい。
やがてソルボンヌ大学を卒業した後、両親は外交官になるように期待していたらしいが、ピョートルは作家になりたがった。ジャーナリスト(マリアの記憶では「Вестника Лота」紙)になった一方で、フランス語を学びたいと学校に行き続けた。
この後、ピョートルはスペイン系女性・マリー・エスペホ(Marie Espéjo)との結婚願望を持ち、2人は駆け落ち同然にベルギーに移る。そこでパリ・コミューンに加わり逃走中の社会主義者とグループを築き、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデらと政治運動や出版活動を行っていたらしい。
しかし、やがて妻といさかいがあり、フランスに戻ると国籍取得と兵役にも従事する。一方で、ベルギーにいたころからマドゥ家経営時代の「L’Etoile Belge」紙に関わりと持つようになり、パリで同紙のジャーナリストとして活動し始めるようになっていった。なお、元父親のイワン・ダルハイムとは全く交流がないのは、あらためて述べておく。
マリアの独立
マリアのパリ行き
1893年、母・バルバラが死んだ。この後遺産相続において、マリアと姉のバルバラはすでに結婚し兵役義務もある男兄弟であるピョートルとアレクサンドルのために、イストミンの相続を放棄した。
とはいえ、ここで親族の才能を見出したイワン・ダルハイムがイストミノにやってきて、バルバラをパリに連れていく申し出をしたらしい。イワンははじめはバルバラに絵を学ばせるだけのつもりだったのだが、姉の心配と新しい環境への挑戦もあって、マリアはプルゴリド゠モラスにレッスンの感謝を伝えた後、イワンやバルバラに合流してパリに移った。
パリのマリア
イワンと合流してパリに入った後、マリアはユリア・ヴィエタンの師事を受けた。なお、この人物は、ロジーネ・ラボルデ、ジルベール・デュプレらの弟子にあたる。
ここでヴィエタンのレッスンは成功を遂げ、マリアは実力をつけたものの、オペラ歌手を目指させるヴィエタンとサロン向けの室内歌曲を身につけたいマリアの志向に徐々に齟齬が出ていた。特に、マリアのレッスンは、マリアがどこかの大きい劇場のポストに就くことでヴィエタンに収入が入ることになる契約だったことが禍根となる。つまり、マリアがどこのポストにもつかなかったことで、はるか後世までマリアに借金を負わせることとなったのである。
ピョートルとの結婚
1894年にイワンがあっさり亡くなったこともあって障害がなくなったのか、ピョートルがダルハイム家に訪ねてくるようになったらしい。結果ピョートル・ダルハイムとマリアはあっさり結婚したらしい。この伝記では、音楽の能力があったピョートルにマリアが親愛の情を強めていったとのこと。ただし、最大の問題は、上記の通りもうほとんど別れているとはいえ、ピョートルには妻・エスペホがいたことである。
回顧録によると、エスペホはあっけなく別れることに同意したらしい。しかし、正式な手続きは、そこに金銭を使うよりも後述する当面の使命を優先したいと、しばらくの間行わなかった。このため、ロシアに戻る際正式に夫婦関係を示す結婚証明書が必要になるまでは、あくまでもマリアは内縁の妻という扱いになった。なお、エスペホと夫妻の友情は以後も続き、夫妻の文化活動などにエスペホもたびたび関与したり、亡くなる際に遺産をマリアに渡すように伝えたりしたという。
ピョートルの今の父であるムラトの反対など、夫婦となることに障害がなかったわけではなかったようだ。とはいえ、直ちに娘・マリアンヌが生まれるなど、ダルハイム夫妻は固く結ばれていった。
フランスへのムソルグスキー紹介の機会
やがて、ムソルグスキーの存在を友人から聞かされたピョートルが、自身の志向とあっていたことから紹介の場を設けたいと思い立ったらしい。ピョートルはマリアとリストの門派であったカール・フェルスターの協力を得つつ、アレクサンドル3世の葬儀の取材で訪露した際に二束三文でムソルグスキー音楽の使用も契約でき、数年かけて準備をした。
マリアもこのピョートルの企画に従事し、伝記によればこの頃から徐々に「演奏家はエゴイズムを捨て、作曲家の意図に従属することこそ至高」という哲学感も抱き始めたらしい。この頃父・アレクセイがロシアから訪れてきたが、夫・ピョートルは忙しかったので姉のバルバラや夫の同僚たちとアレクセイを案内し、ムーランルージュなどに連れていったらしい。
かくして、1896年に最初のムソルグスキー音楽紹介のセッションが行われた。参加者にはロベール・ゴデなどがいたが、ゴデなどに近しいドビュッシーが来ることはなかったらしい。このセッションは、ロシアにも報じられるほどの好評に終わり、即座にピョートルがムソルグスキーの伝記を出版したことが後押しした。
ピョートル・マリア夫妻はロシアのスターソフの支援もあり、以後ムソルグスキーのセッションを重ねていった。この頃になるとピョートル不在の間にマリアがフィガロ紙などの協力で単独で開催するようになり、成功を続けていった。なお、この参加者の中にはエスペホもいた。
一時的なロシアの滞在
1896年、一時夫妻はロシアに旅行に出かけると、アレクサンドル・ツルゲーネフとかつて記事の契約をした際の報酬を受け取りにニジニ・ノヴゴロドに行く。この際、ニジニ・ノヴゴロド産業・芸術博覧会を見学した。
ここで、この博覧会に出ていた、イリーナ・アンドレヴナ・フェドソヴァと交流を持った。つまり、フェドソヴァの歌に感動を覚え、楽屋に行った際、歌の本質について教わったのである。マリアは、何を語ったかははっきり覚えてはいなかったものの、フェドソヴァから聞いた言葉の媒介になる語り手自身の役割に感銘を受け、以後「語るように歌うこと」を重んじるようになったらしい。
一方、この後モスクワに戻ってくると、ちょうどニコライ2世の即位式、つまりあのホディンカの惨劇に出会う。この際、李鴻章の滅亡戦争を予言する悲観的なコメントに強く印象を受けたらしい。
サンクトペテルブルクではスターソフやムソルグスキーの旧友ら5人組陣営たちとの再会に感動する一幕もあった。しかし、バラキレフが当初失敗に終わるとみて取っていた通り、ムソルグスキーの布教活動の支援を帝国に求める試みはうまくいかず、最終的に夫妻はロシア帝国内での活動につなげることはできなかった。
再度のフランス
フランスに戻った夫妻は、以後レフ・アレクサンドロヴィッチ・タラセヴィッチ夫妻(ロシアの医学者で、この記事には全く関係ないが孫がメトネルの又姪と結婚する)やルイ・ヴェルデン・ホーキンス夫妻(象徴主義の画家)らと交流していく。
やがて、ダルハイム夫妻はブリュッセルでもムソルグスキーに関するレセプションを成功させた。しかし、バラキレフや兄・アレクサンドル・オレーニンと連絡を取りながらサンクトペテルブルクでも同様の事業を担おうとする試みはしばらく話が進まなかった。
この後、ドレフュス事件にドレフュスを応援する側としてピョートルが加わるなどの出来事もあった。一方で、どうもムソルグスキーに関する活動をパリやベルギーで成功させているうちに、ロシアでもマリアの名前が高まったらしい。バラキレフやキュイらと手紙をやり取りしているうちに、バラキレフがようやく音楽評論家・セミョーン・クルグリコフやマリア・ケルジナへのロビー活動に成功し、1901年になってようやく夫妻がロシアで活動する足掛かりを得た。
ここで、バラキレフが自曲を使わせるなどのエゴイズムを捨て、純粋にマリアの成功を期待したこともあって、準備は着々と進んでいった。ただし、バラキレフはマリアの目的がオペラ歌手になることだと誤解していたらしい。
こうして、1901年10月~11月にかけて、マリアのコンサートがモスクワで成功した。一方で、バラキレフがマリアの兄のアレクサンドル・オレーニンに悲観的な見方を示したサンクトペテルブルクでのコンサートはあまり芳しくなかった。バラキレフがキュイに支援を頼んだことで、蔓延していた否定的なコメントをなんとか抑え込むような結果となったのである。
12月になると、サンクトペテルブルクでの悪評の根源である”Новое время”紙など当てにせずに小規模なコンサートを続けていこうというマリアに対し、バラキレフが「反発が強すぎてモスクワに戻った方がいい」とアドバイスしたのが煽りになったらしい。この直後、マリアは自費で自分自身のためのコンサートを企画した。この間、マリアは軍資金を得に一度パリに戻るも、1902年3月のサンクトペテルブルクでのコンサートを無事成功させた。
また、ロシア入りの際、レフ・トルストイ、およびその身近にいたゴリデンヴェイゼル、招かれたワンダ・ランドフスカにも会っている。しかし、このトルストイ邸ではムソルグスキー派と反ムソルグスキー派の対立を見て取り、あまり快い滞在にはならなかったらしい。
マリアの「歌の家」
マリアの躍進
このトルストイの邸宅での出来事もあってか、マリアはますますロシアでムソルグスキー布教活動を強める必要性を感じたらしい。以後もバラキレフとロシアでの活動をセッティングしていく。
ただし、バラキレフはマリアの才能を高く買っていたためか、各所でコンサートツアーをねじ込もうとし、ドイツでツィンマーマンと契約したコンサートを押し通そうとしてマリアに断られたことなどもあった。なお、マリア個人の志向としてコンサートツアーというビジネスそのものを否定的に見ていたのもある。
とはいえ、マリアの各国でのコンサートは成功し、ムソルグスキーとダルハイム夫妻の名前は西側ではセットで高まっていった。特にパリではアルフレッド・コルトー、ダリウス・ミヨー、ナディア・ブーランジェなどの支援者も増え、ドビュッシーも加わらないながらもこれらを好意的に批評していた。
こうした活動で足掛かりを得たマリアは、ムソルグスキーだけではなく他のロシアの作曲家の紹介も行っていった。その最たる例が、バラキレフとコルトーを取り持ったことである。
ただし、西側ではあまり考慮に入れられることはなかったが、ロシアでの批評を見た限り、マリアは声が小さく、歌うように歌えない欠点はあったらしい。とはいえ、霊感豊かに語るように歌う歌手であり、作曲家の意図を重んじるマリアの歌声を美徳を思う評論家にとっては、マリアは理想的な歌手だったらしい。
また、マリアはコンサートの選曲に統一的なテーマを持ち込み、これは当時の歌曲コンサートにおいては新鮮な、ある種の「革命」だったらしい。こうしたマリアの歌に対する態度は、彼女にある程度批判的だったロシアにおいても、純粋に芸術的に歌をパフォーマンスする舞台という空間を、徐々に一般的にするきっかけとなったらしい。
「歌の家」
しかし、こうした西側での成功を重ねていくうちに、マリアは故郷のロシアにはまず歌の「聴衆」という概念が未発達であることを強く思うようになる。こうして、パフォーマーと聴き手が交流し、「歌」の至高性を広めていく場をロシアに作ることを考え始めたらしい。
かくして、1908年以降、モスクワで「歌の家」を担い始めた。「歌の家」の方向性は当時の象徴主義が目指していた芸術の統合にも近しく、ヴァチェスラフ・イヴァノフや、もともとはメトネル派だったアンドレイ・ベールイの参与などを推進。おまけにシュタイナー主義にも接近していたダルハイム夫妻を経由して、ムサゲート社のメンバーに神智学・人智学を広めていくこととなった。
「歌の家」の活動において重要だったのは、パフォーマンスと教育が一体化していたことである。いわゆる、ある種の教化施設だったとも言ってよい。また、この活動は市民に広く開かれており、あくまでも「聴衆」を根付かせるための活動というのが、ダルハイム夫妻の理想だったのである。
また、もう1点マリアの活動において重要なのは、彼女が当時の現代作曲家、ストラヴィンスキーやグラズノフ、メトネル、兄のアレクサンドル・オレーニンらも取り上げたことである。ベールイの後世の認識がどうあれ、少なくともメトネルが伴奏しにやってきていたのも事実。「歌の家」の活動は決してノスタルジックな色彩を帯びるものではなかったのである。
しかし、この間娘のマリアンヌが亡くなった。マリアにとっては、個人的な私人としての自分と芸術家としての自分の選択を迫られ、芸術家の自分を優先して「歌の家」の活動に従事した結果となった。
「歌の家」の発展
娘を失ったとは言え、「歌の家」は音楽教育組織としてやがて発展し、1910年以降は雑誌も刊行するようになる。この「歌の家」の活動を通じ、定期演奏会という一種の聴衆の確保や経済的成功に都合のいい舞台を手に入れ、加えてロシアのブルジョワジーに演奏活動への積極的な参加を目論むという当初目標も達成でき、マリアは満足するようになった。
上記の雑誌では、ピョートルの記事のみならず、ベルリオーズなどを筆頭に、フランスやドイツから最新の評論を輸入していた。なおかつ、マリア・ピョートル夫妻はゆくゆくは西側での展開も見据え、雑誌はフランス語やドイツ語にも翻訳されていった。ただし、ダルハイム夫妻の当初の理想であるムソルグスキーの布教活動も、忘れずに行われている。
こうして、初めはダルハイム夫妻の個人的な活動だった「歌の家」も、1912年以降組織化されていくこととなる。あくまでも重んじるのは歌曲とは言え、作曲家・解釈者としての演奏家・聴衆の三位一体を重んじ、講義などの啓蒙活動としての場を兼ねた「歌の家」は支持者を増やし勢力を強めていったのである。
また、「歌の家」はコンクールなども担っていき、ここにメトネルが審査員として加わっていたことは、このサイトとしては記載しておきたい。このコンクールは音楽のみならず、歌を歌うにはその国の言語をその国の人のようにきちんと理解することが必要というマリアの理想もあって、翻訳コンクールなども開かれた。ちなみに、作曲コンクールの第5回にモーリス・ラヴェルが参加者として加わっている。
革命と西側での日々
第一次世界大戦・革命と理想の断念
ところが第一次世界大戦である。「歌の家」はもともと自転車操業だったのもあったが、戦争によって懐事情が苦しくなり徐々に活動を停滞させた。
おまけに革命である。はっきり言ってしまって、「歌の家」の前提となる市民社会が崩壊に至った。結果として、1918年11月に夫妻はロシアに見切りをつけ、パリに戻っていった。マリアはあくまでもピョートルの病気のためだったと後世語っているが、ソ連に戻ってきた後の証言というので額通り受け取ることはできない。
たとえ夫妻が社会主義に親和性を持っていたところで、どちらも貴族だったのはどうしようもない事実。イストミンも徴発され、2人の経済基盤はロシアから消えつつあったのである。また、外国人はソヴィエト連邦から去るよう推奨されたのもあったのだろう。なぜなら夫妻はあくまでもフランス人なのだから。
ピョートルの死
とは言え、事実としてピョートルは病気に陥った。フランスに戻った後もマリアはピョートルの看病のために文化活動を停止させ、コルトーやミヨーからの復帰の依頼も断っていた。おまけに上記の通り夫妻の経営基盤はなくなっており、物質的困難にも陥っていた。
結局、ピョートルは1922年4月11日にあえなく亡くなった。この頃ようやくマリアはかつての教師・ヴィエタンとの契約を決着させ、ピョートルの著作の出版活動に向かおうとしたが、多くの試みは無駄に終わった。
「歌の家」の再開
ピョートルの死後、マリアはインスピレーションの源を失ったというだけではなく、異国の地に逃げだしたロシア人として一人孤立して存在する状態となった。とはいえ、マリアはパリで「歌の家」の再開を目指し、ピアニストのドロシー・スヴェインソンと連携を取ろうとした。
ドロシーのほかにミハイル・アレクサンドロヴィッチ、ユーラ・ギュラー、ウジェーヌ・ワーグナーらと組み、既に60前後の歳でかつての歌唱力も失っていたマリアだったが、プーランクやミヨーに歓迎され、コンサートを続けていった。
年老いたマリアの苦悩
しかし、流石に70代にもなった1931年2月27日のムソルグスキー没後50年のコンサートあたりが限界だったらしい。マリアはこの頃から明らかにコンサートの回数が激減する。
また、マリアは指導者としての活動に引き続き生きがいを続けていたが、彼女の志向は「聴衆」の指導であって、「歌手」のレッスンではなかった。歌手レッスンも財政に若干の潤いをもたらしたものの、マリア自身は言ってしまえば日常の憂さ晴らしレベルの認識だったらしい。
確かにフランス作曲界からの支援はあったものの、ブーランジェら旧友たちは古い世代として委員会から徐々に退いていった。また、1930年代以降のマリアの困窮をマリア自身も語らず、友人たちに言わせればマリアは友人たちから距離を取り一人で抱え込んだらしい。この困窮は、あのムソルグスキーの楽譜を売る羽目になる事態まであったので、ある程度察される。
また、フランスにメトネルが来たと知り、マリアはメトネルを「歌の家」に加わらせようとしたらしい。しかし、メトネルは1935年にすでにパリから遠くにおり、結局ロンドンに渡ってしまった。アンナ・メトネルはマリアとの交流が刺激になると書き親睦は続けたものの、マリアの「歌の家」に取り込む目的を達成するのは物理的に不可能になった。
ソ連帰郷の試み
一方で、マリアはたびたびソ連にコンサートに向かう。1926年に訪れた最後の時は、「歌の家」復活の目的こそ当局に断られたものの、ムソルグスキーの歌曲翻訳に関する契約を結ぶことができた。ところが、この取り決めは最後の最後にとん挫する。
この頃からマリアは帰国の試みを持ち始めたらしい。最初に述べた通り、Tumanovというこの伝記の著者、およびマリア自身の「語り」に注意が必要なのだが、マリアとしてはあくまでもピョートルの病気さえなければソ連に残るつもりで、実際兄弟たちもソ連にいるというスタンスで打ち出した。
しかし、ゴリデンヴェイゼルのポストを用意するというやさしい言葉とは裏腹に、ルナチャルスキーやモロトフを筆頭にした高官へのロビー活動は失敗に終わり続けた。ゴーリキーやロマン・ロランらの援助があってもである。このことに対し、Tumanovは1930年代というスターリン体制の大粛清の時期の不幸を見て取っている。
1942年4月19日、マリアは歌手活動を終えた。しかし、フランスでは引き続きムソルグスキーの布教活動を続け、戦時中にも政府などにロビー活動を行っていった。なお、この政府がどちらの政府かは、Tumanovは記載していない。
1946年、既に第二次世界大戦も終わった頃、マリアは再度帰郷の試みを持った。この時頼りにしたのは、アサフィエフの弟子のボリス・ヤゴリムである。しかし、この時も結局うまくいかず、マリアの帰郷はさらに先になる。
フランスでの最後の時間
一方で、マリアはピョートル・スヴチンスキーの申し出でフランスで回顧録を書いた。1956年にある程度完成し、ムソルグスキーの没後75年に合わせて出すつもりだった。
ところが、回顧録というよりも夢の中で友人たちに思い出を語ると言った私小説のフォーマットがために、フィクション性が強く、出版社が見つからなかった。この際にアメリカのニコライ・スロニムスキーらとも交流を持ったが、Tumanov曰く自分がインタビューした時点でもまだ出版を諦めきれていなかったように、結局出せなかった。
また、マリアは原爆投下に対して西側の資本主義社会への不信感がピークに達し、共産党に入党した。この影響もあり、スヴチンスキーのラジオ放送の申し出も断ってしまった。また、もともと芸術が経済活動に従属することに嫌悪感を持っていたマリアは、ビジネスとして芸術活動を行うコルトーと徐々に敵対し、コルトーがヴィシー政府に協力したことで完全に断行した。1947年にコルトーと形式的な和解はしたものの、マリアの心にしこりを残し続けた。
ところが、この共産党入党が、マリアの帰郷に大きく作用したらしい。さらに、スターリン時代が終わり、フルシチョフのスターリン批判に端を発する雪どけも後押しした。結果として、1958年にようやくビザが下りたが、幼少期からの視力低下がひどくなったため出発は遅れ、マリアは1959年の90歳の誕生日直前にようやくソ連入りした。
ソ連のマリア
帰郷後のマリア
マリアはソ連に戻ったものの、既に若い世代の友人たちも年老いており、なおかつ党が約束したモスクワのアパートが一向に手配されず、従姪のタチアナ・ツルゲーネワ(セルゲイ・ソロヴィヨフの妻で、ベールイの妻・アンナやナタリア・ポッツォの姉妹)とその後夫・グリー・ゲスプロヴィッチ・アメチーロフ(Гурий Евплович Амитиров)らの家の狭い部屋に押し込まれ続けたことですっかり憤慨したらしい。マリアはフランスに帰るとまで脅し、本当にあっけなく帰ってしまった。
このフランス帰国でソ連に悪評がつくことをおびえたエカチェリーナ・フルツェワ時代のソ連文化省は、確かにマリアに約束を履行して連れ戻したらしい。しかし、マリアの理想とは異なり、結局マリアは一部の親族を除いて孤立した生活のままであった。
1960年代になると、ようやくぽつぽつとマリアがソ連に戻ってきた報道が出てきたことで、音楽家やジャーナリストなどの来訪が出始めた。ここでマリアの語りでは、「歌の家」の理想と、夫・ピョートルの未発表の著作の出版を引き続き目指していたらしい。
晩年のマリアの試み
しかし、実際に晩年の彼女に会ったTumanovに言わせると、ソ連の文化政策も結局一種の拝金主義に陥っていたことの批判を強く持ったらしい。そして、マリアは強く国際的な活動を求めてゴリデンヴェイゼルやゲンリヒ・ネイガウスら各人に計画を語り、フランスとソ連が連携してムソルグスキーのコンクールを推進することを狙った。しかし、かつての支援者たちだった親族にすら断られるほど無謀な試みだった。おまけに、マリアの歳もあり審査員など不可能だともみなされており、ヴィクトル・リビンスキーらわずかな支援者しかいなかったこの計画はあまりはかばかしい成果を上げることはなかった。
マリアは、この後も未来の芸術を憂い、引き続き教育活動も続けていく。この一環としてインタビューを行ったのがこの伝記の著者のTumanovであり、彼は非常に感銘を受けている。
しかし、やはりコンクールの失敗が堪え、1965年1月に再度フランスへの帰国をもくろむ。友人たちの猛反対にあった、パリの孤児院に身を置く試みは、結局書類不足で失敗したらしい。
マリアの死
この後、自分と同居していたグリー・タチアナ夫妻が相次いで亡くなったこともあり、タチアナが前の夫のセルゲイ・ソロヴィヨフとの間に設けていた娘のオリガに預けられることになった。のだが、安アパートでかろうじて暮らしている状態で、生誕100周年の祝いの席を除いて彼女が何らかの言及をされることはなかった。
こうして、1970年8月26日という、101歳の誕生日を目前にして、彼女は亡くなった。ほとんど報道されることもなく、親族ですらアレクサンドル・オレーニンの墓に一緒に入れたことをかろうじて覚えているレベルだった。
マリアの人生
彼女はロシア5人組といった国民楽派の時代に活動をはじめ、100年の生涯で理想と現実の差に苦しみ続けたとTumanovは結論付けている。スターリン批判が既にあり、共産主義が揺らいでいた時代にもかかわらず彼女は西側よりもソヴィエト連邦の方に幻想を抱き、渡った後も実際にそれが成就することはなかった。
Tumanovは彼女の文化的な功労の意義を見出しつつも、彼女の人生においてなせたこと、なせなかったことを他の文化人、例えばプロコフィエフとの比較によって新しい焦点を当てるサンプルケースたり得るともみなしている。