ニコライ・メトネルとは何らかの血縁関係があったと言える人物に関するページである。
- 家系図
- 競走馬血統表風
- メトネル家
- 父:カール・ペトロヴィッチ・メトネル
- 母:アレクサンドラ・カルロヴナ・メトネル(アレクサンドラ・カルロヴナ・ゲディケ)
- 兄:エミリィ・カルロヴィッチ・メトネル
- 兄:カール・カルロヴィッチ・メトネル
- 兄:アレクサンドル・カルロヴィッチ・メトネル
- 姉:ソフィヤ・カルロヴナ・サブロワ(ソフィヤ・カルロヴナ・メトネル)
- 弟:ウラジーミル・カルロヴィッチ・メトネル
- 甥:アレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・メトネル
- 甥:ボリス・アレクサンドロヴィッチ・メトネル
- 又姪:タチアナ・ボリソヴナ・ナザロワ(タチアナ・ボリソヴナ・メトネル)
- 姪:イリーナ・アレクサンドロヴナ・メトネル
- 甥:ヴァレンティン・ル・カンピオン/ヴァレンティン・ビット/ヴァレンティン・メトネル
- ブラテンシー家
- ゲディケ家
- タラゾフ家
- サブロフ家
- シュテンベル家
- ウォインノフ家
- ブラホフ家
- ハルトゥング家
- クレショフ家
- ビューラー家
- ゲプハルト家
- フィンランドのゲプハルト家
- 脚注
家系図
全体
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シュテンベル家
※androidでは見れません
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ハルトゥング家
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フィンランドのゲプハルト家
※androidでは見れません
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競走馬血統表風
ニコライ・メトネル基準だとこうなる
ニコライ・メトネルの血統 | ||||
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父 カール・ペトロヴィッチ・メトネル | 父の父 ペーター・ハンス・メトネル | 父の父の父 パウル・アンドレアス・メトネル | 不明 | |
不明 | ||||
父の父の母 アンナ・ヴィルヘルミナ・バランシウス | 父の父の母の父 ヨハン・セブリン・バランシウス | |||
父の父の母の母 アンナ・ドロテア・ゲルラッハ | ||||
父の母 マリヤ・ペトロワ・モリアン | 父の母の父 ピョートル・モリアン | 不明 | ||
不明 | ||||
不明 | 不明 | |||
不明 | ||||
母 アレクサンドラ・カルロヴナ・ゲディケ | 母の父 カール・アンドレヴィッチ・ゲディケ | 母の父の父 ハインリヒ・ゴットフリート・ゲディケ | 不明 | |
不明 | ||||
母の父の父 アガタ・キャロル・シュミーデクネヒト | 不明 | |||
不明 | ||||
母の母 ポリーナ・フェドヴナ・ゲプハルト | 母の母の父 フリードリヒ・アルベルト・ゲプハルト | 不明 | ||
不明 | ||||
母の母の母 マリア・フォン・シュタイン | 母の母の母の父 バロン・フォン・シュタイン | |||
不明 |
メトネル家
父:カール・ペトロヴィッチ・メトネル
Карл Петрович Метнер
1846年~1921年
メトネルたちの父親。メトネル家はドイツ系ということになっているが、エミリィの証言によるとカールの先祖はデンマークのシュレスヴィヒ・ホルシュタインから来ている。
19世紀のロシアでよくいる経済的に成功したドイツ系の典型例であり、モスクワレース工場を運営していた実業家である。ということで、貴族の末裔ともいえるラフマニノフやスクリャービンほどではないのだが、メトネル家はそれらに次ぐ有力な家といっても過言ではない。
なお、アンドレイ・ベールイによると、ヴァレンシュタイン風のひげを蓄えたいかにもなドイツ系と言われており、マリエッタ・シャギニャンもメトネル家との交流でスケジュール管理などを身に着けたと述べているので、なんとなく家風が察される。
エミリィ・メトネルの残した手紙類などを見た限り、一族の中で早くから丁稚奉公のような状況に不本意ながらなってしまったため、勉学を全くできなかったことを悔いていたようだ。特に、メトネル兄弟の母方と異なり、父方についての言及は一次史料にも各種伝記にも全くなく、商業などを営むあまり身分の高くない家の出だったと思われる。
このため、彼一代でいわば成金のようになった結果、メトネル兄弟には手厚い学習体制が、妻の実家の協力も得ながら、敷かれたというわけである。また、上記経歴のため、エミリィ・メトネルも自分のアイデンティティを父方ではなく文化人を輩出してきた母方に求めていき、エミリィが自分をドイツ人とみなすようになったのもこの影響と思われる。
しかし、長男のエミリィは第一次世界大戦を境に音信不通になり、次男のカールは戦死。おまけにロシア革命で工場の権利も奪われ、ニコライが手始めに亡命を行った矢先に亡くなってしまった。なので、実はエミリィとの再会はできていない。
母:アレクサンドラ・カルロヴナ・メトネル(アレクサンドラ・カルロヴナ・ゲディケ)
Александра Карловна Метнер(Александра Карловна Гедике)
1842年~1918年
メトネルたちの母親。旧姓はゲディケ。メトネル家はドイツ系ということになっているが、実は厳密にドイツから来たのは彼女の母方のゲプハルト家くらいである。
彼女の兄弟や甥が音楽家であることからもわかる通り、ゲディケ家は音楽家の一族であり、彼女もメゾソプラノの歌手だった。ニコライは当初そんな彼女やフョードル・ゲディケらから教育を受けたということである。
一応、メトネルの各種伝記では、ニコライ・メトネルとアンナの恋愛を終わらせ、アンナをエミリィと、ニコライをマルクグラフという別の女性と婚約させ、アンナがエミリィと結ばれたという要因とされている。
一方で、アペチャン編のメトネルの回顧録での親族の記述を合わせると、ニコライ・メトネルは彼女には自分のコンサートの日を全て共有し、コンサート当日には彼女と話すことをルーチンにしてゾーンに入っていたらしい。このことを彼女が死ぬまで続けており、その後は姉のソフィヤ、亡命後は妻のアンナらが代わっていった。とのことなので、アンナの件があるとはいえ、この親子の間には最後まで愛情で結ばれた関係があるらしい。
ただし、最後までニコライとアンナの婚姻には反対し、皮肉にも彼女が亡くなった結果、エミリィが第一次世界大戦後音信不通になっていたこともあり、ニコライとアンナが公的に結婚する結果となった。
兄:エミリィ・カルロヴィッチ・メトネル
エミリィ・メトネル略伝を参照。
兄:カール・カルロヴィッチ・メトネル
Карл Карлович Метнер
1874年~1919年
メトネル家の次男で、父親とは同名。ちゃんと調査していないので事情は正確には不明だが、長男が当初は公務員になった経緯から必然的に次男の彼が親の家業を継いだと思われ、父親のモスクワレース工場の後継者となった。しかし、日露戦争の頃から徴兵され、軍属も多くなっていった。
ところが、悲劇は起きる。第一次世界大戦に従軍した結果、いつしか家族への連絡がなくなり、行方不明となってしまう。しかし、実はロシア革命に伴い皇帝の軍として革命政府に捕らえられていたというものであり、留置場にいたことを知った父とニコライの奔走で解放された。のだが、その後赤軍兵士としてロシア内戦に繰り出され、あっけなく戦死してしまった。
アンナ・メトネルの姉であるエレーナと結婚しており、ロシア革命に伴い工場の権利も奪われていたこともあり、彼の戦死に伴って実は両親やカール系のメトネル家だけではなく、ブラテンシー家のほぼ全員までニコライが扶余する形になってしまい、この経済的負担がニコライの亡命につながるとかつながらないとか。
兄:アレクサンドル・カルロヴィッチ・メトネル
Александр Карлович Метнер
1877年6月2日~1966年11月26日
メトネル家の三男で、ニコライと同じく音楽の道に進む。そのせいで戦前~昭和末期くらいまでの和書では、兄弟の事績や兄弟順がかなりごっちゃになっている。なお、Apetyanの書簡集によると、身内の間では「Зязька」と呼ばれていたとのことで、手紙で本名を呼ばれることはほぼない。
1892年から1898年までモスクワ音楽院で学ぶが、彼の進んだのはヴァイオリンコースであり、その後カリンニコフらに作曲も学んでいく。以後、弟のように亡命などはせず、死ぬまでソ連でヴァイオリニスト、指揮者、作曲家として活動した。少なくとも指揮者としてはプロコフィエフの作品などにも携わっている。
というか、エミリィ、ニコライに比べると、ソヴィエト連邦内でそこそこのポストに一定期間ついていた筈なのに全く記録がなく、Wikipediaの記事もロシア語版、フランス語版、ドイツ語版などで存在するのだが、その記述はほぼロシア圏で流通した事典類のコピペである。実際、アレクサンドル・メトネルに関しては、どの記述にも共通で人気作品と言われている、アクサーコフの劇『緋色の花』に付随させた音楽くらいしか、音源が見当たらない。というか、これしかレコードとして売られた記録もない。
ただし、劇音楽に付随する音楽を多く作った点は、以下のサイトに大量に一次史料が見つかるので事実と思われる。
実際、終戦直後の日本でソ連に訪れアレクサンドル・メトネルのバレエを聴いた記事が複数見つかる。求む情報。
姉:ソフィヤ・カルロヴナ・サブロワ(ソフィヤ・カルロヴナ・メトネル)
Софья Карловна Сабурова(Софья Карловна Метнер)
メトネルの姉。メトネルにとってはずっと親しい血縁関係のある女性だったのだが、正直彼女が具体的にどのような人生を送ったのかはよくわかっていない。
弟:ウラジーミル・カルロヴィッチ・メトネル
1881年~1891年
メトネル家の五男で、ニコライの唯一の下の兄弟。しかし、幼くして亡くなり、特に記載することはない。
甥:アレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・メトネル
Александр Александрович Метнер
1896年~1917年
兄・アレクサンドル・メトネルの長男。Apetyanの書簡集の方のインデックスによると、ロシア内戦で戦死したらしい。
甥:ボリス・アレクサンドロヴィッチ・メトネル
Борис Александрович Метнер
1898年~1977年
兄・アレクサンドル・メトネルの次男。Apetyanの書簡集の方のインデックスによると、養鶏家らしい。
又姪:タチアナ・ボリソヴナ・ナザロワ(タチアナ・ボリソヴナ・メトネル)
Татьяна Борисовна Назарова(Татьяна Борисовна Метнер)
1928年~1999年
ボリスの娘。つまりアレクサンドル・メトネルの孫。グネーシン音楽学校卒のピアニスト・作曲家で、結構な数の作曲の記録が残っている1。なお、名前を見てもわかる通り某ナザロフという夫がいるが、子孫がいるかは不明。
姪:イリーナ・アレクサンドロヴナ・メトネル
Ирина Александровна Метнер
1899年~1968年
アレクサンドル・メトネルの娘で、ニコライ・メトネルの姪。
ピアノに秀でており、メトネル家とゲディケ家のモスクワ音楽院での権勢を保たせるために、ニコライ・メトネルからアレクサンドル・メトネルに全面的にサポートするから入学させてくれと言われて音楽院に進んだ。
ただし、当初はコニュスのクラスにおり、ニコライ・メトネルが抜けた1920年にキップのクラスに移ったため、割と反故にされてはいる。ただし、1927年12月4日にゴーリキーに関するイベントでピアノ演奏をする2などしているので、プロのピアニストにはなったらしい。また、ソ連側のメトネルの回顧録の人名インデックスによると、2度の結婚歴があるらしい。
甥:ヴァレンティン・ル・カンピオン/ヴァレンティン・ビット/ヴァレンティン・メトネル
1903年~1952年
アレクサンデル・メトネルの2番目の妻、オリガ・ゲディケが、前の夫であるニコライ・ビットとの間に設けていた連れ子。フランスへの亡命後、フランス人だった母方の祖母(フョードル・ゲディケの妻)の姓からValentin Le Campionと名乗る。
ちなみにオリガの前の夫で実父ニコライ・ビットの経歴は全くの不明。なお、オリガ・ゲディケは上記の通りフョードル・ゲディケの娘なので、アレクサンドル・ゲディケにとってアレクサンドル・メトネルは実は義弟だったりもする。
メトネル家で育った後、革命後にかの有名なヴフテマスに入学した。が、生家が生家だけにどうもブルジョア的とみなされあっけなく追い出されたらしい。1923年からアレクセイ・クラフチェンコに版画を学ぶ。
1927年にパリに居つき、ステファン・パンヌメイカーに学んだあと、彫刻家や版画家として、フランスでは一定程度の知名度を誇る名声を得た。割合早くに死んでしまったが、ジェーン・シュイエとの間に、マリー・エレーヌ・ル・カンピオンら3人の子供もいたため、遺族が彼の作品を手厚く保全していった。
なお、もともとソ連にいたことはフランス側ではわかっていたのだが、フランスに来てから祖母の旧姓を名乗ってたこともあり、経歴が全く分からなかった。このため遺族がとりあえずソ連にも作品を送りたいとした過程で調査をし、結果として彼がメトネル一門であったことがようやくフランスで知られたレベルだったらしい。なお、この際に、当時存命だったヴェーラ・タラソヴァらと調査者が交流を持ったらしい3。
ブラテンシー家
エミリィ・メトネル、カール・メトネル、ニコライ・メトネルの姻族。
妻:アンナ・メトネル
1877年~1965年
ニコライの妻。成功したユダヤ系の歯科医の家に生まれ、ヴァイオリンをたしなんでいた。
メトネルの各種伝記によると、1896年に家族ぐるみの知り合いとなった後、もともとニコライとアンナの方が恋仲だったのだが、アンナはエミリィと結婚するべきとしたアレクサンドラ・メトネルに割かれ、1902年エミリィと結婚。そのままエミリィが公務員としてニジニ・ノヴゴロドに向かった際についていったのだが、1904年からニコライが後を追ってきて、3人で同棲状態になる。
しかも2人はあっけなく恋を燃え上がらせ、エミリィと結婚しているにもかかわらず、ニコライとの子供を作り、流産するという事態を引き起こす。それも2回も。
エミリィ的にはこの流産は2つの相反する役割にアンナを苦しませた結果だと思っており、以後エミリィは精神に不調をきたした結果どんどん精神分析に関心を持ち始め、ニコライもまたその罪を告白するような楽曲に着手したとかしなかったとか。
とはいえ、親は反対していたのだが、エミリィはもういろいろ割り切って第一次世界大戦まではニコライ、エミリィ、アンナはずっと3人で同棲を続けてロシア各地を転々としていた。というか、1912年にはエミリィとその恋人、ニコライとアンナでバイロイト音楽祭にも行っている。
ところが、第一次世界大戦でミュンヘンに取り残されたエミリィはチューリヒでカール・グスタフ・ユングの取り巻きの一人となって暮らし始め、東部戦線を挟んだことで音信不通となる。おまけに反対していたアレクサンドラ・メトネルが死んでしまった結果、1919年6月にニコライとアンナはようやく公的に結婚した。
しかしほぼ同時期にエミリィからの連絡が届くようになり、亡命後1921年にようやく3人で再会した。とはいえ以後もエミリィ、ニコライの相互交流は死ぬまで続き、アンナも彼らと歩みを同じくした。
かくしてニコライが死ぬまでそのそばで付き従ったのだが、過去のトラウマからかニコライとの関係は一種の共同事業者じみたものとなっており、作曲以外のニコライの仕事には彼女がほぼ付き従っていた。そんな彼女の姿は、プロコフィエフのようなメトネルを揶揄する立場の存在や皮肉屋にとっては格好の嘲笑の的だったようだ。
しかし、エミリィ、ニコライが順次亡くなり、一人取り残された彼女は、最終的にソ連に戻った。この経緯としては以下である。スターリン死後のフルシチョフによるスターリン批判などもあってジダーノフ批判などが清算され、メトネルの楽曲も弾くだけで自己批判されるような状況から復権。アラム・ハチャトゥリアンが音楽の「雪どけ」を宣言した直後にエミール・ギレリスがメトネル擁護をさっそく展開し始め、そんなギレリスの協力によってソ連に戻れたらしい。
しかし、ここで彼女は、故意かどうかは一定の留保が必要なのだが、メトネルの資料を冷戦両陣営に分割させ、メトネルの情報をほぼ独占していた状態になっていた。以後、ソ連での彼女の動向はほとんどわからず、アペチャンの回想録などの記述が数少ない記録である。
妻の弟:アレクサンドル・ブラテンシー
1880年~1938年、もしくは1940年。
アンナの弟で、ブラテンシー家の長男。誕生日についてはネットで正教改宗時の資料が公開されており4、Flamm(1995)では死亡年は1940年だが、ソ連で粛清された人々などを載せた”Жертвы политического террора в СССР, 4-ое издание”によると1938年という大粛清の頃に処刑されたらしい。この書籍をリスト化した、Жертвы политического террора в СССР (memo.ru)にも彼の記述がある。
上記によると、弁護士だったらしい。
また、おそらく死因が死因だっただけに色々あったらしく、Apetyanのインデックスにいるにもかかわらず、無視されることが多い。このため、結構な頻度で先行研究で彼の弟のアンドレイが唯一の男児と書かれることがあるので注意が必要である。
妻の弟:アンドレイ・ブラテンシー
1882年~1906年
アンナの弟で、ブラテンシー家の次男。誕生日についてはネットで正教改宗時の資料が公開されており5、なぜかhttps://www.geni.com/はこれを典拠にしているのに1年間違えている。
1906年に若くして自殺したらしい。ただし、この自殺した経緯というのが、まったくのでっち上げが起きたことで伝記で死因が異なって混乱している。
まず、アペチャン編のメトネルの書簡集のインデックスによると、血の日曜日事件の後ツァーリの秘密警察に追われた結果とのこと。これは後述の通り完全に根拠のないウソなのだが、この書簡集やDolinskaya(2013)に至るまで、ソ連・ロシア側の主張では、出典は不明ながら「そういうこと」にされていた。
ただし、Flamm(1995)などが主張するように、実際は全く違う経緯である。実際は、人妻を痴情のもつれから殺してしまい、そのまま勢いで自殺してしまった、が真実の彼の死因である。
これは、Ljunggren(1994)によって、出典がエミリィ・メトネルとアンドレイ・ベールイの1907年の書簡と書かれており、根拠がちゃんとある。実際に両者の往復書簡集の137号文書(4月)に書かれている経緯によると、別居中の人妻と愛し合った結果、彼女とよりを戻そうとし2人の海外行きを拒んだ彼女の夫に絶望し、2人でピストルで心中したとのこと。なお、https://www.geni.com/には夫持ちのセントツォバが妻として線が引かれているが、これが彼女なのかどうかは不明。
ゲディケ家
メトネル兄弟の母方の実家。
母方の祖父:カール・アンドレヴィッチ・ゲディケ
Карл Андреевич Гедике
?~?
作曲家。モスクワにある、フランス人地区にあった聖ルイ教会のオルガニスト。孤児院やギムナジウムで合唱団の教師なども務めた。
母方の祖母:ポリーナ・フェドヴナ・ゲディケ(ポリーナ・フェドヴナ・ゲプハルト)
Полина Федоровна Гедике(Полина Федоровна Гебхардт)
?~?
ゲプハルト家からゲディケ家に嫁いだ。なお、Geniは息子のイワンの生年を1820年と誤って入力しているが、ソース元の戸籍をどう見ても1847年の生まれなので、おそらく彼女は1810年代生まれで普通にいいはず。
歌手だったらしい。
おば:ポリーナ・カルロヴナ・ゲディケ
Полина Карловна Гедике
?~1918(このため叔母か伯母かは不明)
小学校の教師だったらしい。
伯父:フョードル・カルロヴィッチ・ゲディケ
Фёдор Карлович Гедике
1840年~1916年
作曲家、オルガニスト、ピアニスト。メトネルの幼年期に教育者となったことでおなじみ。経歴としては父親を引継ぎ聖ルイ教会のオルガニストにもなり、ボリショイ劇場などでも働いた後、ニコライ・ルビンシテインに招かれモスクワ音楽院で教授となった。
いとこ:アレクサンドル・フョードロヴィッチ・ゲディケ
1877年3月4日~1957年7月9日
メトネルの母方のいとこ。メトネルと同様モスクワ音楽院でピアノを学び、これまたメトネルと同じくタネーエフからの私的なレッスンのみで作曲を学ぶ。メトネルが競った「第3回アントン・ルビンシテイン国際コンクール」では作曲部門に出場し、優勝。結果ピアノ部門でロシア人を絶対に優勝させない政治抗争が起きたとか言われている。
1909年にモスクワ音楽院のピアノ科教授になったが、どちらかというと彼といえば1919年以降の室内楽、オルガンクラス以降のキャリアの方が有名で、特にオルガンクラスはそれまであまりオルガンの伝統の無かったロシア圏にオルガンの一大門派を築くに至った。
作風は伝統的なポリフォニーに沿うものであり、保守的なもの。
いとこ:パーヴェル・フョードロヴィッチ・ゲディケ/パーヴェル・ヨハン・カール・ゲディケ
Павел Федорович Гедике/Павел Иоанн Карл Гедике
1879年1月12日~1938年1月
メトネル兄弟のいとこでアレクサンドル・ゲディケの弟。修道士となり、スレテンスキー修道院で鐘を鳴らす存在として有名だったことが記憶されている6。あまり参照されないが、墓石に1938年に死んだと記録されており、死因が不明なことからもある程度想像をかきたてることも可能かもしれない。
いとこ&兄嫁:オリガ・フョードロヴナ・メトネル(オリガ・フョードロヴナ・ゲディケ/オリガ・ポリーナ・ゲディケ)
Ольга Федоровн Метнер(Ольга Федоровн Гедике/Ольга Полина Гедике)
1880~1965
アレクサンドル・ゲディケの妹で、アレクサンドル・メトネルの妻。前夫との息子がヴァレンティン・ル・カンピオン。ボリショイ劇場の歌手だったらしい。
タラゾフ家
ニコライ・メトネルの姪(兄・カールの娘)・ヴェーラの嫁ぎ先
姪の夫:ニコライ・ペトロヴィッチ・タラゾフ
Николай Петрович Тарасов
1897年~1982年
姪・ヴェーラの夫。数学者であり、ソヴィエト連邦の数学教科書史に名を残しているため、ある程度人生を追うことはできる7。モスクワの農民の子で、1915年にギムナジウムを卒業すると、モスクワ大学の数学科に入学した。しかし、その後研究者としての道には進めず、出版社で働きつつ教育活動に従事していたらしい。
しかし、やがて再チャレンジしたいという願望が働き、1922年にモスクワ大学に再入学し、1924年に無事卒業。以後は教育活動がもっぱらとなり、様々な外国の教科書を翻訳したほか、彼が著した数学の教科書は20版近く刷られるなど、ベストセラーになった。
姪:ヴェーラ・カルロヴナ・タラソヴァ(ヴェーラ・カルロヴナ・メトネル)
Вера Карловна Тарасова(Вера Карловна Метнер)
1897年~1985年
カール・メトネルの娘で、ニコライ・メトネルの姪。
モスクワ大学や国際関係大学でドイツ語を何十年にも渡って教えていた語学に堪能な存在で、ソ連で出版されたメトネルの回顧録の、外国人部分の翻訳は、ほぼ彼女が担っている。
又姪:エレーナ・ニコラエヴナ・ポンソヴァ(エレーナ・ニコラエヴナ・タラゾヴァ)
Елена Николаевна Понсова(Елена Николаевна Тарасова)
1929年~
ヴェーラの娘で、カール・メトネルの孫。Apetyanによると医者らしい。
なお、ロシアの探偵事務所のデータベースに普通に引っかかるので、まだご存命と思われる8。
サブロフ家
ニコライ・メトネルの姉・ソフィヤ・メトネルの嫁ぎ先
姉の夫:アレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・サブロフ
Александр Александрович Сабуров
1874年~1934年
姉・ソフィヤ・メトネルの夫。Apetyanによると法学者だったらしい。
甥:アンドレイ・アレクサンドロヴィッチ・サブロフ
Андрей Александрович Сабуров
1902年3月13日~1959年9月9日
ソフィヤ・メトネルの息子で、ニコライ・メトネルの甥。20世紀生まれの文芸評論家(アンドレイ・サブロフの時点で同姓同名が複数人存在し、フルネームのアンドレイ・アレクサンドロヴィッチ・サブロフですらまだ彼に絞れないので、調べづらいが)。
革命後、モスクワ大学の哲学科廃止直前での最後の入学者5人のうちの1人で、トルストイなどの研究でよく知られている。
メトネル兄弟と家族ぐるみの付き合いをしていたセルゲイ・ドゥルィリンからは、家庭教師をしてもらっており、晩年までずっと付き合いがあった。また、アレクセイ・チチェリンの回想録で彼がイヴァン・イリインに感化されていたとあるが、これまたメトネル兄弟の友人なので、メトネル一家の近くにあったサークルの、学芸面で感化された次世代、といってもいいと思われる存在である。
又姪:マリヤ・アンドレヴナ・タラセヴィッチ(マリヤ・アンドレヴナ・サブロヴァ)
Мария Андреевна Тарасевич(Мария Андреевна Сабурова)
1928年5月12日~2014年?
アンドレイの娘で、ソフィヤ・メトネルの孫。Apetyanによるとモスクワ考古学研究所の研究員とのこと。アンドレイ・キリロヴィッチ・タラセヴィッチと結婚し、86歳まで生きたらしい9。子孫の存在は不明。
又姪:タチアナ・アンドレヴナ・タラセヴィッチ(タチアナ・アンドレヴナ・サブロヴァ)
1929年~?
アンドレイの娘で、ソフィヤ・メトネルの孫。Apetyanによるとチェリストとのこと。Myheritageに従うと1926年生まれのレフ・キリロヴィッチ・タラセヴィッチと結婚したとのことだが、おそらくこれは姉・マリヤの夫であるアンドレイの弟のことだと思われる10。子孫の存在は不明。
シュテンベル家
おば・エミリア・メトネルの嫁ぎ先。
いとこ:ヴィクトル・カルロヴィッチ・シュテンベル
Виктор Карлович Штембер
1863年~1921年1月11日
メトネル兄弟のいとこ。文豪パステルナークの父・レオニード・パステルナークらと活動をした帝政末期のロシアの有名な画家。レーニンの肖像画などを書いたためか、なぜか日本語版Wikipediaに記事がある。
従甥:ニコライ・ヴィクトロヴィッチ・シュテンベル
Николай Викторович Штембер
1892年~1982年4月2日
ヴィクトルの息子。モスクワ音楽院でメトネル本人からピアノを学び、1917年に卒業する。以後、経緯は不明ながら、最終的にアメリカにわたり、ニューヨークで没した。ピアニストとしての活動は続けており、NAXOS MUSIC LIBRALYなどで彼の音源が見つかる。
従姪の夫:ユーリ・ニコラエヴィッチ・チューリン
Юрий Николаевич Тюлин
1893年12月26日~1978年5月8日
ヴィクトルの娘・ソフィヤの夫。ソヴィエト連邦の音楽理論家。和声法に科学的な方法を持ち込もうとした、リーマン学派系の存在。
従姪の夫:ミハイル・クセノフォントヴィッチ・ソコロフ
Михаил Ксенофонтович Соколов
1885年9月18日~1947年9月29日
ヴィクトルの娘・ナデージュダの夫。ソヴィエト連邦の画家。当初は未来派に属したが、次第に20世紀初頭のフランス的な作風になったことで、強制労働に送られた。
ウォインノフ家
いとこである画家ヴィクトル・シュテンベルの娘・ナターリアの夫・カール・ウォインノフの実家。エストニア出身で、ペテルブルクで馬車職人をしていたらしい。多分全く面識はない。
なお、カール・ウォインノフの父方・母方どちらもウォインノフ家だが、系譜は不明ながら、サラピク家なども含めて、エストニアからペテルブルクに出てきて職人として働いていた複数の家族が、何重にも婚姻関係を結んでいたと思われる。
従姪の夫の叔母の孫:キリル・ニコラエヴィッチ・タワストシェルナ
Кирилл Николаевич Тавастшерн
1921年5月1日~1982年
カール・ウォインノフの叔母・マリアの孫(ほぼ他人)。ソヴィエト連邦の天文学者で、プルコヴォ天文台の副所長まで務めたが、事故死した。
従姪の夫の叔父の娘の夫:ヨハン・パウルソン
Johan Paulson
1898年1月24日~1974年9月8日
カール・ウォインノフの叔父・フリードリヒの娘・アレクサンドラの夫(ほぼ他人)。エストニアのテニス選手で、1920年代の国内トッププレイヤー。
ブラホフ家
いとこのパーヴェル・シュテンベルの妻の実家。ペテルブルクの音楽一家だが、面識があったかどうかは不明。
いとこの妻:エフゲニア・イワノヴナ・ズブルエヴァ
Евгения Ивановна Збруева
1868年1月7日~1936年10月20日
ヴィクトルの兄弟、パーヴェルの妻。なおWikipediaロシア語版は母親を叔父の妻と取り違えている。
作曲家ピョートル・ブラホフの娘で、彼の妻の本来の夫・イワン・ズブルエフの姓を名乗っている。この経緯が、ピョートルの方が不倫相手だったので、彼との子は非嫡出子ということになったのだが、結局最終的にイワンが養子として認めたというもの。
モスクワ帝国歌劇場のアルト歌手であり、シュテンベル家というよりも実家ブラホフ家の絡みで言及される。
いとこの妻の父:ピョートル・ペトロヴィッチ・ブラホフ
Пётр Петрович Булахов
1822年~1885年12月2日(ユリウス暦)
作曲家。ほぼ下半身不随で、制限の多い人生を送ったらしい。主に歌曲を作ったため、西側でフランツ・リストらに編曲されている。『Shine, Shine, My Star』の本来の作曲家。
いとこの妻の叔父:パーヴェル・ペトロヴィッチ・ブラホフ
Павел Петрович Булахов
1824年~1875年
ピョートルの弟。サンクトペテルブルクでオペラ歌手として名をはせた。
いとこの妻の叔父の妻:アニーシャ・アレクサンドロヴナ・ブラホフ(アニーシャ・アレクサンドロヴナ・ラブロフ)
Анисья Александровна Булахов(Лаврова)
1832年1月8日~1920年
パーヴェルの妻。サンクトペテルブルクでソプラノのオペラ歌手として名をはせた。
ハルトゥング家
大伯母・アレクサンドリネ・マリア・ゲプハルトの嫁ぎ先。文化人との結節点と化しているが、おそらくほぼ面識はないと思われる。
従伯父の妻:ナジェージダ・ミハイロヴナ・ハルトゥング(ナジェージダ・ミハイロヴナ・トレチャコヴァ)
Надежда Михайловна Гартунг (Третьякова)
1849年~1939年
ニコライ・メトネルの大伯母・アレクサンドリネの息子、ジェイムズ・ハルトゥング(ヤーコブ・フョードロヴィッチ・ハルトゥング)の妻。苗字を見ればわかる通り、トレチャコフ家の出身で、かの有名なトレチャコフ美術館の創設者、セルゲイ・トレチャコフとパーヴェル・トレチャコフの妹。
ただ、彼女自身は商人の娘として生き、兄弟同様パトロン活動も行ったものの、そこまで目立った事績はない。
従伯父:フリードリヒ・ヴィルヘルム・オットー・ハルトゥング
ロシア人としてはФедор Федорович Гартунг
1835年~1898年3月18日(ユリウス暦)
フョードル・フョードロヴィッチ・ハルトゥングという細密画家としてそこそこ名の知られた存在で、事典などに名前を残している。
はとこ:レフ・フェドロヴィッチ・ハルトゥング
Лев Федорович Гартунг
1868年~?
フリードリヒ・ヴィルヘルム・オットー・ハルトゥングの息子。帝政ロシア軍で武功を重ね、第一次世界大戦ごろには将官として第2砲兵旅団を治めていた。その後、大戦中にドイツ軍の捕虜になったまではわかっているが、1918年に解放されてボリシェヴィキ政権につかまった後の末路はわかっていない(おそらく赤色テロルで殺されたと思うが)。
クレショフ家
はとこ・ニコライ・フョードロヴィッチ・ハルトゥングの娘(再従姪)のオリガの嫁ぎ先。全く面識がないと思われるほぼ他人だが、面白いことが分かったので記しておく。
再従姪の夫の兄弟?:レフ・クレショフ
Лев Владимирович Кулешов
1899年1月13日 – 1970年3月29日
再従姪・オリガ・ニコラエヴィッチ・ハルトゥングの夫・ボリス・ヴラディミロヴィッチ・クレショフの兄弟と推定されている11、かの有名なソヴィエト連邦の映画監督。プロパガンダ映画『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』などで知られている。
再従姪の夫の兄弟の妻?:アレクサンドラ・ホフロワ
Александра Сергеевна Хохлова (Боткина)
1897年10月4日 – 1985年8月22日
ドイツ出身で、クレショフの妻の女優。こちらも同じく、ボリス・ヴラディミロヴィッチ・クレショフがレフ・クレショフの兄弟と同一人物であればの話。クレショフの作ったプロパガンダ映画『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』への出演などで名をはせた。
ビューラー家
スイスでビューラーグループをいまだなお経営している、世界的に有名な大財閥の一族。
メトネル家の縁者として認識されつつも、家族内で似たスペルの名前が多かったことなども影響して先行研究がことごとく微妙に情報を間違えているのだが、すべて合わせると、ハルトゥング家に嫁いだ大伯母・アレクサンドリネ・マリア・ゲプハルトの孫(つまりはとこ)であるロニア・メイが、創業者の四男・フリードリヒ・テオドール・ビューラーに嫁いだということである。
根拠としては以下4点
- Wikipediaドイツ語版によるとフリードリヒ・テオドール・ビューラーの妻はヘレネ・メイとのことだが、実は根拠は全くなく、『Pfleghard & Haefeli Bauten für die Gebrüder Bühler in Uzwil』やサザビーズに出品されたFerdinand Hodlerの絵の来歴から、この妻の名前はロニアであることがわかる
- Apetyanの書簡集のインデックスから、ビューラー家に母・アレクサンドラ・メトネルのいとこのマリア・フョードロヴナ・メイの娘が嫁いだことがわかる
ただし、ここでははとこの名前はLeniとしている - Ljunggren(1994)の記述の中で、エミリィ・メトネルがはとこのロニアをあてにしていたが、フリードリヒ・テオドール・ビューラーの娘のロニアはまだ10にも満たないころなので、はとこのロニアはフリードリヒ・テオドール・ビューラーの妻の方とできる
- ハルトゥング家の系図より、オスカル・ロマノヴィッチ・メイに嫁いだヴィルヘルミナ・カロリーナ・ハルトゥングがおり、アレクサンドラ・カルロヴナ・メトネルのいとこにあたるのでおそらく彼女がApetyanで言及されたマリア・フョードロヴナ・メイと思われる
ということなので、フリードリヒ・テオドール・ビューラーの子どもたちはメトネル兄弟にとって再従甥・再従姪にあたるとできる。
ちなみに、Martynはこのビューラー一門をアンナのいとこと書いているどころか、レノックスの母親をレニとしている。が、レニはレノックスの妻の名前であり、上記根拠の2も合わせると、Apetyanの段階でロニアのキリル文字転写に失敗したか、ただ単に混同したかの理由で、両者が孫引きを繰り返されるうちに合体させられた。こうした経緯から、主要な先行研究はまともに系譜関係を把握できていないので注意が必要なのである。
なお、フリードリヒ・テオドール・ビューラーとロニア・メイがだいたいニコライ・メトネルの少し上くらいなので、子どもたちはニコライ・メトネルの二回りくらい年下。
このはとこは西側に行った後にだいぶ頼られたらしく、第一次世界大戦開戦によってドイツからスイスに追放されたエミリィ・メトネルも、まあ金持ちのはとこがいるしなんとかなるかくらいの認識だったとLjunggrenに書かれている。
はとこ:ロニア・(ヘレネ?)・ビューラー(ロニア・メイ)
Lonia (Helene) Bühler(Mey)
1878年~1936年
上記の通り、ハルトゥング家に嫁いだ大伯母・アレクサンドリネ・マリア・ゲプハルトの孫。メトネル家にはだいぶ頼られたらしいが、フリードリヒ・テオドール・ビューラーのあまり記述量のない来歴の中で、彼をコスモポリタンと呼んだことくらいしか逸話が残されていない。
ただし、サザビーズオークションに出品された、Ferdinand Hodlerの絵の来歴12の中で、彼女が夫の死後もこの絵を死ぬまで持っていたことと、のちに名前をLonia Goebel-Meyに変えたこと、つまりどこかのゲーベル姓の男性と再婚したことがわかる。
はとこの夫:フリードリヒ・テオドール・ビューラー
1877年〜1915年
農家から身を立て大財閥を築いたアドルフ・ビューラーの4男。
ただし、他の兄弟と比べてコスモポリタンを自称する道楽息子だったらしく、ベイリー・スコットに魔改造させたヴァルトビュール荘がスイスの重要文化財になったことくらいしか特に書けることがない。
再従甥:ロルフ・テオドール・ビューラー
1903年12月3日〜1992年11月30日
フリードリヒ・テオドール・ビューラーの長男。父親と違って経済学などを本格的に学び、いとこのルネ・ビューラーを助けてビューラーグループの経営者の一人となった。
また、戦前スイスでは若手リベラル議員として国政にも関与し、第2次世界大戦直後くらいまでは政治運動でも足跡が追える、スイスの大物政財界人とも言うべき存在の一人。
兄弟の中では一番の有名人なのだが、兄弟と異なりメトネルとの関わりは不明。
再従甥:レノックス・テオドール・ビューラー
1905年12月2日〜1986年2月19日
フリードリヒ・テオドール・ビューラーの息子の一人。スイスの基礎自治体トローゲンにある学校の沿革を記した『Trogen im Aufwind』という本に、卒業生である彼の経歴が事細かく載っている。
チューリッヒ工科大学に通っていたのだが、音楽の道を志し中退。音楽院でワインガルトナーらに学び、ピアニストとなった。なお、この過程で遠い親戚で亡命していたニコライ・メトネルに弟子入りしていたため、彼と妻のレニ・ビューラー(レニ・バッハマン)は亡命中のメトネル家の支援者でもあった。
このあと、第2次世界大戦中ほぼ兵役に従事していたが、本人的にはそこまで苦ではなかったとされている。
戦後再び音楽活動に関わりだす。ただし、手が小さかったことでピアニストとして大成できないと自分のことを見ていたらしく、コミュニティ形成や教育活動が音楽への関わり方の主となった。また、数学的才能と記憶力に長けていたらしく、伝記によると保険会社での業務で生計を立てていたとのこと。
伝記によると妻のレニは1983年11月に亡くなり、その後しばらくして彼もまた亡くなった。
ゲプハルト家
母方の先祖
曾祖父:フリードリヒ・アルベルト・ゲプハルト
1781年7月26日~1861年4月30日
メトネルの母方の先祖(ゲディケ家も同祖)。ドイツ人だがロシアに渡った俳優で、演劇活動や台本執筆以外にも、作曲家のジョン・フィールドの伝記も書いている。
フィンランドのゲプハルト家
母方の先祖の遠い親戚である。
曾祖叔父:ヨハン・クリスティアン・ゲプハルト
Johan Christian Gebhard
1786年~1852年
フリードリヒ・アルベルト・ゲプハルトの弟。ロシアで音楽家として活動したが、なぜかこっちは子孫にあまり音楽家が出なかった。フィンランドのゲプハルト家の先祖だが、多分メトネルはこちらの子孫を全く把握していないと思われる。
曾祖叔父の孫:ハンネス・ゲプハルト
Hannes Gebhard
1864年8月27日~1933年2月23日
フィンランドの経済学者。アルベルト・ゲプハルトはいとこ。専門は経済史で、妻ともどもフィンランドの国会議員も務めた。
曾祖叔父の孫の妻:ヘドウィグ・ゲプハルト(ヘドウィグ・マリア・シレン)
Hedvig Maria Gebhard (Silén)
1867年12月14日~1961年1月13日
フィンランドの政治家。ハンネス・ゲプハルトは夫。いわゆる第一波フェミニズム運動に属する世代で、女性の権利向上に努め、フィンランドで最初の国会議員になった女性の一人。
みいとこ:マイジュ・ゲプハルト
Maiju Gebhard
1896年9月15日~1986年7月18日
ハンネス・ゲプハルトとヘドウィグ・ゲプハルトの娘。フィンランドの代表的な食器乾燥機の発明家。
みいとこの子:アンナ゠リーザ・シシハルジュ(アンナ゠リーザ・ゲプハルト)
Anna-Liisa Sysiharju (Gebhard)
1919年6月7日~2014年4月28日
ハンネス・ゲプハルト夫妻の息子・オラス・ゲプハルトの娘。父が若死にした後、祖父母に育てられ、教育学や心理学を学んで、大学教授となった。
ヘルシンキ大学にいたような人物なので、Wikipediaフィンランド語版に記事がある。
曾祖叔父の孫:アルベルト・ゲプハルト
Albert Gebhard
1869年4月17日~1937年5月15日
フィンランドの画家。ハンネス・ゲプハルトはいとこ。フィンランド芸術家協会の創設者の一人。世代的にはちょうどアール・ヌーヴォーに感化されたあたりで、パリ万博のフィンランドパビリオンのデザインも行っていた。
なお、4回の結婚を繰り返しており、息子のヨハネス・ゲプハルトは最初の妻との子供。
みいとこ:ヨハネス・フレドリク・アルベルト・ゲプハルト
Johannes Fredrik Albert Gebhard
1894年2月24日~1976年3月14日
アルベルト・ゲプハルトの息子で同じく画家。
みいとこの夫:ベンクト・ルトガーソン・エッセン
Bengt Rutgersson Essén
1920年8月12日~2020年8月13日
アルベルト・ゲプハルトの娘の一人、テルットゥ・ベンドラ・アルベルタ・ゲプハルト(Terttu Vendla Alberta Essén (Gebhard))の夫。冬戦争の最年少義勇兵の一人で、長命だったこともあり2016年の独立記念日の大統領レセプションに呼ばれているような人物。
みいとこ:リーヤ・オリヴィア・ゲプハルト
Lilja Olivia Gebhard
1897年11月23日~1976年7月24日
アルベルト・ゲプハルトの兄・ヨハン・ゲプハルトの娘。フィンランドのゲプハルト一門では数少ない音楽の道に進んだ存在で、戦間期フィンランドで名をはせた女優・歌手となった。しかし、第二次世界大戦中難聴を発症し、以後は芸術を支援する実業家として生涯を終えた。
みいとこの夫:ケイジョ・セッパセン
Keijo Seppäsen
1912年11月23日~1977年
リーヤ・オリヴィア・ゲプハルトが一時期嫁いでいた夫。戦間期フィンランドの舞台俳優で、結構なキャリアは積んでいるものの映画にはほとんど出ていないため詳細は不明。
リーヤは15歳も年長だったうえに、彼女の性格もあまり合わなかったとされている。
脚注
- https://www.biografija.ru/biography/nazarova-tatyana-borisovna.htm ↩︎
- https://electro.nekrasovka.ru/books/1987/pages/18 ↩︎
- http://redkayakniga.ru/biblioteki/item/f00/s00/z0000014/st018.shtml ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/f88aafdf-4142-4b86-a102-418e864ae91d/287 ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/f88aafdf-4142-4b86-a102-418e864ae91d/288 ↩︎
- https://monastery.ru/j-zhizn-obiteli/ya-zvonyu-bogoroditse/ ↩︎
- https://www.mat.univie.ac.at/~neretin/misc/luzin/savvina.html ↩︎
- http://ktoeto.info/msk10/fio/796823 ↩︎
- https://proza.ru/2014/06/11/1128 ↩︎
- https://proza.ru/2014/06/11/1128 ↩︎
- ハルトゥング家側に出てくるこのボリス・ヴラディミロヴィッチ・クレショフが、クレショフ家側の史料のボリスと同一人物か確定はしていないので ↩︎
- https://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/2018/schweizer-kunst-swiss-art-zh1803/lot.14.html ↩︎