ニコライ・メトネルとは何らかの血縁関係があったと言える人物に関するページである。
なお、名前については改名だの社会にあわせているだけで本当は別の名前があるだのあってややこしい。例えば、ニコライ・メトネルも、亡くなった時の火葬記録である「Barnet Burial and Cremation Registers」にて当時はニコラス・チャールズ・メトネル(Nicholas Charles Medtner)を名乗っていたことがわかる。この真ん中のチャールズが父称であるカルロヴィッチのことなのか、父や兄のように本当はミドルネームがちゃんとあったのかもよくわからない(ペルヌ市の市民表には彼のミドルネームは未記載)。
ということなので、今後の利便性も考え、可能な限り複数の名を併記する。
- 家系図
- 競走馬血統表風
- メトネル家
- 父方の高祖父:ニールス・アンドレセン・メトネル
- 父方の曾祖父:パウル・アンドレアス・メトネル
- 父方の曾祖母:アンナ・ヴィルヘルミネ・メトネル(アンナ・ヴィルヘルミネ・バランシウス)
- 父方の祖父:ペーター・ハンス・メトネル/ピョートル・パブロヴィッチ・メトネル
- 父:カール・アウグスト・ベンヤミン・メトネル/カール・ペトロヴィッチ・メトネル
- 母:アレクサンドラ・カルロヴナ・メトネル(アレクサンドラ・カルロヴナ・ゲディケ)
- 兄:エミール・カール・メトネル/エミリィ・カルロヴィッチ・メトネル
- 兄:カール・フリードリヒ・メトネル/カール・カルロヴィッチ・メトネル
- 兄:アレクサンドル・カルロヴィッチ・メトネル
- 姉:ソフィヤ・カルロヴナ・サブロワ(ソフィー・マリー・メトネル)
- 弟:ウォルデマール・オスカル・メトネル/ウラジーミル・カルロヴィッチ・メトネル
- 甥:アレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・メトネル
- 甥:ボリス・アレクサンドロヴィッチ・メトネル
- 又姪:タチアナ・ボリソヴナ・ナザロワ(タチアナ・ボリソヴナ・メトネル)
- 姪:イリーナ・アレクサンドロヴナ・メトネル
- 甥:ヴァレンティン・ル・カンピオン/ヴァレンティン・ビット/ヴァレンティン・メトネル
- モリアン家
- ゲプハルト家
- フォン・シュタイン家
- ブラテンシー家
- ゲディケ家
- テルスキー家
- サブロフ家
- タラソフ家
- シュテンベル家
- ウォインノフ家
- ブラホフ家
- ハルトゥング家
- クレショフ家
- ビューラー家
- 母方のはとこの夫の父:アドルフ・ビューラー
- 母方のはとこ:ロニア・(ヘレネ?)・ビューラー(ロニア・メイ)
- 母方のはとこの夫:フリードリヒ・テオドール・ビューラー
- 母方の再従甥:ロルフ・テオドール・ビューラー
- 母方の再従甥:レノックス・テオドール・ビューラー
- 母方のはとこの夫の兄:グスタフ・アドルフ・ビューラー
- 母方のはとこの夫の甥:マックス・ルネ・ビューラー
- 母方のはとこの夫の又甥:ウルス・フェリックス・ビューラー
- 母方のはとこの夫の姪の夫:ジェイムズ・エドゥアルド・シュヴァルツェンバッハ
- 母方のはとこの夫の姪:ネリー・マルセル・ビューラー
- 母方のはとこの夫の又甥:ゲオルグ・ラインハルト
- 母方のはとこの夫の又甥:アンドレアス・ラインハルト
- フィンランドのゲプハルト家
- 脚注
家系図
全体
※androidでは見れません
画像

Flamm(1995)、およびhttps://www.geni.com/などから各戸籍資料などを参照
シュテンベル家
※androidでは見れません
画像

https://www.geni.com/などから各戸籍資料などを参照
ハルトゥング家
※androidでは見れません
画像

https://www.geni.com/などから各戸籍資料などを参照
フィンランドのゲプハルト家
※androidでは見れません
画像

https://www.geni.com/などから各戸籍資料などを参照
競走馬血統表風
ニコライ・メトネル基準だとこうなる
ニコライ・メトネルの血統 | ||||
---|---|---|---|---|
父 カール・アウグスト・ベンヤミン・メトネル | 父の父 ペーター・ハンス・メトネル | 父の父の父 パウル・アンドレアス・メトネル | 父の父の父の父 ニールス・アンドレセン・メトネル | |
不明 | ||||
父の父の母 アンナ・ヴィルヘルミナ・バランシウス | 父の父の母の父 ヨハン・セブリン・バランシウス | |||
父の父の母の母 アンナ・ドロテア・ゲルラッハ | ||||
父の母 マリー・エリザベート・モリアン | 父の母の父 ペーター・カスパル・モリアン | 父の母の父の父 ペーター・カスパル・モリアン | ||
父の母の父の母 カタリーナ・エリザベート・カッレ | ||||
不明 | 不明 | |||
不明 | ||||
母 アレクサンドラ・カルロヴナ・ゲディケ | 母の父 カール・アンドレヴィッチ・ゲディケ | 母の父の父 ハインリヒ・ゴットフリート・ゲディケ | 不明 | |
不明 | ||||
母の父の母 アンナ・カロリーナ・シュミーデクネヒト | 母の父の母の父 カール・クリストファー・シュミーデクネヒト | |||
母の父の母の母 カタリーナ・シータム | ||||
母の母 ポリーナ・フョードロヴナ・ゲプハルト | 母の母の父 フリードリヒ・アルベルト・ゲプハルト | 不明 | ||
不明 | ||||
母の母の母 マリア・ヘドヴィヒ・フォン・シュタイン | 母の母の母の父 クリスティアン・デットローフ・フォン・シュタイン | |||
母の母の母の母 カタリーナ・エリザベート・クリューガー |
メトネル家
エミリィ・メトネルが「一般的にはデンマークのシュレスヴィヒ・ホルシュタイン辺りの名字じゃない?」と言っているが、ニコライ・メトネルの高祖父の時点ではデンマークのコペンハーゲンにおり、確かに元はデンマーク出身の家であるようだ。
とはいえ、名字については21世紀になる頃にはだいたい現ポーランド近辺発祥では?というのが定説になっている。実際、18世紀以前のデンマークにメトネル家なんて一つあるくらいではという気はする。
父方の高祖父:ニールス・アンドレセン・メトネル
Niels Andresen Mettner
1938年に発行された”Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”の12巻(”Das Bürgerbuch von Pernau”2冊目)に、ペルヌ市にやってきたパウル・アンドレアス・メトネルの情報が記載されているが、そこに父親の名前がニールス・アンドレセンとある。それ以外の情報は不明。
父方の曾祖父:パウル・アンドレアス・メトネル
Paul Andreas Mettner
1763年? or 1768年?〜1829年4月25日(ユリウス暦では4月13日)? or 1834年?
メトネル家の中で事績がわかるものの内、筆者が現時点で遡れた最初の代。
通常メトネル家はデンマークの農家の出で、旧デンマーク現ドイツのシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地域から出てきたと言われている。これはよく参照元とされる1921年9月27日付けのエミリィ・メトネルからエッティンガーへの手紙(Apetyan編の回顧録の方に収録)のなかでエミリィが披露する先祖話において、あくまでも一般論としてメトネルという姓の起こりを述べているだけである。ただし、”Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”の12巻にコペンハーゲンの出身と書かれており、彼がデンマークからやってきたのは確からしい。
少なくとも、このパウル・アンドレアス・メトネルという人物は、外国から来た熟練の画家(Malermeister)として、1795年のエストニアのペルヌ市(当時はロシア帝国領リヴォニア)の市民表に名前が載っている1ことがわかる。この1795年の市民表では、海外から来たグループの内No.9のアトリエ付きBeisasse(市民権のない外国人居住者)の一人としてカウントされている。
この時期、このパウル・アンドレアス・メトネルを筆頭に、後世のメトネル家の関係者になる家々を含め、大量の外国人がペルヌ市に住み始めて拠点を構えている。これは1787年2月26日(ユリウス暦では1787年2月15日)にロシア皇帝エカチェリーナ2世が公布した市民憲章のためである。彼女の西欧化政策によって、ペルヌ市もまた西欧的なブルジョワジー層を形成させるために、広範な自治権などを与えられたのである。要するに、旧市民を除けば市民権を与えられる存在も流動的になり、外国人が活躍するチャンスが増していたということである。
ところが、1797年5月12日(ユリウス暦では1797年5月1日)に、パーヴェル1世が憲章を元に戻した。パーヴェル1世の行った反動政治は彼の暗殺とともにあっけなく改められたが、ペルヌ市の憲章に関しては以後1889年までそのままになる。
そして、パウル・アンドレアス・メトネルは”Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”の12巻によると、まさにこのパーヴェル1世の反動が起きた直後の1797年7月4日(ユリウス暦では6月23日)に市民登録されたらしい。要するに結構ぎりぎりのタイミングだったようだ。
1811年時点では44歳2、1828年時点では60歳3、1834年時点では66歳4となって、1835年に削除する名前リストに彼が載っている5。よって、1834年~1835年ごろに市民表から名前が抜ける何かがあったと思われ、この頃死んだと思われる。
のだが、タリンにある「Tallinna Oleviste kogudus」の記録に、4月13日に亡くなり、4月17日に葬られた66歳のペルヌ市の画家パウル・メトネルの記載がある6。ただ、素直にこの記録のページ上の記述を信じると1829年の出来事であり、この5年のずれが何なのかは、記して後考を待ちたい。また、エストニア南部のペルヌ郡にいたパウル・メトネルが、なぜ北部のタリンで埋葬されているのかも、気になる点である。
なお、ペルヌ市の市民表には息子はメトネルの祖父・ペーター・ハンス・メトネルしか載っていない。しかし、教会史料に画家のメトネルの息子の死亡記事が複数ある。ペルヌ郡内で、ヴィリャンディ区の「Helme Maarja kogudus」に1805年1月30日(ユリウス暦)にフリードリヒ・ゴットリープ・メトネルが4歳で7、ペルヌ区の「Tõstamaa Maarja kogudus」に1808年2月12日(ユリウス暦)にカール・ヨハン・メトネルが病気で9歳で8亡くなった記録が残っている。
このため、彼の子供は少なくとも以下の3兄弟がいたようだ。
- カール・ヨハン・メトネル:1799年~1808年2月24日
- ペーター・ハンス・メトネル:1800年4月13日~1877年1月18日
- フリードリヒ・ゴットリープ・メトネル:1801年~1805年2月11日
父方の曾祖母:アンナ・ヴィルヘルミネ・メトネル(アンナ・ヴィルヘルミネ・バランシウス)
Anna Wilhelmine Mettner(Anna Wilhelmine Balansius)
1779年?~1817年2月10日(ユリウス暦では1月29日)
上記パウル・アンドレアス・メトネルの妻。生年に関しては、1795年のペルヌ市の市民表9に16歳とあることからの逆算。それ以外は、1798年1月27日(ユリウス暦では1月16日)に結婚したことと、上記没年以外は不明。
なお、彼女の父ヨハン・セヴリン・バランシウス(Johan Sevrin Balansius)は、1795年のペルヌ市の市民表では、海外から来たグループの内No.38の熟練の木工職人(Drechslermeister)として記載されている10。
ただし、この家はエカチェリーナ2世が新しい市民憲章を公布するより前からいた市民しか掲載されていない、”Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”の11巻の方にいる(12巻で1806年に登録されているのは同名の彼の息子)。それによるとパウルと同じくコペンハーゲンの出身で、1774年3月4日(ユリウス暦では2月21日)に登録されている。なので、ペルヌ市に来たのはメトネル家よりもはるかに前らしい。
実際、ヨハンはそれ以前にヘッセンのSchmalkaldenから来て1747年に市民登録された大工のゲルラッハ家から、この家の登録から1か月半後くらいに妻を迎えている。なので、バランシウス家に関しては、北方戦争でエストニアがロシアに移った直後から移り住んだ第一波に近いのだろう。
父方の祖父:ペーター・ハンス・メトネル/ピョートル・パブロヴィッチ・メトネル
Peter Hans Medtner/Петр Павлович Метнер
1800年 or 1801年4月13日(ユリウス暦では4月1日) 〜1877年1月18日(ユリウス暦では1月6日)
メトネルたちの祖父。モスクワに墓石があるので生年月日が確定する11。と思いきや、実は”Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”の2巻では誕生日が同じながら1801年生まれとなっており、微妙にずれが生じてしまう。
Apetyanのインデックスなどによると看板の文字などを描いて生計を立てていたらしい。この点は革命前のロシア外国人のデータベース12などでも裏付けが取れる。上記の通り、父のパウル・アンドレアス・メトネルも画家なので、おそらく画家の一族だったのだろう。
加えて、このことは19世紀の出版事情をまとめたРаиса Николаевна Клейменова(1991)”Книжная Москва первой половины XIX века”という本でも補強できる。ここでは、1828年にモスクワ大学のリソグラフィー体制の強化のために雇われたピョートル・メトネルというリトグラフ画家が、「労働者の訓練はともかく、その訓練の教える側を自身が行うことや石に絵を描く作業などやれない」と理事会に突っぱね、人員の増員が行われたことが書かれている。これはどう考えても彼であり、工業化の流れに反発する手工業者の典型例だったとも思われる。
上記エピソードからも読み取れるように、彼の代である程度成功し、モスクワにも進出していた。このことは孫であるメトネル兄弟たちも認識していた。
ただし、Apetyan編のメトネル書簡集の146号の注によると、ペーターの息子にあたるメトネル兄弟の父・カール曰く、息子に教育的機会を与えなかった両親のどちらも、抑圧の象徴としている。特に14歳で学校を辞めさせられ6歳上の姉・エミリアが嫁いだシュテンベル家に丁稚奉公させられたことをかなり恨んでおり、その結果独学する羽目になったコンプレックスを生涯解消できなかったらしい。
ちなみに、ペーターの子供は以下の順番である。
- ルチエ・エレオノーレ・メトネル(Lucie Eleonore Medtner):1834年12月11日~1868年4月10日13
- パウル・ユリウス・メトネル(Paul Julius Medtner):1839年~1852年
- エミリア・ドロテア・メトネル/エミリア・ペトロヴナ・シュテンベル(Emilie Dorothea Medtner):1840年~1893年
- ペーター・ヨハン・メトネル(Peter Johann Medtner):1842年~1883年8月18日
- カール・アウグスト・ベンヤミン・メトネル(Carl August Benjamin Medtner):1846年8月13日~1921年
- エルンスト・エドゥアルド・メトネル(Ernst Eduard Medtner):1848年~1886年3月7日
父:カール・アウグスト・ベンヤミン・メトネル/カール・ペトロヴィッチ・メトネル
Carl August Benjamin Medtner/Карл Петрович Метнер
1846年8月13日(ユリウス暦では1846年8月1日)~1921年12月9日
メトネルたちの父親。なお、一般的にはロシア人としてのカール・ペトロヴィッチ・メトネルと書かれるが、ペルヌ市の市民表14にカール・アウグスト・ベンヤミン・メトネルという本来の名前が載っている。
メトネル家はドイツ系ということになっており、カールの母方は確実にそうなのだが、父方はエミリィたちはデンマーク系と思っていたし、実際にそうである。このために現代のロシア側の研究者でメトネルをドイツ系と形容する人間はあまりいなくなっている。確かに現代目線からすると、カールに関してはデンマーク系エストニア人とでも言える存在である。
19世紀のロシアでよくいる経済的に成功した西側出身者の典型例。モスクワレース工場を運営していた実業家である。ということで、貴族の末裔ともいえるラフマニノフやスクリャービンほどではないのだが、メトネル家はそれらに次ぐ有力な家といっても過言ではない。
ただし、今一つ伝記によく出てくるわりに何をやっていたのかよくわからないモスクワレース工場。ジャーナリストのАлла Сорокинаの記事15によると、この”Московская кружевная фабрика”は、アレクサンドル・アダモヴィッチ・ギバルトフスキー(Александр Адамович Гивартовский)に代表される、イギリス系やドイツ系の複数の資本家による合同出資によって1889年に誕生した、レース製品を作る機械による工場だったらしい。
あくまでもソヴィエト連邦によって国有化された後だが、1928年に敷地内でセルゲイ・ユトケーヴィッチ(Сергей Юткевич)が映画”Кружева(レース)”を撮影している。これはrvisionTVによって公式にYouTubeにアップされているので、工場の往年の姿は気軽に見られる(画質無茶苦茶悪いけど……)
なお、匿名による記事なので、あまり参考文献にはできないのだが、この記事16によると、ドイツ系のアレクサンドル・ギバルトフスキー(Александр Гивартовский)とイギリス系のトマス・フレッチャー(Томас Флетчер)らの商会が、1886年ごろから機械を開発し、1889年に企業としてスタートしたとのこと。
よって、モスクワレース工場であるが、メトネル兄弟が誕生してしばらくしてから、合同出資の段階になって噛んだ一人がカールと思われ、とくに彼がゼロから立ち上げたわけでもない。そのうえ、すでにこの時点で資本家だったと思われる。このため、これ以前のカールがどのようにして財を成したのかは、謎である。
なお、アンドレイ・ベールイによると、ヴァレンシュタイン風のひげを蓄えたいかにもなドイツ系と言われている。マリエッタ・シャギニャンもメトネル家との交流でスケジュール管理などを身に着けたと述べているので、なんとなく家風が察される。
上記の通り、父親のせいで一族の中で早くから丁稚奉公のような状況に不本意ながらなってしまったため、勉学を全くできなかったことを悔いていたようだ。特に、メトネル兄弟の母方と異なり、父方についての言及は一次史料でも各種伝記でもかなり扱いが軽い。数代に渡って成り上がってきた家の出だったと思われる。
このため、彼の段階でいわば成金のようになった。結果として、メトネル兄弟には手厚い学習体制が、妻の実家の協力も得ながら、敷かれたというわけである。また、上記経歴のため、エミリィ・メトネルも自分のアイデンティティを父方ではなく文化人を輩出してきた母方に求めていき、エミリィが自分をドイツ人とみなすようになったのもこの影響と思われる。
しかし、長男のエミリィは第一次世界大戦末のロシア内戦を境に音信不通になる。同時にこの内戦で次男のカールは前線で病死。おまけにロシア革命で工場の権利も奪われ、ニコライが手始めに亡命を行った矢先にこの父親は亡くなってしまった。なので、実はエミリィとの再会はできていない。
母:アレクサンドラ・カルロヴナ・メトネル(アレクサンドラ・カルロヴナ・ゲディケ)
Александра Карловна Метнер(Александра Карловна Гедике)
1842年11月22日(ユリウス暦では11月10日)~1918年4月8日(ユリウス暦では3月26日)
メトネルたちの母親。旧姓はゲディケ。メトネル家はドイツ系ということになっているが、実はこれはエミリィが彼女の母方のゲプハルト家にルーツを求めた結果と思われる。彼女の父方のゲディケ家に関しては、下記の通りスウェーデン起源でポンメルン経由でロシアに来たらしい。
彼女の兄弟や甥が音楽家であることからもわかる通り、ゲディケ家は音楽家の一族である。実際彼女もメゾソプラノの歌手だった。ニコライは当初そんな彼女やフョードル・ゲディケらから教育を受けたということである。
一応、メトネルの各種伝記では、ニコライ・メトネルとアンナの恋愛を終わらせ、アンナをエミリィと、ニコライをマルクグラフという別の女性と婚約させ、アンナがエミリィと結ばれたという要因とされている。
一方で、アペチャン編のメトネルの回顧録での親族の記述を合わせると、ニコライ・メトネルは彼女には自分のコンサートの日を全て共有し、コンサート当日には彼女と話すことをルーチンにしてゾーンに入っていたらしい。このことを彼女が死ぬまで続けており、その後は姉のソフィヤ、亡命後は妻のアンナらが代わっていった。とのことなので、アンナの件があるとはいえ、この親子の間には最後まで愛情で結ばれた関係があるらしい。
ただし、最後までニコライとアンナの婚姻には反対し、皮肉にも彼女が亡くなった結果、エミリィが第一次世界大戦後音信不通になっていたこともあり、ニコライとアンナが公的に結婚する結果となった。
兄:エミール・カール・メトネル/エミリィ・カルロヴィッチ・メトネル
エミリィ・メトネル略伝を参照。
兄:カール・フリードリヒ・メトネル/カール・カルロヴィッチ・メトネル
Carl Friedrich Medtner/Карл Карлович Метнер
1874年8月15日(ユリウス暦では8月3日)~1919年11月20日
メトネル家の次男で、父親とは同名。とのことだが、実はペルヌ市の市民表17にて、本来はカール・フリードリヒという名前だったことがわかる。
ちゃんと調査していないので事情は正確には不明だが、長男が当初は公務員になった経緯から必然的に次男の彼が親の家業を継いだと思われる。こうして、父親のモスクワレース工場の後継者となった。しかし、日露戦争の頃から徴兵され、軍属も多くなっていった。
ところが、悲劇は起きる。第一次世界大戦に従軍した結果、いつしか家族への連絡がなくなり、行方不明となってしまう。しかし、実はロシア革命に伴い皇帝の軍として革命政府に捕らえられていた。かくして、留置場にいたことを知った父とニコライの奔走で解放された。なお、この情報はソ連側の諸文献にはなく、カナダで1956年に出版されたBernard Pinsonneaultの伝記が出どころである。
のだが、その後赤軍兵士としてロシア内戦に繰り出され、あっけなく前線で腸チフスで死んでしまった。このことをメトネル家が知ったのは、半年後の1920年3月上旬となった。
カールは、アンナ・メトネルの姉であるエレーナと結婚していた。結果、ロシア革命に伴い工場の権利も奪われていたこともあり、彼の死に伴って実は両親やカール系のメトネル家だけではなく、ブラテンシー家のほぼ全員までニコライが扶余する形になってしまう。この経済的負担がニコライの亡命につながるとかつながらないとか。
兄:アレクサンドル・カルロヴィッチ・メトネル
Александр Карлович Метнер
1877年6月2日~1966年11月26日
メトネル家の三男で、ニコライと同じく音楽の道に進む。そのせいで戦前~昭和末期くらいまでの和書では、兄弟の事績や兄弟順がかなりごっちゃになっている。なお、Apetyanの書簡集によると、身内の間では「Зязька」と呼ばれていたとのことで、手紙で本名を呼ばれることはほぼない。これはおそらく、彼らの母親と略称が同じになるからかもしれない。
1892年から1898年までモスクワ音楽院で学ぶが、彼の進んだのはヴァイオリンコースであり、その後カリンニコフらに作曲も学んでいく。以後、弟のように亡命などはせず、死ぬまでソ連でヴァイオリニスト、指揮者、作曲家として活動した。少なくとも指揮者としてはプロコフィエフの作品などにも携わっている。
1898年に貴族・テルスキー家のヴィクトリヤと一度目の結婚し、このとき正教に改宗している18。しかし、教会記録の後世の加筆によると、1917年に彼女の不貞などで離婚した19。
というか、エミリィ、ニコライに比べると、ソヴィエト連邦内でそこそこのポストに一定期間ついていた筈なのに全く記録がない。Wikipediaの記事もロシア語版、フランス語版、ドイツ語版などで存在するのだが、その記述はほぼロシア圏で流通した事典類のコピペである。実際、アレクサンドル・メトネルに関しては、どの記述にも共通で人気作品と言われている、アクサーコフの劇『緋色の花』に付随させた音楽くらいしか、音源が見当たらない。というか、これしかレコードとして売られた記録もない。
ただし、劇音楽に付随する音楽を多く作った点は、以下のサイトに大量に一次史料が見つかるので事実と思われる。
実際、終戦直後の日本でソ連に訪れアレクサンドル・メトネルのバレエを聴いた記事が複数見つかる。求む情報。
姉:ソフィヤ・カルロヴナ・サブロワ(ソフィー・マリー・メトネル)
Sophie Marie Medtner/Софья Карловна Сабурова(Софья Карловна Метнер)
1878年8月29日(ユリウス暦では8月17日)~1943年
メトネルの姉。メトネルにとってはずっと親しい血縁関係のある女性だったのだが、正直彼女が具体的にどのような人生を送ったのかはよくわかっていない。
このため、分家の分家クラスとは言え、どうして貴族の子弟と結婚したのかも結構な謎である。
弟:ウォルデマール・オスカル・メトネル/ウラジーミル・カルロヴィッチ・メトネル
1881年12月4日(ユリウス暦では11月22日)~1883年10月19日?(ユリウス暦では10月7日)or 1891年
Woldemar Oscar Medtner/Владимир Карлович Метнер
メトネル家の五男で、ニコライの唯一の下の兄弟。ペルヌ市の市民表を見た限り、本来はウォルデマール・オスカル・メトネルという名前だったらしい。しかし、幼くして亡くなり、特に記載することはない。
と思っていたのだが、ある問題が発生している。Dolinskyaの旧版、およびそれを参考源にしたMartyn以下、半世紀にわたりこの弟の没年は1891年とされていた。のだが、ペルヌ市の市民表20を見た限り、どう見てもユリウス暦で1883年10月7日(もしくは筆の癖で1日の可能性はある)に死んでいるのである。
正直なところ、メトネルが末っ子同然に甘やかされたという伝承的には、弟が2歳にもならないうちに死んでいる方が蓋然性が高かったりする。記して後考を待ちたい。
甥:アレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・メトネル
Александр Александрович Метнер
1896年~1917年
兄・アレクサンドル・メトネルの長男。Apetyanの書簡集の方のインデックスによると、第一次世界大戦で戦死したらしい。
甥:ボリス・アレクサンドロヴィッチ・メトネル
Борис Александрович Метнер
1898年~1977年
兄・アレクサンドル・メトネルの次男。Apetyanの書簡集の方のインデックスによると、養鶏家らしい。
又姪:タチアナ・ボリソヴナ・ナザロワ(タチアナ・ボリソヴナ・メトネル)
Татьяна Борисовна Назарова(Татьяна Борисовна Метнер)
1928年~1999年
ボリスの娘。つまりアレクサンドル・メトネルの孫。グネーシン音楽学校卒のピアニスト・作曲家で、結構な数の作曲の記録が残っている21。なお、名前を見てもわかる通り某ナザロフという夫がいるが、子孫がいるかは不明。
姪:イリーナ・アレクサンドロヴナ・メトネル
Ирина Александровна Метнер
1899年~1968年
アレクサンドル・メトネルの娘で、ニコライ・メトネルの姪。
ピアノに秀でており、メトネル家とゲディケ家のモスクワ音楽院での権勢を保たせるために、ニコライ・メトネルからアレクサンドル・メトネルに全面的にサポートするから入学させてくれと言われて音楽院に進んだ。
しかし、当初はコニュスのクラスにおり、ニコライ・メトネルが抜けた1920年にキップのクラスに移ったため、割と反故にされてはいる。ただし、1927年12月4日にゴーリキーに関するイベントでピアノ演奏をする22などしているので、プロのピアニストにはなったらしい。また、Apetyanのメトネルの回顧録の人名インデックスによると、2度の結婚歴があるらしい。
甥:ヴァレンティン・ル・カンピオン/ヴァレンティン・ビット/ヴァレンティン・メトネル
Valentin Le Campion
1903年~1952年
アレクサンデル・メトネルの2番目の妻、オリガ・ゲディケが、前の夫であるニコライ・ビットとの間に設けていた連れ子。フランスへの亡命後、フランス人だった母方の祖母(フョードル・ゲディケの妻)の姓からValentin Le Campionと名乗る。
ちなみにオリガの前の夫で実父ニコライ・ビットの経歴は全くの不明。なお、オリガ・ゲディケは上記の通りフョードル・ゲディケの娘なので、アレクサンドル・ゲディケにとってアレクサンドル・メトネルは実は義弟だったりもする。
メトネル家で育った後、革命後にかの有名なヴフテマスに入学した。が、生家が生家だけにどうもブルジョア的とみなされあっけなく追い出されたらしい。1923年からアレクセイ・クラフチェンコに版画を学ぶ。
1927年にパリに居つき、ステファン・パンヌメイカーに学んだあと、彫刻家や版画家として、フランスでは一定程度の知名度を誇る名声を得た。自身は割合早くに死んでしまったが、ジェーン・シュイエとの間に、マリー・エレーヌ・ル・カンピオンら3人の子供もいたため、遺族が彼の作品を手厚く保全していった。
なお、もともとソ連にいたことはフランス側ではわかっていたのだが、フランスに来てから祖母の旧姓を名乗ってたこともあり、経歴が全く分からなかった。このため遺族がとりあえずソ連にも作品を送りたいとした過程で調査をし、結果として彼がメトネル一門であったことがようやくフランスで知られたレベルだったらしい。なお、この際に、当時存命だったヴェーラ・タラソヴァらと調査者が交流を持ったらしい23。
モリアン家
メトネル兄弟の父方の祖母の実家。1992年頃に出たМосква. Энциклопедияический справочникによるとこの祖母は貴族の出と書かれており、うっかりペルヌ市出身の貴族「Von Morian家」の出と信じそうになる。が、前述のエミリィ・メトネルの手紙に、「曾祖父のペーターの代でモスクワに来たライン地方出身のワイン業者」と思い切り書いてある。
そもそもVon Morian家は北欧の貴族オタク24 25のサイトに記されるように、スウェーデン貴族会の把握では1820年に男系消滅としている。また、ペーターとマリー父子は系図上見出せない。なおかつVon Morian家の女系子孫・Eric Von Bornが1939年に出した”Ätten von Morians öden”で、「西ドイツの貴族Morrien家にはあるけど我々のVon Morian家の紋章にはない」と証言している(実際にない)星の装飾を、エミリィ・メトネルが紋章にあったと述べている。
実際は、詳細は後述するが、この家は西ドイツのリュートリングハウゼン近辺にいた商家である。ちなみにエミリィのせいで時折スペイン系と書かれるが、これはMorianという姓の由来が「ムーア人」だからの拡大解釈。実際は北部アフリカや中東的なラテン文化圏とは違うルーツを誇っていた家とも思われる。
なお、ドイツ貴族で同姓のMorrien家は自分のことを東方の三博士のメルキオールの子孫だと思っていたからが由来。なのだが、このMorian家が同じルーツかどうかもわからず、理由が同じかどうかも当然わからない。
父方の高祖父の父:ヨハン・アントン・モリアン
Johann Anton Morian
1715年6月15日~1793年6月30日
ただの外科医に過ぎなかった祖父・フィリップ・アントン・モリアンの息子・ヨハン・クリストフ・モリアンが商人に転身し、その次の彼の代で「Anton Morian & Co.」という布製品の企業を作ったらしい。メトネル家につながるのは、彼の次男のペーター・カスパル・モリアン(1746年生まれ)→ペーター・カスパル・モリアン(1775年生まれ)の系統である。
父方の高祖父のいとこ:ヨハン・ダニエル・モリアン
Johann Daniel Morian
1760年2月12日~1812年
ヨハン・アントン・モリアンの弟・ヴィルヘルム・モリアンの息子。ワイン商人であり、後述するメトネルの曾祖父ペーター・カスパル・モリアンがモスクワで売っていたワインは、イニシャルから彼のものと思われる。
父方の曾祖父:ペーター・カスパル・モリアン
Peter Caspar Morian
1775年9月4日~1846年8月9日
メトネル家が把握していたモリアン家の先祖。名前がペーターということまでは確定しており、モスクワで活動していた外国人のペーター・モリアンはこの人物しかいない26ということで、この記事では当てはめている。なお、かの有名な”Московский некрополь”など複数記録に出てくるので、実在はしている。
エミリィ・メトネル曰く、実家の作っていたワインをロシアに売りにやってきたとのこと。実際ロシアにはJ.Morianと銘が書かれたワインが現在も流通しておりカタログもきっちりあるので27、彼のいとこ違いのヨハン・ダニエル・モリアンの作っていたワインを売っていたのだろう。ただし、エミリィは最終的に彼の代でモスクワのワイン業はかの有名なアラバジ(Арабажи)に移譲してしまったと書いている。それ以外の詳細は不明。
エミリィ曰く、オーストリア出身のルター派の女性と結婚したとのことで、これがメトネルの曾祖母だが詳細は不明。
父方の祖母:マリー・エリザベート・メトネル(マリー・エリザベート・モリアン)
Marie Elisabeth Medtner(Marie Elisabeth Morian)/Мария Петровна Метнер(Мария Петровна Мориан)
1813年〜1887年8月12日(ユリウス暦では7月31日)
メトネルたちの祖母。エミリィ曰く、上記のペーター・カスパル・モリアンがロシアにやってきてから彼の家で生まれたらしい。それ以外のことは全くわからないが、Apetyan編のメトネル書簡集の146号の注によると、メトネルたちの父親・カール・メトネルは、父だけではなくこの母も自分を抑圧した存在と考えていたようだ。
ただし、1897年以降に書かれたことが確定するペルヌ市の市民表28で(同年にカール・ペトロヴィッチ・メトネル一家が離脱することが明記されているので)、この人物の亡くなった日付が明記されている。
父方の大叔母:スザンナ・ペトロヴナ・ミッチンソン(スザンナ・ペトロヴナ・モリアン)
Сусанна Петровна Митчинсон(Сусанна Петровна Мориан)
1834年?~?
祖母の姉妹。なお、エミリィ曰く伯母で若く死んだエレオノーレの同い年とのことだが、ペルヌ市の市民表と墓石でLucie Eleonore Medtnerの生年が1834年12月11日ということがわかり、姉と歳が離れすぎている。のだが、いったんそのままにしておく。
エミリィ曰くモリアン家の情報源はほぼ彼女で、当初上記エレオノーレと1859年7月27日(ユリウス暦では7月16日)に結婚していた29、イギリス人のワシーリー・ミッチンソンの後妻となったらしい(エレオノーレの没年が1868年4月10日なのでそれ以降)。
なお、このワシーリー・ミッチンソンはエミリィ情報によると、有名なモスクワのマッチ工場で働いていたらしい。上記の結婚時の教会記録だと、ペーター・メトネルに近い、絵やカリグラフィーの教師などをしていたらしい。
姉妹のユリアとともに、インテリから称賛されるほど立派な教育機関を経営していたらしい。
ゲプハルト家
母方の先祖
母方の曾祖父:フリードリヒ・アルベルト・ゲプハルト
Friedrich Albert Gebhardt
1781年7月26日~1861年4月30日
メトネルの母方の先祖。ドイツ人だがロシアに渡った俳優で、演劇活動や台本執筆以外にも、作曲家のジョン・フィールドの伝記も書いている。エミリィ曰く元はオルガン奏者の一族で、バッハ一門とも関係があったのでは?ともしているが、裏付けは特に取れない。
母方の大叔父:フョードル・フョードロヴィッチ・ゲプハルト
Федор Федорович Гебхард
?~1855年
軍医としてクリミア戦争に従軍し、病にかかって死んだらしい。アマチュア作曲家だったので、面識がないながらもエミリィらに慕われていた。
母方の大叔母:マリア・フョードロヴナ・ボンソヴィッチ(マリア・フョードロヴナ・ゲプハルト)
Мария Федоровна Вонсович (Мария Федоровна Гебхард)
?~?
エミリィ曰く三女。母親のマリアがアレクサンドル1世を招いた『オセロー』の公演に妊娠しながら臨み、公演中に出産したことの称賛からこの皇帝が名付け親になったとのこと。母親の伝記、およびエミリィの手紙のどちらにも書かれているエピソードだが、前者を読んで後者が書かれた可能性もあり、事実かは不明。
ゲプハルト家の中では愛情深く芝居がかかった口調の浮いた存在だったらしく、エミリィ曰く妹のヴィルヘルミナからは冷たくされていたとのこと。ポーランド人のヴォンソヴィッチと結婚したらしい。
母方の大叔母:ヴィルヘルミナ・フョードロヴナ・ゲプハルト
Вильгельмина Федоровна Гебхард
1809年~1888年
母親の伝記によると四女。このため、メトネル兄弟とも面識がある。
細密画家としてそこそこ知られた存在。エミリィ曰く後にナポレオン3世のいとこと結婚したアナトリー・ニコラエヴィッチ・デミドフ(Анатолий Николаевич Демидов)と彼の同僚の某プラトーノフから求婚されていたらしい。彼女自身はプラトーノフを愛していたが彼は結婚してしまい、結局デミドフの求婚も蹴り生涯未婚で過ごしたとのこと。
エミリィ曰く、ミーナと呼ばれるこの親族は、旧態然とした威圧感のある人物だったので、幼い人々からは恐れられていたとのこと。
フォン・シュタイン家
母方の先祖。エミリィ曰く曾祖母マリアはバルト海のシュタイン男爵の娘とのことで、ドイツで同時代に書かれたこの人物の伝記によるとペルヌ出身なので、順当に考えればUlpischなどを相続していた貴族・シュタイン家の出身ということになる。
のだが、このシュタイン家は19世紀に没落しており、近代以降のバルト三国の貴族をまとめた本には家譜を書ける人間がいなかったのか立項すらされていない。よって、家系図すら断片的な記録をつなぎ合わせなければつくれない家である。
実際のところ、”Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”の11巻(”Das Bürgerbuch von Pernau”1冊目)に全条件に合致してしまうシュタイン家がおり、彼女はここの家の出身と思われる。ただし、今度はこの家がシュタイン男爵家にどうつながるのか全く分からないという別の問題は発生する。
母方の高祖父:クリスティアン・デットローフ(・フォン?)・シュタイン
Christian Detloff Stein
?~?
“Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”の11巻で1769年5月12日(ユリウス暦では5月1日)にペルヌ市に市民登録された、No.782の熟練の衣服職人(Schneidermeister)。ペルヌ市に住んでおり、1780年代に生まれたマリア・ヘドヴィヒと、ブッテンホーフ家に嫁いだ娘が生んだ孫のマリーが存在するという条件すべてが合致しており、彼がメトネルの曾祖母・マリア・ヘドヴィヒの父親であることは間違いないと思われる。ただし、ホルシュタインのオルデンブルク(オレンボー)出身としかわからず、エミリィの言う通り貴族シュタイン家の末裔なのかどうかもよくわからない。
ちなみに、彼の子供は以下である。
- ヨハン・クリスティアン・シュタイン:1771年12月8日(ユリウス暦では11月27日)~?
- ディートリヒ・ヴィルヘルム・シュタイン:1772年12月27日(ユリウス暦では12月16日)~?
- アンナ・クリスティナ・シュタイン:1774年6月9日(ユリウス暦では5月29日)~?
- フリードリヒ・サミュエル・シュタイン:1775年11月17日(ユリウス暦では11月6日)~?
- カール・ゴットリープ・シュタイン:1777年5月17日(ユリウス暦では5月6日)
- ヨハンナ・エリザベート・ブッテンホーフ(ヨハンナ・エリザベート・シュタイン):1780年11月7日(ユリウス暦では10月27日)~?
- マリア・ヘドヴィヒ・ゲプハルト(マリア・ヘドヴィヒ・フォン・シュタイン):1784年5月13日(ユリウス暦では5月2日)~1857年3月6日(ユリウス暦では2月22日)
- ゲオルグ・ハインリヒ・シュタイン:1788年2月7日(ユリウス暦では1月27日)~?
- カスパル・グスタフ・シュタイン:1790年7月27日(ユリウス暦では7月16日)~?
- カタリーナ・アガタ・シュタイン:1793年12月22日(ユリウス暦では12月11日)~?
母方の高祖母:カタリーナ・エリザベート・クリューガー
Catharina Elisabeth Krüger
1752年~1806年8月7日(ユリウス暦では7月26日)
クリスティアンの妻で、”Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”の11巻での夫の記載から、情報がわかる。没年月日と享年が54歳であることがわかるので、生年もある程度推測できる。
エストニアのFellin(現ヴィリャンディ)出身の蹄鉄工・ハインリヒ・サミュエル・クリューガー(Heinrich Samuel Krüger)の娘のようだ。
母方の曾祖母:マリア・ヘドヴィヒ・フォン・シュタイン
Maria Hedwig von Stein
1784年 or 1785年5月13日(ユリウス暦では5月2日)~1857年3月6日(ユリウス暦では2月22日)
ゲプハルトの妻。一般的には1785年生まれとされるが、”Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”の11巻では誕生日が同じながら1年の誤差がある。
女優で、皇帝一家の前でも演技をしたほどの存在。エミリィ曰くバルト海の貴族シュタイン家の娘とのことだが、前述の通り職人の父親の名前しかわからないので詳細は不明。
母方の族伯祖母:マリー・シュタイン(マリア・マグダレーナ・フォン・ブッテンホーフ)
Marie Stein(Maria Magdalena von Buttenhoff)
1802年7月26日(ユリウス暦では7月14日)〜1866年8月27日
女優。ロシアからハノーヴァーに渡り活躍した。一般的には没年しかわからないが、”Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”の11巻に生年月日の記載がある。
1858年に出た”Deutscher Bühnen-Almanach”22巻記載のマリア・ヘドヴィヒ・フォン・シュタインの伝記で夫妻の姪と紹介されており、1867年に出た”Deutscher Bühnen-Almanach”31巻記載の彼女自身の伝記でロシア出身とされる。よって、順当に考えればシュタイン家の女系と思われる。
実際”Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”にはこの条件に完全に合致する家族がいる。1787年1月23日(ユリウス暦では1月12日)に市民登録された、No.897の大工のヨハン・デイヴィッド・ブッテンホーフ(Johann David Buttenhof)と、彼の2番目の妻になったヨハンナ・エリザベート・シュタイン(Johanna Elisabeth Stein)、およびこの夫婦の娘マリア・マグダレーナ・ブッテンホーフ(Maria Magdalena Buttenhoff)である。おそらくこの娘が女優マリー・シュタインである。
両親をすぐに失った貧しい家の出という伝記の記述があるが、父親は1824年11月12日(ユリウス暦では10月31日)まで存命である。のだが、3番目の妻・ドロテア・ナタリア・ラスケ(Dorothea Natalie Rathke)と1810年3月11日(ユリウス暦では2月27日)に再婚しており、おそらく何らかの理由で2番目の妻の子供たちはブッテンホーフ家から離れたと思われる。
母方の族伯祖母の夫:アドルフ・フリードリヒ・シュタイン
Adolf Friedrich Stein
1810年〜1884年
元はゲプハルト夫妻のもとで働いていたが、ドイツに渡り劇作家としても活動した。本名よりも、ペンネームのアレクサンダー・エルツ(Alexander Elz)の方がそこそこ有名。
なお、ゲプハルト夫妻の血縁者と紹介されるのは彼の妻のほうだが、彼はシュタイン姓なのでもしかしたらこちらも近い縁者かもしれない。
ブラテンシー家
エミリィ・メトネル、カール・メトネル、ニコライ・メトネルの姻族。
妻の父:ミハイル・マトヴィェヴィッチ・ブラテンシ-
Михаил Матвеевич Братенши
1853年~1930年
メトネル家の姻族。ブラテンシー家の家長。なお、生年は通常記載されていないが、1891年にユダヤ教から正教に改宗しており、その時の証明書に38歳とある30。この史料、および生年が1855年と明らかになっている妻の2歳上という点から、1853年生まれとみなし得る。また、この史料からは父称はこの改宗で代理親となったマトヴェイ・ヴァルフォロミエヴィッチ・グルモフ(Матвѣй Варѳоломѣевич Глумов)というモスクワの商人から受け継いだものとわかる。本来はミハイル・モイセイヴィッチ・ブラテンシー(Михаил Моисеевич Братенши)という名前だったらしい。
彼がモスクワ音楽院に提出した史料31などによると、もともとはユダヤ人居住区であったクレメンチュグ(現ウクライナ)で商業をやって富んでいたらしい。1884年にはモスクワ近くのパノヴォにおり、娘のビナ(エレーナ)をモスクワ音楽院のジュニアクラスに送り込めるほどになっていた。その後ビナは1888年に卒業し、1891年に改宗した後モスクワに移り、1895年にはアンナがモスクワ音楽院のシニアクラスに入っている。
なお、メトネル家の知らない陰謀で参考にしたСоболев(2023)によると、歯科医兼石鹸工場の工場主だったらしい。歯科医をやっていた事実は、改宗史料にも書かれていたり、なぜか書籍媒体として記録が残されていたり、新聞に公告が残っていたりするので確定である。
ロシア帝国の官報にあたる”Сенатские ведомости.”の1898年に発行された79号には彼が退職したとある32ので、元は公的な歯科医だったと思われる。
”Московские церковные ведомости”という雑誌の末尾には1903年~1916年ごろまでコンスタントにミハイル・ブラテンシーの歯科医の広告が載っており、モスクワで10年以上歯科医をやっていたことがわかる。
一方、”Вечерняя Москва”1927年8月27日195号によると、歯科医業を再開とある33。
妻の母:アレクサンドラ・フセヴォロドヴナ・ブラテンシー
Александра Всеволодовна Братенши
1855年~1937年
ミハイルの妻。ミハイルと同じタイミングでユダヤ教から正教に改宗しており、旧名はレイザ・シュレモヴナ・フィルシュティンスカヤ(Рейза Шлемовна Фильштинская)。このときの代理親・フセヴォロド・アンドレヴィッチ・チトフ(Всеволод Андреевич Титов)という貴族を父称につけている。ただし、一般的にはアレクサンドラとされるこの人物だが、結局公文書ではロザリア・ソロモヴナ(Розалиа Соломоновна)と名乗っていたことがСоболев(2023)などで指摘されている。ということなので、棄教しつつも名前はある程度そのままで貫いたようだ。ただし、これはユダヤ教の慣習が母系社会というのも影響していそうである。
とはいえ、Apetyanの回顧録の方のインデックスからは彼女の旧姓のみがわかるのだが、この実家については不明。
その他の人生はよくわからない。
妻の姉:エレーナ・ミハイロヴナ・メトネル(エレーナ・ミハイロヴナ・ブラテンシー)
Елена Михайловна Метнер(Елена Михайловна Братенши)
1876年~1945年7月11日
アンナの姉で、メトネル家のカール・メトネル(息子)の妻。なお、改宗の事実を知らないためかDolinskayaが盛大に勘違いしているのだが、彼女が妹としているビナ(Бина)は妹ではなくエレーナの改宗前の名前34。なので、一般的に妹・ビナ・ブラテンシーとされている人物の事績は彼女に負わせられる。
1884年に改宗前の彼女が、モスクワ音楽院ピアノ科のジュニアクラスに入学している。その後1888年に卒業している。このため、おそらくピアノ演奏ができたと思われる。
その後、経緯は不明ながら、メトネル家の次男・カール・メトネルと結婚している。娘のヴェーラが生まれたのが1897年なので、おそらくそれ以前なのは確かだが、詳細は不明。
なのだが、マリア・アンドレーヴナ・ベケトワ(Мария Андреевна Бекетова)の日記によって、1906年12月30日のかの有名なアレクサンドル・ブロークの『見世物小屋』の初演会場にいたことがわかる。そこで賞賛のためか、終演後にブロークに白ユリと緑のスミレの花を投げつけたらしい。なお、ベケトワによると、かつてブロークの友人アレクサンドル・ヴァシリエヴィッチ・ギッピウス(Александр Васильевич Гиппиус)から求愛されていたとのこと。なので、ペテルブルクの象徴主義サークルに出入りしていたらしいことがうかがえる。
また、オークションには夫・カール・メトネルと彼女の連名で、ツルゲーネワの詩集をエリスに送ったものが出品されている35。ので、実は義理の兄・エミリィともども、この夫婦も何か象徴主義関連の活動をしていた疑惑が高い。
上記ベケトワの日記の内”Александр Блок в воспоминаниях современников”版の注釈に芸術家、後に工房の責任者とあるように、彼女は婚家のモスクワレース工場とは別に、”Студия Е.М. Метнер”という金属製品の工房を率いていた。さらに言えば、この方面から、何らかの計画を実行するために、サッヴァ・マーモントフの死後、かの有名な彼の領地「アブラムツェヴォ(Абрамцево)」の工房の所有者の権利を彼女が手に入れ、本当に一瞬所有権を持っていたことが複数記録からわかる。
まず、当時セルゲイ・スデイキンと結婚していた、後のストラヴィンスキーの二番目の妻として有名なヴェーラ・デ・ボッセ(当然当時はまだВера Судейкинаという名前)の日記に複数回出てくる。この日記は1917年~1919年しか残っていないが、ちょうど上記アブラムツェヴォの案件の頃である。
太ったヒキガエルのようなユダヤ人と形容される彼女は、すでにクレムリン宮殿の修復やアブラムツェヴォの経営のためにヤルタから離れていたのだが、まだ何かしたかったらしい。このため、セルゲイ・スデイキンら旧来の縁故の人々に資金繰りを依頼していたらしい。この資金繰りの際、セルゲイの癪に触るようなことをある程度したらしく、日記では徐々に扱いが悪くなっているような印象である。
ここで描かれるように、彼女が率いていた”Студия Е.М. Метнер”がこの時期一瞬幅を利かせていたことは、文芸評論家のЕвгений Рувимович Арензонが1988年に寄稿した”«Абрамцево» в Москве. К истории художественно-керамического предприятия С.И. Мамонтова.”という記事にも記載されている。しかし、この記事はまだソ連時代であり、ロシア革命後になぜかアブラムツェヴォが資本家が権利を獲得し、10年近い迷走の始まりとなったという、否定的な評価である。
一方、中立的な評価としては、ロシアの美術史家でコレクターのアレクセイ・ヴァシリエヴィッチ・フィリッポフ(Алексею Васильевичу Филиппову)(1882年~1956年)についてまとめた図録”Керамическая установка”がある。結局、彼女らの抵抗もむなしく、この著書の主役・フィリッポフの働きもありソヴィエト連邦成立後あっけなく工房は国有化されたので(彼女がロビー活動した部門とは別の部門が仕切った)、本当に1~2年前後の所有として年表にも記載される。
この”Керамическая установка”によると、”«Абрамцево» в Москве. К истории художественно-керамического предприятия С.И. Мамонтова.”とは異なりマーモントフの死亡によりいったん役目を終えたアブラムツェヴォの工房で、コンペなどを開催して再開させ、ある種延命措置させた存在としてエレーナは描かれている。フィリッポフとの縁も彼女の開催したコンペによるらしいので、「アブラムツェヴォ」とフィリッポフとの関係を描く際に、好意的に評価できる人物ではあったのだろう。
そして、そのあとどんな人生を送ったのか今一つよくわからないのだが、コンスタンチン・ソモフの日記の1925年8月9日の記事に、最近ロシアから来たメトネル夫妻の姪とその母親が出てくる。これはおそらくエレーナとヴェーラの母子であり、メトネル夫妻のフランス定住に伴い西側に出てきたようである。
その後、終戦直前の1945年7月11日に亡くなった(Bagneux墓地の1930番36依頼書などに埋葬記録がある)。
妻:アンナ・ミハイロヴナ・メトネル(アンナ・ミハイロヴナ・ブラテンシー)
Анна Михайловна Метнер(Анна Михайловна Братенши)
1877年~1965年
ニコライの妻。上記の通り成功したユダヤ系の歯科医の家に生まれ、ヴァイオリンをたしなんでいた。なお、アンナは1891年の正教改宗時についた名前だが、元の名前は不明。
ヴァイオリンをたしなんでいたと書いたが、実は1895年~1899年までモスクワ音楽院のヴァイオリン科シニアコースにいたような、ちゃんと教育を受けている女性。Dolinskayaは、メトネルのピアノ科シニアコースと重なる1896年に音楽院で両者が知り合った可能性を示唆しているが、ブラテンシー家の情報に誤りが多いので、事実かは不明。
メトネルの各種伝記によると、家族ぐるみの知り合いとなった後、もともとニコライとアンナの方が恋仲だったのだが、アンナはエミリィと結婚するべきとしたアレクサンドラ・メトネルに割かれた。そのまま1902年エミリィと結婚37。エミリィが公務員としてニジニ・ノヴゴロドに向かった際についていったのだが、1904年からニコライが後を追ってきて、3人で同棲状態になる。
しかも2人はあっけなく恋を燃え上がらせ、エミリィと結婚しているにもかかわらず、ニコライとの子供を作り、流産するという事態を引き起こす。それも2回も。
エミリィ的にはこの流産は2つの相反する役割にアンナを苦しませた結果だと思っていた。以後エミリィは精神に不調をきたした結果、どんどん精神分析に関心を持ち始める。ニコライもまた、その罪を告白するような楽曲に着手したとかしなかったとか。
とはいえ、親は反対していたのだが、エミリィはもういろいろ割り切って第一次世界大戦まではニコライ、エミリィ、アンナはずっと3人で同棲を続けてロシア各地を転々としていた。というか、1912年にはエミリィとその恋人、ニコライとアンナでバイロイト音楽祭にも行っている。
ところが、第一次世界大戦でミュンヘンに取り残されたエミリィはチューリヒでカール・グスタフ・ユングの取り巻きの一人となって暮らし始める。その後のロシア内戦の結果、東部戦線を挟んだこともあり音信不通となる。おまけに反対していたアレクサンドラ・メトネルが死んでしまった結果、1919年6月にニコライとアンナはようやく公的に結婚した。
しかしほぼ同時期にエミリィからの連絡が届くようになり、亡命後1921年にようやく3人で再会した。とはいえ以後もエミリィ、ニコライの相互交流は死ぬまで続き、アンナも彼らと歩みを同じくした。
かくしてニコライが死ぬまでそのそばで付き従ったのだが、過去のトラウマからかニコライとの関係は一種の共同事業者じみたものとなっていた。このため、作曲以外のニコライの仕事には彼女がほぼ付き従っていた。そんな彼女の姿は、プロコフィエフのようなメトネルを揶揄する立場の存在や皮肉屋にとっては格好の嘲笑の的だったようだ。
しかし、エミリィ、ニコライが順次亡くなり、一人取り残された彼女は、最終的にソ連に戻った。この経緯としては以下である。スターリン死後のフルシチョフによるスターリン批判などもあってジダーノフ批判などが清算され、メトネルの楽曲も弾くだけで自己批判されるような状況から復権。アラム・ハチャトゥリアンが音楽の「雪どけ」を宣言した直後にエミール・ギレリスがメトネル擁護をさっそく展開し始め、そんなギレリスの協力によってソ連に戻れたらしい。
しかし、ここで彼女は、故意かどうかは一定の留保が必要なのだが、メトネルの資料を冷戦両陣営に分割させ、メトネルの情報をほぼ独占していた状態になっていた。以後、ソ連での彼女の動向はほとんどわからず、アペチャンの回想録などの記述が数少ない記録である。
妻の弟:アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ブラテンシー
Александр Михайлович Братенши
1880年~1938年、もしくは1940年。
アンナの弟で、ブラテンシー家の長男。誕生日についてはネットで正教改宗時の資料が公開されている38。なお、アレクサンドルはこの改宗時についた名前だが、元の名前は不明。
Flamm(1995)では死亡年は1940年だが、ソ連で粛清された人々などを載せた”Жертвы политического террора в СССР, 4-ое издание”によると1938年という大粛清の頃に処刑されたらしい。この書籍をリスト化した、Жертвы политического террора в СССР (memo.ru)にも彼の記述がある。
上記によると、弁護士だったらしい。
また、おそらく死因が死因だっただけに色々あったらしく、Apetyanのインデックスにいるにもかかわらず、無視されることが多い。このため、結構な頻度で先行研究で彼の弟のアンドレイが唯一の男児と書かれることがあるので注意が必要である。
妻の弟:アンドレイ・ミハイロヴィッチ・ブラテンシー
Андрей Михайлович Братенши
1883年~1906年
アンナの弟で、ブラテンシー家の次男。誕生日についてはネットで正教改宗時の資料が公開されている39。なお、アンドレイはこの改宗時についた名前だが、元の名前は不明。
1906年に若くして自殺したらしい。ただし、この自殺した経緯というのが、まったくのでっち上げが起きたことで伝記で死因が異なって混乱している。
まず、Apetyan編のメトネルの書簡集のインデックスによると、血の日曜日事件の後ツァーリの秘密警察に追われた結果とのこと。これは後述の通り完全に根拠のないウソなのだが、この書簡集やDolinskaya(2013)に至るまで、ソ連・ロシア側の主張では、出典は不明ながら「そういうこと」にされていた。
ただし、Flamm(1995)などが主張するように、実際は全く違う経緯である。実際は、人妻を痴情のもつれから殺してしまい、そのまま勢いで自殺してしまった、が真実の彼の死因である。
これは、Ljunggren(1994)によって、出典がエミリィ・メトネルとアンドレイ・ベールイの1907年の書簡と書かれており、根拠がちゃんとある。実際に両者の往復書簡集の137号文書(4月)に書かれている経緯によると、別居中の人妻と愛し合った結果、彼女とよりを戻そうとし2人の海外行きを拒んだ彼女の夫に絶望し、2人でピストルで心中したとのこと。
アンドレイ・ベールイの回顧録『2つの革命の間に』によると、この人妻の名前はセントツォバとのこと。
ゲディケ家
メトネル兄弟の母方の実家。元はスウェーデン人で、ポンメルン経由でロシアに来たらしい。
母方の曾祖父:ハインリヒ・ゴットフリート・ゲディケ
Heinrich Gottfried Gödicke
1779年1月12日(ユリウス暦では1月1日)~1856年12月9日(ユリウス暦では11月27日)
作曲家・教師。ドイツから来たらしいことくらいしか不明だが、ペルヌで学校教師をやっていたあと、レバルに進出して1820年代には人気の舞台音楽家となり、最終的にはペテルブルクに進出してゲディケ家の躍進のきっかけとなった。
通常参照される事典的なゲディケの記述では妻の名前と1806年にペルヌで結婚したことくらいしかわからない40。ただし、”Sitzungsberichte Der Altertümforschenden Gesellschaft”の12巻によると、彼が結婚したアンナ・カロリーナ・シュミーデクネヒト(Anna Carolina Smiedeknecht)の父親・カール・クリストファー・シュミーデクネヒト(Carl Christopher Smiedeknecht)は、評議員も務めたようなリューベックの商人で、まさにエカチェリーナ2世時代の、市民権が解放されていた1789年のどこかでペルヌ市民になったような人物らしい。一方で、母親のカタリーナ・シータム(Catharina Sietam)に関しては、あくまでも近隣のエストニアのハープサルから来た商人の家なので、北方戦争が収まり遠国から人がやってくるようになった分水嶺の世代と思われる。
ただし、ゲディケの義父が外国人商人ということは、逆説的にこのゲディケ自身もメトネル家やシュミーデクネヒト家あたり(ゲルラッハ家やバランシウス家よりは後輩の)の、エカチェリーナ2世時代のペルヌめがけてやってきた外国人と推測できる材料になる
母方の祖父:カール・アンドレヴィッチ・ゲディケ
Карл Андреевич Гедике
?~?
作曲家。モスクワにある、フランス人地区にあった聖ルイ教会のオルガニスト。孤児院やギムナジウムで合唱団の教師なども務めた。
母方の祖母:ポリーナ・フョードロヴナ・ゲディケ(ポリーナ・フョードロヴナ・ゲプハルト)
Полина Федоровна Гедике(Полина Федоровна Гебхардт)
?~?
ゲプハルト家からゲディケ家に嫁いだ。なお、Geniは息子のイワンの生年を1820年と誤って入力しているが、ソース元の戸籍をどう見ても1847年の生まれなので、おそらく彼女は1810年代生まれで普通にいいはず。
歌手だったらしい。エミリィ曰く、どちらかと言えば父に似ており、大伯母・ヴィルヘルミナの家のお茶会と異なり彼女の家のお茶会は楽しみだったという。
母方のおば:ポリーナ・カルロヴナ・ゲディケ
Полина Карловна Гедике
?~1918年(このため叔母か伯母かは不明)
小学校の教師だったらしい。
母方の伯父:フョードル・カルロヴィッチ・ゲディケ
Фёдор Карлович Гедике
1840年~1916年
作曲家、オルガニスト、ピアニスト。メトネルの幼年期に教育者となったことでおなじみ。経歴としては父親を引継ぎ聖ルイ教会のオルガニストにもなり、ボリショイ劇場などでも働いた後、ニコライ・ルビンシテインに招かれモスクワ音楽院で教授となった。
しかし、ルター派の一族だったにもかかわらず、フランス系の妻・ユスティーナ・アデル・アウグスティナ・ル・カンピオンとの結婚の条件で、カトリックに改宗している。これは子孫にもおよび、当然プロテスタントの教会のオルガニストは彼の代以降なれなくなってしまった。
母方のいとこ:アレクサンドル・フョードロヴィッチ・ゲディケ
1877年3月4日~1957年7月9日
メトネルの母方のいとこ。メトネルと同様モスクワ音楽院でピアノを学び、これまたメトネルと同じくタネーエフからの私的なレッスンのみで作曲を学ぶ。メトネルが競った「第3回アントン・ルビンシテイン国際コンクール」では作曲部門に出場し、優勝。結果ピアノ部門でロシア人を絶対に優勝させない政治抗争が起きたとか言われている。
1909年にモスクワ音楽院のピアノ科教授になったが、どちらかというと彼といえば1919年以降の室内楽、オルガンクラス以降のキャリアの方が有名で、特にオルガンクラスはそれまであまりオルガンの伝統の無かったロシア圏にオルガンの一大門派を築くに至った。
作風は伝統的なポリフォニーに沿うものであり、保守的なもの。
母方のいとこ:パーヴェル・フョードロヴィッチ・ゲディケ/パーヴェル・ヨハン・カール・ゲディケ
Павел Федорович Гедике/Павел Иоанн Карл Гедике
1879年1月12日~1938年1月
メトネル兄弟のいとこでアレクサンドル・ゲディケの弟。修道士となり、スレテンスキー修道院で鐘を鳴らす存在として有名だったことが記憶されている41。あまり参照されないが、墓石に1938年に死んだと記録されており、死因が不明なことからもある程度想像をかきたてることも可能かもしれない。
母方のいとこ&兄の妻:オリガ・フョードロヴナ・メトネル(オリガ・フョードロヴナ・ゲディケ/オリガ・ポリーナ・ゲディケ)
Ольга Федоровн Метнер(Ольга Федоровн Гедике/Ольга Полина Гедике)
1880年~1965年
アレクサンドル・ゲディケの妹で、アレクサンドル・メトネルの妻。前夫との息子がヴァレンティン・ル・カンピオン。ボリショイ劇場の歌手だったらしい。
母方のおじ:ウラジーミル・カルロヴィッチ・ゲディケ
Владимир Карлович Gödeke
?~?
メトネルの母親アレクサンドラの兄弟。年齢順は不明なので、伯父・叔父のどちらかは不明。
学校のドイツ語教師で、祖父・ゲプハルトの書類などを受け継いだが、これらは引っ越しの時蒸発してしまい、親戚の中で悲しまれたらしい。エミリィ曰く、ゲディケ家がスウェーデンからポンメルンにわたった一門ということの情報源らしい。
テルスキー家
兄・アレクサンドルの最初の妻・ヴィクトリヤの実家で貴族。というか、ヴィクトリヤの曾祖父がエカチェリーナ2世の寵臣・アルカディー・イワノヴィッチ・テルスコイ(テルスキー)にあたるらしい。
なお、Apetyan82号には日食を見るためにメトネルがレッスンをキャンセルさせた生徒のテルスカヤがおり、1912年ごろにこの家の誰かがメトネルの生徒だったらしい。
兄の妻の曾祖父:アルカディー・イワノヴィッチ・テルスコイ
Аркадий Иванович Терской
1732年~1815年
軍隊で取り立てられたあとに文官としても活躍し、国務の中枢に位置するГенерал-рекетмейстерの職務を十数年勤めあげた結果世襲貴族となったエカチェリーナ2世の寵臣。相異なる評判もあるような存在なので、ポジション相応の立ち振る舞いをしていたのだろう。
兄の妻の祖父:コンスタンティン・アルカディエヴィッチ・テルスキー
Константин Аркадьевич Терски
1786年~1852年以降
父の後を継ぎ、ナポレオン戦争で活躍したリャザンの貴族の一角として称賛されたらしい。ただし、以後の彼は粛々と領地を治めていたくらいで、彼および息子のヴィクトル(Виктор Константинович Терский)もそんなに書くことはない。
兄の妻:ヴィクトリヤ・ヴィクトロヴナ・テルスカヤ
Виктория Викторовна Терская
1873年~1939年
兄・アレクサンドル・メトネルの妻。ピアニスト・教育者で、Apetyanの書簡集のインデックスによるとゲディケやメトネルと同時期にモスクワ音楽院の生徒だったらしい。なのでおそらく、同じくモスクワ音楽院の生徒だったアレクサンドルともそこで知り合ったのだろう。
ただし、彼女の没年に関してApetyanのインデックスでわかるくらいで、どんな人生を歩んだのかはよくわからない。
一応、1896年4月7日(ユリウス暦では3月26日)にアレクサンドルと結婚したらしい42。のだが、このあと1917年8月末に彼女の不貞によって離婚したとのこと。ただし、日本からはいまいちcgamosにアクセスできないので、典拠のリンクを貼っておくのみとする。
兄の妻の兄:コンスタンティン・ヴィクトロヴィッチ・テルスキー
Константин Викторович Терский
1851年4月20日~1905年8月3日
ヴィクトリヤの兄の建築家。末期帝政ロシアの代表的な建築家で、折衷主義の作風のパラダイス劇場やソロドフニコフ劇場などが知られる。
兄の妻の姉の夫:アレクセイ・イワノヴィッチ・ヴェネツキー
Алексей Иванович Венецкий
1843年~1919年以前
ヴィクトリヤの姉・エレーナの夫。当初大学で古生物を修めていたが、母の死に伴いリャザン州のミハイロフスキー地区で治安判事になったらしい。
兄の妻の姉の息子の妻:タチアナ・パヴロヴナ・ヴィノグラードワ
Татьяна Павловна Виноградова
1894年8月18日~1982年6月21日
ヴィクトリヤの姉・エレーナとアレクセイ・ヴェネツキーの息子・アレクサンデル・ヴェネツキーの妻。ソ連における解剖学の権威で、レーニン賞ももらったような人物である。
サブロフ家
ニコライ・メトネルの姉・ソフィヤ・メトネルの嫁ぎ先。子孫の説明を信じるなら、本当にあのイヴァン1世の臣下チェート以来の血統を誇る貴族「サブロフ家」らしい。
姉の夫の祖父:イワン・フョードロヴィッチ・サブロフ
1752年6月2日(ユリウス暦では5月22日) or 10月7日(ユリウス暦では9月26日)~1818年8月ごろ?
Иван Федорович Сабуров
2007年に出たアンドレイ・アレクサンドロヴィッチ・サブロフのアンソロジー”Будем с верою радости ждать: Стихотворения”の末尾で、マリヤ・アンドレヴナ・タラセヴィッチがこのイワンをアレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・サブロフの祖父としている。このため、サブロフ家があのサブロフ家のうちモスクワの一門だったのは間違いないらしい。
ただし、彼の子息についてはよくわからず、父称を考えるとアレクサンドル・イワノヴィッチ・サブロフという息子からつながりそうだが、各種系図サイトでも見当たらない。
なお、誕生日については各種系図サイトで広まっている6月2日と、”Большая российская энциклопедия”のサブロフ家の項目43に記載の10月7日の2通り伝わる。どう考えても後者と思うが、一応は併記しておく。没年についてもいつ死んだかわからんとかつては書かれていたが、後述するオリョールでの騒動で1818年8月ごろに死んでいることが明らかになっており、”Большая российская энциклопедия”にも反映されている。
最終的には将官であったため、彼の軍歴についてもまとまっている44。1788年の第2次オチャーコフ攻囲戦に中佐として参戦。ズヴォーロフの指揮下でのコシューシコの乱での活躍で将官に出世するも、直後に退任してナポレオン戦争の頃には特に何もしていない。
一方、ナポレオン戦争の頃には、領地でトラブルが起きていた45。1810年にオリョールのマロアルハンゲリスクで、ワシーリー・サヴェンコフ中尉に領地を差し押さえられたのである。しかし、イワン・サブロフのロビー活動にもかかわらず、急死したワシーリー・サヴェンコフを引き継いだ妻・カテリーナ・サヴェンコワに、1818年8月5日(おそらくユリウス暦)に最終的に負けたのである。
さらに、このタイミングでこの将軍は急死したらしい。息子のイワン・イワノヴィッチ・サブロフがこれを受け継いだとのことだが、それ以降の情報を語る存在がいないのでここで筆をおきたい。
姉の夫:アレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・サブロフ
Александр Александрович Сабуров
1874年~1934年
姉・ソフィヤ・メトネルの夫。上記の通り、彼の子孫はサブロフ家のイワン・フョードロヴィッチ・サブロフの孫と述べている。同じく軍人だったとのことだが、Apetyanによると法学者や弁護士の類でもあったらしい。確かに書簡集を見た限り、ニコライ・メトネルに日露戦争に従軍した家族にカウントされている。
結婚したタイミングが分かる資料がある46とのことだが、遷移できないのでリンクだけ載せておく。
甥:アンドレイ・アレクサンドロヴィッチ・サブロフ
Андрей Александрович Сабуров
1902年3月13日~1959年9月9日
ソフィヤ・メトネルの息子で、ニコライ・メトネルの甥。20世紀生まれの文芸評論家(アンドレイ・サブロフの時点で同姓同名が複数人存在し、フルネームのアンドレイ・アレクサンドロヴィッチ・サブロフですらまだ彼に絞れないので、調べづらいが)。
革命後、モスクワ大学の哲学科廃止直前での最後の入学者5人のうちの1人で、トルストイなどの研究でよく知られている。
メトネル兄弟と家族ぐるみの付き合いをしていたセルゲイ・ドゥルィリンからは、家庭教師をしてもらっており、晩年までずっと付き合いがあった。また、アレクセイ・チチェリンの回想録で彼がイヴァン・イリインに感化されていたとあるが、これまたメトネル兄弟の友人。なので、メトネル一家の近くにあったサークルの、学芸面で感化された次世代、といってもいいと思われる存在である。
又姪:マリヤ・アンドレヴナ・タラセヴィッチ(マリヤ・アンドレヴナ・サブロヴァ)
Мария Андреевна Тарасевич(Мария Андреевна Сабурова)
1928年5月12日~2014年?
アンドレイの娘で、ソフィヤ・メトネルの孫。Apetyanによるとモスクワ考古学研究所の研究員とのこと。アンドレイ・キリロヴィッチ・タラセヴィッチと結婚し、86歳まで生きたらしい47。子孫の存在は不明。
又姪:タチアナ・アンドレヴナ・タラセヴィッチ(タチアナ・アンドレヴナ・サブロヴァ)
Татьяна Андреевна Тарасевич(Татьяна Андреевна Сабурова)
1929年~?
アンドレイの娘で、ソフィヤ・メトネルの孫。Apetyanによるとチェリストとのこと。Myheritageに従うと1926年生まれのレフ・キリロヴィッチ・タラセヴィッチと結婚したとのことだが、おそらくこれは姉・マリヤの夫であるアンドレイの弟のことだと思われる48。子孫の存在は不明。
タラソフ家
ニコライ・メトネルの姪(兄・カールの娘)・ヴェーラの嫁ぎ先
姪の夫:ニコライ・ペトロヴィッチ・タラソフ
Николай Петрович Тарасов
1897年~1982年
姪・ヴェーラの夫。数学者であり、ソヴィエト連邦の数学教科書史に名を残しているため、ある程度人生を追うことはできる49。モスクワの農民の子で、1915年にギムナジウムを卒業すると、モスクワ大学の数学科に入学した。しかし、その後研究者としての道には進めず、出版社で働きつつ教育活動に従事していたらしい。
しかし、やがて再チャレンジしたいという願望が働き、1922年にモスクワ大学に再入学し、1924年に無事卒業。以後は教育活動がもっぱらとなり、様々な外国の教科書を翻訳したほか、彼が著した数学の教科書は20版近く刷られるなど、ベストセラーになった。
姪:ヴェーラ・カルロヴナ・タラソヴァ(ヴェーラ・カルロヴナ・メトネル)
Вера Карловна Тарасова(Вера Карловна Метнер)
1897年~1985年
カール・メトネルの娘で、ニコライ・メトネルの姪。
モスクワ大学や国際関係大学でドイツ語を何十年にも渡って教えていた語学に堪能な存在で、ソ連で出版されたメトネルの回顧録の、外国人部分の翻訳は、ほぼ彼女が担っている。
又姪:エレーナ・ニコラエヴナ・ポンソヴァ(エレーナ・ニコラエヴナ・タラソヴァ)
Елена Николаевна Понсова(Елена Николаевна Тарасова)
1929年~
ヴェーラの娘で、要するにカール・メトネルの孫。Apetyanによると医者らしい。
なお、ロシアの探偵事務所のデータベースに普通に引っかかるので、2024年時点ではまだご存命と思われる50。
シュテンベル家
伯母・エミリア・メトネルの嫁ぎ先。
父方の伯母の夫:カール・イヴァノヴィチ・シュテンベル
Карл Иванович Штембер
1831年~1888年
父方の伯母:エミリア・メトネルの夫で商人。2人の結婚は1875年8月26日(8月14日)である51。この教会記録によると、父親の名前はベルンハルトで母親の名前はエヴ(エヴァ?)。
父方のいとこ:ヴィクトル・カルロヴィッチ・シュテンベル
Виктор Карлович Штембер
1863年~1921年1月11日
メトネル兄弟のいとこ。文豪パステルナークの父・レオニード・パステルナークらと活動をした帝政末期のロシアの有名な画家。レーニンの肖像画などを書いたためか、なぜか日本語版Wikipediaに記事がある。
父方のいとこの妻:ナデージュダ・ドミトリエヴナ・シュテンベル/ナデージュダ・ドミトリエヴナ・ゲオルギエフスカヤ
Надежда Дмитриевна Штембер (Надежда Дмитриевна Георгиевская)
1861年10月31日~1959年6月26日
ヴィクトルの妻。トレチャコフ美術館が彼女の生涯を記している52。
ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドに学んだほどのソプラノ歌手だったが、夫との結婚を機に芸術の道を断ったようだ。しかし、夫婦ともども芸術家コミュニティの要にいたらしく、アンナ・ゴルブキナらから慕われた。かくして、アンナによって最終的に彼女の彫像が作られ、1986年にトレチャコフ美術館に伝わったわけである(トレチャコフ家が遠縁なのもあるのかは不明)。
その後第一次世界大戦では病院の長を務めており、息子を追ったのか1932年以後アメリカで生涯を終えた。
父方の従甥:ニコライ・ヴィクトロヴィッチ・シュテンベル
Николай Викторович Штембер
1892年~1982年4月2日
ヴィクトルの息子。プロコフィエフ絡みで彼の生涯もある程度伝わっている53。
もともとはモスクワでゴリデンヴェイゼルにピアノを学んでいたが、1907年に一家がペテルブルクに移ったため、ペテルブルク音楽院に入る。そこで、プロコフィエフらと知り合い、彼の日記に「まじめで謙虚だが我が強い男」と書かれている。プロコフィエフとプロコフィエフ母も称賛するほどのピアニストだったが、あっけなくモスクワに戻る。そして、モスクワ音楽院でメトネル本人からピアノを学び、1917年に卒業する。しかし、革命のためか金メダルはもらえなかったらしい。
以後、経緯は不明ながら、1920年にアメリカにわたる。この新天地で食っていくために、田舎のバレエ学校の伴奏ピアニストなどとして働く。しかし、ニーナ・コシッツに助けられ、北アメリカでピアニストとしてツアーを行えるようになり、ピアノ教師などとして晩年を過ごし、ニューヨークで没した。なお1930年にプロコフィエフに何らかのことづけをし、ロシアにいる妹の内ソフィヤではなくナデージュダに必ず伝えるよう相当念押ししたことが記録に残る。
ピアニストとしての活動によって、NAXOS MUSIC LIBRALYなどで彼の音源が見つかる。
父方の従姪の夫:ユーリ・ニコラエヴィッチ・チューリン
Юрий Николаевич Тюлин
1893年12月26日~1978年5月8日
ヴィクトルの娘・ソフィヤの夫。ソヴィエト連邦の音楽理論家。和声法に科学的な方法を持ち込もうとした、リーマン学派系の存在。
父方の従姪:ナデージュダ・ヴィクトロヴナ・シュテンベル
Надежда Викторовна Штембер
1893年3月7日~1982年3月11日
ヴィクトルの娘。ペテルブルク音楽院でピアノを学んでおり、メトネルからはニコラーエフのクラスに入れるようロビー活動なども行われていた。しかし1912年にピアノの道を捨て、絵画に向かう。このためか、画家のミハイル・ソコロフとも結ばれたが、息子の死に際していさかいがあったらしく離婚される。最終的にウラジーミル・ペトロヴィッチ・リトヴィノフ(Владимир Федорович Литвинов)という2人目の夫と結ばれたらしい。
Myheritageによるとリトヴィノフとの間にクシェーニャ(Ксения Литвинова Любин)という娘がおり、彼女はこの記事でサンプルとして追跡調査されているニーナ・セルゲイヴナ・クラキナ(Нина Сергеевна Куракина)の養子・レオニード・アヴラモヴィッチ・リュビン(Леонид Абрамович Любин)の妻とされている。のだが、おそらく関係者による記載で証拠はあげられていないので、記載のみにとどめる。
父方の従姪の夫:ミハイル・クセノフォントヴィッチ・ソコロフ
Михаил Ксенофонтович Соколов
1885年9月18日~1947年9月29日
ヴィクトルの娘・ナデージュダの最初の夫。ただし、息子の死で1918年にすでに別れている。
ソヴィエト連邦の画家。当初は未来派に属したが、次第に20世紀初頭のフランス的な作風になったことで、強制労働に送られた。
ウォインノフ家
いとこである画家ヴィクトル・シュテンベルの娘・ナターリアの夫・カール・ウォインノフの実家。エストニア出身で、ペテルブルクで馬車職人をしていたらしい。多分全く面識はない。
なお、カール・ウォインノフの父方・母方どちらもウォインノフ家。この点は、系譜は不明ながら、サラピク家なども含めて、エストニアからペテルブルクに出てきて職人として働いていた複数の家族が、何重にも婚姻関係を結んでいたと思われる。
父方の従姪の夫の叔母の孫:キリル・ニコラエヴィッチ・タワストシェルナ
Кирилл Николаевич Тавастшерна
1921年5月1日~1982年
カール・ウォインノフの叔母・マリアの孫(ほぼ他人)。ソヴィエト連邦の天文学者で、プルコヴォ天文台の副所長まで務めたが、事故死した。
父方の従姪の夫の叔父の娘の夫:ヨハン・パウルソン
Johan Paulson
1898年1月24日~1974年9月8日
カール・ウォインノフの叔父・フリードリヒの娘・アレクサンドラの夫(ほぼ他人)。エストニアのテニス選手で、1920年代の国内トッププレイヤー。
ブラホフ家
いとこのパーヴェル・シュテンベルの妻の実家。ペテルブルクの音楽一家だが、面識があったかどうかは不明。
父方のいとこの妻:エフゲニア・イワノヴナ・ズブルエヴァ
Евгения Ивановна Збруева
1868年1月7日~1936年10月20日
ヴィクトルの兄弟、パーヴェルの妻。なおWikipediaロシア語版は母親を叔父の妻と取り違えている。
作曲家ピョートル・ブラホフの娘で、彼の妻の本来の夫・イワン・ズブルエフの姓を名乗っている。この経緯が、ピョートルの方が不倫相手だったので、彼との子は非嫡出子ということになったのだが、結局最終的にイワンが養子として認めたというもの。
モスクワ帝国歌劇場のアルト歌手であり、シュテンベル家というよりも実家ブラホフ家の絡みで言及される。
父方のいとこの妻の父:ピョートル・ペトロヴィッチ・ブラホフ
Пётр Петрович Булахов
1822年~1885年12月2日(ユリウス暦)
作曲家。ほぼ下半身不随で、制限の多い人生を送ったらしい。主に歌曲を作ったため、西側でフランツ・リストらに編曲されている。『Shine, Shine, My Star』の本来の作曲家。
父方のいとこの妻の叔父:パーヴェル・ペトロヴィッチ・ブラホフ
Павел Петрович Булахов
1824年~1875年
ピョートルの弟。サンクトペテルブルクでオペラ歌手として名をはせた。
父方のいとこの妻の叔父の妻:アニーシャ・アレクサンドロヴナ・ブラホフ(アニーシャ・アレクサンドロヴナ・ラブロフ)
Анисья Александровна Булахов(Лаврова)
1832年1月8日~1920年
パーヴェルの妻。サンクトペテルブルクでソプラノのオペラ歌手として名をはせた。
ハルトゥング家
大伯母・アレクサンドリネ・マリア・ゲプハルトの嫁ぎ先。文化人との結節点と化しており、エミリィの手紙に下記のナデージュダも出てくるので、親戚づきあいもあったと思われる。
なお、最初がГ(G)だが、ドイツ系の姓でなおかつХартунгと書かれることもあるので、カタカナ表記はハルトゥングで統一する。
母方の大伯母の夫:ヨハン・フリードリヒ・ハインリヒ・アウグスト・ハルトゥング
Johann Friedrich Heinrich August Hartung
1800年1月23日~1898年
Erik-Amburger-Datenbankに立項されており54、ベルリン生まれでモスクワで商業を営んでいたらしい。
母方の従伯父:ジェイムズ・ハルトゥング/ヤーコブ・フョードロヴィッチ・ハルトゥング)
James Hartung / Яков Фёдорович Гартунг
ヨハン・フリードリヒ・ハインリヒ・アウグスト・ハルトゥングの息子。一般的にはヤーコブと書かれるが、cgamosによるとジェイムズらしい55。かの有名な革命前ロシア最大規模の工場であるТоварищества Тверской мануфактурыの理事の一人であり、これまたかの有名なモスクワの芸術愛好家によるМосковское общество любителей художествのメンバー。
二回の結婚歴があるが、最初の妻についてはよくわかっていない。
母方の従伯父の妻:ナデージュダ・ミハイロヴナ・ハルトゥング(ナデージュダ・ミハイロヴナ・トレチャコヴァ)
Надежда Михайловна Гартунг (Третьякова)
1849年~1939年
ニコライ・メトネルの大伯母・アレクサンドリネの息子、ジェイムズ・ハルトゥング(ヤーコブ・フョードロヴィッチ・ハルトゥング)の妻。苗字を見ればわかる通り、トレチャコフ家の出身。というか、かの有名なトレチャコフ美術館の創設者、セルゲイ・トレチャコフとパーヴェル・トレチャコフの妹。
ただ、彼女自身は商人の娘として生き、兄弟同様パトロン活動も行ったものの、そこまで目立った事績はない。
母方の従伯父の妻の姪の夫の兄:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
Пётр Ильич Чайковский
1840年5月7日~1893年11月6日
トレチャコフ兄弟と血縁関係がある時点で察するところがあるのだが、この兄弟の内エリザヴェータの娘・プラスコヴィヤがチャイコフスキーの弟・パーヴェルの妻なので、当然遠い親戚である。ということなので、ジェイムズ・ハルトゥングとチャイコフスキーは手紙のやり取りをする程度の交流がある。
母方の従伯父の妻の姪の夫:アレクサンドル・イリイチ・ジロティ
Александр Ильич Зилоти
1863年10月9日~1945年12月8日
トレチャコフ兄弟と血縁関係がある時点で察するところがあるのだが、トレチャコフ兄弟の内パーヴェルの娘・ヴェーラの夫なので、ここも遠い親戚にあたる。
母方の従伯父の妻の姪の夫の従兄弟:セルゲイ・ヴァシリエヴィッチ・ラフマニノフ
Сергей Васильевич Рахманинов
1873年4月2日?~1943年3月28日
アレクサンドル・ジロティと血縁関係がある時点で察するところがあるのだが、当然ラフマニノフ家とも縁者と言えなくはない距離である。もはやトリビアレベルなので、ここまでにしておく。
母方の従伯父:フリードリヒ・ヴィルヘルム・オットー・ハルトゥング
ロシア人としてはФедор Федорович Гартунг
1835年~1898年3月18日(ユリウス暦)
フョードル・フョードロヴィッチ・ハルトゥングという細密画家としてそこそこ名の知られた存在で、事典などに名前を残している。
母方のはとこ:レフ・フョードロヴィッチ・ハルトゥング
Лев Федорович Гартунг
1868年~?
フリードリヒ・ヴィルヘルム・オットー・ハルトゥング(ロシア人としてはフョードル・フョードロヴィッチ・ハルトゥング)の息子。帝政ロシア軍で武功を重ね、第一次世界大戦ごろには将官として第2砲兵旅団を治めていた。その後、大戦中にドイツ軍の捕虜になったまではわかっているが、1918年に解放されてボリシェヴィキ政権につかまった後の末路はわかっていない(おそらく赤色テロルで殺されたと思うが)。
クレショフ家
はとこ・ニコライ・フョードロヴィッチ・ハルトゥングの娘(再従姪)のオリガの嫁ぎ先。全く面識がないと思われるほぼ他人だが、面白いことが分かったので記しておく。
母方の再従姪の夫の兄弟?:レフ・クレショフ
Лев Владимирович Кулешов
1899年1月13日 – 1970年3月29日
再従姪・オリガ・ニコラエヴィッチ・ハルトゥングの夫・ボリス・ヴラディミロヴィッチ・クレショフの兄弟と推定されている56。かの有名なソヴィエト連邦の映画監督。プロパガンダ映画『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』などで知られている。
母方の再従姪の夫の兄弟の妻?:アレクサンドラ・ホフロワ
Александра Сергеевна Хохлова (Боткина)
1897年10月4日 – 1985年8月22日
ドイツ出身で、クレショフの妻の女優。こちらも同じく、ボリス・ヴラディミロヴィッチ・クレショフがレフ・クレショフの兄弟と同一人物であればの話。クレショフの作ったプロパガンダ映画『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』への出演などで名をはせた。
ビューラー家
スイスにいまだなお存在する大財閥・ビューラーグループの、創設者にあたる一族。
メトネル家の縁者として認識されつつも、家族内で似たスペルの名前が多かったことなども影響して先行研究がことごとく微妙に情報を間違えている。のだが、すべて合わせると、ハルトゥング家に嫁いだ大伯母・アレクサンドリネ・マリア・ゲプハルトの孫(つまりはとこ)であるロニア・メイが、創業者の四男・フリードリヒ・テオドール・ビューラーに嫁いだということである。
根拠としては以下4点
- Wikipediaドイツ語版によるとフリードリヒ・テオドール・ビューラーの妻はヘレネ・メイとのこと。だが、実は根拠は全くなく、『Pfleghard & Haefeli Bauten für die Gebrüder Bühler in Uzwil』やサザビーズに出品されたFerdinand Hodlerの絵の来歴から、この妻の名前はロニアであることがわかる
- Apetyanの書簡集のインデックスから、ビューラー家に母・アレクサンドラ・メトネルのいとこのマリア・フョードロヴナ・メイの娘が嫁いだことがわかる
ただし、ここでははとこの名前はLeniとしている - Ljunggren(1994)の記述の中で、エミリィ・メトネルがはとこのロニアをあてにしていた。フリードリヒ・テオドール・ビューラーの娘のロニアはまだ10にも満たないころなので、はとこのロニアはフリードリヒ・テオドール・ビューラーの妻の方とできる
- ハルトゥング家の系図より、オスカル・ロマノヴィッチ・メイに嫁いだヴィルヘルミナ・カロリーナ・ハルトゥングがいる。アレクサンドラ・カルロヴナ・メトネルのいとこにあたるのでおそらく彼女がApetyanで言及されたマリア・フョードロヴナ・メイと思われる
ということなので、フリードリヒ・テオドール・ビューラーの子どもたちはメトネル兄弟にとって再従甥・再従姪にあたるとできる。
ちなみに、Martynはこのビューラー一門をアンナのいとこと書いているどころか、レノックスの母親をレニとしている。が、レニはレノックスの妻の名前であり、上記根拠の2も合わせると、Apetyanの段階でロニアのキリル文字転写に失敗したか、ただ単に混同したかの理由で、両者が孫引きを繰り返されるうちに合体させられた。こうした経緯から、主要な先行研究はまともに系譜関係を把握できていないので注意が必要なのである。
なお、フリードリヒ・テオドール・ビューラーとロニア・メイがだいたいニコライ・メトネルの少し上くらいなので、子どもたちはニコライ・メトネルの二回りくらい年下。
このはとこは西側に行った後にだいぶ頼られたらしく、第一次世界大戦開戦によってドイツからスイスに追放されたエミリィ・メトネルも、まあ金持ちのはとこがいるしなんとかなるかくらいの認識だったとLjunggrenに書かれている。
母方のはとこの夫の父:アドルフ・ビューラー
Adolf Bühler
1822年8月11日~1896年10月22日
現代も続く大財閥を築いた初代。詳しくは社史とかスイス人名事典とかを読んで済ませてほしい。
母方のはとこ:ロニア・(ヘレネ?)・ビューラー(ロニア・メイ)
Lonia (Helene) Bühler(Lonia Mey)
1878年~1936年
上記の通り、ハルトゥング家に嫁いだ大伯母・アレクサンドリネ・マリア・ゲプハルトの孫。メトネル家にはだいぶ頼られたらしいが、フリードリヒ・テオドール・ビューラーのあまり記述量のない来歴の中で、彼をコスモポリタンと呼んだことくらいしか逸話が残されていない。
ただし、サザビーズオークションに出品された、Ferdinand Hodlerの絵の来歴57の中で、彼女が夫の死後もこの絵を死ぬまで持っていたことと、のちに名前をLonia Goebel-Meyに変えたこと、つまりどこかのゲーベル姓の男性と再婚したことがわかる。
母方のはとこの夫:フリードリヒ・テオドール・ビューラー
Friedrich Theodor Bühler
1877年〜1915年
農家から身を立て大財閥を築いたアドルフ・ビューラーの4男。
ただし、他の兄弟と比べてコスモポリタンを自称する道楽息子だったらしく、ベイリー・スコットに魔改造させたヴァルトビュール荘がスイスの重要文化財になったことくらいしか特に書けることがない。
母方の再従甥:ロルフ・テオドール・ビューラー
Rolf Theodor Bühler
1903年12月3日〜1992年11月30日
フリードリヒ・テオドール・ビューラーの長男。父親と違って経済学などを本格的に学び、いとこのルネ・ビューラーを助けてビューラーグループの経営者の一人となった。
また、戦前スイスでは若手リベラル議員として国政にも関与し、第2次世界大戦直後くらいまでは政治運動でも足跡が追える、スイスの大物政財界人とも言うべき存在の一人。
兄弟の中では一番の有名人なのだが、兄弟と異なりメトネルとの関わりは不明。
母方の再従甥:レノックス・テオドール・ビューラー
Lenox Theodor Bühler
1905年12月2日〜1986年2月19日
フリードリヒ・テオドール・ビューラーの息子の一人。スイスの基礎自治体トローゲンにある学校の沿革を記した”Trogen im Aufwind – Aviatisches im Zusammenhang mit Trogen und Trogenern”という本(”Mitteilungen des Kantonsschulvereins Trogen”の66巻で、検索エンジンで調べてもこのサイトとWikipediaくらいしか引っかからないが、ちゃんとKantonsbibliothek Appenzell Ausserrhodenなどが所蔵している実在の本58)に、卒業生である彼の経歴が事細かく載っている。
チューリッヒ工科大学に通っていたのだが、音楽の道を志し中退。音楽院でワインガルトナーらに学び、ピアニストとなった。なお、この過程で遠い親戚で亡命していたニコライ・メトネルに弟子入りしていたため、彼と妻のレニ・ビューラー(レニ・バッハマン)は亡命中のメトネル家の支援者でもあった。
このあと、第2次世界大戦中ほぼ兵役に従事していたが、本人的にはそこまで苦ではなかったとされている。
戦後再び音楽活動に関わりだす。ただし、手が小さかったことでピアニストとして大成できないと自分のことを見ていたらしく、コミュニティ形成や教育活動が音楽への関わり方の主となった。また、数学的才能と記憶力に長けていたらしく、伝記によると保険会社での業務で生計を立てていたとのこと。
伝記によると妻のレニは1983年11月に亡くなり、その後しばらくして彼もまた亡くなった。
母方のはとこの夫の兄:グスタフ・アドルフ・ビューラー
Gustav Adolf Bühler
1869年10月10日~1939年4月19日
急死した父の後を継ぎ、スイス政財界の一角を占めるレベルで社の権勢を維持した二代目。詳しくは社史とかスイス人名事典とかを読んで済ませてほしい。
母方のはとこの夫の甥:マックス・ルネ・ビューラー
Max René Bühler
1905年7月6日~1987年3月26日
父の死後、いとこのロルフ(上述)とともにビューラーグループを維持した三代目。アジアにも進出し、グループを世界規模にした存在で、政治活動も行った。
母方のはとこの夫の又甥:ウルス・フェリックス・ビューラー
Urs Felix Bühler
1943年~
ビューラーグループを同族経営企業から転換させた存在。後妻のマリサ・トゥルーデ・ポラネック(Marisa Trude Polanec)も有名な政財界人だが、既に経営から退いているため最初の妻との娘3人の名前までしかわからなかった。
これ以降はもう完全に社史の領域なので、ここまでにする。
母方のはとこの夫の姪の夫:ジェイムズ・エドゥアルド・シュヴァルツェンバッハ
James Eduard Schwarzenbach
1911年8月5日~1994年10月27日
20世紀後半のスイスの右翼政治家。アドルフの娘でルネの妹・アリスの夫である。
母方のはとこの夫の姪:ネリー・マルセル・ビューラー
Nelly Marcelle Bühler
1913年8月6日~2002年6月24日
1936年のオリンピックに出たアルペンスキー選手。アドルフの娘でルネの妹である。
母方のはとこの夫の又甥:ゲオルグ・ラインハルト
George Reinhart
1924年10月25日~1997年10月25日
ネリーの息子。父方のラインハルト家が継承したVolkart Brothersを継いだが、もっぱら事業は弟が行い彼は写真家業などになっていった。
母方のはとこの夫の又甥:アンドレアス・ラインハルト
Andreas Reinhart
1944年~
ネリーの息子。父方がスイスの財閥Volkart Brothersを結婚によって引き継いでいた関係で、彼が5代目当主となった。ただ、どうも戦略的に打って出たわりに社を傾けた存在として社史に名を残してしまったらしい。
フィンランドのゲプハルト家
母方の先祖の遠い親戚である。
母方の曾祖叔父:ヨハン・クリスティアン・ゲプハルト
Johan Christian Gebhard
1786年~1852年
フリードリヒ・アルベルト・ゲプハルトの弟。ロシアで音楽家として活動したが、なぜかこっちは子孫にあまり音楽家が出なかった。フィンランドのゲプハルト家の先祖だが、多分メトネルはこちらの子孫を全く把握していないと思われる。
母方の曾祖叔父の孫:ハンネス・ゲプハルト
Hannes Gebhard
1864年8月27日~1933年2月23日
フィンランドの経済学者。アルベルト・ゲプハルトはいとこ。専門は経済史で、妻ともどもフィンランドの国会議員も務めた。
母方の曾祖叔父の孫の妻:ヘドウィグ・ゲプハルト(ヘドウィグ・マリア・シレン)
Hedvig Maria Gebhard (Silén)
1867年12月14日~1961年1月13日
フィンランドの政治家。ハンネス・ゲプハルトは夫。いわゆる第一波フェミニズム運動に属する世代で、女性の権利向上に努め、フィンランドで最初の国会議員になった女性の一人。
母方のみいとこ:マイジュ・ゲプハルト
Maiju Gebhard
1896年9月15日~1986年7月18日
ハンネス・ゲプハルトとヘドウィグ・ゲプハルトの娘。フィンランドの代表的な食器乾燥機の発明家。
母方のみいとこの子:アンナ゠リーザ・シシハルジュ(アンナ゠リーザ・ゲプハルト)
Anna-Liisa Sysiharju (Gebhard)
1919年6月7日~2014年4月28日
ハンネス・ゲプハルト夫妻の息子・オラス・ゲプハルトの娘。父が若死にした後、祖父母に育てられ、教育学や心理学を学んで、大学教授となった。
ヘルシンキ大学にいたような人物なので、Wikipediaフィンランド語版に記事がある。
母方のみいとこの夫:サカリ・ラッピ゠セペラ
Sakari Lappi-Seppälä
1920年3月4日~1966年7月14日
メイ・ヴィクトリア・エリザベス・ゲプハルト(May Viktoria Elisabeth Gebhard)の夫。第二次世界大戦時にナチスドイツでSSとなっていたが、戦中の1942年にスパイ容疑でフィンランドに送り返され、特殊な事情があった模様。
さらに、SS生活を描いた”Haudat Dneprin varrella, SS-miehen päiväkirjan lehtiä.”を出版しており、その暴露の復讐のために終戦直後に始末される計画もあったとされている。
母方の曾祖叔父の孫:アルベルト・ゲプハルト
Albert Gebhard
1869年4月17日~1937年5月15日
フィンランドの画家。ハンネス・ゲプハルトはいとこ。フィンランド芸術家協会の創設者の一人。世代的にはちょうどアール・ヌーヴォーに感化されたあたりで、パリ万博のフィンランドパビリオンのデザインも行っていた。
なお、4回の結婚を繰り返しており、息子のヨハネス・ゲプハルトは最初の妻との子供。
母方のみいとこ:ヨハネス・フレドリク・アルベルト・ゲプハルト
Johannes Fredrik Albert Gebhard
1894年2月24日~1976年3月14日
アルベルト・ゲプハルトの息子で同じく画家。
母方のみいとこの夫:ベンクト・ルトガーソン・エッセン
Bengt Rutgersson Essén
1920年8月12日~2020年8月13日
アルベルト・ゲプハルトの娘の一人、テルットゥ・ベンドラ・アルベルタ・ゲプハルト(Terttu Vendla Alberta Essén (Gebhard))の夫。冬戦争の最年少義勇兵の一人で、長命だったこともあり2016年の独立記念日の大統領レセプションに呼ばれているような人物。
母方のみいとこ:リーヤ・オリヴィア・ゲプハルト
Lilja Olivia Gebhard
1897年11月23日~1976年7月24日
アルベルト・ゲプハルトの兄・ヨハン・ゲプハルトの娘。フィンランドのゲプハルト一門では数少ない音楽の道に進んだ存在で、戦間期フィンランドで名をはせた女優・歌手となった。しかし、第二次世界大戦中難聴を発症し、以後は芸術を支援する実業家として生涯を終えた。
母方のみいとこの夫:ケイジョ・セッパセン
Keijo Seppäsen
1912年11月23日~1977年
リーヤ・オリヴィア・ゲプハルトが一時期嫁いでいた夫。戦間期フィンランドの舞台俳優で、結構なキャリアは積んでいるものの映画にはほとんど出ていないため詳細は不明。
リーヤは15歳も年長だったうえに、彼女の性格もあまり合わなかったとされている。
脚注
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.1865.3.226/1:66?128,615,500,90,0 ↩︎
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.1865.3.226/5:91?1218,1125,1047,203,0 ↩︎
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.1865.3.227/4:57?270,1336,1496,130,0 ↩︎
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.1865.3.228/2:259?206,1382,1057,134,0 ↩︎
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.1865.3.229/3:4?1318,815,832,80,0 ↩︎
- https://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=TLA.236.1.32:95?1749,371,1018,268,0 ↩︎
- https://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.1296.2.6:4?48,1514,1064,137,0 ↩︎
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.1273.2.4:64?173,776,1022,242,0 ↩︎
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.1865.3.226/1:77?230,897,925,79,0 ↩︎
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.1865.3.226/1:77?192,581,706,123,0 ↩︎
- https://ja.findagrave.com/memorial/123510126/peter-hans-medtner ↩︎
- https://amburger.ios-regensburg.de/?id=32267 ↩︎
- https://ja.findagrave.com/memorial/123513477/lucie-eleonore-mitchinson ↩︎
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.3833.1.157:188?242,628,748,97,0 ↩︎
- https://proza.ru/2024/12/15/902 ↩︎
- https://msk-hamovniki.livejournal.com/130861.html ↩︎
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.3833.1.157:188?258,820,696,66,0 ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/934ef4fd-02d5-440a-b229-8cb9be603a8d/221 ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/17035ac6-84fc-4722-b801-74ab3225bdb7/208 ↩︎
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.3833.1.157:188?258,975,983,68,0 ↩︎
- https://www.biografija.ru/biography/nazarova-tatyana-borisovna.htm ↩︎
- https://electro.nekrasovka.ru/books/1987/pages/18 ↩︎
- http://redkayakniga.ru/biblioteki/item/f00/s00/z0000014/st018.shtml ↩︎
- https://www.adelsvapen.com/genealogi/Von_Morian_nr_1873 ↩︎
- https://www.roskildehistorie.dk/stamtavler/adel/svenske/M-smaa/Morian.htm ↩︎
- https://amburger.ios-regensburg.de/?id=33679 ↩︎
- https://anyflip.com/qbni/sbhw/basic/51-100 ↩︎
- http://www.ra.ee/dgs/_purl.php?shc=EAA.3833.1.157:188?1629,422,786,116,0 ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/936ef451-bf39-48b1-9fd3-a972449c08df/488 ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/f88aafdf-4142-4b86-a102-418e864ae91d/285 ↩︎
- https://muzlifemagazine.ru/lichnoe-delo-nikolaya-metnera/ ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/3f1413fb-0c3d-467f-8e6c-566c500aec9f/3 ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/b4b70c8b-12bd-4bdb-b96d-4c2b999cefbc/4 ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/f88aafdf-4142-4b86-a102-418e864ae91d/286 ↩︎
- https://12auction.com/auction/5/lot-185-13/ ↩︎
- Cimetières – Registres journaliers d’inhumation – Archives de Parisで検索して見つけられる ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/23dff952-2c24-42cc-8808-a2171b2d0dad/121 ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/f88aafdf-4142-4b86-a102-418e864ae91d/287 ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/f88aafdf-4142-4b86-a102-418e864ae91d/288 ↩︎
- https://amburger.ios-regensburg.de/index.php?id=55806 ↩︎
- https://monastery.ru/j-zhizn-obiteli/ya-zvonyu-bogoroditse/ ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/17035ac6-84fc-4722-b801-74ab3225bdb7/208 ↩︎
- https://old.bigenc.ru/domestic_history/text/3526823 ↩︎
- https://adelwiki.dhi-moskau.de/index.php/%D0%A1%D0%B0%D0%B1%D1%83%D1%80%D0%BE%D0%B2_%D0%98%D0%B2%D0%B0%D0%BD_%D0%A4%D0%B5%D0%B4%D0%BE%D1%80%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87 ↩︎
- https://maloarhangelsk.ru/saburov-i-f/ ↩︎
- https://cgamos.ru/metric-books/2125/2125-2/2125-2-77/
上記リンク先で読める文書の371ページ目 ↩︎ - https://proza.ru/2014/06/11/1128 ↩︎
- https://proza.ru/2014/06/11/1128 ↩︎
- https://www.mat.univie.ac.at/~neretin/misc/luzin/savvina.html ↩︎
- http://ktoeto.info/msk10/fio/796823 ↩︎
- https://yandex.ru/archive/catalog/f56643fd-2cb1-4b4a-af74-66e0639c4860/29 ↩︎
- https://my.tretyakov.ru/app/masterpiece/50508 ↩︎
- https://music-museum.ru/collections/expomusic/prokofev-i-shtember.html ↩︎
- https://amburger.ios-regensburg.de/?id=21641 ↩︎
- https://cgamos.ru/metric-books/203/203-776/203-776-750/
上記リンク先で読める文書の51ページ目 ↩︎ - ハルトゥング家側に出てくるこのボリス・ヴラディミロヴィッチ・クレショフが、クレショフ家側の史料のボリスと同一人物か確定はしていないので ↩︎
- https://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/2018/schweizer-kunst-swiss-art-zh1803/lot.14.html ↩︎
- https://sgbn-primo.hosted.exlibrisgroup.com/permalink/f/dp7ju8/41STGKBG_ALEPH000405864 ↩︎