ニコライ・メトネルとは何らかの血縁関係があったと言える人物に関するページである。
家系図(pdf)
※androidでは見れません
家系図(画像)
![](https://rangaran.jp/wp-content/uploads/2024/07/medtner-family-tree-1024x206.png)
メトネル家家系図
Flamm(1995)、およびhttps://www.geni.com/から各戸籍資料などを参照
競走馬血統表風
ニコライ・メトネル基準だとこうなる
ニコライ・メトネルの血統 | ||||
---|---|---|---|---|
父 カール・ペトロヴィッチ・メトネル | 父の父 ペーター・ハンス・メトネル | 父の父の父 パウル・アンドレアス・メトネル | 不明 | |
不明 | ||||
父の父の母 アンナ・ヴィルヘルミナ・バランシウス | 父の父の母の父 ヨハン・セブリン・バランシウス | |||
父の父の母の母 アンナ・ドロテア・ゲルラッハ | ||||
父の母 マリヤ・ペトロワ・モリアン | 父の母の父 ピョートル・モリアン | 不明 | ||
不明 | ||||
不明 | 不明 | |||
不明 | ||||
母 アレクサンドラ・カルロヴナ・ゲディケ | 母の父 カール・アンドレヴィッチ・ゲディケ | 母の父の父 ハインリヒ・ゴットフリート・ゲディケ | 不明 | |
不明 | ||||
母の父の父 アガタ・キャロル・シュミーデクネヒト | 不明 | |||
不明 | ||||
母の母 ポリーナ・フェドヴナ・ゲプハルト | 母の母の父 フリードリヒ・アルベルト・ゲプハルト | 不明 | ||
不明 | ||||
母の母の母 マリア・フォン・シュタイン | 母の母の母の父 バロン・フォン・シュタイン | |||
不明 |
メトネル家
父:カール・メトネル(父)
1846年~1921年
メトネルたちの父親。メトネル家はドイツ系ということになっているが、エミリィの証言によるとカールの先祖はデンマークのシュレスヴィヒ・ホルシュタインから来ている。
19世紀のロシアでよくいる経済的に成功したドイツ系の典型例であり、モスクワレース工場を運営していた実業家である。ということで、貴族の末裔ともいえるラフマニノフやスクリャービンほどではないのだが、メトネル家はそれらに次ぐ有力な家といっても過言ではない。
なお、アンドレイ・ベールイによると、ヴァレンシュタイン風のひげを蓄えたいかにもなドイツ系と言われており、マリエッタ・シャギニャンもメトネル家との交流でスケジュール管理などを身に着けたと述べているので、なんとなく家風が察される。
しかし、長男のエミリィは第一次世界大戦を境に音信不通になり、次男のカールは戦死。おまけにロシア革命で工場の権利も奪われ、ニコライが手始めに亡命を行った矢先に亡くなってしまった。なので、実はエミリィとの再会はできていない。
母:アレクサンドラ・メトネル
1842年~1918年
メトネルたちの母親。旧姓はゲディケ。メトネル家はドイツ系ということになっているが、エミリィの証言によるとアレクサンドラの先祖はスウェーデンから来ている。
彼女の兄弟や甥が音楽家であることからもわかる通り、ゲディケ家は音楽家の一族であり、彼女もメゾソプラノの歌手だった。ニコライは当初そんな彼女やフョードル・ゲディケらから教育を受けたということである。
一応、メトネルの各種伝記では、ニコライ・メトネルとアンナの恋愛を終わらせ、アンナをエミリィと、ニコライをマルクグラフという別の女性と婚約させ、アンナがエミリィと結ばれたという要因とされている。
一方で、アペチャン編のメトネルの回顧録での親族の記述を合わせると、ニコライ・メトネルは彼女には自分のコンサートの日を全て共有し、コンサート当日には彼女と話すことをルーチンにしてゾーンに入っていたらしい。このことを彼女が死ぬまで続けており、その後は姉のソフィヤ、亡命後は妻のアンナらが代わっていった。とのことなので、アンナの件があるとはいえ、この親子の間には最後まで愛情で結ばれた関係があるらしい。
ただし、最後までニコライとアンナの婚姻には反対し、皮肉にも彼女が亡くなった結果、エミリィが第一次世界大戦後音信不通になっていたこともあり、ニコライとアンナが公的に結婚する結果となった。
兄:エミリィ・メトネル
エミリィ・メトネル略伝を参照。
兄:カール・メトネル(子)
1874年~1919年
メトネル家の次男で、父親とは同名。ちゃんと調査していないので事情は正確には不明だが、長男が当初は公務員になった経緯から必然的に次男の彼が親の家業を継いだと思われ、父親のモスクワレース工場の後継者となった。
ところが、悲劇は起きる。第一次世界大戦に従軍した結果、いつしか家族への連絡がなくなり、行方不明となってしまう。しかし、実はロシア革命に伴い皇帝の軍として革命政府に捕らえられていたというものであり、留置場にいたことを知った父とニコライの奔走で解放された。のだが、その後赤軍兵士としてロシア内戦に繰り出され、あっけなく戦死してしまった。
アンナ・メトネルの姉であるエレーナと結婚しており、ロシア革命に伴い工場の権利も奪われていたこともあり、彼の戦死に伴って実は両親やカール系のメトネル家だけではなく、ブラテンシー家のほぼ全員までニコライが扶余する形になってしまい、この経済的負担がニコライの亡命につながるとかつながらないとか。
兄:アレクサンドル・メトネル
1877年6月2日~1966年11月26日
メトネル家の三男で、ニコライと同じく音楽の道に進む。そのせいで戦前~昭和末期くらいまでの和書では、兄弟の事績や兄弟順がかなりごっちゃになっている。
1892年から1898年までモスクワ音楽院で学ぶが、彼の進んだのはヴァイオリンコースであり、その後カリンニコフらに作曲も学んでいく。以後、弟のように亡命などはせず、死ぬまでソ連でヴァイオリニスト、指揮者、作曲家として活動した。少なくとも指揮者としてはプロコフィエフの作品などにも携わっている。
というか、エミリィ、ニコライに比べると、ソヴィエト連邦内でそこそこのポストに一定期間ついていた筈なのに全く記録がなく、Wikipediaの記事もロシア語版、フランス語版、ドイツ語版などで存在するのだが、その記述はほぼロシア圏で流通した事典類のコピペである。確かに、例えばアクサーコフの作品の劇音楽などを作った記録はあるのだが、実のところ合法非合法問わず音源を見たことがない(ただし、終戦直後の日本でソ連に訪れアレクサンドル・メトネルのバレエを聴いた記事が複数見つかるので、上記経歴は事実とは思われる)。求む情報。
姉:ソフィヤ・メトネル
弟:ウラジーミル・メトネル
1881年~1891年
メトネル家の五男で、ニコライの唯一の下の兄弟。しかし、幼くして亡くなり、特に記載することはない。
姪:ヴェーラ・タラソヴァ/ヴェーラ・メトネル
1897年~1985年
カール・メトネルの娘で、ニコライ・メトネルの姪。
モスクワ大学や国際関係大学でドイツ語を何十年にも渡って教えていた語学に堪能な存在で、ソ連で出版されたメトネルの回顧録の、外国人部分の翻訳は、ほぼ彼女が担っている。
姪:イリーナ・メトネル
1899年~1968年
アレクサンドル・メトネルの娘で、ニコライ・メトネルの姪。
ピアノに秀でており、メトネル家とゲディケ家のモスクワ音楽院での権勢を保たせるために、ニコライ・メトネルからアレクサンドル・メトネルに全面的にサポートするから入学させてくれと言われて音楽院に進んだ。
ただし、当初はコニュスのクラスにおり、ニコライ・メトネルが抜けた1920年にキップのクラスに移ったため、割と反故にされてはいる。ただし、1927年12月4日にゴーリキーに関するイベントでピアノ演奏をする1などしているので、プロのピアニストにはなったらしい。また、ソ連側のメトネルの回顧録の人名インデックスによると、2度の結婚歴があるらしい。
甥:ヴァレンティン・ル・カンピオン/ヴァレンティン・ビット/ヴァレンティン・メトネル
1903年~1952年
アレクサンデル・メトネルの2番目の妻、オリガ・ゲディケが、前の夫であるニコライ・ビットとの間に設けていた連れ子。フランスへの亡命後、フランス人だった母方の祖母(フョードル・ゲディケの妻)の姓からValentin Le Campionと名乗る。
ちなみにオリガの前の夫で実父ニコライ・ビットの経歴は全くの不明。なお、オリガ・ゲディケは上記の通りフョードル・ゲディケの娘なので、アレクサンドル・ゲディケにとってアレクサンドル・メトネルは実は義弟だったりもする。
メトネル家で育った後、革命後にかの有名なヴフテマスに入学した。が、生家が生家だけにどうもブルジョア的とみなされあっけなく追い出されたらしい。1923年からアレクセイ・クラフチェンコに版画を学ぶ。
1927年にパリに居つき、ステファン・パンヌメイカーに学んだあと、彫刻家や版画家として、フランスでは一定程度の知名度を誇る名声を得た。割合早くに死んでしまったが、ジェーン・シュイエとの間に、マリー・エレーヌ・ル・カンピオンら3人の子供もいたため、遺族が彼の作品を手厚く保全していった。
なお、もともとソ連にいたことはフランス側ではわかっていたのだが、フランスに来てから祖母の旧姓を名乗ってたこともあり、経歴が全く分からなかった。このため遺族がとりあえずソ連にも作品を送りたいとした過程で調査をし、結果として彼がメトネル一門であったことがようやくフランスで知られたレベルだったらしい。なお、この際に、当時存命だったヴェーラ・タラソヴァらと調査者が交流を持ったらしい2。
ブラテンシー家
エミリィ・メトネル、カール・メトネル、ニコライ・メトネルの姻族。
妻:アンナ・メトネル
1877年~1965年
ニコライの妻。成功したユダヤ系の歯科医の家に生まれ、ヴァイオリンをたしなんでいた。
メトネルの各種伝記によると、1896年に家族ぐるみの知り合いとなった後、もともとニコライとアンナの方が恋仲だったのだが、アンナはエミリィと結婚するべきとしたアレクサンドラ・メトネルに割かれ、1902年エミリィと結婚。そのままエミリィが公務員としてニジニ・ノヴゴロドに向かった際についていったのだが、1904年からニコライが後を追ってきて、3人で同棲状態になる。
しかも2人はあっけなく恋を燃え上がらせ、エミリィと結婚しているにもかかわらず、ニコライとの子供を作り、流産するという事態を引き起こす。それも2回も。
エミリィ的にはこの流産は2つの相反する役割にアンナを苦しませた結果だと思っており、以後エミリィは精神に不調をきたした結果どんどん精神分析に関心を持ち始め、ニコライもまたその罪を告白するような楽曲に着手したとかしなかったとか。
とはいえ、親は反対していたのだが、エミリィはもういろいろ割り切って第一次世界大戦まではニコライ、エミリィ、アンナはずっと3人で同棲を続けてロシア各地を転々としていた。というか、1912年にはエミリィとその恋人、ニコライとアンナでバイロイト音楽祭にも行っている。
ところが、第一次世界大戦でミュンヘンに取り残されたエミリィはチューリヒでカール・グスタフ・ユングの取り巻きの一人となって暮らし始め、東部戦線を挟んだことで音信不通となる。おまけに反対していたアレクサンドラ・メトネルが死んでしまった結果、1919年6月にニコライとアンナはようやく公的に結婚した。
しかしほぼ同時期にエミリィからの連絡が届くようになり、亡命後1921年にようやく3人で再会した。とはいえ以後もエミリィ、ニコライの相互交流は死ぬまで続き、アンナも彼らと歩みを同じくした。
かくしてニコライが死ぬまでそのそばで付き従ったのだが、過去のトラウマからかニコライとの関係は一種の共同事業者じみたものとなっており、作曲以外のニコライの仕事には彼女がほぼ付き従っていた。そんな彼女の姿は、プロコフィエフのようなメトネルを揶揄する立場の存在や皮肉屋にとっては格好の嘲笑の的だったようだ。
しかし、エミリィ、ニコライが順次亡くなり、一人取り残された彼女は、最終的にソ連に戻った。この経緯としては以下である。スターリン死後のフルシチョフによるスターリン批判などもあってジダーノフ批判などが清算され、メトネルの楽曲も弾くだけで自己批判されるような状況から復権。アラム・ハチャトゥリアンが音楽の「雪どけ」を宣言した直後にエミール・ギレリスがメトネル擁護をさっそく展開し始め、そんなギレリスの協力によってソ連に戻れたらしい。
しかし、ここで彼女は、故意かどうかは一定の留保が必要なのだが、メトネルの資料を冷戦両陣営に分割させ、メトネルの情報をほぼ独占していた状態になっていた。以後、ソ連での彼女の動向はほとんどわからず、アペチャンの回想録などの記述が数少ない記録である。
義弟:アレクサンドル・ブラテンシー
1880年~1938年、もしくは1940年。
アンナの弟で、ブラテンシー家の長男。誕生日についてはネットで正教改宗時の資料が公開されており3、Flamm(1995)では死亡年は1940年だが、ソ連で粛清された人々などを載せた”Жертвы политического террора в СССР, 4-ое издание”によると1938年という大粛清の頃に処刑されたらしい。この書籍をリスト化した、Жертвы политического террора в СССР (memo.ru)にも彼の記述がある。
上記によると、弁護士だったらしい。
また、おそらく死因が死因だっただけに色々あったらしく、ある時期までのDolinskayaは彼のことのみ把握してなかった。このため、結構な頻度で先行研究で彼の弟のアンドレイが唯一の男児と書かれることがあるので注意が必要である。
義弟:アンドレイ・ブラテンシー
1882年~1906年
アンナの弟で、ブラテンシー家の次男。誕生日についてはネットで正教改宗時の資料が公開されており4、なぜかhttps://www.geni.com/はこれを典拠にしているのに1年間違えている。
1906年に若くして自殺したらしい。ただし、この自殺した経緯というのが、まったくのでっち上げが起きたことで伝記で死因が異なって混乱している。
まず、アペチャン編のメトネルの書簡集のインデックスによると、血の日曜日事件の後ツァーリの秘密警察に追われた結果とのこと。これは後述の通り完全に根拠のないウソなのだが、この書簡集やDolinskaya(2013)に至るまで、ソ連・ロシア側の主張では、出典は不明ながら「そういうこと」にされていた。
ただし、Flamm(1995)などが主張するように、実際は全く違う経緯である。実際は、人妻を痴情のもつれから殺してしまい、そのまま勢いで自殺してしまった、が真実の彼の死因である。
これは、Ljunggren(1994)によって、出典がエミリィ・メトネルとアンドレイ・ベールイの1907年の書簡と書かれており、根拠がちゃんとある。実際に両者の往復書簡集の137号文書(4月)に書かれている経緯によると、別居中の人妻と愛し合った結果、彼女とよりを戻そうとし2人の海外行気を拒んだ彼女の夫に絶望し、2人でピストルで心中したとのこと。なお、https://www.geni.com/には夫持ちのセントツォバが妻として線が引かれているが、これが彼女なのかどうかは不明。
ゲディケ家
メトネル兄弟の母方の実家。
いとこ:アレクサンドル・ゲディケ
1877年3月4日~1957年7月9日
メトネルの母方のいとこ。メトネルと同様モスクワ音楽院でピアノを学び、これまたメトネルと同じくタネーエフからの私的なレッスンのみで作曲を学ぶ。メトネルが競った「第3回アントン・ルビンシテイン国際コンクール」では作曲部門に出場し、優勝。結果ピアノ部門でロシア人を絶対に優勝させない政治抗争が起きたとか言われている。
1909年にモスクワ音楽院のピアノ科教授になったが、どちらかというと彼といえば1919年以降の室内楽、オルガンクラス以降のキャリアの方が有名で、特にオルガンクラスはそれまであまりオルガンの伝統の無かったロシア圏にオルガンの一大門派を築くに至った。
作風は伝統的なポリフォニーに沿うものであり、保守的なもの。
サブロフ家
ニコライ・メトネルの姉・ソフィヤ・メトネルの嫁ぎ先
甥:アンドレイ・サブロフ
1902年3月13日~1959年9月9日
ソフィヤ・メトネルの息子で、ニコライ・メトネルの甥。20世紀生まれの文芸評論家(アンドレイ・サブロフの時点で同姓同名が複数人存在し、フルネームのアンドレイ・アレクサンドロヴィッチ・サブロフですらまだ彼に絞れないので、調べづらいが)。
革命後、モスクワ大学の哲学科廃止直前での最後の入学者5人のうちの1人で、トルストイなどの研究でよく知られている。
メトネル兄弟と家族ぐるみの付き合いをしていたセルゲイ・ドゥルィリンからは、家庭教師をしてもらっており、晩年までずっと付き合いがあった。また、アレクセイ・チチェリンの回想録で彼がイヴァン・イリインに感化されていたとあるが、これまたメトネル兄弟の友人なので、メトネル一家の近くにあったサークルの、学芸面で感化された次世代、といってもいいと思われる存在である。
シュテンベル家
おば・エミリア・メトネルの嫁ぎ先。
いとこ:ヴィクトル・カルロヴィッチ・シュテンベル
1863年~1921年1月11日
メトネル兄弟のいとこ。文豪パステルナークの父・レオニード・パステルナークらと活動をした帝政末期のロシアの有名な画家。レーニンの肖像画などを書いたためか、なぜか日本語版Wikipediaに記事がある。
従甥:ニコライ・ヴィクトロヴィッチ・シュテンベル
1892年~1982年4月2日
ヴィクトルの息子。モスクワ音楽院でメトネル本人からピアノを学び、1917年に卒業する。以後、経緯は不明ながら、最終的にアメリカにわたり、ニューヨークで没した。ピアニストとしての活動は続けており、NAXOS MUSIC LIBRALYなどで彼の音源が見つかる。
ビューラー家
スイスでビューラーグループをいまだなお経営している、世界的に有名な大財閥の一族。メトネルの母親・アレクサンドラのいとこである、マリヤ・フェドヴナ・メイ(スイス側ではヘレネ・メイとして伝わる)が創業者の4男フリードリヒ・テオドール・ビューラーに嫁いだため、彼らの子どもたちはメトネル兄弟にとってはとこにあたる。ただし、いまいちこのマリヤ・フェドヴナ・メイがゲプハルト家、ゲディケ家のどこに繋がるのかはまだ調べきれてない。
ちなみに、Martynはこのビューラー一門をアンナのいとこと書いているどころか、レノックスの妻のレニをレノックスの母親とすら書いている。つまり、まともに系譜関係を把握できていないので注意。
ちなみに、はとこと言っても、フリードリヒ・テオドール・ビューラーとマリヤ・フェドヴナ・メイがだいたいニコライ・メトネルの少し上くらいなので、子どもたちはニコライ・メトネルの二回りくらい年下。
このはとこは西側に行った後にだいぶ頼られたらしく、第一次世界大戦開戦によってドイツからスイスに追放されたエミリィ・メトネルも、まあ金持ちのはとこがいるしなんとかなるかくらいの認識だったとLjunggrenに書かれている。
従叔父:フリードリヒ・テオドール・ビューラー
1877年〜1915年
農家から身を立て大財閥を築いたアドルフ・ビューラーの4男。
ただし、他の兄弟と比べてコスモポリタンを自称する道楽息子だったらしく、ベイリー・スコットに魔改造させたヴァルトビュール荘がスイスの重要文化財になったことくらいしか特に書けることがない。
はとこ:ロルフ・テオドール・ビューラー
1903年12月3日〜1992年11月30日
フリードリヒ・テオドール・ビューラーの長男。父親と違って経済学などを本格的に学び、いとこのルネ・ビューラーを助けてビューラーグループの経営者の一人となった。
また、戦前スイスでは若手リベラル議員として国政にも関与し、第2次世界大戦直後くらいまでは政治運動でも足跡が追える、スイスの大物政財界人とも言うべき存在の一人。
兄弟の中では一番の有名人なのだが、兄弟と異なりメトネルとの関わりは不明。
はとこ:レノックス・テオドール・ビューラー
1905年12月2日〜1986年2月19日
フリードリヒ・テオドール・ビューラーの息子の一人。スイスの基礎自治体トローゲンにある学校の沿革を記した『Trogen im Aufwind』という本に、卒業生である彼の経歴が事細かく載っている。
チューリッヒ工科大学に通っていたのだが、音楽の道を志し中退。音楽院でワインガルトナーらに学び、ピアニストとなった。なお、この過程ではとこで亡命していたニコライ・メトネルに弟子入りしていたため、彼と妻のレニ・ビューラー(レニ・バッハマン)は亡命中のメトネル家の支援者でもあった。
このあと、第2次世界大戦中ほぼ兵役に従事していたが、本人的にはそこまで苦ではなかったとされている。
戦後再び音楽活動に関わりだす。ただし、手が小さかったことでピアニストとして大成できないと自分のことを見ていたらしく、コミュニティ形成や教育活動が音楽への関わり方の主となった。また、数学的才能と記憶力に長けていたらしく、伝記によると保険会社での業務で生計を立てていたとのこと。
伝記によると妻のレニは1983年11月に亡くなり、その後しばらくして彼もまた亡くなった。
ゲプハルト家
母方の先祖
フリードリヒ・アルベルト・ゲプハルト
1781年7月26日~1861年4月30日
メトネルの母方の先祖(ゲディケ家も同祖)。ドイツ人だがロシアに渡った俳優で、演劇活動や台本執筆以外にも、作曲家のジョン・フィールドの伝記も書いている。
フィンランドのゲプハルト家
母方の先祖の遠い親戚である。
ヨハン・クリスティアン・ゲプハルト
1786年~1852年
フリードリヒ・アルベルト・ゲプハルトの弟。ロシアで音楽家として活動したが、なぜかこっちは子孫に音楽家が出なかった。フィンランドのゲプハルト家の先祖だが、多分メトネルはこちらの子孫を全く把握していないと思われる。
ハンネス・ゲプハルト
1864年8月27日~1933年2月23日
フィンランドの経済学者。アルベルト・ゲプハルトはいとこ。専門は経済史で、妻ともどもフィンランドの国会議員も務めた。
ヘドウィグ・ゲプハルト(ヘドウィグ・マリア・シレン)
1867年12月14日~1961年1月13日
フィンランドの政治家。ハンネス・ゲプハルトは夫。いわゆる第一波フェミニズム運動に属する世代で、女性の権利向上に努め、フィンランドで最初の国会議員になった女性の一人。
マイジュ・ゲプハルト
1896年9月15日~1986年7月18日
ハンネス・ゲプハルトとヘドウィグ・ゲプハルトの娘。フィンランドの代表的な食器乾燥機の発明家。
アルベルト・ゲプハルト
1869年4月17日~1937年5月15日
フィンランドの画家。ハンネス・ゲプハルトはいとこ。フィンランド芸術家協会の創設者の一人。世代的にはちょうどアール・ヌーヴォーに感化されたあたりで、パリ万博のフィンランドパビリオンのデザインも行っていた。
なお、4回の結婚を繰り返しており、息子のヨハネス・ゲプハルトは最初の妻との子供。
ヨハネス・ゲプハルト
1894年2月24日~1976年3月14日
アルベルト・ゲプハルトの息子で同じく画家。