ざっくりとしたニコライ・メトネルの生涯

ニコライ・メトネル略伝を書いてしばらくしてから、そもそも、子供向けの伝記のような、ニコライ・メトネルの人生をゆるく見ていく記事がこの世の中に存在しないことに気づきました。

ということなので、他の記事と全く違う語り口調で、メトネルの人生をまとめていきたいと思います。ほぼニコライ・メトネル略伝をさらに物語チックにした物です。なお、いろいろな話を丸めて調節しているので、参考文献にはしないでください。

メトネルとは誰か?

そもそも、メトネルとは誰でしょうか?ざっくりいうと、19世紀の末くらいに生まれた、ロシアの作曲家です。

メトネル
メトネル

ニコライ・メトネルです

ニコライ・メトネルが生まれたのは1880年(旧暦では1879年)です。ざっくりいうと、作曲家ではおおよそ以下の人たちと同じ世代です。

滝廉太郎
滝廉太郎

1879年生まれなので1個上です

レスピーギ
レスピーギ

1879年生まれなので1個上です

バルトーク
バルトーク

1881年生まれなので1個下です

ストラヴィンスキー
ストラヴィンスキー

1882年生まれなので2個下です

ちなみに、有名人だと以下の人たちが大体同じ年です。

大正天皇
大正天皇

1879年生まれです

マッカーサー
マッカーサー

1880年生まれです

ヘレン・ケラー
ヘレン・ケラー

1880年生まれです

ニコライ・メトネルが生まれた時期というのは、ブラームスやブルックナーがようやく交響曲で脂が乗り始め、ワーグナーがニーベルンゲンの指環も終えて余生を過ごし、リストはほぼ隠居の身になっている一方で、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、ドビュッシー、サティあたりはまだ修行中という、そんな時代でした。

ちなみに、以下の2人は生まれていますが、まだ音楽院にも進んでいない頃です。

スクリャービン
スクリャービン

1872年(旧暦だと1871年)生まれです

ラフマニノフ
ラフマニノフ

1873年生まれです

ニコライ・メトネルは、この後71年の生涯を過ごしました。この70年以上の時間は、世界史でも第一次世界大戦、ロシア革命、第二次世界大戦などを経る、激動の時代になります。しかし、クラシック音楽界でも大きな変化が起きるのに十分な時間でした。

ざっくりいうと、チャイコフスキーの序曲『1812年』やリストのファウスト交響曲から(どちらも1880年初演)

1812 Overture: Grand Finale
Liszt: A Faust Symphony / Chailly · Berliner Philharmoniker

ブーレーズのポリフォニーX(1951年)やケージの4分33秒(1952年)に至るまでの時間です。

Polyphonie X for 18 Solo Instruments
John Cage: 4'33'' / Petrenko · Berliner Philharmoniker

そして、メトネルの人生とは、この流れの中で、旧来の、おおよそワーグナー以前の音楽を守ろうという抵抗に始まり、最後まであきらめずにもがき続けるものでした。ここでは、そんな彼の生涯を、ざっくり追っていきたいと思います。

前置き

そもそもこの頃のロシアはどういう国なの?

昔々、おおよそ今のロシアにあたる場所には、ロマノフ家という皇帝の家がいました。ざっくりいうとこの一族は、自分たちのことを、古代ローマ帝国が割れた後にギリシャに作った政権の、そのまた後継ぎと思っていた先代のリューリク家の、そのさらに継承者くらいに思っていました。

ディオクレティアヌス
ディオクレティアヌス

テトラルキアで帝位を東西に分けました

コンスタンティヌス
コンスタンティヌス

一度再統一しましたが、ほとんどギリシャにいました

コンスタンティノス11世
コンスタンティノス11世

それから1000年以上経ち、オスマン帝国に滅ぼされました

イヴァン3世
イヴァン3世

コンスタンティノス11世の姪を妻にしました

イヴァン4世
イヴァン4世

では、モスクワは第三のローマである

ミハイル・ロマノフ
ミハイル・ロマノフ

この後、偽ドミトリーたちや外国軍との半世紀くらいの戦争の末に、

我が家が帝位を継ぎました

しかし、最大の問題が、この地域の人たちは、ローマ帝国そのものとは、ほぼ無関係だったということです。

リューリク
リューリク

そもそも初代の私が9世紀の人間……

この、ロシアを筆頭にした東ヨーロッパの地域に住んでいるのは、おおむねスラブ系です。彼らは、ヨーロッパでローマ帝国の後継者だと思っているラテン系や、ローマ帝国を滅ぼしたものの、どんどんラテン系の文化に染まったゲルマン系よりも、さらに離れたところにいるということです。

カール大帝<br>もとい<br>シャルルマーニュ
カール大帝
もとい
シャルルマーニュ

ゲルマン民族ですが、ローマ教皇からも認められました

このスラブ系の人々は、ゲルマン系の人たちからも十字軍しなきゃ……と思われてたくらいです。つまり、旧ローマ帝国の範囲にいた人たちからは、自分たちのテリトリーの外にいる、赤の他人めいた存在だったのです。

また、ロシアの人々は、最終的にはキリスト教徒になりました。ただし、その昔ローマの教会とギリシャの教会がけんか別れした後の、ギリシャ側のキリスト教を信じていました。

レオ9世
レオ9世

もうお前なんて破門だ!

ミハイル1世
ミハイル1世

こっちこそ!

つまり、皇帝から庶民まで、カトリックではなく今の正教会を信じていたということです。

さらに、このロマノフ家が皇帝に就く前の、リューリク家のころに、ある問題が起きました。モンゴルからチンギス・ハンの子孫たちが押し寄せてきたことです。

リューリク
リューリク

大体以下がモンゴルが来る前

11世紀前後のリューリク朝の地図(ウィキメディア・コモンズ)

結果として彼らは数百年くらいモンゴルのハンの国に従い、それを追い返した後も、もっと東のアジアとのかかわりが続いていくことになります。

チンギス・ハン
チンギス・ハン

息子の代にポーランド辺りまで行きました

チンギス・ハンの遠征ルート(ウィキメディア・コモンズ)
イヴァン3世
イヴァン3世

私の代でやっと実質的に独立しました

ミハイル・ロマノフ
ミハイル・ロマノフ

大体以下がロマノフ朝になった頃

初期ロマノフ家の領域(ウィキメディア・コモンズ)

要するに、今でいうロシアにあたる地域は、一般的にヨーロッパとイメージされる地域とは、違う文化圏にいたということです。

そして、当の住んでいる本人たちも、ここにある迷いがありました。「俺たちはこのままユニークな存在でいていいのか」、「もっと西側の進んだ文化に染まるべきなのか」、「開き直って東の人たちの仲間っぽく振舞うべきなのか」、というものです。

ロシアとドイツ地域の関わり

また、ロシアはロシアとして、その西にもう一つ、なんとも説明しづらい国っぽいものがありました。神聖ローマ帝国、つまり西側の教会から「君はローマ帝国の末裔だ」と認められた国です。

カール大帝<br>もとい<br>シャルルマーニュ
カール大帝
もとい
シャルルマーニュ

そもそもは、私がきっかけです

この現在のドイツから東ヨーロッパにあたる地域にあった国は、西に割と強いフランスがあったこともあり、東側への進出だけがほとんどうまくいきました。そのうえ、東側の地域は森と川が多く、どんどん農民が開拓していったのです。

フリードリヒ1世
フリードリヒ1世

私のころです

ごちゃごちゃしているでしょう?

ハインリヒ獅子公
ハインリヒ獅子公

たくさん土地を奪われました

お父さんの傲慢公には申し訳なさがあります

シュタウフェン朝時の神聖ローマ帝国(ウィキメディア・コモンズ)
カール4世
カール4世

私のころです

ちょっと東に広がったような気がします

金印勅書時の神聖ローマ帝国(ウィキメディア・コモンズ)
フェルディナント3世
フェルディナント3世

私のころです

ちょっと前にトルコも来たので、一度縮みました

イサベル1世
イサベル1世

ちなみに、コロンブスのパトロンとしておなじみの私の来孫です

ウェストファリア条約時の神聖ローマ帝国(ウィキメディア・コモンズ)

という経緯があったので、ゲルマン系と自分たちのことを思ってそうな人たちが、今のバルト三国やポーランド、チェコ、ハンガリーなどにもどんどん進んでいきました。この後、トルコのオスマン帝国の弱体化に伴い、正直なところこの地域に強い勢力がいなくなったことも後押ししました。

また、この地域の人にある特徴があります。それは、ローマのカトリックと対立する新しいキリスト教、プロテスタントの信者が多いということです。順番が多少前後するのですが、そもそもプロテスタントの始まり自体、ドイツ近辺でルターやカルヴァンが活躍したためでした。

ルター
ルター

だいたいドイツ南部が活動の中心です

カルヴァン
カルヴァン

フランス人ですが、ほとんどスイスで活動していました

ということなので、この辺の人たちが広まると、当然プロテスタントも広まったということです。

やがて、神聖ローマ帝国は、2つの勢力が中心になりました。片方がかの有名なオーストリアのハプスブルク家。

マリア・テレジア
マリア・テレジア

ハプスブルク家です

もう片方が最終的に勝利し、ドイツ帝国を築くプロイセンのホーエンツォレルン家です。

フリードリヒ2世
フリードリヒ2世

ホーエンツォレルン家です

そんな中で、ロシアのロマノフ家は、国を発展させなきゃいけないので、多少自分の個性を失っても、この辺の人たちに力を貸してもらおう、と思ったようです。

ピョートル1世
ピョートル1世

私がヨーロッパに直接行きました

その結果、ロシアにはドイツ地域からたくさんの人が招かれ、ある者は国の政治などに関わり、ある者はロシアで商売をやるうちに大商人になるなど、一気にロシアでドイツ系の人々が力を持つようになりました。その中には、文化の発展のために招かれた音楽家もいました。

エカチェリーナ2世
エカチェリーナ2世

ドイツの人々をたくさん招きました

付け加えると、このとき新しい首都が築かれます。サンクトペテルブルク、通称ペテルブルクです。この、西側に出やすい人工的に作られた新たな港町、ペテルブルクは皇帝のお膝元であり、豪華絢爛な改革の象徴となります。一方これまで首都だったモスクワは、父祖伝来の地として重んじられますが、かなり長い間放置されます。つまり、カビ臭い旧習の地としても描かれるようになっていきます。

そして、そんな中で、この記事で取り扱うニコライ・メトネルの母方の先祖、ゲプハルト家がロシアに来ました。チューリンゲンのとある有名なオルガンの一族から逃げ出し、全く別の土地で俳優として身を立てようとし、そのままロシアに流れてきたようです。この後、先祖はロシアで成功し、そのままロシアに居ついたようです。

バッハ
バッハ

たまに研究者が私の親戚かもしれないといっておりますが、

実証しようがないですな

とはいえ、一方でロマノフ朝は、モスクワ周辺の小規模だった領域がどんどん東に拡大し、ネルチンスク条約、キャフタ条約の制定などで中華王朝と国境を画定させるほどにまでなります。

ロシア帝国の拡大(ウィキメディア・コモンズ)

この結果、「自分たちは西側とは別のアイデンティティの人なのでは?」というのも強まります。このため、この辺は解決せず、何度もぶり返していくことになります。

フランス革命以後のロシア

という中で起きたのが、フランス革命です。ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑された後も、フランスでは混乱が続きます。

マリー・アントワネット
マリー・アントワネット

ハプスブルク家からフランスのブルボン家に嫁いでいました

このフランス革命で最終的にフランスをまとめたナポレオンが、一気に全ヨーロッパに勢力を拡大します。

ナポレオン
ナポレオン

かなりの領域を獲得しました

第一帝政の最大領域(ウィキメディア・コモンズ)

ところがイギリスとロシアの抵抗の前に敗れ、ヨーロッパにとってそこそこ赤の他人だったはずのロシアの影響力が一気に増します。

ナポレオン
ナポレオン

いわゆる冬将軍に負けました

アレクサンドル1世
アレクサンドル1世

勝ちました

さらに、神聖ローマ帝国の領域ではプロイセンがオーストリアのハプスブルク家以外を統一し、ドイツ帝国を築きます。

ビスマルク
ビスマルク

鉄と血で無ければ国は築けん

こうして、旧来は東側でそこそこ軽んじられていた国々が、一気にヨーロッパ全体の在り方にすら口出しできるほどの存在になりました。

ビスマルク
ビスマルク

国境線もだいぶ変わりました

上と下でだいぶすっきりしたでしょう?

1815年のヨーロッパ(ウィキメディア・コモンズ)
1914年のヨーロッパ(ウィキメディア・コモンズ)

しかし、このことは、ロシアの人々も戸惑っていました。というのも、ナポレオンとの戦いで、「ナポレオンにも勝ったけど、あっちの方が進んだ考え持ってるしウチの国は遅れすぎじゃない…?」という考えを抱き始めたからです。

この結果、国のシステムを変えたいと思う若者が、知識人を中心に増え始めていきます。ただし、ある問題がありました。この国を豊かにするために、どの方向性にするのか?ということです。ここで、結構前から問題だった、「俺たちは俺たちだろ」という派閥と、「いや普通に西の人たち真似しようぜ」という派閥の二つに分かれました。

一方で、当然といえば当然なのですが、それは皇帝家を中心とした現在の支配体制を割と揺るがすものでした。なので、以後ロシアは反乱や、皇帝の暗殺などが繰り返される状況になります。

アレクサンドル2世
アレクサンドル2世

テロで暗殺されました

ただし、こうした改革を志す人々は、言ってしまえばエリートです。当時のロシアの本当の普通の人というのは、ほとんど字の読めない圧倒的大多数の農民、それも西側と違い農奴と呼ばれる貴族の財産でした。

しかし、この農民をどうにかしたいという試み「ナロードニキ」のほとんどは失敗し、しかも皇帝へのテロに至ったことで、現行の体制を改革するレベルでは無理だと気づき始めました。

この結果、この国を変えたいと思っていたエリート層は、以後真っ二つに分かれました。もう完全に国自体ぶっ壊さないとダメだと思って革命闘争に加わる人と、割と現実逃避気味に芸術や宗教に没頭する人たちです。

19世紀のロシアの音楽―前編―

というナポレオン戦争から世紀末にいたるまでの100年近い間に、ロシアの音楽界もだいたい同じようなことが起きていました。ちなみに、ナポレオン戦争頃にドイツで活躍していたのがベートーヴェンというのを大体の目安にしてください。

ベートーヴェン
ベートーヴェン

戦争の頃が、ちょうど脂が乗り始めた時期です

ちなみに、この人たちは大体以下の感じです。

バッハ
バッハ

もう亡くなってから半世紀以上になります

そろそろ思い出されてブームになるころです

モーツァルト
モーツァルト

亡くなってからまだ15年前後です

ハイドン
ハイドン

亡くなってからまだ10年経ってません

シューベルト
シューベルト

最近注目の若手です

まあ、若死にしてしまうのですが……

サリエリ
サリエリ

ちなみに、この頃私はまだ存命です

このくらいの時期、ようやくロシアでは自分の国の作曲家が曲を作り始めるころでした。グリンカやダルゴムイシスキーあたりがそれにあたります。なお、このグリンカですらシューベルトより年下なので、かなり若い存在です。

ただし、これまでと同様、西、特にドイツから音楽家を招き、その人たちが音楽を広めるという点はあまり変わりませんでした。クレメンティ、フィールド、シュポーアなどです。

シュポーア
シュポーア

大半の人はファッションか何かで聴いてるだけだけど、

熱心な人もいるにはいるなあ

一方、19世紀前半というのは、ヴィルトゥオーソの時代です。簡単に言うと、凄腕ピアニストやヴァイオリニストが名をはせ、パリなどの栄えた土地をめぐって身を立てる時代です。

パガニーニ、ショパン、リストなどがこれで国際的な名声を得る一方で、ロシア領からも同様の存在が現れました。アントン・ルビンシテインです。

アントン・ルビンシテイン
アントン・ルビンシテイン

とはいえ、今のポーランド地域出身なんだけどね

アントン・ルビンシテインは、ロシアに戻ると、リベラルな考えの持ち主だったミハイル大公妃エレーナのサロンに迎えられます。これが1852年です。

エレーナ
エレーナ

やはり、少しずつでも社会を良くしなければ……

ここで意気投合した2人は、1859年にロシア音楽協会を築きます。アントン・ルビンシテインは弟のニコライ・ルビンシテインをモスクワに派遣するなど、ロシア各地で同様の組織を作らせました。

アントン・ルビンシテイン
アントン・ルビンシテイン

弟も才能があるし、

モスクワを任せられるだろう

ニコライ・ルビンシテイン
ニコライ・ルビンシテイン

わかったよ兄さん

ロシア音楽協会は、さらに1860年からエレーナのおひざ元で教育活動を始めました。これが1862年にペテルブルク音楽院になり、アントン・ルビンシテインが院長になります。1866年にはニコライ・ルビンシテインもモスクワで、ニコライ・ペトロヴィッチ・トルベツコイやユルゲンソンの協力の下にモスクワ音楽院を作りました。

トルベツコイ
トルベツコイ

ちなみに哲学者のエフゲニー・トルベツコイ、セルゲイ・トルベツコイは、

私の息子です

ユルゲンソン
ユルゲンソン

私はその後、いわゆる老舗の楽譜出版社となります

しかし、こういう人たちも出てきます。あんなの西の真似をしたエリート養成コースでしかないのではないかと。

スターソフ
スターソフ

あんなの、エリート向けのアカデミーコースじゃないか

この、今でいうストリート系的な人たちが、おおよそ以下の人たちです。

バラキレフ
バラキレフ

バラキレフ!

キュイ
キュイ

キュイ!

ムソルグスキー
ムソルグスキー

ムソルグスキー!

ボロディン
ボロディン

ボロディン!

リムスキー゠コルサコフ
リムスキー゠コルサコフ

リムスキー゠コルサコフ!

スターソフ
スターソフ

(5人そろえて)力強い一団!

いわゆる「ロシア5人組」です。

この人たちはバラキレフ以外はアマチュアで、簡単に言うと「西の真似なんかしてるアカデミーの連中と違って、俺たちは俺たちらしい音楽でロシアの音楽を発展させる」的な人たちです。スターソフのプロモーションのせいで実態はよくわからなくなっていますが。

それはそれとして、ペテルブルク音楽院ではこの人が見つけだされました。チャイコフスキーです。アントン・ルビンシテインは彼を弟・ニコライ・ルビンシテインの下におくります。

チャイコフスキー
チャイコフスキー

これからはモスクワの発展に力を入れます

ニコライ・ルビンシテイン
ニコライ・ルビンシテイン

ありがとう!

助かるよ!

当然、5人組とルビンシテイン兄弟+チャイコフスキーあたりの勢力は対立します。

バラキレフ
バラキレフ

でも、民衆にも音楽が必要でしょう?

チャイコフスキー
チャイコフスキー

理想はわかるんだけどねえ……

ここで、アントン・ルビンシテインはバラキレフに一度ロシア音楽協会の指揮者を任せてみました。

アントン・ルビンシテイン
アントン・ルビンシテイン

一度普通の音楽家に戻る

そんなに言うなら一回任せてやる

バラキレフ
バラキレフ

ほう

ところが、バラキレフはエレーナと対立し、あっさり退任しました。

エレーナ
エレーナ

やはりあの人とは合いません

バラキレフ
バラキレフ

むぅ……

ただし、ナプラブニクなどがロシア音楽協会で5人組の曲を取り上げていきます。さらに、1871年には、リムスキー゠コルサコフがペテルブルク音楽院に招かれ、音楽院vs5人組という対立構造が崩壊していきます。

こうして、次第にアカデミー系vsストリート系というよりは、5人組とチャイコフスキー的な音楽の対立をある程度継承し、両音楽院で育っていく、ペテルブルク派(5人組系)vsモスクワ派(チャイコフスキー系)という軸になっていきます。

この世代が、1880年代ごろから活躍する、リャードフ、リャプノフ、アレンスキー、タネーエフ、ブルーメンフェルトあたりです。

19世紀のロシアの音楽―後編―

この一方で、音楽史全体に大きく影響するので、ドイツに話を戻します。この人の登場です。

ワーグナー
ワーグナー

音楽は音楽にとどまらない、総合芸術であるべきなのだ!

音楽というのは、世界を革命する力にもなりえるのである!

リスト
リスト

たびたび援助してきたけど、

なかなか面白いことをやりそうだ

ワーグナーが表現した音楽は、簡単に言えばそれまでにない新しい音楽でした。しかし、これに思いっきり着火してしまう出来事が起きます。

シューマン
シューマン

作曲に専念したいし、批評はもうやめにしよう

編集はブレンデルくんに任せるよ

ブレンデル
ブレンデル

ワーグナーこそベートーヴェンの真の後継者!

ベルリオーズ、リスト、ワーグナーのような音楽こそ至高の芸術!

シューマン
シューマン

え?

手短に言うと、シューマンという作曲家がいました(SSRくらいの作曲家なので詳細は省きます)。彼は音楽批評を確立し、名声を得ていました。そのシューマンが、作曲に専念するために、ブレンデルという人に後を託しました。ところがブレンデルは、リストやワーグナーの様な音楽ばかり取り上げてしまうのです。

ベルリオーズ
ベルリオーズ

幻想交響曲とか作ったけど、

フランスにいる私の名前を勝手に使うのはどうなの?

さらに、シューマンの死後、この雑誌の創刊25周年の席に、シューマンの身近な人が全く呼ばれませんでした。これがさらに炎上させます。シューマンの未亡人のクララ、シューマンの弟子ブラームスらが、リストやワーグナーのような音楽への批判投稿を行ったのです

クララ・シューマン
クララ・シューマン

リストやワーグナーのような音楽を、

みんなが認めているわけがないから!

ブラームス
ブラームス

お力になりますよ

この中で、1865年、ワーグナーは楽劇「トリスタンとイゾルデ」をぶちあげました。この曲では、序曲でこれまでにない響き「トリスタン和音」をしょっぱなからぶちこみ(動画の10秒あたり)、以後クラシック音楽は徐々に既存のシステムから離れていく歴史になります。

Wagner: Tristan und Isolde - Vorspiel und Liebestod | Marie Jacquot | WDR Sinfonieorchester

が、当然これにキレる人もいます。

ハンスリック
ハンスリック

音楽ってのは音楽だけで成立するものなの!

ワーグナーなんてイロモノじゃなくて、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、シューマンを引き継ぐのは、ブラームスみたいなやつなの!

ブラームス
ブラームス

え?

ワーグナー
ワーグナー

なんかヒートアップしてきたな……

無茶苦茶単純化して書きましたが、これが19世紀後半のドイツに起きた、ワーグナー派とブラームス派の対立です。とても簡単に言ってしまうと、ベートーヴェンの後継者は、エンタメなのか、抽象的な芸術なのか、どっちがふさわしいの?という戦いです。

それで、この流れで担ぎ出されたのが、この人です。

ブルックナー
ブルックナー

もう年老いたおじさんだけど、ワーグナーさんみたいな作曲家になりたいなあ

でも、こんな地味な交響曲しか作れないや

Bruckner: Symphony No. 5 / Harding · Berliner Philharmoniker
ハンスリック
ハンスリック

何!?ワーグナー派!?

じゃあ、敵だな!?

ワーグナー
ワーグナー

おお、もしかしたら、ベートーヴェンの後継者っぽい感じの曲の、

ブラームスのアレと戦える逸材かもしれない

Brahms: Symphony No. 1 / Rattle · Berliner Philharmoniker
ブルックナー
ブルックナー

え?

嘘です。無茶苦茶適当書きました。でもだいたいこんな感じで、ブラームスっぽい音楽しか作らないのにワーグナー派として持ち上げられる交響曲作曲家、ブルックナーが誕生します。

ただ、ワーグナーやリストは1880年代には亡くなってしまいます。以後、ワーグナーの正統な後継者判定は、リストの娘でワーグナーの下に嫁いだコジマが率いる、バイロイト音楽祭を担うワーグナー一族がある程度行います。

コジマ
コジマ

以後、ワーグナーの末裔としてバイロイト音楽祭は神格化されます

そして、当時のウィーンは、ワーグナー・ブルックナーの影響が強いです。その中から出てきたのが、この人たちでした。

ヴォルフ
ヴォルフ

ブラームス?あのカビの生えた音楽しか作れない間男?

マーラー
マーラー

ブルックナーみたいな作曲をしたいなあ

さらに、ワーグナーの一門入りしたことで、この人も躍り出ます。

リヒャルト・シュトラウス
リヒャルト・シュトラウス

昔はブラームスの方が好きだったけど、

ワーグナーを超えてみたいなあ

しかし、結局のところ、ワーグナーという個性がいなくなったことで、ふわっとワーグナー対ブラームスの対立は解消されます。結局、以後以下のようなワーグナーとブラームスのいいとこどりをした人たちが、ドイツ音楽の本流になっていきます。

レーガー
レーガー

ブラームスさんみたいな曲で、

ワーグナーっぽい癖をつけてみたらどうなるだろうか?

ブゾーニ
ブゾーニ

この路線の延長線に、

偉大なバッハやモーツァルトの楽曲を組み込んだら面白いことをができるかも?

シュレーカー
シュレーカー

今の新しいフランス音楽とかも混ぜてみたらどうなるだろう?

で、ロシアの音楽という見出しで、なんでこんな長々とドイツのことを書いたのかという理由は2つです。1つは、何度も言っている通り、ロシアの音楽はこの頃だいたいドイツからの輸入だったこと、もう1つは、ワーグナーという個性があまりにも強すぎて、受け入れるのに相当苦労したんだなあというのが読み取れることです。

ワーグナー
ワーグナー

エンタメ!新機軸!革命!

ニーチェ
ニーチェ

私も一時期ワーグナーなら世界を変えられると思っていました

今ではもう昔の、忘れたい過去ですがね

そんなワーグナーですが、売れる前の1863年に一度ロシアに呼ばれています。その時、彼が客席に背を向けて指揮をしたことに衝撃を受ける聴衆もいました。ですが、この人はこんな感じでした。

アントン・ルビンシテイン
アントン・ルビンシテイン

まあ、こんなもんか

一方、この人は若干トーンが違いました。

ニコライ・ルビンシテイン
ニコライ・ルビンシテイン

新しいことをやろうとしている

取り上げる価値はあるかもしれない

この人が結構取り上げた結果、チャイコフスキーが結構コロコロ意見を変えます。

チャイコフスキー
チャイコフスキー

1863年のワーグナーの演奏を熱心に通ったけど

よくわからなかったよ……

チャイコフスキー
チャイコフスキー

オペラをちゃんと勉強したら、

あの頃ワーグナーがやっていた曲は素晴らしいものじゃないか!?

チャイコフスキー
チャイコフスキー

ドイツ音楽をちゃんと勉強したが、ワーグナーが今やってることは何なんだ!?

バイロイト音楽祭までいやいや行ったけど、聴きに行くんじゃなかったよ……

チャイコフスキー
チャイコフスキー

いろいろ悩んだけど、良くも悪くもワーグナーは偉大だと思うよ……

しかし、これは彼がチャイコフスキーだからで、別の立場である5人組の場合ですら、割れました。

ムソルグスキー
ムソルグスキー

ワーグナーのやり方は間違ってる!

キュイ
キュイ

あんな音楽に影響されるなんてけしからん!

バラキレフ
バラキレフ

うーん、手放しでほめられんやつではあるが……

リムスキー゠コルサコフ
リムスキー゠コルサコフ

上の人たちがどう言おうと、

あれは素晴らしいと思う

で、これが例えばグラズノフだったり、タネーエフだったりといった、1880年世代になってくると、もうワーグナーの音楽性を自然なものと受け入れています。つまり、ワーグナーの音楽性はこのくらいの頃にロシアでもまず前提として共有されていくのです。

ということで、メトネルは世代的に生まれた頃にもうワーグナーを自然なものとしている作曲家が活躍している頃です。ということなので、メトネルにとって、理想の音楽側にワーグナーが含まれてることもごく自然なのです。

一方、1873年にエレーナが亡くなることに象徴されるように、パトロンの層が入れ替わります。つまり、これまでの皇族や貴族から、新しいパトロンが目立つようになります。

この時期を象徴するパトロンとして、ペテルブルクの木材商人ベリャーエフ、モスクワの鉄道王マーモントフの2人がいます。彼らのようなブルジョア資本家によって、音楽院出の作曲家が支えられる、というのが19世紀末のロシア音楽界、というわけです。

ベリャーエフ
ベリャーエフ

音楽院があるおかげで、

有望な若手を青田買いしやすくなったな

この有名な例こそ、チャイコフスキーの伝記に頻出の、鉄道業で成功したフォン・メックの未亡人こと、フォン・メック夫人です。

フォン・メック夫人
フォン・メック夫人

何かと必要でしょうから、

私が助けましょう

チャイコフスキー
チャイコフスキー

助かります

メトネル兄弟が生まれるまで

そして、そんな中でこの記事のニコライ・メトネルの父方の家が西からやってきます。ニコライ・メトネルの父親のカール・メトネルは、このような状況でロシアのモスクワにやってきたようです。後世エミリィ・メトネルの認識では、カールの父方はデンマークから、母方はスペインからやってきて、ドイツあたりに何代も住んでいた家系だったとのことです。

彼には商売の才能があったのか、ただちにモスクワレース工場を経営する資本家になりました。

なお、カールはまだロシアに来たてだったこともあり、ロシア文化よりも、19世紀のドイツロマン主義にどっぷりつかった、文学や哲学畑の趣味人だったようです。

そんな彼の下に、アレクサンドラ・ゲディケという女性が嫁ぎました。彼女の母方は上にも書いたドイツからやってきた俳優のゲプハルト家の子孫で、同じく西から来たゲディケ家に嫁ぎ、姓がゲディケになっていました。

このアレクサンドラの兄弟にはフョードル・ゲディケがおり、彼はモスクワ音楽院で教師を担えるほどの演奏家でした。さらにフョードルの息子に、後にソ連のオルガン奏者の一派を築く、アレクサンドル・ゲディケがいます。

アレクサンドル・ゲディケ
アレクサンドル・ゲディケ

ニコライ・メトネルのいとこです

また、アレクサンドラ自身も音楽教育を受け、メゾ・ソプラノの声楽家でした。つまり、アレクサンドラの実家は、音楽の家風が強いということです。

この、父方が人文系、母方が音楽系という家風は、この2人の子供の教育に大きく影響していきます。

当然といえば当然なのですが、彼らはロシアの正教徒ではなく、ルター派のプロテスタントでした。

なお、カールの姉妹のエミリヤはシュテンベル家に嫁ぎ、彼女が設けた息子が、画家のヴィクトル・シュテンベルです。

ヴィクトル・シュテンベル
ヴィクトル・シュテンベル

ニコライ・メトネルのいとこです

誕生

メトネル家の4男

この、カールとアレクサンドラの間の4男として、1879年12月25日(ユリウス暦)/1880年1月5日(グレゴリオ暦)に生まれました。一つ注意がいるのが、当時ロシアはまだ革命以前なので、旧暦のユリウス暦を使っています。このため、メトネル本人はクリスマス生まれだと自分のことを思っていたと思います。

彼が生まれたのは、当然カールの工場があったロシアのモスクワです。このカールは工場を経営する資本家だったので、貴族ほどではないがそれに次ぐくらいのアッパークラスの家の、後継ぎとならなくてもよい末の方の男子、というのが大きく彼の人生に影響します。

なお、以下の2人はもっと上の、いわゆるいいとこの出でした。

ラフマニノフ
ラフマニノフ

父の代で一度没落しましたが、実は貴族です

スクリャービン
スクリャービン

ラフマニノフよりは小さめの家ですが、貴族の出です

ただし、ニコライ・メトネルが生まれたころというのが、ロシアで皇帝が暗殺され、きな臭い状況になりつつあった時期です。結果として、知識人の、革命に向かうか、文化に向かうか、という2方向の分離が、彼の人生に大きく影響します。

アレクサンドル2世
アレクサンドル2世

私が殺されたのが1881年です

メトネルの兄弟

メトネルには他に5人の兄弟がいました。3人のお兄さんと、1人のお姉さん、1人の弟です。

メトネルの1番上のお兄さんは、エミリィです。彼はお父さん・カールの持っていた、人文系の方の家風を受け継ぎました。当初は文学の志を持ったのですが、自分で作品を作るのは次第にあきらめ、やがて弟・ニコライ・メトネルのプロデューサー的な存在となりました。一方で、自分の理想の音楽性などを世界に広めようとし、「ヴォリフィング」のペンネームで音楽批評を行っていきます。

エミリィ
エミリィ

弟とは生涯にわたり、色々なことがありました

このエミリィは、かの有名な精神分析家、カール・グスタフ・ユングと友人になっていきます。

ユング
ユング

心理学史に出てくるあのユングです

フロイト
フロイト

私の元弟子です

また、3番目のお兄さん・アレクサンドルは、ニコライ・メトネルと同じく母親の音楽家の家風の方を受け継ぎました。彼もまたモスクワ音楽院に進み、ヴァイオリニスト、指揮者となります。

なお、1番上のお兄さんが公務員になった後にドロップアウトして在野の思想家に、弟2人が音楽家になったので、父親の工場は2番目のお兄さんのカール(父親と同じ名前)が継ぎます。しかし、彼は第一次世界大戦に従軍中、ロシア革命が起きて革命軍につかまります。家族の助けで釈放された後、内戦に徴兵されてすぐに戦死してしまいます。

また、姉にソフィヤがいます。このソフィヤはサブロフという家に嫁ぎ、彼女の息子が思想家のアンドレイ・アレクサンドロヴィッチ・サブロフ(Андрей Александрович Сабров)です。

なお、ニコライ・メトネルの唯一の下の兄弟、弟のウラジーミルは10歳で亡くなりました。このため、彼について書けることはほとんどありません。

兄弟順です。

  1. エミリィ:長男、批評家、妻をめぐって色々あった人
  2. カール:次男、後継ぎで、エミリィとニコライに関わるアンナの姉・エレーナの夫。
    ヴェーラ・タラゾヴァの父親
  3. アレクサンドル:三男、同じく音楽家
  4. ソフィヤ:長女、アンドレイ・サブロフの母親
  5. ニコライ:四男、本人
  6. ウラジーミル:五男、わずか10歳で亡くなり、特に書くことはない

若き日のメトネル

メトネルの入学まで

メトネル兄弟のうち、下の方であるニコライなどは、相続などとほぼ無関係なので、伸び伸びと育ちました。そのうえ、3人目の息子のアレクサンドル、4人目の息子のニコライは、音楽の才能を示しました。ここで、長男のエミリィにしばらくしこりを残すある事件が起きます。特にニコライが音楽の才能を強く示したため、家族総出で彼を音楽家として大成させようとし、全てにおいてこのことを優先したことです。

ここで、父の気風を継ぎ、文学か何かでも書こうとしていたエミリィは、夢をあきらめることとなります。

エミリィ
エミリィ

今後は、弟に自分の理想的な存在になってもらうことを、生涯の目標としよう

一方、ニコライはそんなことは全く知らず、伸び伸びと才能を伸ばしました。6歳の頃から兄・アレクサンドルの影響で勝手にヴァイオリンをはじめ、母親や叔父のモスクワ音楽院でオルガン講師を務めていた、フョードル・ゲディケからピアノも習いました。

結果として、11歳の頃にはもう自分から勝手に作曲すら始めるような人間になっていたのです。

しかし、そうはいっても完全に音楽の道に行かせることは、親としては葛藤があったようです。ここで一度ニコライ・メトネルは、通常の学校生活に進まされ、ギムナジウムに進む選択肢も残されました。しかし、あまりにも音楽を好んでいたニコライとそれを推し進めたい兄・エミリィの後押しで、結局モスクワ音楽院に1891年に進学します。後を追う形で、兄のアレクサンドルも翌年の1892年に音楽院に入学しました。

ニコライ・メトネルは、ピアノ科に進学しました。なお、ラフマニノフの卒業年が1891年、スクリャービンの卒業年が1892年なので、この2人の先輩らとは当時ほぼ面識はありません。

ニコライ2世
ニコライ2世

ちなみに私が日本で襲われた「大津事件」があったのが、この直前です

おおよそ、メトネルが音楽院に入るまでに、音楽界で登場した楽曲は、マーラーの交響曲第1番「巨人」(1888年)やサティのジムノペティ(1888年)、ドビュッシーのベルガマスク組曲(1890年)などです。

Mahler: Symphony No. 1 / Rattle · Berliner Philharmoniker
Trois Gymnopédies: Première Gymnopédie
Lang Lang – Debussy: Suite bergamasque, L.75: III. Clair de lune

入学直前に音楽院で起きていた政争

ここで、ニコライ・ルビンシテインが築き、チャイコフスキーらが引き継いだモスクワ音楽院で、ピアノ科に直近にある事件があったことを書きます。1889年にタネーエフに代わり院長となったワシーリー・サフォノフと、ラフマニノフをモスクワ音楽院に呼んだ元凶でもある彼のいとこ・アレクサンドル・ジロティの対立です。

アレクサンドル・ジロティは、ラフマニノフやスクリャービンと同じくニコライ・ズヴェーレフの生徒でした。一方、あのフランツ・リストの弟子ということで注目を浴びていた、当時まだ30にも満たない若手のピアニストでした。

リスト
リスト

晩年の私の弟子です

一方、ワシーリー・サフォノフはジロティの一回り上の世代で、リストと同じくカール・チェルニーの弟子だったテオドール・レシェティツキの弟子です。彼はピアノや指揮者としての腕前は高く、強いリーダーシップの持ち主でしたが、逆に言えば独裁的で、権威主義的な性格の人間でした。

レシェティツキ
レシェティツキ

私の弟子です

チェルニー
チェルニー

リストもレシェティツキも、ピアノ教材でおなじみの私の弟子です

また、どちらもチェルニーの孫弟子ということなので、この2人はどちらも、ピアニストとしてはベートーヴェンのひ孫弟子にあたります。

ベートーヴェン
ベートーヴェン

チェルニーは私の弟子の一人です

彼ら2人は、1885年~1889年のタネーエフが院長を務めていた時代に招かれた存在です。この時期というのは、ニコライ・ルビンシテインの、学校といってもほぼ借り教室でやっていた手探りの状態から、変わろうという時期でした。赤字まみれの経営をタネーエフが建て直し、次第に規模が大きくなり、教育機関として完成しつつある、そんな状況でした。

タネーエフ
タネーエフ

正直私もまだ若造なんだがなあ……

ジロティは、ズヴェーレフや、当時院長だったタネーエフの要望で、1888年に音楽院にやってきました。

ズヴェーレフ
ズヴェーレフ

ジロティは信用できるから、

ラフマニノフやイグムノフあたりの有望な弟子を任せてもいいか……

一方サフォノフは、それに先立つ1885年にチャイコフスキーの要請で音楽院に来ました。

しかし、1889年にタネーエフの母親が亡くなります。このショックのため、タネーエフはいったん心身を休ませる意味で辞任を表明しました。ここでタネーエフが後任として推薦したのが、サフォノフです。一方、チャイコフスキーやズヴェーレフといったニコライ・ルビンシテインを知る世代は、ジロティを推していました。ですが、ジロティはあまりにも若く、リーダーシップが強く人脈のあるサフォノフが最終的に勝ちました。

タネーエフ
タネーエフ

性格に難があるが、

将来的にはリーダーシップを発揮できるサフォノフを推したい

チャイコフスキー
チャイコフスキー

ジロティ君の方がいいと思うのだが、まだ若すぎるか…

この決定でモスクワ音楽院は機関としてさらに成熟することになりました。しかし、超保守主義で権威主義であったサフォノフと、リベラルな思想の持ち主で音楽性もある程度革新的だったタネーエフはあっさり対立します。しかし、そうはいっても人事権などをほとんどサフォノフに渡してしまったタネーエフは反主流派となります。タネーエフは、以後返り咲くことも全くなく院内の野党側として過ごします。

タネーエフ
タネーエフ

こんなことならジロティにしておけば……

そのうえ、この決定によって、院内が完全にサフォノフの思い通りになった結果、ジロティとしてはかなり不満が多かったようです。結果、ちょうどニコライ・メトネルが入学する直前の1891年8月に、ジロティは辞表を出し、去っていきました。

サフォノフ
サフォノフ

私が院長になったからには、私のやり方で音楽院の発展に努めさせていただく

ジロティ
ジロティ

生徒には申し訳ないが、

さすがに彼と争うよりは、音楽家として身を立てていこう

彼は優秀な演奏家だから、生徒を任せるに足る実力はあるだろうし……

なお、この騒動に巻き込まれたのがラフマニノフでした。ジロティ派とみなされたラフマニノフは、この時期目立った職に就けず、細々と暮らしていました。

サフォノフ
サフォノフ

あのジロティの親戚で弟子というのは、

あまり関わりたくはないのでな

ラフマニノフ
ラフマニノフ

別の場所で活躍する手はずを整えないと……

という一連の経緯の結果、ニコライ・メトネルは完全にサフォノフの天下になったモスクワ音楽院に入ってきたわけです。

ちなみに、このころチャイコフスキーはギリギリまだ存命でしたが、特にメトネルと何かあったわけではありません。

チャイコフスキー
チャイコフスキー

1893年没なので、まだ存命です

メトネルの学園生活

ニコライ・メトネルが入学した後、ピアノ科として以下の4人の先生に教わりました。

  1. アナトリー・ガッリ:ズヴェーレフの弟子
  2. パーヴェル・パプスト
  3. ワシーリー・サペルニコフ:パプストの死によるもの
  4. ワシーリー・サフォノフ:当時の院長

メトネルには、ラフマニノフやスクリャービンのような、在学中の個性的なエピソードが特にあるわけではないようです。とはいうものの、ピアノ科自体は金メダルで1900年に卒業することになりました。サフォノフから「ダイヤモンドのメダルがふさわしい」と評されるほど優秀な生徒だったようです。

サフォノフ
サフォノフ

あのメトネルは、なかなか見込みがありそうだ

これなら「ピアニスト」として、名声を獲得できる逸材になるだろう

作曲関係はカシュキン、アレンスキー、タネーエフなどに教わりました。しかし、年度が終わるまでにピアノ科以外の授業に出るのをやめてしまったようです。理由としてはあまり身を入れて打ち込めなかったようでした。

ただし、その後タネーエフからは個人的なレッスンを受けることになります。この結果、このタネーエフの個人レッスンが、生涯唯一の作曲に関する教育となってしまうのです。

タネーエフ
タネーエフ

あのメトネルは、なかなか見込みがありそうだ

もしかしたら、「作曲家」としても、やっていくのに十分な存在かもしれない

この作曲の正式な教育を受けていない点は、後世までメトネルの脳裏にしこりとして残り続けました。

メトネル
メトネル

正規の教育を受けていないのに、

本当に作曲で戦っていけるのだろうか……?

ちなみに、メトネルの在学中の1897年に、ラフマニノフが交響曲第1番の初演を失敗してしまう事件が起きました。

Rachmaninov Symphony No.1, Kochanovsky, NRPO
キュイ
キュイ

あれが音楽?あんな邪悪なものが?

ラフマニノフ
ラフマニノフ

せっかくのチャンスをフイにしてしまった……

これはしばらく、演奏に専念した方がいいのかもしれない

でも、指揮がもっと良ければな……

グラズノフ
グラズノフ

そんなこと言われても……

おおよそ、メトネルが音楽院に卒業するまでに、音楽界で登場した楽曲は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」(1893年)や、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」(1893年)、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」(1894年)、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」などです。

Dvořák: Symphony No. 9 "From the New World" / Karajan · Berliner Philharmoniker
Tchaikovsky: Symphony No. 6 "Pathétique" / Petrenko · Berliner Philharmoniker
Debussy: Prélude à l'après-midi d'un faune / Rattle · Berliner Philharmoniker
Strauss: Also sprach Zarathustra / Dudamel · Berliner Philharmoniker

作曲家の道へ

卒業後、ロシアのピアノ門派の四大教師1と後世称される先輩のアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルとともに、1900年8月にウィーンで開かれた第3回ルビンシテイン国際コンクール2にピアノ部門で出場することになりました。いとこのアレクサンドル・ゲディケも作曲部門で出場し、3人でそろって渡欧していきました。

ただし、本来メトネルは両部門に出場する予定だったようです。しかし、これを見かねたサフォノフが勧めて、片方に専念させました。明らかにメトネルがパンクしていたという理由です。

サフォノフ
サフォノフ

君はピアニストとして実力があるのだから、ピアノ一本で戦えばいいじゃないか

メトネル
メトネル

せっかく作曲でも実力を試すチャンスだったのに……

しかし、いざ現地に行くと、コンクールの質や政治抗争が透けて見えてしまいます。このことは、事前に優勝者が決まっていると、現地でサフォノフに打ち明けられてしまったほどでした。この上、作曲部門でゲディケが賞を取ったため、ピアノ部門の出場者は反露感情から不利な立場に追い込まれてしまいます。

ついには、自身が大失敗したと感じた演奏が奨励賞になってしまいます。この結果、すっかり不快感を覚えてコンクールを終えることになっていまいました。

メトネル
メトネル

なんだこのコンクールは?

本当に実力を測る場なのか?

さらに、サフォノフの用意した演奏旅行を蹴ってしまいます。まず、好ましくない選曲があったためと、作曲の熱が入り始めたためでした。つまり、メトネルは、ピアニストではなく作曲家としてのキャリアに専念したいというのです。

エミリィとタネーエフ以外が猛反対した、このピアニストとしてのキャリアを閉ざす選択は、サフォノフを怒らせることになりました。この結果、メトネルは、サフォノフとはずっと和解できず、1916年に久々にサフォノフの手紙を受け取るまでは縁も切れます。

サフォノフ
サフォノフ

せっかく期待していたのに、いちいち逆らいおって!

もうお前など知らん!

メトネル
メトネル

それでも……

自分の中の理想の音楽を、この世界に出してあげたいのです……

ちなみに、だいたいこの時期がラフマニノフがピアノ協奏曲第2番に向き合って立ち直るくらいで、1901年秋に初演されました。

ラフマニノフ
ラフマニノフ

作曲に向かえなくなっていただけで、

普通にその間も指揮者としてバリバリ働いていましたよ

Rachmaninoff: Piano Concerto No. 2 / Nobu • Shelley • Canada's National Arts Centre Orchestra

兄嫁・アンナとの関係

さらに1902年に別の事件が起きます。エミリィの結婚です。しかも、その相手というのが、学生時代から家族ぐるみで交流があり、かねてより恋愛感情を持っていたアンナ・ブラテンシーだったのです。

この、アンナ・ブラテンシーのブラテンシー家はユダヤ系で、父親・ミハイルは歯科医でした。もともとは、ニコライ・メトネルの姉・ソフィヤと、アンナの妹・マリヤが学校の友人で、その縁でメトネル兄弟のカールと、アンナの姉妹のエレーナが結婚します。こうした意味から、アンナはエミリィにとっても、ニコライにとっても、兄弟の奥さんの実家の人として、昔馴染みでした。

おおよそどの伝記も、以下のような経緯です。

もともと、家族ぐるみで付き合いのあったアンナには、エミリィとニコライは同時に親しくなったようです。そのうち、エミリィとアンナの交流の中でニコライがアンナへの恋愛感情を強めていることを察した母親が、ニコライにアンナとの交流を禁止します。

エミリィ
エミリィ

ニコライ……

お前まさかアンナのことが……?

やがて、ニコライは音楽院を卒業したあたりでマルクグラフ3と知り合い、これに安心した両親に婚約させられます。一方、アンナ本人は三角関係に苦しんでいたのですが、エミリィからプロポーズされたときにすでにニコライに婚約者がいたので、最終的にエミリィと結婚します。

メトネル
メトネル

だってアンナを最初に好きになったのは、

エミリィ兄さんなんだもん

しかし、実際は、後世色々あって資料の残りも悪いので、よくわかりません。というか、ブラテンシー姉妹の姉妹順すら、伝記によってまちまちです。

しかし、ニコライは、エミリィとアンナをニジニーノヴゴロドまで追いかけ、2人と同棲します。さらに、結局ニコライとアンナはあっけなく恋を燃え上がらせてしまいます。ニコライは、エミリィにすべてを打ち明けます。エミリィはこれを受け入れ、ニコライはマルクグラフの婚約を破棄し、エミリィ公認の恋愛関係となります。ただし、両親には心配をかけないために、エミリィはここで止まるようにとも言っていました。

メトネル
メトネル

アンナは僕が最初に好きになったんじゃないか…

エミリィ
エミリィ

(混乱しているな……?)

お前たち2人が愛し合っているのは認めるが、

頼むからプラトニックな関係で済ませてくれ……

ところが、1904年と1907年に、二度の流産事件を引き起こし、3人に後世まで残る暗い影を落としました。これが原因で、ニコライとアンナは、事実上の夫婦といっても子供も作ろうとせず、ほとんど公私を共にするパートナーくらいの距離感で生涯を終えます。

エミリィ
エミリィ

何やってるんだお前!

子供が死んだのは、アンナがお前のことで苦しんだせいだ!

メトネル
メトネル

そんな……

なんてことをやってしまったんだ……

ただし、このことでエミリィと疎遠・険悪にはなりませんでした。エミリィは、以降もニコライ・アンナと生涯続く交際を続けていくことになります。

しかし、ニコライとアンナの関係は両親には全く認められず、2人の結婚は、ロシア革命以後まで待つことになります。

ちなみに、だいたいこの時期がスクリャービンが不倫をしているくらいで、1904年春にスクリャービンはスイスに新しい妻を連れて逃げ出し、1909年までロシアに戻ってきませんでした。

スクリャービン
スクリャービン

だってロシアの法律じゃ離婚できなかったから……

兄・エミリィとの関係

一方で、エミリィは、弟のニコライに、かなり屈折した期待を抱いていました。つまり、本来ワーグナーが構想していたにもかかわらず、死によって失敗した音楽による革命を、ロシアでニコライに起こさせようとしていたのです。このエミリィは、要するにアーリア主義者4でした。

エミリィ
エミリィ

お前はアーリア人の末裔のゲルマン民族として、

あの偉大なワーグナーの跡を継ぐ存在になるのだ!

ワーグナー
ワーグナー

総合芸術による革命を世界に起こすのだ!

メトネル
メトネル

そんなことがやりたいわけじゃないのに……

エミリィは、自分に流れるドイツ系の血を誇りに思います。結果として、スクリャービンやレビコフといったフランス文化寄りの人物に対抗する、ドイツ派のボスとして、モスクワに君臨します。つまり、エミリィというのは、ロシアのインテリにとって、革命運動に身を投じるつもりはないような「西に学ばなければならない」派の中で、複数いた学ぶ国・地域のうち、ドイツを選ぶ時に手を結ぶ相手、というわけです。

スクリャービン
スクリャービン

フランス人は今面白いことをやっているね

あれを元にすれば、本当に音楽で世界を変えられるのかもしれない

レビコフ
レビコフ

フランス人のやっている印象派音楽は、面白いな……

エミリィ
エミリィ

あれが本当に音楽なのか?

ベートーヴェンたちが志した、理想の音楽なのか?

メトネル
メトネル

それは確かにそうだけど……

よって、エミリィはある種プロデューサーとして、弟のニコライにドイツ音楽の後継者的な存在としてふるまわせていました。しかし、マリエッタ・シャギニャン5ら第三陣営の人々らから見ると、弟からはある程度距離を置かれており、正直空回りしていた扱いをされていたようです。

シャギニャン
シャギニャン

メトネルは、ラフマニノフさんの力になるかもしれない……

でもあのお兄さんはちょっと……

ただし、ドイツ文化を発信し、音楽こそ世界を革命させる力であるとしていたエミリィは、アンドレイ・ベールイら第二世代の象徴主義者6とかなり仲良くしてました。この象徴主義というのは、ざっくリ言うと、見えないモノを見ようとして」覗き込んじゃった感じの人たちです。つまり、政治運動ではなく、何かこの世のものではない力で世界を変えられるのではないかという方向に向かった人たちです。

このきっかけとして、科学が進歩してきた結果、「リアルリアル云々言ってたけど、人間に知覚できないものってこの世界にいっぱいあるじゃん……」となった19世紀の時代感があります。さらにロシアの場合は、ナロードニキ運動などの失敗による、閉塞感も後押ししました。

ということで、ベールイのアルゴナウタイ同盟という、「世界の夜明けが云々」というサークルに、メトネル兄弟はそろって同志の範囲にカウントされることになります。

ベールイ
ベールイ

なあ、エミリィよ

2人で、あのアルゴナウタイのように、真の美を求める探求に行こうではないか?

弟のニコライもそれを実現する器に値するのではないのか?

エミリィ
エミリィ

その通りだ!

一緒に金羊毛を探しに出航する、同志となろう!

メトネル
メトネル

でも、あの人たちのやりたいこと、何かちょっと違うな……

作曲家メトネル

メトネルは、在学中にもすでに曲を作っていましたが、中でもある大作に着手します。ピアノソナタです。

ということで、ちょうどエミリィとアンナとの関係が始まりつつあった頃、最初のピアノソナタ第1番を作りました。この曲は、初めての大作ということで、作曲中にヨゼフ・ホフマンなどに見てもらい、石橋を叩いて渡るような時間のかけ方をしました。

ホフマン
ホフマン

まだ若いのになかなか見どころがあるし、

自信をもって完成させればいい曲になると思うよ

メトネル
メトネル

ありがとうございます!

Medtner: Piano Sonata in F Minor, Op. 5: I. Allegro

この楽曲は大成功となり、ベールイやタネーエフからも称賛されました。

ベールイ
ベールイ

ベートーヴェンからシューマンまでの音楽における

「夜明け」のテーマで作った曲だね

タネーエフ
タネーエフ

まるでソナタ形式とともに生まれてきたようだ

メトネル
メトネル

正式な教育を受けていないのに、

そんなことを言ってもらえるなんて

ちなみに、このピアノソナタ第1番はアンナへの思いが曲中にあふれているともいわれています。ただし、唯一英語で読めるMartynの伝記が言ってるだけで、本人にしかたぶんわからないと思います。

彼の楽曲は作曲の師・セルゲイ・タネーエフの紹介で、上で述べたベリャーエフの支援で出版されることになっていました。改めて説明すると、ペテルブルクで音楽家を囲い、ベリャーエフサークルを築いていた、木材商人です。手短に言うと、ペテルブルクにおける音楽界のドンです。

ベリャーエフ
ベリャーエフ

なかなか見どころがあるようだし、

まあ任せなさい

メトネル
メトネル

作曲家の登竜門みたいなところに、

加われることができるなんて……

ですが、ベリャーエフは1904年に死んでしまいます。結局、メトネルが持ち込んだ最初の曲も、ユルゲンソン社が代わって出版し、はじめはユルゲンソン社と契約する身でした。

ユルゲンソン
ユルゲンソン

モスクワの最大手といえば、

うちの会社ですからね

メトネル
メトネル

当てが外れちゃったけど、

まあなるようになるか

この後、メトネルは1906年までに三部作ソナタを完成させます。この3つのピアノソナタをまとめた曲集は、3曲とも第1番とは打って変わって、すべて単一楽章という変則的なものでした。

さらに、この頃国外にいたスクリャービンも、1907年に単一楽章のピアノソナタ第5番を作ります。この楽曲はそれまでのスクリャービンと打って変わって、完全に異なる音楽性のものでした。なお、ロシアでは1908年に初めて演奏されました。

Piano Sonata No. 5 in F-Sharp Major, Op. 53: Allegro impetuoso - Con Stravaganza – Languido -...

メトネルはこれ以降のスクリャービンの音楽性を正直認めていませんでしたが、以後メトネルとスクリャービンの2人によって、単一楽章のピアノソナタがたくさん作られ、それに影響された若手たちがたくさん現れます。それ以前ピアノソナタの伝統がほぼなかったロシアに、ピアノソナタがたくさん作られるきっかけとなったのです。

ミャスコフスキー
ミャスコフスキー

メトネルって知ってるかい?

これがなかなかいい曲を作るんだ

プロコフィエフ
プロコフィエフ

なかなか手になじむじゃないか!

彼みたいな曲を作ってみたいものだな……

スタンチンスキー
スタンチンスキー

スクリャービン、メトネル、

2人とも尊敬に値する先輩だなあ

アレクサンドロフ
アレクサンドロフ

君には才能があるんだから

すぐにあの2人みたいになれるさ

教育者メトネル

一方でメトネルは、レフ・コニュスの学校や、エリザヴェチンスキー女子学院などで教師として指導をして、生活していたようです。

コニュス
コニュス

以後私も大体ラフマニノフと同じような、

生涯にわたるメトネルの友人となります

なお、ちょうどこの頃起きたのが、日露戦争です。

東郷平八郎
東郷平八郎

バルチック艦隊破れたり!

この結果、ロシアは血の日曜日事件などが起き、第一次ロシア革命に至りました。

ガポン神父
ガポン神父

民衆を撃つような皇帝など、国のリーダー失格ではないか!

ニコライ2世
ニコライ2世

この状況でさらにまずいことになったな……

この事件には、メトネルは2つの意味で巻き込まれます。1つは、アンナの兄弟であるアンドレイが秘密警察の追跡に耐え兼ね、自殺した事件。もう1つは、ペテルブルク音楽院で、学生のストライキがきっかけとして起こった、リムスキー゠コルサコフが辞任に追い込まれた事件です。

1番目については、すでに述べたソナタ三部作に、アンドレイを追憶する楽曲が入っています。

2番目については、以下の経緯です。体制派だった当時の院長、アウグスト・ベルンハルトが、ストを行う学生に対して憲兵などを呼び、鎮圧。さらにストに同情的だったペテルブルク音楽院の教授で、5人組の生き残り、リムスキー゠コルサコフが辞任に追い込まれます。

リムスキー゠コルサコフ
リムスキー゠コルサコフ

この状況で現体制を擁護するなんて、

いくらなんでも間違ってる!

このあまりの重鎮に起きた事件に、ペテルブルク、モスクワを問わず、ロシア音楽界が猛反発し、署名運動も起こりました。結果として、ペテルブルク音楽院は、最終的にリムスキ-゠コルサコフ派のグラズノフが院長に変わります。

リムスキー゠コルサコフ
リムスキー゠コルサコフ

なんとか事は収まったが、

君はこれから政治をやらなければならないよ?

グラズノフ
グラズノフ

覚悟の上です

この騒動に盛大に巻き込まれたのが、当時生徒だったプロコフィエフたちでした。

ミャスコフスキー
ミャスコフスキー

まさか、教授たちがほとんど入れ替わるなんて……

プロコフィエフ
プロコフィエフ

このことが吉と出るか、凶と出るか

ちなみに、このことはモスクワ音楽院でもある騒動を起こします。というのも、サフォノフは体制派だったので、当然このことを冷ややかに見ていました。結果として、サフォノフに反発したっぽいタネーエフの辞任と、サフォノフ自身も学生などのリムスキー゠コルサコフに同情的な音楽家たちからの圧力に勝てず、辞職に至ります。

タネーエフ
タネーエフ

あんな権威主義の下でやってるのはまっぴらだ!

私は、無償で人民のために奉仕する人間になる!

サフォノフ
サフォノフ

もう付き合いきれないよ……

私ももう、ただの音楽家として生きていこう……

こうした騒動の後、メトネルは1909年にペテルブルク音楽院の院長であるグラズノフに誘われました。しかし、これを蹴ります。

グラズノフ
グラズノフ

縁もゆかりもないのはわかってるけど、

ウチも今大変だから力になってくれないかい?

メトネル
メトネル

うーん、音楽だけに関わりたいからなあ……

一方、モスクワ音楽院のイッポリトフ゠イワノフに招かれて、この年から同学院でピアノを教えるようになりました。つまり、メトネルは完全にモスクワ側の人材となったようです。

イッポリトフ゠イワノフ
イッポリトフ゠イワノフ

作曲の邪魔にならないように最大限配慮するからさ

こんな大変な時だし、ピアノ教育だけ手伝ってくれないかい?

メトネル
メトネル

まあ、さすがに手に職がないとね……

しかし、12人も生徒がいたことで、完全に作曲活動に身が入らなかったようです。結果、メトネルは1年でこの仕事をやめてしまいます。

さすがに12人も面倒見切れないよ!

生活に支障が出たし、もっと人数絞ってくれないと

結果として、メトネルは1915年に再任し、最大8人の、実質的なエリートコースを担ったようです。

メトネル
メトネル

この人数なら回し切れるかな?

優秀な人しか見てないんだし……

なお、残された手紙などによると、そうはいってもモスクワ音楽院に影響力を残したいゲディケやメトネルの意向で、姪のイリーナや従甥のニコライ・シュテンベルら親戚が、ちゃんと面倒見るからと誓って駆り出されたようでした。

メトネル
メトネル

あ~、アレクサンドル兄さん?

ちゃんと手厚くサポートするから、娘のイリーナをピアノ科に入学させてくれない?

ただし、後世ロシアのピアノ教育は、あまりにもいわゆる四大教師が伝説的に神格化されているので、メトネルの影響力についてはよくわかっていません。ちょうどそれが今見直されているのが現在進行形です。

おおよそ、メトネルが最初に音楽院で仕事を始めたころまでに、音楽界で登場した楽曲は、エルガーの「威風堂々」第1番(1901年)、ドビュッシーの交響詩「海」(1905年)、マーラーの交響曲第8番「千人」(1906年)、ラフマニノフの交響曲第2番(1907年)などです。

Elgar: Pomp and Circumstance March No 1 in D major, 'Land of Hope and Glory' (Prom 75)
Debussy: La Mer / Karajan · Berliner Philharmoniker
Mahler: Symphony No. 8 / Rattle · Berliner Philharmoniker
Rachmaninov: Symphony No. 2 / Petrenko · Berliner Philharmoniker

当時の最新の音楽との関係

あまり触れる余裕がなかったのですが、メトネルはオフの期間ほとんど渡欧し、ドイツなどで演奏会などを行っていました。そのため、当時最新の音楽界の情報は、ある程度リアルタイムで伝わっていました。

たとえば、メトネルは1907年の渡欧の時にグリーグをロシアに招こうとします。しかし、グリーグがこの年に亡くなるように、この試みはうまくいきませんでした。

メトネル
メトネル

あなたは素晴らしい音楽を作るので、

なんとかロシアに来てくれませんか?

グリーグ
グリーグ

お気持ちはありがたいが、

もう歳だし断らせていただくよ

しかし、そんなメトネルは、当時のドイツ音楽を全く受け入れることができませんでした。

メトネル
メトネル

彼らのようなワーグナーの下の世代なんて、

聴くに堪えないよ……

リヒャルト・シュトラウス
リヒャルト・シュトラウス

そんなこと言われてもなあ……

レーガー
レーガー

正直面識もないし……

しかも、ここでついに音楽史を決定的に変える人たちが出てきます。ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、バルトーク、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンといった、20世紀音楽の幕開けともいうべき作曲家たちです。

ストラヴィンスキーのバレエ「火の鳥」が、ついに1910年にパリで初演されました。これは、ロシアの興行主・ディアギレフによってパリでプロデュースされていた「バレエ・リュス」によるものです。要するに「俺たちは俺たちでいいんだ!というかもっと東に目を向けていいんだ!」と思っていた層を音楽化したような、原始主義の音楽をそのままパリで響かせたのです。この曲は、以後ロシアのステレオタイプと化すように、大成功しました。

Stravinsky: The Firebird / Rattle · Berliner Philharmoniker

初演が断られたことで1918年まで世に出ませんが、バルトークの「青ひげ公の城」が1911年です。

Bartók: Bluebeard’s Castle / Shaham · Bretz · Rattle · Berliner Philharmoniker

さらに、シェーンベルクが1912年の「月に憑かれたピエロ」などで無調音楽に踏み出します。ワーグナーがトリスタン和音で新しい一歩を踏み出したのがかわいく思えるくらい、クラシック音楽は既存のシステムからの別れを告げようとしていました。

Schoenberg: Pierrot Lunaire with Patricia Kopatchinskaja (excerpt)

さらに、1913年には、ストラヴィンスキーがパリでいわゆる「春の祭典」事件を引き起こします。初演時に聴衆を混乱の渦に巻き込んだ、あの曲が世に出たのです。

Stravinsky: Le Sacre du printemps / Rattle · Berliner Philharmoniker

一方、若手だったプロコフィエフがストラヴィンスキーに近いリズミカルな楽曲を作ります。

Prokofiev: Piano Concerto No. 2 / Järvi · Wang · Berliner Philharmoniker

さらに、シェーンベルクに続く形で、弟子にあたるベルクやウェーベルンも楽曲を出していきます。彼ら新ウィーン楽派によって、十二音技法と呼ばれる新しい境地にクラシック音楽は向かい始めました。

Berg: Three Pieces for Orchestra / Rattle · Berliner Philharmoniker
Anton Webern : Six Bagatelles op. 9

つまり、クラシック音楽というのは、この1910年を境に、皆が美しいと感じるわけではない、実験的な音楽への第一歩を歩み始めます。そして、メトネルは、盛大にこの一歩にドン引きします。

メトネル
メトネル

ドイツの今の音楽ですら耐え難かったのに、

あんなのもはや音楽じゃない!

ちなみに、メトネルとの出会いはおそらくもっと先ですが、この時期アメリカではようやくジャズが流行り始めたことは書いておきます。

Alexander's Ragtime Band

また、おなじくアメリカではブルースも流行りはじめ、第二次世界大戦後の大衆音楽のルーツが少しずつ表れ始めていました。

Shake It and Break It (But Don't Let It Fall Mama)
Statesboro Blues (Remastered 2002)

モスクワの3人の並び立ち

この直前の1909年に、スクリャービンがロシアに戻ってきます。スクリャービンは、戻ってきた直後の1910年に、「プロメテウス」をロシアにぶっぱなしました。

Scriabin: Prométhée / Argerich · Abbado · Berliner Philharmoniker

さらに、スクリャービンが帰ってきたのとほぼ同時期に、金持ちで指揮者だったセルゲイ・クーセヴィツキー7もまた、故郷のロシアをよく訪れるようになります。このセルゲイ・クーセヴィツキーの音頭取りで、新しい出版社が作られることになりました。

このクーセヴィツキーの作った出版社に、スクリャービン、ラフマニノフ、メトネルらはそろって参加します。

クーセヴィツキー
クーセヴィツキー

一緒にロシアの音楽界を盛り立てていこう!

メトネル
メトネル

やるからにはちゃんとした音楽だけを選びますよ

一方、この少し後からメトネルはラフマニノフとの交流が生まれるようになります。すべてのきっかけは、マリエッタ・シャギニャンが、ラフマニノフを擁護する投稿を雑誌に載せたいとエミリィのところに殴り込みに来たことです。

シャギニャン
シャギニャン

ここがメトネル派の拠点なのは知っているが

不当に評価されていないラフマニノフさんを擁護させてほしい

エミリィ
エミリィ

向いている方向は違うが、

根っこは同じそうだしまあいいか……

この後、シャギニャンはメトネル家と仲良くしつつも、ラフマニノフと文通を通し、いい感じにメトネルとコンタクトを取れるように誘導を行います。この結果、メトネルとラフマニノフが1913年5月の渡欧中、ようやく交流を持ち始めます。

これでラフマニノフさんにも、

心強い味方ができた……

ラフマニノフ
ラフマニノフ

実は、メトネルくんがピアノソナタ第1番を作ってる頃に、

会ってはいるんだよね

1909年から、同じ出版社で仕事もしているし

当初食事中にすら思想や哲学の話をしたがるメトネルに合わないものを感じていたラフマニノフですが、結局シャギニャンの思惑通り、メトネルとラフマニノフは急速に仲良くなります。

メトネル
メトネル

ラフマニノフ先輩は、

ショーペンハウエルやニーチェはお読みですか?

興味のない話ばかりされるのはなんだが、

いいやつではあるようだ

なお、この2人は内心相手の方が才能があると思い、ラフマニノフはロシア時代のメトネルとの友情を生涯にわたって報い続けることになります。

メトネルと後輩・プロコフィエフ

一方、この頃メトネルという作曲家の位置づけをめぐって、ある争いがありました。プロコフィエフみたいな音楽が魂がこもったロシアの音楽であって、メトネルなんてドイツ風のすっからかんな構造だけの音楽じゃないかという論争です。これは割と、かつての「西に目を向けるべきだ」と「俺たちは俺たちらしくあるべきだ」のインテリの論争の再演だったりします。

このときにメトネルを叩いたのが、ヴァチェスラフ・カラトゥイギン、メトネルを擁護したのがミャスコフスキーです。ちなみに、ちょうどメトネルがピアノソナタ「夜の風」などを出した頃でした。

Medtner: Piano Sonata in E Minor, Op. 25: No. 2
カラトゥイギン
カラトゥイギン

メトネルの音楽になんてロシアの魂はないじゃないか

ミャスコフスキー
ミャスコフスキー

メトネルもプロコフィエフも素晴らしい曲を作りますよ

曲は好きだけど、

あんなおじんと一緒に列挙されるのはちょっとなあ……

1913年3月3日(おそらく旧暦)に、この出版社に持ち込みに来たプロコフィエフの楽譜をメトネルとラフマニノフがそろって猛反対したことは、幼いころメトネルのファンだったにもかかわらず、プロコフィエフに生涯恨まれることになります。

メトネル
メトネル

ない

ラフマニノフ
ラフマニノフ

ない

プロコフィエフ
プロコフィエフ

あんたたちみたいなロートルよりも、

才能があるってことを証明してやる!

先輩・スクリャービンとの関係

1910年代中頃までは、ニコライ・メトネルはエミリィ・メトネルやアンドレイ・ベールイ、セルゲイ・ドゥルイリンといった人々にとって、「オルフェ」8とみなされていました。つまり、エミリィ、ベールイ、ドゥルイリンといった人々が、メトネル派ということになります。

エミリィ
エミリィ

ムサゲート出版社もできたことだし、

ここでウチのニコライのような、理想的な美について発信しようじゃないか

ベールイ
ベールイ

その通りだ同志よ!

ドゥルイリン
ドゥルイリン

なかなか面白いことをやっているね

その活動に加わっていいかい?

メトネル
メトネル

みんな大切な友人だけど、

微妙に何かやりたいことと違うような……

そしてモスクワでは、スクリャービンを「オルフェ」とするボリス・シュリョーツェル9やレオニード・サバネーエフ10、 ヴャチェスラフ・イヴァノフらと両陣営ができました。

シュリョーツェル
シュリョーツェル

まさか、スクリャービンがウチの妹と不倫するなんて……

でも、彼は面白い音楽を作るし、力になってやろう

サバネーエフ
サバネーエフ

私こそが、スクリャービン様の一番の理解者なんだ……

イヴァノフ
イヴァノフ

ベールイがメトネルを選ぶとはねえ

スクリャービンの方が面白いと思うのに……

スクリャービン
スクリャービン

そんなことより、神秘劇を作らねば……

ただし、後世、サバネーエフが強調するほどスクリャービンとメトネルは仲が悪かったわけではないようです。

例えば、アンドレイ・ベールイの回想録によると、クーセヴィツキーの紹介でメトネルはスクリャービンと知り合うことになり、以後縁ができたようです。

クーセヴィツキー
クーセヴィツキー

作曲が煮詰まっているようなら、

スクリャービンを紹介してあげるから、相談してみなよ

スクリャービン
スクリャービン

ああ、君があのメトネルか

メトネル
メトネル

なんか顔見知りになっちゃったな……

また、メトネルの姪のヴェーラ・タラゾヴァの回想録などによるとスクリャービンはたまにメトネルの家に家族でやってきて、夜通し神智学11がどうのといった話をしたりしていたらしいです。

スクリャービン
スクリャービン

ところで君、神智学って知ってるかい?

いや、そんなに興味があるわけじゃないんだけどさ

ウチにその本があって、そこにはこんなことが書かれているみたいでさ

ブラヴァツキー夫人
ブラヴァツキー夫人

マハトマの教えはやはり偉大……

ちなみに私はもともとロシアの出身です

メトネル
メトネル

とか言いつつ、一晩中討論しちゃったな……

このため、おそらく両者本人がはっきり対抗していたわけではなかったのだと思います。ラフマニノフ派だった、マリエッタ・シャギニャンの回想録によると、作曲家本人よりは本人を無視した取り巻き同士の戦いがそこらへんで起きていたというのが実態に近いようです。

また、このことを表す、最大の逸話があります。1910年に起きた、メトネル対メンゲルベルクの戦いに関連するものです。ヴィレム・メンゲルベルクとは、オランダの指揮者で、ベートーヴェンのひ孫弟子にあたる通りベートーヴェンの第一人者を自負していました。

クーセヴィツキーはそのメンゲルベルクの指揮で、メトネルにベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を弾かせるコンサートを企画しました。

Beethoven: 4. Klavierkonzert ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Javier Perianes ∙ Andrés Orozco-Estrada

そして、1910年12月7日(旧暦)のこの練習中、メトネルとメンゲルベルクは、曲のテンポをめぐって大喧嘩を繰り広げ、メトネルは降板させられました。

メトネル
メトネル

ベートーヴェンのこの曲をこんなテンポで弾くなんて、

ベートーヴェンへの冒涜だ!

メンゲルベルク
メンゲルベルク

ベートーヴェンのことはこっちがよく理解している

君の方がよっぽど身の程知らずだよ、ひよっこ

その翌日、メトネルは雑誌に長文の投稿を送り、気持ちを表明します。さらにこれに擁護に立ったのが、スクリャービンを先頭にした人々でした。

スクリャービン
スクリャービン

芸術家というのは、作品の理解に人生をささげるのだ

それを披露するメトネルの権利は当然尊敬に値し、保証されるべきだ

12月15日(旧暦)にはアーネスト・ウェンデルの指揮で代わりのコンサートが開かれ、メトネルは無事それを全うします。メトネルは直後に、プロモーターのクーセヴィツキー以外にも、この間支援したスクリャービンやタネーエフ、イッポリトフ゠イワノフといった人々に感謝を表明しました。

先輩・ラフマニノフと兄・エミリィの関係

ちなみに、この辺のスクリャービン派とメトネル派の抗争にラフマニノフはほぼ我関せずだったようです。ラフマニノフは、そもそも好きな音楽を作ればよく、そこに思想を持ち込むのも違うんじゃない?というレベルで、特定のバックグラウンドを持つのを避ける人間だったためです。

ラフマニノフ
ラフマニノフ

どうでもいいから、やりたいようにやらせてくれ……

このことは、エミリィの1912年の著作、「モダニズムと音楽」の件でも表れます。メトネルとラフマニノフが知り合いになる直前の1912年11月、エミリィはこの本をラフマニノフに送るのですが、ラフマニノフは軽いお礼だけ送り、シャギニャンに全く気に入らなかったことを告白しています。

エミリィ
エミリィ

アーリア人の末裔であるウチの弟みたいな音楽が理想なの

ラフマニノフ
ラフマニノフ

よくわからないな……

なお、メトネル兄弟とアンナは1914年2月8日(旧暦)のラフマニノフの合唱交響曲『鐘』のモスクワ初演を聴きに行きます。

Rachmaninoff: The Bells / Rattle · Berliner Philharmoniker

メトネルは、シャギニャンの勧めでエドガー・アラン・ポーの詩をバリモントが訳したものを歌にしたものという点に1年くらい不安をずっと抱いていたようですが、「本物の美を表現している」と称賛していたようです。ところがエミリィは、遅れてやってきた挙句、何か悶々としてました。そして、しばらくの間書面でラフマニノフバッシングをエミリィは繰り広げたのです。

エミリィ
エミリィ

ラフマニノフなんてうわべが美しいだけの作品じゃないか

シャギニャン
シャギニャン

顔見知りとはいえ許せぬ

メトネル
メトネル

兄さん……

この辺の争いは、ラフマニノフがこの曲をメンゲルベルクに献呈したことで、メトネルとの友情は続くもののメトネル周辺の人物を不快にさせたとシャギニャンは回顧しています。

ラフマニノフ
ラフマニノフ

この曲はあなたにあげますよ

メンゲルベルク
メンゲルベルク

なんだかありがたいねえ

メトネル
メトネル

ラフマニノフさん……

メトネルの亡命

革命までのメトネル

メトネルは、こうして身を立てつつも、1911年以後、コンスタンチン・ヴィクトロヴィチ・オシポフの領地でエミリィ、アンナと共に過ごしていきます。やがて、仕事のため1913年からモスクワに移っていきます。

1914年に後輩のスタンチンスキーと知り合ったことが、特筆すべきことです。

スタンチンスキー
スタンチンスキー

あなたがメトネル先輩ですね

メトネル
メトネル

君がなかなかいい線行ってるっていう、

後輩のスタンチンスキーか……

一方、そのままモスクワ音楽院の教師職の再任に向けて準備をしていました。ところが、ついにあの事件が起きます。サラエボ事件、第一次世界大戦の開戦です。

プリンツィプ
プリンツィプ

ハプスブルク家死すべし!

フランツ・フェルディナント
フランツ・フェルディナント

ぐわっ、ゾフィー……

ドイツをはじめとした枢軸国を、フランス、ロシア、イギリスが包囲する形で始まった大戦は、ドイツの構想とは裏腹に膠着し、数年にわたる塹壕戦に突入します。ここで、メトネルやラフマニノフは徴兵を免れますが、メトネルの兄で、家業を継いでいたカールは前線に送られます。さらに、エミリィは当時スイスのチューリヒにおり、東部戦線を挟んで完全に家族と分断されました。

メトネル
メトネル

エミリィ兄さんとはほとんど連絡が取れないし、

カール兄さんも前線……

両親だけじゃなくて、カール兄さんの家族やブラテンシーさんの家も、

一人で支えなきゃいけないのか……

なお、当時エミリィがいたスイスのチューリヒは、悲観的な芸術家が始めたダダの動きとは別に、あることを書いておきます。この後メトネルの人生を大きく変えるきっかけとなる、あの人がいたことです。

革命家・ウラジーミル・レーニンです。

レーニン
レーニン

この辺のくだりは長くなるので飛ばす

ちなみに、本職が軍人だったので、ミャスコフスキーは士官として前線に送られます。

ミャスコフスキー
ミャスコフスキー

なあに、すぐ帰ってこれるさ

プロコフィエフ
プロコフィエフ

死ぬんじゃないぞ……

ただし、ラフマニノフと因縁のあったエミリィがいなくなったこと、メトネルが頼りにできる人がほとんどいなくなったことから、メトネルとラフマニノフがさらに接近します。

ラフマニノフ
ラフマニノフ

お兄さんとはいろいろあったが、

ウチには財産もあるし困ったときには助けてやるからな

ありがとうございます……

しかし、8月28日に亡くなったリャードフを皮切りに、この後戦争とは無関係に立て続けに作曲家の死人が何人も出ていきます。

スタンチンスキーは10月6日に謎の怪死を遂げました。自殺ともいわれています。メトネルは彼を追悼する曲を捧げました。

メトネル
メトネル

知り合って間もないけど、

いいやつだったのになあ……

アレクサンドロフ
アレクサンドロフ

我が友よ、

お前が生きた証を絶対にこの世界から消させないからな

翌1915年にはスクリャービンがあっけなく亡くなりました。

メトネル
メトネル

最近何がやりたいのかよくわからなかったけど、

いい人ではあったなあ……

おまけに、スクリャービンの葬儀で風邪をこじらせ、タネーエフもあっけなく亡くなりました。

メトネル
メトネル

先生まで!?

このことは、ラフマニノフにとって別の転機となりました。スクリャービンが亡くなったことを追悼するコンサートを1915年秋から開催するようになり、それまで自分の曲しか弾かなかったラフマニノフが、ピアニスト・ラフマニノフとして大成するきっかけとなったのです。

しかし、このことは、スクリャービンの曲はスクリャービンのように弾くべきだという立場からは批判を招き、スクリャービンという未完の神話が徐々に形作られるきっかけになります。

ちなみに、プロコフィエフは相変わらずでした。

プロコフィエフ
プロコフィエフ

ラフマニノフさん、あのスクリャービンの演奏ですが、

まーまーよかったですよ(100%の善意)

ラフマニノフ
ラフマニノフ

は?

メトネル
メトネル

は?

しかし、スクリャービンの葬儀の直後に起きたドイツ系ロシア人が殺される事件をきっかけに、次第にこのままここにいていいのかとぼんやり考え始めます。

人間関係の変化

なお、このスクリャービンの死んだ時期頃に、エミリィ・メトネルとアンドレイ・ベールイが完全に仲たがいします。

すべての始まりは、1911年以降のベールイとエミリィの、ムサゲート出版社をめぐる対立です。早い話、ドイツ的な純粋哲学を推し進めたいエミリィに対し、宗教やオカルトに傾倒するベールイが、徐々にしっくりこなくなった結果です。

1912年以降に人智学協会のルドルフ・シュタイナー12に接近するアンドレイ・ベールイらと、それを引いた眼で見ているエミリィ・メトネルがはっきりと対立します。さらに、これにロシアの右翼のドンみたいな存在であるイヴァン・イリインが、エミリィ擁護に立ちます。結果、ドイツにいるベールイとスイスにいるエミリィがどんどん戦いを激化させ、ニコライとほぼ無関係に決着がつきました。

ベールイ
ベールイ

エミリィのやっていることは、本当にアルゴナウタイのすることなのか?

シュタイナー先生のような思想の方がよいのではないか?

エミリィ
エミリィ

せっかく哲学をやっている仲間も加わったんだから、

ムサゲートはこの路線で進めていくべきなんだよ!

イリイン
イリイン

エミリィさんに味方しますよ

一方で、このイリインは、フロイト的な精神分析を実践していました。ここで、スクリャービン派にいた、第二世代象徴主義のリーダーの一人である、ヴァチェスラフ・イヴァノフを自分の影として敵視してました。

先ほど述べたように、イヴァノフがスクリャービン側にいたので、イヴァノフに対抗してエミリィの弟のニコライを崇拝し始めたわけです。

イヴァノフ
イヴァノフ

スクリャービンは面白いことをしているね

イリイン
イリイン

あんな奴に関わっちゃダメです

メトネル
メトネル

また兄さんの知り合い?

ところが、スクリャービンの死後にニコライにイヴァノフが仲良く話していたことから、イリインは報復行為に出ます。イヴァノフがニコライ・メトネルに同性愛めいた感情表現をした偽の手紙を送り、2人を断行させます。このため、イヴァノフとメトネルが以後仲良くすることはありませんでした。

メトネル
メトネル

せっかく仲良くできると思ったのに、

なんて奴だ

イリイン
イリイン

心配しないでください

あなたには私がいますよ

ということで、ニコライ・メトネルと全く関係ないところで起きたごたごたで、ニコライ・メトネルを「オルフェ」とする勢力に変化が起きたわけです。ただし、イヴァン・イリインは、その後革命政府に追放され西欧に行った後も、生涯にわたってメトネル兄弟を助け続ける一人になりました。

ロシア革命

この後戦争中とはいえ落ち着いた状態にはあります。そもそもロシアは戦場にはなっておらず、イギリスなどの連合国との行き来も可能だったためです。

この時期のメトネルには、イギリスにいる、かつての先生であるサフォノフから歌曲をほめる手紙が届きました。かつての断交以来久々の連絡で、この後何もなければ、和解に至ることもあったかもしれません。

サフォノフ
サフォノフ

作曲家として頑張ってるようだな

今度一緒に何かやらないか?

メトネル
メトネル

先生……

しかし、さらなる事件が起きます。ロシア革命です。

レーニン
レーニン

話が脱線するので、

とりあえず私が政権を取ったところまでは飛ばす

トロツキー
トロツキー

正直私はほぼ出ません

なお、秘密列車でロシアに戻ってきたレーニンを迎えた民衆に、ショスタコーヴィチがいたという話があります。しかし、本人自身もスターリン体制期での政治パフォーマンスを繰り返してしまった結果、彼関係の証言を証明するすべがあまりありません。

ショスタコーヴィチ
ショスタコーヴィチ

そもそもまだ幼い子供のころだからね

話を戻すと、レーニンは、ボグダーノフ派という別の党派にいたにもかかわらず、教育・文化事業をルナチャルスキーという人間に任せました。そのルナチャルスキーに当初重用されたのが、詩人マヤコフスキーや演出家メイエルホリド、作曲家ルリエといった存在でした。

ルナチャルスキー
ルナチャルスキー

革命が成功したからには、

人民のために新しい文化体系を築く必要がありそうだ

マヤコフスキー
マヤコフスキー

詩のあり方を変えるきっかけになるのでは?

メイエルホリド
メイエルホリド

演劇を革命するいいチャンスかもしれない

ルリエ
ルリエ

自分の音楽性を広める機会がやってきたようだ

ちなみに、ルリエの音楽というのは、こんな感じです。

Synthèses, Op. 16 (1914) : No. 1

とりあえず、貴族の出だったラフマニノフがその年の末に亡命した以外は、普通の思想信条の人はそのまま暮らし続けました。

ラフマニノフ
ラフマニノフ

こんなこと一過性の出来事で終わるはずがない

ここで外国に出ておかないと、とんでもないことに巻き込まれるかもしれない

一方で、メトネルはまず、1918年にロシア革命によって結成された公教育人民委員部に加わります。しかし、当然、ルリエとメトネルはそりが合わないわけです。

メトネル
メトネル

あんな音楽でもないものを作るやつの下でなんて……

なお、こうした新体制についていけない存在には、ルナチャルスキーは体制批判さえしなければ出国も簡単に認めました。その代表例が、1918年初めに日本経由でアメリカに向かったプロコフィエフです。ちなみに、プロコフィエフは日本で音楽家と交流し、ロシア通だった大田黒元雄とも交流していきます。

大田黒元雄
大田黒元雄

今の音楽界は、

先生以外だとミャスコフスキーさんとかが有力なんですか?

プロコフィエフ
プロコフィエフ

いや、メトネルの方がよっぽど人気がありますねえ

一方メトネルはこの頃、前線に行って連絡が取れなかったカールが革命軍につかまっていたことを知り、父親と釈放の交渉に向かいます。さらに、安心したのもつかの間、母親のアレクサンドラが亡くなります。こうした悲劇のさなか、メトネルはピアノ協奏曲第1番の披露を行いました。

Piano Concerto No. 1 in C Minor, Op. 33: Allegro -

しかし、革命政府は、対戦国であったドイツとブレスト=リトフスク条約を結び戦争から手を引いた結果、各地の白軍やそれを支援する諸外国との内戦状態に陥ります。さらに、それに対抗するチェーカーの赤色テロルなどで、体制派の犠牲者が多く出ます。

代表例がこの人たちです。

ニコライ2世
ニコライ2世

最後の皇帝です

アナスタシア
アナスタシア

その娘の一人です

ちなみにサフォノフもそこそこ危うかったのですが、幸か不幸か1918年2月27日に病死しました。

メトネル
メトネル

先生と何かをやろうという夢は、

かなわなくなってしまったのか……

1919年にモスクワをついに離れ、ブグリのアンナ・トロヤノフスカヤの別荘に移ります。さらに、母親が死に、エミリィもいなかった結果、1919年6月21日にメトネルとアンナは結婚しました。

メトネル
メトネル

もう20年近く事実婚みたいなものだったけど、

複雑だな……

当然といえば当然なのですが、この革命に伴い、資本家であった父親の工場は権利を奪われます。さらに、兄のカールは釈放後にロシア内戦に従軍させられ、1920年3月ごろまでに戦死してしまいます。こうした結果として、メトネルは、自分の両親だけではなく、カールの遺族や男手が早世でいなかった姻族のブラテンシ―家まで養う必要が出て来ました。

このため、その後もしばらくはロシア国内で演奏会を続けます。なお、プロコフィエフ曰く、スクリャービンが死に、ラフマニノフもプロコフィエフもいないロシアにおいて、メトネルが重鎮としてリーダーシップを強く発揮しているようでした。しかし、古くからの知り合い、マルガリータ・ モロゾワが主催する「モスクワ宗教哲学協会」で、メトネルのドイツ性の批判などがありました。

やがて、1920年になると、白軍との戦いがほぼ赤軍側の勝利に傾きます。この結果、文化事業に盛大な見直しが来ました。なので、ルリエなどは少し風向きが怪しくなります。

レーニン
レーニン

これまでは人気取りのために見逃していたが、

さすがにあんなよくわからない連中を重用しなきゃいけないのはおかしいのでは?

ルナチャルスキー
ルナチャルスキー

私の沽券にもかかわるし、擁護もできんか

ルリエ
ルリエ

なんか期待はずれだな……

一方で、メトネルもまた、1921年にロシアを離れることとなりました。ロシア内戦が終わるのが1922年だったので、安全に出国できる結構きわどいタイミングでした。メトネル本人の感覚としては、当初はあくまでも生活費を賄う一時的な出国でした。しかし、結果的に生涯帰ることのない「亡命」となり、あの時代に典型的な亡命ロシア人の一人として、西側で身を立ててていく必要になります。

あんなルリエの下では活躍できないし、

父さんや兄さんの家族を養うには、外に出稼ぎに行くほかないか……

おおよそ、メトネルが亡命するまでに、音楽界で登場した楽曲は、レスピーギの交響詩「ローマの噴水」、(1916年)、プロコフィエフの交響曲第1番「古典」(1917年)、ホルストの「惑星」(1918年)などです。

Respighi: Fontane di Roma ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Juraj Valčuha
Prokofiev: Symphonie classique / Sokhiev · Berliner Philharmoniker
Holst: The Planets, Op. 32 - 4. Jupiter, the Bringer of Jollity

また、1919年にはついに電子楽器、テルミンが誕生します。

Nocturne in C-Sharp Minor, B. 49 (Arr. for Theremin & Piano)

さらに、この時代というのは、レコードやラジオが一般的になる段階でした。これまでの楽譜と1回きりの演奏を楽しむ、というスタンスから人々の価値観が次第に変わり始めたのです。ということで、レコードで録音されたポップスやジャズが、ミリオンヒットを記録するようになったのもこの時代からでした。

また、こうした動向によって、各国の大衆歌謡が徐々に記録されます。後世ワールドミュージックと分類されるものの結構な割合の起源が、この辺りの時代にあります(以下後世のカバーも含みます)。

ドイツとフランスのメトネル

ドイツのメトネル

メトネルは、貧しい暮らしとエミリィに会うために、最初はロシア人知識人たちの集まっていたベルリンに亡命しました。確かにエミリィにはようやく再会できたのですが、1910年代時点で不満を抱いていた当時のドイツ音楽界とそりが合わず、またロシア音楽への蔑視なども感じ取ったようです。

メトネル
メトネル

兄さん……

国を出たとたん、父さんも死んだよ……

エミリィ
エミリィ

あー、ついに結婚してたんだ……

当初の予定では、メトネル家としては、ベルリンフィルの指揮者、アルトゥール・ニキシュらに自分の音楽性の介在者となることを期待していました。ところが、ちょうどよくニキシュが死に、ワルター、フルトヴェングラーらへの世代交代が起きたため、これが実現できませんでした。

フルトヴェングラー
フルトヴェングラー

旧世代の巨匠として今は扱われていますが、

私は自分で交響曲も作る、当時のドイツ音楽を発信するインフルエンサーですよ

メトネル
メトネル

あんな若造にドイツ音楽をゆだねるなんて、

世も末だなあ

ここまでずっと書いてきたように、当時のドイツ音楽界は、アルノルト・シェーンベルクやリヒャルト・シュトラウス、さらにはフランツ・シュレーカー、フェルッチョ・ブゾーニ等が席巻していました。そして、メトネルは彼らにかなり不満を抱いていました。

シュレーカー
シュレーカー

メトネルさん、

仲良くしましょうよ

メトネル
メトネル

音楽性の違いで無理です

さらに、ここにソ連に見切りをつけたルリエまでやってきて、彼みたいな音楽しか評価されなかったので、完全にキレました。

ルリエ
ルリエ

もうソ連の連中とは付き合いきれないわ

メトネル
メトネル

どの面……

どの面下げて……

なお、この頃ラフマニノフと交流のあったプロコフィエフは、メトネルをアメリカに連れていきたいという話を聞いて様子を見に、1922年2月~3月ごろにメトネルの家に押しかけています。

おとぎ話って曲ありましたよね?

おとぎ話みたいな曲作ったんで、聴いてくださいよ~

Grandmother's Tales, Op. 31: I. Moderato

思ったよりはいいやつかもしれないけど、

やっぱり曲はわからん

プロコフィエフ
プロコフィエフ

ああ、やっぱり”そういう”人なんですね

一方、この時期メトネルはクーセヴィツキーとの関係が途絶えます。結果、メトネルは革命を受けてロシアからドイツに移ってきた出版社、ツィマーマンからの楽譜出版を主な財源とします。ただし、ツィマーマンとの関係はフランス時代まで続きますが、正直あまりしっくりいきませんでした。最終的に関係が悪化し、イギリスのノヴェロなどと契約することになります。

結局、メトネルはラフマニノフの招きで、1924年の末にアメリカにツアーに出かけます。そこで目にしたのは、第一次世界大戦後の好景気に沸き、新しい文化が栄えるアメリカの姿でした。

Walk Right In (Remastered)
The Little Old Log Cabin In The Lane

メトネルは全くといっていいほどアメリカになじめず、1925年頭にヨーロッパに戻ります。しかし、彼が家を探したのは、これまで住んでいたベルリンではなく、フランスのパリでした。

ラフマニノフ
ラフマニノフ

アメリカにいればすぐに力になれるのに……

メトネル
メトネル

申し出はありがたいけど……

ありがたいけどさ……

なお、直前の1924年1月に、メトネルの故郷、現ソヴィエト連邦では、トップの交代が起きます。つまり、レーニン死によるスターリン体制への移行です。このことが、ソ連音楽界にも大きな影響をもたらします。

レーニン
レーニン

あれ?

そういう予定だったっけ?

スターリン
スターリン

トロツキーだけはダメ、

という方が大勢いらっしゃったので……

おおよそ、メトネルがドイツにいるころに、音楽界で登場した楽曲は、オネゲルの「パシフィック231」、(1923年)、ミヨーの「世界の創造」(1923年)、シベリウスの交響曲第7番(1924年)などです。

Honegger : Pacific 231 (Orchestre philharmonique de Radio France)
Milhaud: La Création du Monde / Rattle · Members of the Berliner Philharmoniker
Sibelius: Symphony No. 7 / P. Järvi · Berliner Philharmoniker

また、アメリカでは、1924年ついにクラシック音楽とジャズを融合させたガーシュウィンの「ラプソディーインブルー」が作られました。