ニコライ・メトネル略伝

誕生

1880年に、ロシアのモスクワで、「モスクワレース工場」を経営していた実業家カール・メトネルと、代々音楽家の家庭でメゾ・ソプラノの声楽家だったアレクサンドラ・メトネル(旧姓ゲディケ)という、貴族ほどではないがそれに次ぐくらいのアッパークラスの家の四男坊として生を受けた。

なお、苗字のつづり(Medtner)1を見てもわかる通り、両親どちらの家も、バルト海を経由してロシアに来たドイツ系でルター派のプロテスタントである(さらに言えば母祖父のゲディケ家もポンメルンから同時期に移ってきた同じくドイツ系である)。ただし、父方は祖父系はデンマーク、祖母系はスペイン(ただし、この頃にはすでにドイツに何代もいる)、母方の祖母系はスウェーデンを起源とする。ニコライの祖父母の代にはモスクワに定住したという。

この両親の息子のうち、長男エミリィはユングともかかわりを持った「ヴォリフィング」のペンネームを持つ在野の哲学者・音楽評論家に、三男アレクサンドルはヴァイオリニスト、指揮者となった。

他の子どもとしては、次男で父の後継ぎとなったがロシア革命で死んだ父と同名のカール、姉にソフィヤがいる他、わずか10歳で早世した弟のウラジーミルがいる。

兄弟順としては以下になる。

  1. エミリィ:長男、批評家、妻をめぐって色々あった人
  2. カール:次男、後継ぎで、のちにエミリィとニコライに関わるアンナの姉のエレーナの夫でもある、ヴェーラ・タラゾヴァの父親
  3. アレクサンドル:三男、同じく音楽家
  4. ソフィヤ:長女、アンドレイ・サブロフの母親
  5. ニコライ:四男、本人
  6. ウラジーミル:五男、成人せずに亡くなり、特に書くことはない

若き日のメトネル

6歳の頃からアレクサンドルの影響で勝手にヴァイオリンをはじめ、母親や叔父のモスクワ音楽院でオルガン講師を務めていたフョードル・ゲディケからピアノを習った。11歳の頃にはもう自分から勝手に作曲すら始めていたようだ。

12歳頃にエミリィくらいしか賛成していなかった音楽へのキャリアへ進み、両親の反対を押し切ってモスクワ音楽院に属し、ピアノ科ではまずズヴェーレフ2の弟子のアナトリー・ガッリ、次いでパーヴェル・パプスト、パプストの死後はワシーリー・サペルニコフに、最後には当時の院長でレシェティツキの弟子にあたるワシーリー・サフォノフ3からピアノを師事した。

ラフマニノフやスクリャービンのような在学中の個性的なエピソードが特にあるわけではないのだが、ピアノ科自体は金メダルで1900年に卒業した。そんな彼は、サフォノフから「ダイヤモンドのメダルがふさわしい」と評されるほど優秀な生徒であったようだ。

作曲関係はカシュキン、アレンスキー、タネーエフなどの師事を受けるが、対位法がつまらなかったなどと言いながら、年度が終わるまでにピアノ科以外の授業に出るのをやめてしまったとされている。ただし、その後タネーエフからは個人的なレッスンを受け、これが生涯唯一の作曲に関する教育となった。この結果、正式な教育を受けていない点は後世までメトネルの脳裏に欠点として残り続けた。

卒業後、ロシアのピアノ門派の四大教師4と後世称される、先輩のアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルとともに1900年8月にウィーンで開かれた第3回ルビンシテイン国際コンクール5にピアノ部門で出場した。これにはいとこのアレクサンドル・ゲディケも作曲部門で出場し、3人でそろって渡欧した。本来メトネルは両部門に出場する予定だったのだが、明らかにパンクしていたことからサフォノフが勧めて片方に専念させたという経緯である。

しかし、事前に優勝者が決まっていると現地でサフォノフに打ち明けられてしまったほどコンクールの質や政治抗争が透けて見えていた。さらに、作曲部門でゲディケが賞を取ったため反露感情から不利な立場に追い込まれた上に、自身が大失敗したと感じた演奏が奨励賞になってしまった。この結果、各種の手紙からはすっかり不快感を覚えてコンクールを終えることとなったことが読み取れる。

この後さらに、サフォノフの用意した演奏旅行で好ましくない選曲があったことと、作曲の熱が入り始めたことで、これを蹴る。つまり、ピアニストではなく作曲家としてのキャリアに専念したいというのである。エミリィとタネーエフ以外が猛反対したこのピアニストとしてのキャリアを閉ざす措置はサフォノフを怒らせ、後に和解するまでメトネルは許されることはなかった。

また、この頃起きた別の事件が、学生時代から家族ぐるみで交流のあった、かねてより恋愛感情を持っていたアンナ・ブラテンシ―が、母親アレクサンドラの勧めで兄のエミリィと結婚させられたことである。おおよそどの伝記も、もともとニコライとアンナが恋仲だったのを反対する母親によってニコライはマルクグラフ6と婚約させられ、この結果アンナもエミリィと結婚した、ということだが、よくわからない。

しかし、エミリィと結婚してともにニジニーノヴゴロドに移ったアンナを追いかけ、両名との同棲を開始し、結局この2人はあっけなく恋を燃え上がらせる。ついには二度の流産事件を引き起こし、3人に後世まで残る暗い影を落とした。

ただし、このことでエミリィと疎遠・険悪になったわけではなく、以降もニコライ・アンナと生涯続く交際を続けていった。しかし、両親には全く認められず、2人の結婚は、ロシア革命以後まで待つことにある。

というか、エミリィは、弟のニコライに、本来ワーグナーが構想していたにもかかわらず死によって失敗した音楽による革命を、ロシアで起こさせようとしていたという、かなり屈折した期待を抱いていた。このエミリィは要するにアーリア主義者7で、スクリャービンやレビコフといったフランス文化の受容者であった人々に対抗する、ドイツ派の首魁として、モスクワに君臨した。

よって、エミリィはある種プロデューサーとして、弟ニコライにドイツ性アピールを行わせていたのだが、マリエッタ・シャギニャン8ら第三陣営の人々らから見ると、弟からはある程度距離を置かれており、正直空回りしていた扱いをされている。

ただし、ドイツ文化を発信し、音楽こそ世界を革命させる力であるとしていたエミリィは、アンドレイ・ベールイら第二世代の象徴主義者9とかなり仲良くしており、ベールイの作ったアルゴナウタイ同盟という、世界の終末がうんたらかんたらみたいなサークルにメトネル兄弟はそろって参画している。

1910年代中頃までは、ニコライ・メトネルはこうしたエミリィ・メトネルやアンドレイ・ベールイ、セルゲイ・ドゥルイリンといった人々にとって「オルフェ」10とみなされ、スクリャービンを「オルフェ」とするボリス・シュリョーツェル11やレオニード・サバネーエフ12、 ヴャチェスラフ・イヴァノフらと両陣営が形成されたということである。

ただし、アンドレイ・ベールイの回想録によると、金持ちで指揮者だったセルゲイ・クーセヴィツキー13の紹介でメトネルはスクリャービンと知り合うことになった。メトネルの姪のヴェーラ・タラゾヴァの回想録などによるとスクリャービンはたまにメトネルの家に家族でやってきて、夜通し神智学14がどうのといった話をしたりしていたらしい。

ので、サバネーエフが強調するほどこの2人は仲が悪かったわけではない。というか、マリエッタ・シャギニャンの回想録によると、作曲家本人よりは本人を無視した取り巻き同士の戦いがそこらへんで起きていたらしいので、いつの時代も変わらないものである。

一方、音楽家のキャリアとしては、やがて、1909年にペテルブルク音楽院の院長グラズノフの誘いを断った一方、モスクワ音楽院のイッポリトフ=イワノフに招かれて、この年から同学院でピアノを教えるようになった。しかし、作曲活動に身が入ると明らかにこちらに専念し、正直仕事をしていたのは2年程度である。

アブラム・シャチケスら弟子からは慕われていたものの、ベートーヴェン弾きとして定評があったメトネルは流派を形成するほどの勢力にはならなかったとされているが、この辺りは教育者メトネルの研究が2020年代の現在進行形で斎藤ももらに行われているので、まだはっきりとしたことは言えない。

また、彼の楽曲は作曲の師・セルゲイ・タネーエフの紹介でニコライ・リムスキー=コルサコフらとベリャーエフグループを形成していた富豪・ミトロファン・ベリャーエフの支援で出版されることになっていた。のだが、彼の死で1903年からユルゲンソン社が中心となって執り行い、はじめはユルゲンソン社についていた。

ところが、スクリャービンとともに1910年代初頭にロシアに戻ってきたセルゲイ・クーセヴィツキーの音頭取りで新しい出版社が作られることになり、これにマリエッタ・シャギニャンの介在で急速に仲良くなっていたラフマニノフとともに参画した。なお、この出版社に持ち込みに来たプロコフィエフの楽譜をメトネルとラフマニノフがそろって猛反対したことは、幼いころメトネルのファンだったにもかかわらず、プロコフィエフに生涯恨まれることになる。

メトネルの亡命

こうしていろいろやりつつ、作曲家としてのキャリアも積んだメトネルは、1911年以後、コンスタンチン・ヴィクトロヴィチ・オシポフの領地でエミリィ、アンナと共に過ごした。やがて、仕事のため1913年からモスクワに住んだ。

この後、1914年に知り合ったばかりの学友スタンチンスキーの自殺に衝撃を受ける、メルゲンベルクとの口論をきっかけにした雑誌での戦いなどの事件や、1913年以降のラフマニノフ夫妻との親交があった。こうして、そのまま順当にモスクワ音楽院の教授になるかと思いきや、1915年のスクリャービンの葬儀の直後にドイツ系ロシア人が殺される事件をきっかけにモスクワを離れることを考える。

なお、このスクリャービンの死んだ時期頃に、エミリィ・メトネルとアンドレイ・ベールイが仲たがいした。要するに人智学協会のルドルフ・シュタイナー15に接近するアンドレイ・ベールイらと、それを引いた眼で見ているエミリィ・メトネルが対立し、これにロシアの民族主義者というか右翼のドンみたいなイヴァン・イリインがエミリィ擁護に立ち、エミリィがロシアに不在の間に投書や手紙のやりとりである程度決着がついてしまった。

さらに、フロイト的な精神分析を実践していたイリインは、同じく第二世代象徴主義の首魁であるヴァチェスラフ・イヴァノフを自分の影として敵視していた。この流れで、スクリャービンに接近したイヴァノフに対抗してエミリィの弟のニコライを信奉しだし、スクリャービンの死後にニコライにイヴァノフが談笑していたことからイリインは報復行為に出て(要するにイヴァノフがニコライ・メトネルに同性愛めいた感情表現をした偽の手紙を送った)、両者を破局させた。

こうしたニコライ・メトネルと全く関係ないところで起きたごたごたで、ニコライ・メトネルを「オルフェ」とする勢力に変化が起きた。ただし、イヴァン・イリインは、その後革命政府に追放され西欧に行った後も、生涯にわたってメトネル兄弟を助け続けた。

一方、この間起きたのが、ロシア革命である。メトネルは、1918年にロシア革命によって結成された公教育人民委員部に加わるも、1919年にモスクワをついに離れ、ブグリのアンナ・トロヤノフスカヤの別荘に移る。

この革命に伴い、父親の工場は権利を奪われ、兄のカールはロシア内戦で戦死し、第一次世界大戦で東部戦線を挟んだドイツ側にいたエミリィと連絡が取れなくなったこともあり、自分の両親だけではなく、カールの遺族や男手が早世でいなかった姻族のブラテンシ―家まで養う必要が出て来たのである。

ただし、ここで母のアレクサンドラが死んだ影響で、アンナと結婚した。とはいえ、メトネルは母を慕っており、ピアノ協奏曲第一番はこの母にささげた曲であるとも言われている。

その後もしばらくはロシア国内で演奏会を続けるも、マルガリータ・ モロゾワが主催する「モスクワ宗教哲学協会」でのメトネルのドイツ性の批判などがあり、ロシア革命からしばらくした1921年にロシアを離れることとなった。ロシア革命が起きた瞬間に亡命したラフマニノフらとは異なり、当初はあくまでも生活費を賄う一時的な出国だったのだが、結果的に生涯帰ることのない「亡命」となった。

ドイツとフランスのメトネル

貧しい暮らしとエミリィに会うために最初はロシア人知識人たちの集まっていたベルリンに亡命したものの、当時のドイツ音楽界とそりが合わず、またロシア音楽への蔑視などを感じ取ったようだ。少なくともメトネル家としては、ベルリンフィルのアルトゥール・ニキシュらに自分の音楽性の介在者となることを期待したのだが、ちょうどよくニキシュが死に、フルトヴェングラーらへの世代交代が起きたため、これが実現できなかった。

というか、当時のドイツ音楽はフランツ・シュレーカー、フェルッチョ・ブゾーニ、アルノルト・シェーンベルク、リヒャルト・シュトラウス等が席巻しており、ロシア音楽はロシア・アヴァンギャルドに属するアルトゥール・ルリエー16のような人物でないと評価されなかったのである。

そのようなドイツの音楽界に嫌気がさし、次いで1924年からパリに移った。

亡命ロシア人音楽家の拠点であったパリは、以下のような、亡命者が暮らしていた。イーゴリ・ストラヴィンスキー、イワン・ヴィシネグラツキー、ニコライ・チェレプニン、アレクサンドル・チェレプニン、フォマ・ガルトマン、フョードル・シャリャーピン、ヴラジーミル・ポーリ、アルトゥール・ルリエー 、アンナ・ヤン=ルバン 、セルゲイ・プロコフィエフ、アレクサンドル・グレチャニノフ、レオニード・サバネーエフ、アルカージー・トレビンスキー、アレクサンドル・グラズノフらである。

さらに、1923年にはニコライ・チェレプニンを中心に、モスクワとペテルブルクの音楽院の教授たちによって「パリ・ロシア音楽院」が設立されていた。1931年には「パリ・ロシア音楽協会」が設立され、ドイツとは異なり明らかにロシア音楽が活発だったのである(この辺おそらく20世紀初頭からバレエ・リュスとして活動していたストラヴィンスキーやディアギレフらの影響があるとも思う)。

ところが、グラズノフやグレチャニノフといった保守的な人物も活躍していた一方で、力を持っていたのはやはり、イーゴリ・ストラヴィンスキーのような前衛的な作曲家であった。つまり、ピョートル・スフチンスキー、アルトゥール・ルリエーといった人々はストラヴィンスキーを「オルフェ」とみなし、ストラヴィンスキーが音楽界の中心にいたのである。

メトネルはラフマニノフやエミリィにリサイタルが仕事につながらない、次のリサイタルが成功するかわからない、といった愚痴や不安を何度も手紙に書いている。この時期、作曲家のマルセル・デュプレと交流を持ち、以後彼の娘のピアノの教師を10年にわたって続けることになるのだが、デュプレは例外的な人物であった。

この結果、メトネルは『ミューズと流行』という自身の音楽論を述べた単著を記すが、支援者のイヴァン・イリインからもあまり評価されず、ラフマニノフから理解された程度で終わったようだ。

このフランス時代にアメリカやイギリスにも演奏旅行に行ったが、アメリカは「よそ者」感がぬぐい切れず、ヨーゼフ・ホフマンからのジュリアード音楽院への招きも断る。また、ソヴィエト連邦への一時帰国も、現在のソ連音楽界への不満や、ボリシェヴィキの目の前でボリシェヴィキ批判を行うレベルの体制への反発を招き、帰国自体徐々にあきらめていく。

かくして、非常に好意的に迎えられたイギリスにわたり、1935年からロンドン暮らしが始まった。

イギリスのメトネル

あくまでも通説的な記載なのだが、イギリスは音楽史的にはそこまで目立った特徴もなく、とがっていなかったためか、前衛的な音楽はあまり活発な活動は行われておらず、メトネルのような伝統的な作曲家が評価される素地があった。

こうしてピアニスト・アルフレッド・ラリベルテ、音楽学者・アルフレッド・スワン夫妻、ソプラノ歌手・タチアナ・マクーシナ、ピアニスト・エドナ・アイルズ、そしてラフマニノフらの支援によって、パリで不遇を感じていたところから、ある程度の復権を遂げる。16年にもわたるイギリス滞在と演奏・録音・教育活動もあって、西側諸国では再評価が早くから進む東側出身の作曲家となったのである。

ただし、この間1936年にエミリィ・メトネルがドレスデンで客死するなど、すべてが順風満帆に言ったわけではなかった。

ところが、第二次世界大戦である。イギリスは1940年以来続くロンドン空襲でメトネルは疎開生活を強いられ、仕事の激減で貧困にあえいだ。また第二次世界大戦はドイツとソ連の戦いを勃発させ、ドイツ系の出自であったメトネルは周囲の敵意に敏感な生活を送ることとなったのである。

戦後はインドのマイソール王国のマハラジャであるジャヤ・チャーマラージャ・ワディヤール( チャーマ・ラージャ2世)を筆頭に多数の支援者が現れ、メトネルの生前からメトネル協会が設立されて多数の録音などの事業が行われる。アーサー・アレクサンダーといった弟子や、ヨーゼフ・マルクスといった信奉者も現れた。

ただし、実は一般的なイメージとは異なり、すぐにインドの政情不安17でマハラジャからの資金援助は終わってしまった。とはいえ、第二次世界大戦以後亡命などでアメリカにわたって失敗したドイツ以東の作曲家を考えると、成功したほうとは思われる。

しかし、メトネル的にはまだ自分の音楽性の発露はできていないと考えており、ちょうど『ミューズと流行』の英訳計画が進行していた。のだが、この計画の最終段階に至ったところで、1951年に心臓病で71年にわたる生涯を終えた。アンナは長年の執念でやってきた作曲による心労かもしれなかったと語っている。

脚注

  1. 末尾が-erとかそのあたり ↩︎
  2. ラフマニノフやスクリャービンの師匠としておなじみのあの人 ↩︎
  3. なお、ラフマニノフの頃はアレクサンドル・ジロティとワシーリー・サフォノフの政争があったのだが、メトネルが入学したころにはもう完全にサフォノフの天下になっていた ↩︎
  4. モスクワ音楽院における、コンスタンチン・イグムノフ、ゲンリヒ・ネイガウス、アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル、サムイル・フェインベルクの4人と言われているが、詳しくないので日本以外で言われているのか不明 ↩︎
  5. 後のショパン国際ピアノコンクールの前身的なやつ ↩︎
  6. 名前しか残っておらず、どこのだれか全く不明 ↩︎
  7. もちろん、ヒトラーとかあの辺のやつと全く同じ意味である ↩︎
  8. ラフマニノフの伝記に出てくる文通相手のまさにあの人 ↩︎
  9. 19世紀末から20世紀初頭にかけて存在した芸術家の一派で、要するに世界の事物をありのまま感じるのではなく、その背後に何かあるだのこの事物は〇〇のメタファーだのを芸術表現として実践した人々
    ヨーロッパ各地にいるのだが、ロシアは19世紀中ごろのナロードニキの改革失敗後、インテリはさらに先鋭化して世界革命を推進するか世界の終末を夢想するかに二分されたとかつて日本で言われていたくらい、結構なグループとして存在した ↩︎
  10. 自分の音楽論の理想を具現化するような音楽家 ↩︎
  11. スクリャービンの義兄 ↩︎
  12. スクリャービンの代表的な取り巻きで、他の陣営からは側近気取りだの散々言われていたどころか、スクリャービンの死後自陣営からも嫌われた ↩︎
  13. バーンスタインの師匠のまさにあの人 ↩︎
  14. FGOのエレナとしてキャラクター化もされている、ブラヴァッキー夫人が創設したオカルト団体
    スクリャービンはBalard(2020)などではブラヴァッキー夫人の著書を積ん読していただけでそこまでかぶれておらず、正直都合よく我田引水していただけではという疑惑も強くなっているのだが、当事者証言として引用はしておく ↩︎
  15. ブラヴァッキー夫人の死後の神智学協会のお家騒動の後、クリシュナムルティらが席巻した神智学協会を離れて人智学協会をルドルフ・シュタイナーが新たに設立した、という流れ
    つまり、同じようなオカルト団体なのだが、文化や教育などにも力を入れたことから、シュタイナーの名はオカルティズム以外の文脈でも残っている ↩︎
  16. ロシア革命後、最初に天下を取った感じの作曲家だったが、当初の先鋭的な動きに規制が加わってくるとあっけなく亡命した
    メトネルはあいつのせいで国を出る羽目になったのに何であいつまで同じところに来たんだみたいな手紙を残している ↩︎
  17. 思いっきりガンディーやネルーのアレである ↩︎
タイトルとURLをコピーしました