メトネルってどんな人?
メトネルの音楽哲学
メトネルの人生を見ていく前に、あるトピックに触れます。メトネルが音楽というものをどのように思っていたかです。
メトネルは、ある日自分の音楽観を「コリントの信徒への手紙一」14章7~9節に例えています。
笛や竪琴のような命のない楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。
聖書協会共同訳『新約聖書』より
ラッパがはっきりした音を出さなければ、誰が戦闘態勢に入るでしょうか。
同じように、あなたがたも異言ではっきりしない言葉を語れば、話していることをどうして分かってもらえるでしょう。空に向かって語ることになるからです。
メトネルは、そもそも作曲家が手を加える以前に、原初の「理想的な音楽」が存在すると考えていました。つまり、作曲家というのは本来ある「理想的な音楽」を実現するためのある種再現者でしかなく、音楽というものの従者に過ぎないとしていたのです。
例えば、メトネルが1930年代に書いた『ミューズと流行』という著書では、メトネルは音楽を、言語、植物、国、建築物といった、カチッと形が決まりつつも自律的なもので例えています。
音楽ってのは、カチッと形が決まりつつも、
きちんと生命力を持った自律的なものなの
メトネルはそんな音楽を、「聖域」とみなし、メトネルにとってその聖域は中心と周縁を持ちます。
音楽家ってのはさ、より聖域の中心に近い「祝祭」の音楽を再現する「調律師」でしかないの。
つまり、自分のエゴを捨て去って、「忘我」の境地に至る必要があるんだよ
つまり、メトネルというのは音楽という存在と、音楽を形作るという行為そのものに、とてつもなくプラトニックな理想を抱いていたのです。
この点で、実はメトネルの批判するモダンな音楽と、ある共通点があります。それは、音楽というものを、機械や原子のように分解できるものではない、単一の有機的統一体であると考えていたところです。しかしメトネルは、例えばロシア未来派の理論的支柱となったニコライ・クリビンとは、ある点で意見が分かれます。
芸術ってのは、調和と不調和のどちらの状態にもなるようなものなんだよ
それは違うよ!
調和こそがより中心にあるのであって、
不調和ってのはさ、より原初の調和に近づいてって解決されなければならないんだ
しかし、ここで一つ問題なのは、メトネルの定義する「理想的な音楽」とは、19世紀末~20世紀初頭ごろ、あくまでも当時の人々にとって自然と考えられてきたものに過ぎないということです。別に科学的に絶対的な「理想的な音楽」という定義があったわけではないのです。そもそもクラシック音楽の根幹にある平均律自体、本来は均等に分けるべきものをいい感じに調節したものでしかないというのが何よりの証拠だったりします。
ということなので、メトネルの音楽観とは、悪くいってしまうと同時代の相対的な尺度を、メトネル本人が言う「忘我」という向き合い方と真逆のように、エゴイスティックに運用しているに過ぎないと、後世の後知恵で言えてしまったりします。
はっきり言って、そもそもメトネル自身の音楽自体も、バッハやモーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、リストあたりが聴くと間違いなく違和感を覚えそうな、19世紀末という時代状況に根差したものです。この点は、友人のコリングウッドも、メトネルは長調や短調ではない半音階的な旋法を用いていると言っています。
とは言え、確かに兄のようなファシズムにつながるような思想の持ち主ではないのですが、メトネル自身も自分の理想的な音楽から離れている対象にはかなり攻撃的にふるまいます。
でも、やっぱり音楽家は音楽に無我の境地で尽くすべきと思うんだ……
ただ、スクリャービンはピアノソナタ5番以降はダメ、ストラヴィンスキーは火の鳥は許せるがペトルーシュカや春の祭典はない、といった具合に、無茶苦茶範囲がわかりづらいです。正直、初心者にとっては、メトネルがブゾーニやレーガーの音楽を嫌いだったといっても、3人ともあんな対位法全開の音楽性なのに!?と混乱すること必至だと思います。
嫌いな作曲家発表メトネルが
嫌いな作曲家を発表します
ドビュッシー
ラヴェル
その辺ダメだと20世紀音楽全部否定しない?
マーラー
リヒャルト・シュトラウス
レーガー
ブゾーニ
世代的には君より上のはずなんだが
ヒンデミット
クシェネク
フランス6人組
プロコフィエフ
シュレーカー
自分より一回り上の世代もダメなら、
そりゃダメでしょうね
ルリエーみたいなやつ
ロシア・アヴァンギャルド全否定なので、
そりゃあ亡命しますよね
神秘主義になった後のスクリャービン
オーケストレーションを除いたストラヴィンスキー
ラフマニノフの晩年の曲
譲歩されてる側のくくりなのに
一人だけ扱い違くないか?
大衆音楽
メトネルがアメリカに来てた頃の1925年1月に、
ポール・ホワイトマンにあのメトネルですら褒めてたんだからという手紙をこっちから送ってはいる、のだけども……
スワンにはジャズのことを「ポルノ」と言っていたようだし、実際のところどうだったのやら
変な音でガチャガチャキーキーさせるやつ
セリー音楽のことかな?
それってセリー音楽のことだよね?
一方で、メトネルは、例えば尊敬する過去の偉人、ベートーヴェンに対しても以下のような態度だったので、音楽に対しては厳格な批判的精神の持ち主だった、とも言えます。
ベートーヴェンといえば、やはり創作主題による32の変奏曲だろうね
ベートーヴェンのピアノソナタといえば、
ニ長調(7番)、ハ長調(「ワルトシュタイン」)、ヘ短調(「熱情」)
ベートーヴェンの「熱情」ソナタを弾くことは、
「ハムレット」や「リア王」を演じるようなものだよ
交響曲第7番はあまりに音楽が素晴らしすぎるので、演奏の欠点なんて気づけないさ
ピアノ協奏曲第4番は、あのすばらしさをもっと表現するためのカデンツァを2個も作ったほどさ
でも、ピアノ協奏曲第5番は表面的な技巧を讃えてるだけさ
ピアノソナタもロ長調(「ハンマークラヴィーア」)や変イ長調(31番)は、
あの「ワルトシュタイン」や「熱情」の作曲家と思えない衰えを感じるよ
ハ短調(32番)は死ぬまで理解できないだろうね
このため、メトネルがHMVからのベートーヴェンのピアノソナタ全集の録音を蹴ったためにアルトゥール・シュナーベルがベートーヴェンのピアノソナタ全集を世界で初めて出したという、よくソースのわからない逸話も、メトネル側からすると断って当然だったのかもしれません。
他の作曲家の関わりは、弟子のワシリーエフの回顧録によると以下の様な認識です。
スカルラッティは優れた作曲家さ。
タウジヒのようにリスペクトしないような真似はしてはいけない
シューマンは、歌曲においてもシューベルトに匹敵する存在だよ
グリーグは内容と形式のバランスがいいね
チャイコフスキーの作品は自分の血肉で書かれている。
この意味では、リムスキー゠コルサコフは及ばないだろう
ブラームス?正直好きじゃないよ?
よく言われるメトネルがモスクワの「ブラームス協会」の創設者という話、
実は私が勝手に言ってるだけという噂がありますな
結局メトネルというのは、ゲンリヒ・ネイガウスの言うように、「明後日の音楽」ではなく「昨日の音楽」を見続けた存在なのでしょう。ただ、かといってメトネルが、ラフマニノフ以上に何も残せなかった旧世代の遺物としてしまうと、ロシア時代スクリャービンやプロコフィエフと渡り合っていった事実が抜け落ちます。ということなので、メトネルがどのような足跡を残していったかを見ていくのがこの記事の目的です。
他の人はメトネルの音楽をどう思っていたのか?
一方で、このような自意識を持っていたメトネルのことを、他の人はどう思っていたのでしょうか?
ピアノ作曲家としてのメトネルはともかく、当初メトネルの音楽は、アンドレイ・ベールイやエミリィ・メトネルらのサークルが主にスポークスパーソンを担っている、ゲーテやニーチェを取り上げるようなドイツ的な音楽としてみなされていました。
エミリィについては後で述べるので、エミリィの友人で銀の時代の代表的な作家であるベールイがメトネルをどう思っていたかを書きます。
メトネルの音楽とは、さながら「雪のアラベスク」だ。
猛吹雪のようなカオスの中に聴衆を連れ込み、そのなかで神聖さによって彼らを救うのだ
スクリャービンが複雑な主題を発展させるのとは異なり、
メトネルは簡潔な主題であらゆる複雑な技法を使う
メトネルはベートーヴェンやシューマンのような、
アポロン主義とディオニュソス主義を結合させる悲劇作者であり、純粋音楽の信仰によって生を肯定するのである
ただし、極論、一部のドイツかぶれだけが好んでいたメトネルの音楽に、転機が訪れます。1910年代になると、作品番号29番「7つのプーシキンの歌曲」を皮切りに、ロシアの詩人を取り上げ始めるのです。
これに反発したのが、カラトゥイギンらペテルブルクの批評家でした。
メトネルの音楽なんて生気のない形式主義だ。
干からびて硬直しているよ
これに応じて擁護したのが、作曲家のミャスコフスキーでした。
メトネルの音楽が灰色で色彩感に乏しいのは認めよう。
でも、メトネルは一流の線画家で、デッサンの大家で、その作品の中に魂はちゃんとある
その点では、グラズノフの一見それっぽいだけのしょうもない作品とは違う
君、先生にそんなこと思ってたんだ……
ただ、メトネルの音楽が、ロシア音楽とドイツ音楽の二項対立の中で語られるのは、テンプレだったようです。
メトネルの音楽は、バッハ、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ワーグナーと近しいものである
でもそれが何だというのだ!
民謡を安直に引用する程度でロシア性などというのであれば、そんなもの19世紀にネタ切れなんだから……
メトネルの音楽は、ベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲みたいなもの。
少数の人間のための、音楽のための音楽なの
一方で、ベールイに代わってメトネル家の友人となった、昨今の世界情勢で割と渦中の思想家であるイヴァン・イリインは、ベールイと大体似たような論調で逆にロシア性を強調します。
ロシアの魂には、深淵やカオスと深く結びついている。
メトネルは、そんな深淵やカオスを支配して歌わせているのだ
メトネルの音楽は確かに標題音楽ではない純粋音楽でしょう。
でも、この音楽の中には、哲学的に考えられ宗教的に洞察された、ロマンティックな精神的世界が広がっているのです
メトネル自身がどう思ってたかは、ソ連で書かれたという点を差し引く必要があるものの、マリエッタ・シャギニャンがこのように語っています。
メトネルはラフマニノフさんと同じくロシア古典を愛し、
ドイツ風の決めつけに対し、いかに自分がベートーヴェンやブラームスでは無いのだと苦しんでいました
最後に、ラフマニノフのメトネル観で締めくくりたいと思います。
メトネルは「ロシアのブラームス」なんかじゃなくてメトネルさ。
インスピレーションに満ちた、才能ある作曲家だよ
メトネル自身はどのような性格だったのか?
ここまでメトネルが何を考えていたか、人からどう見られていたかも見てきました。もう一つ、人生を見ていくと、どうしても抜け落ちてしまう要素があるので、最初に触れておきます。メトネルの人間性です。
例えば、メトネルが22歳の1902年の秋にメトネル家を訪れたアンドレイ・ベールイはこのように回顧しています。
ずんぐりした小柄で、髪は薄い
思ったことを言おうとするが、熊のように鈍く、なかなかうまく言語化できない。
しまいにはそんな自分に怒ってしまうが、私たちのする難しい話を興奮して聞いていた
あと、頭に血が上るとマッチを灰皿の中で燃やす癖がある
ということなので、実はメトネルが20前後の時点であの写真のような、完全な若はげという以外に、心にとめておきたいことがあります。メトネルが、あまり口が達者な人間ではない反面、ベールイやエミリィのする小難しい話に加わりたくて仕方がないというところです。
一方、妻になるアンナは、メトネルの作曲は、作曲をするために主題を考えるのではなく自然に心に浮かんできた主題をいかに肉付けして解決させるかというプロセスで行っていたとしています。このため、彼は思いついた主題を忘れないように常にメモしていました。例えば、ある日、メトネルは学校に教えに行った帰りに以下のようなことをしています。
急にモチーフが和音とともに響きだしたのに、
手帳がないじゃないか……
こうなったら仕方ない。
そこの広告チラシにメモしよう……
このため、メトネルは主題だけ書かれた分厚いメモを、死ぬまでずっとため込み続けました。このメモは定期的に活用され、極端な例として遺作のピアノ五重奏曲は1905年にすでに主題が存在していました。このメモから亡命直前にある程度解放されるために、中身の一部を使って「忘れられた調べ」が出されています。
そして、メトネルはこのメモを何十年分もどこに行くにもスーツケースに入れて持ち歩くのです。このことは、ラフマニノフがこのようにからかっています。
その宝の山から何か借りてもいいかい?
しかし、メトネルからすると、この宝の山は一種の呪いでもありました。例えば、以下のようなことがあります。
いま主題がやってきてくれたが、昔どこかで来たことがあるな。
スーツケースを開けて全部のメモの中から探さないと!
時間がかかったけど、一度来てくれたのは確かなようだ。
それでは重複してしまうので、どちらかは焼き捨ててしまおう
また、こんなことが人生に二度もありました。
泥棒が入って、スーツケースを持って行った!?
でも、盗んだものを運ぶのに使ったから、中の紙は置いて行ってしまったのか……
妻のアンナ曰く、メトネルはうなされるとこのようにもなりました。
せっかく来てくれたやつら主題が、どうにもできないままどこにもやれないんだ……
本当は追い払いたくて仕方ないのに……
なので、メトネルは自身が職人であるとほめられたときも、このような感じでした。
ほとんど勉強してないのに、職人なんて言われるような高度な技術を身に着けているわけないじゃないか
常にインスピレーションだけなんだから、ある曲を出してあげた後、次の曲にどう取り掛かるかすらわからないのに……
また、メトネルがほとんどピアノ曲を作った理由もここにあります。メトネルはこうしたメモを三段や四段の楽譜に行い、正直明らかに制限の少ないオーケストラ用の方が望ましいと本人も考えていました。しかし、結局のところこうしたメモを具体化するための時間は、オーケストラよりもピアノの方が短く済むのです。このため、彼はできるだけ多くの主題を具体化することを選んだ、というわけでした。
なお、ここでメトネルがオーケストレーションを時間がかかる作業とみなしていたのは、彼の人生でほとんど作曲の教育を受けていないことが原因と本人は考えています。例えば、個人的に教わった先生のタネーエフがいう「部屋の配置換え」レベルのことが理解できず、課題の解決をとりあえずピアノで行い後からオーケストレーションをしよう、という習慣がついてしまったとするのです。
せっかく主題がこっちにやってきてくれたのに、
オーケストレーションまでやっていたら出してあげる時間が人生から無くなっちゃうよ……
それに、先生の言うようなたくさんの楽器を使った作曲をやるためには勉強不足だ。
ひとまずピアノで作っておいて、いつか時間があったらね……
もっとも、その時間はメトネルには来ませんでした。このため、メトネルはオーケストレーションの技量自体は持ちながらも、ピアノ曲と歌曲がほとんどになってしまったのです。
そして、このような芸術への態度が、彼自身の人間性とは別に芸術に対する頑固な態度を作ったと、アンナなどが述べています。
こうしたメトネルの二面性については、甥や姪など、子供時代をメトネルと過ごした人々がよく記しています。
彼らの子供時代にとって、ニコライ・メトネルという人は祖父母の実家に行くとほかにもう一人いる、やさしい子供好きの「コーリャおじさん」でしかありませんでした。
彼らの思い出の中の「コーリャおじさん」は、ゴキブリのおもちゃで祖母を驚かせたり、インクをこぼれたように見せるいたずらグッズで子供たちを驚かせるのを見て自分も喜んでいるような人でした。また、この頃に至っても彼は灰皿の中で塩素酸ナトリウムなどを混ぜた何かを燃やしたり、別荘で花火をを打ち上げたりするような人だったようです。
この「コーリャおじさん」は子供たちに変なあだ名をつけてずっとそれで呼び続けたり、子供たちに謎の暗号の絵などを送ったり、子供たちと演劇に興じたり、ハエやミツバチを恐れて親戚の家から逃げたりと面白い人でした。
それでも時折、彼の本当の世界を思わせる時がありました。例えばこの「コーリャおじさん」がピアノを弾くと、明らかに人を引き付けるものを持っていました。また、子供たちに送る謎の絵の中には、未来派詩人ヴェリミール・フレーブニコフを馬鹿にするようなものがあったりしたのです。
やがて、子供たちが成長し、この「コーリャおじさん」が1911年以降にオシポフの領地でエミリィやアンナと一緒に暮らし始めると、彼らは本当の作曲家・演奏家・ニコライ・メトネルの姿を見るようになります。
ただし、メトネルは相変わらず適当に種をまいた花畑から何がどう育つのかを見たり、天体観測をしたり、トランプ遊びやクロケットに夢中になってカールたち兄弟からからかわれたりと、「コーリャおじさん」のままではありました。
一方で、姪のヴェーラは、飼い犬のフリクスすら従わせるレベルで規則正しく禁欲的に作曲に身を投じていたメトネルを見ています。また、卑俗とみなした流行のオペレッタ「赤ん坊」の楽譜をびりびりに破くのも目撃しています。
また、甥のアンドレイは、メトネルが演奏にどのように向き合ったかを語っています。メトネルは演奏においても、自分の中の理想の音楽が「やってくる」ように長い時間をかけて試み、ステージ上に上がってもどれだけ時間がかかってもそれを表現できるように集中し、その時間によって雑音をも放つ観客を自分の世界にすっかり取り込ませてしまうのです。
一方で、アンドレイは、メトネルがいつもコンサートの日を自分の母アレクサンドラに伝え、コンサートの日に彼女の家に行き軽く話すことでそのような境地に行く一歩を踏み出していたことも語っています。この役目は、母の死後は姉のソフィヤが、亡命した後は妻のアンナがそれに代わりました。
なお、このような演奏におけるメトネルの姿は、プロコフィエフのような皮肉屋には格好の的になりました。
演奏前なのに何かあるとすぐに嫁さんが出てきて、
本当に大丈夫なのかあの人は
ただし、メトネルが演奏会に対して作曲と同じくらい厳格な態度で挑んでいたことは、家族や弟子の記録からも見て取れます。
演奏会は何か月も前からそれに専念する必要があるのであって、そんなに年何回もするもんじゃないよ。
あれは本来、経験を積んだ人間がその日その場で最高のパフォーマンスをする必要があるんだから
この「コーリャおじさん」の姿は、家族以外にも多数記録されています。例えば、弟子のシゾフは誕生日も兼ねたクリスマスの日には、石鹸の泡で老人のようなひげをつけて子供たちの前に現れるメトネルの姿を記しています。また、子供たちが音楽クラブを結成するとき、こんなことを話しています。
それじゃあ「音楽を作るのが好きな芸術愛好家のサークル(Кружок любителей искусства заниматься музыкой)」というのはどうだろう?
略して「浣腸(КЛИЗМ)だね
しかし、このような音楽には厳格で、人懐っこい「コーリャおじさん」は晩年までずっとそうだったようです。例えば、スワン夫妻はどれだけ経っても彼からは「若者」としてかわいがられました。
しかし、満場一致でメトネルの身近な人に言われているのが、メトネルが音楽以外が無頓着で、生活力がほとんど皆無だったということです。メトネル自身もこのように語っています。
アンナが朝から晩までやってくれるのは家事だけじゃない。
仕事の手紙や修理、買い物、電話まで全部一手に引き受けさせてしまっている
メトネル家は使用人を雇うことすらできず、妻のアンナがほぼ一人でこれを成し遂げていたようです。特に、一時期同棲していた姪のヴェーラは、メトネルが音楽以外の日用品の扱いがどれだけ頼りなかったかを記録しています。
燕尾服がぼろぼろだって?
どんな燕尾服で演奏したっていいじゃないか
モスクワのスミルノフに仕立ててもらった燕尾服をダメだとアメリカ人が言うのなら、
アメリカ人に新しいものを作ってもらうべきなんだ
また、ソボレフが初めて仕事でメトネルの家に行ったときのメトネルの姿がこれです。
助けてくれアンナ!ひげをそるのに失敗して血が止まらないんだ!
くそ、剃刀なんて誰が発明したんだ
この点は、アメリカで得たギャラが紛失されたのを、アンナとラフマニノフが協力してメトネルに気づかれずに補填したというエピソードにも表れています。
ただし、メトネルは知的好奇心が旺盛でした。彼はロシアの人間であったにもかかわらず、ヨーロッパのどの美術館に何があるのかをすぐに語れました。また、趣味の天体観測は、星座の豊富な知識を持つほどでした。おまけに、イギリスでは弟子のアイルズの下で疎開中に英語を学び、ゴールズワージー、バーナード・ショー、シェイクスピア、バリー、ブロンテ姉妹、ディケンズなどを次々と読み漁ったようです。
しかし、ロシアの知識人としては、彼はこっちの派閥でした。
ドストエフスキーは嫌いだ。
才能があるからと言って、芸術の中にまであんな闇を持ち込んではいけない
というか、そもそもメトネルは怖がりだったのです。
9歳の時、チャイコフスキーの「スペードの女王」でスペードの女王が出てきたとき、
パニックになって叔母を怒らせてしまったよ
歳を取って改めて読み直すと、あれがどれだけ素晴らしく、それゆえ幽霊というものを感じさせるのだと理解できたのだ
結局のところ、メトネルは厳格な音楽家としての姿とは別に、あまり生活力のない、鳥や植物や星が好きで、水泳やゲームに夢中になり、子供じみた冗談好きの陽気なおじさんという姿も持った存在だったのでしょう。