前置き
前置きの前置き
以後1ページにわたり、ほぼ知識がゼロの人がメトネルの人生をたどるために必要な背景説明をします。高校世界史レベルの通史について触れつつ、彼の先祖がどのように出てきて、彼の音楽性がどのような文脈にあるかの下準備をします。
そもそもこの頃のロシアはどういう国なの?
昔々、おおよそ今のロシアにあたる場所には、ロマノフ家という皇帝の家がいました。ざっくりいうとこの一族は、自分たちのことを、古代ローマ帝国が割れた後にギリシャに作った政権の、そのまた後継ぎと思っていた先代のリューリク家の、そのさらに継承者くらいに思っていました。
テトラルキアで帝位を東西に分けました
一度再統一しましたが、ほとんどギリシャにいました
それから1000年以上経ち、オスマン帝国に滅ぼされました
コンスタンティノス11世の姪を妻にしました
では、モスクワは第三のローマである
この後、偽ドミトリーたちや外国軍との半世紀くらいの戦争の末に、
我が家が帝位を継ぎました
しかし、最大の問題が、この地域の人たちは、ローマ帝国そのものとは、ほぼ無関係だったということです。
そもそもリューリク家初代の私が、
ローマ帝国滅亡から数百年経った9世紀の人間……
この、ロシアを筆頭にした東ヨーロッパの地域に住んでいるのは、おおむねスラブ系です。彼らは、ヨーロッパでローマ帝国の後継者だと思っているラテン系や、ローマ帝国を滅ぼしたものの、どんどんラテン系の文化に染まったゲルマン系よりも、さらに離れたところにいるということです。
ゲルマン民族ですが、ローマ教皇からも認められました
このスラブ系の人々は、ゲルマン系の人たちからも十字軍しなきゃ……と思われてたくらいです。つまり、旧ローマ帝国の範囲にいた人たちからは、自分たちのテリトリーの外にいる、赤の他人めいた存在だったのです。
また、ロシアの人々は、最終的にはキリスト教徒になりました。ただし、その昔ローマの教会とギリシャの教会がけんか別れした後の、ギリシャ側のキリスト教を信じていました。
もうお前なんて破門だ!
こっちこそ!
つまり、皇帝から庶民まで、カトリックではなく今の正教会を信じていたということです。
さらに、このロマノフ家が皇帝に就く前の、リューリク家のころに、ある問題が起きました。モンゴルからチンギス・ハンの子孫たちが押し寄せてきたことです。
大体以下がモンゴルが来る前
結果として彼らは数百年くらいモンゴルのハンの国に従い、それを追い返した後も、もっと東のアジアとのかかわりが続いていくことになります。
息子の代にポーランド辺りまで行きました
私の代でやっと実質的に独立しました
大体以下がロマノフ朝になった頃
要するに、今でいうロシアにあたる地域は、一般的にヨーロッパとイメージされる地域とは、違う文化圏にいたということです。
そして、当の住んでいる本人たちも、ここにある迷いがありました。「俺たちはこのままユニークな存在でいていいのか」、「もっと西側の進んだ文化に染まるべきなのか」、「開き直って東の人たちの仲間っぽく振舞うべきなのか」、というものです。
ロシアとドイツ地域の関わり
また、ロシアはロシアとして、その西にもう一つ、なんとも説明しづらい国っぽいものがありました。神聖ローマ帝国、つまり西側の教会から「君はローマ帝国の末裔だ」と認められた国です。
そもそもは、私がきっかけです
この現在のドイツから東ヨーロッパにあたる地域にあった国は、西に割と強いフランスがあったこともあり、東側への進出だけがほとんどうまくいきました。そのうえ、東側の地域は森と川が多く、どんどん農民が開拓していったのです。
私のころです。
ごちゃごちゃしているでしょう?
たくさん土地を奪われました。
お父さんの傲慢公には申し訳なさがあります
私のころです。
ちょっと東に広がったような気がします
私のころです。
ちょっと前にトルコも来たので、一度縮みました
ちなみに、コロンブスのパトロンとしておなじみの私の来孫です
という経緯があったので、ゲルマン系と自分たちのことを思ってそうな人たちが、今のバルト三国やポーランド、チェコ、ハンガリーなどにもどんどん進んでいきました。この後、トルコのオスマン帝国の弱体化に伴い、正直なところこの地域に強い勢力がいなくなったことも後押ししました。
また、この地域の人にある特徴があります。それは、ローマのカトリックと対立する新しいキリスト教、プロテスタントの信者が多いということです。順番が多少前後するのですが、そもそもプロテスタントの始まり自体、ドイツ近辺でルターやカルヴァンが活躍したためでした。
だいたいドイツ南部が活動の中心です
フランス人ですが、ほとんどスイスで活動していました
ということなので、この辺の人たちが広まると、当然プロテスタントも広まったということです。
やがて、神聖ローマ帝国は、2つの勢力が中心になりました。片方がかの有名なオーストリアのハプスブルク家。
ハプスブルク家です
もう片方が最終的に勝利し、ドイツ帝国を築くプロイセンのホーエンツォレルン家です。
ホーエンツォレルン家です
この2人が出てきたことで、勘のいいひとは察したかもしれませんが、オーストリア継承戦争や七年戦争でヨーロッパ全土が外交戦によって合従連衡してた時期です。
紫がプロイセンです。
シュレジェンを得たことで、この後躍進していきます
中央の黄色がオーストリアです。
外交戦を繰り広げましたが、シュレジエンは取り戻せませんでした
そんな中で、ロシアのロマノフ家は、国を発展させなきゃいけないので、多少自分の個性を失っても、この辺の人たちに力を貸してもらおう、と思ったようです。
私がヨーロッパに直接行きました
その結果、ロシアにはドイツ地域からたくさんの人が招かれ、ある者は国の政治などに関わり、ある者はロシアで商売をやるうちに大商人になるなど、一気にロシアでドイツ系の人々が力を持つようになりました。その中には、文化の発展のために招かれた音楽家もいました。
ドイツの人々をたくさん招きました
付け加えると、このとき新しい首都が築かれます。サンクトペテルブルク、通称ペテルブルクです。この、西側に出やすい人工的に作られた新たな港町、ペテルブルクは皇帝のお膝元であり、豪華絢爛な改革の象徴となります。一方これまで首都だったモスクワは、父祖伝来の地として重んじられますが、かなり長い間放置されます。つまり、カビ臭い旧習の地としても描かれるようになっていきます。
下の現在の鉄道路線図のうち、
紫が大体モスクワとペテルブルクの距離感の参考になりますな
そして、そんな中で、この記事で取り扱うニコライ・メトネルの母方の先祖、ゲプハルト家がロシアに来ました。チューリンゲンのとある有名なオルガンの一族から逃げ出し、全く別の土地で俳優として身を立てようとし、そのままロシアに流れてきたようです。この後、先祖はロシアで成功し、そのままロシアに居ついたようです。
エミリィ・メトネルが、この先祖が私の親戚かもしれないと思っていた疑惑もあるのですが、
実証しようがないですな
とはいえ、一方でロマノフ朝は、モスクワ周辺の小規模だった領域がどんどん東に拡大し、ネルチンスク条約、キャフタ条約の制定などで中華王朝と国境を画定させるほどにまでなります。
この結果、「自分たちは西側とは別のアイデンティティの人なのでは?」というのも強まります。このため、この辺は解決せず、何度もぶり返していくことになります。
さらに遠くのヨーロッパの本流・フランス
ここまであえて話題を避けてきた地域があります。ローマ帝国文化を継承したラテン文化圏、フランスやイタリアです。
これらの地域は、もとをただせばカール大帝(シャルルマーニュ)の3人の息子が国をだいたい現在のドイツ、イタリア、フランスの3つの地域に分けたことがきっかけでドイツと分かれました。
ある程度統一しましたが、
おおよそ孫の代には以下のように分かれました
その後ヨーロッパはノルマン人やマジャール人、スラブ系民族などがいろいろ動きますが、落ち着きます。
『ヴィンランド・サガ』でおなじみの我々などです
その間、カール大帝(シャルルマーニュ)の末裔が3地域で全部途絶えたことで、ドイツではこうした外部からの民族移動から地域を守護する皇帝が誕生したというのが、先ほどの国っぽいものができた経緯です。
神聖ローマ皇帝は本当に文字通りローマ帝国を復活させようと、ローマのあるイタリアをわがものにしようとし、イタリアの教皇と権力争いを繰り広げてだんだんぐちゃぐちゃになっていきます。一方で、もっと西ではパリにいた小さな領主が、カール大帝(シャルルマーニュ)の後継者として王にさせられます。
と言っても、本当にパリ周囲くらいしか領地がないのですが……
ただし、ここで一つややこしいことが起きます。この王様の部下が、現在のイギリスにわたり、王になったことです。
なんか、イングランドで王位途絶えたから、
行って、なってきていいですか?
いいよ
ところが、少し後世になって、フランス王・ルイ7世の離婚した妻・エレオノールがイギリス王・ヘンリ2世に嫁いだあたりから雲行きが怪しくなります。
お前なんか離婚だ!
でも、私の方がよっぽど領地持ってるし……
じゃあウチ来る?
それはそれとして、ユーグ・カペーの子孫、カペー家は勢力を拡大したのですが、途絶えます。その結果、いとこのフィリップがフィリップ6世として新しい王朝・ヴァロワ朝を築いたのですが、これに反対する人が出ます。よっぽどこっちの方が領地を持っていたイギリス王・エドワード3世です。
王位継承者誰もいなくなったんで、
一番近い、いとこがなるのが筋では?
ちょっと待った!
最後の王の姉妹の子、つまり甥のこの私の方が、
よっぽど王位継承権が先に来るのでは?
ということで起きたのが、百年戦争です。
序盤にイギリス側で活躍しました
終盤にフランス側で活躍しました。
この結果、フランスはぐちゃぐちゃに一度なるのですが、最終的に勝ちます。ところが今度、先ほど述べたように、宗教改革が起きます。結果、神聖ローマ皇帝はカトリック側につくのですが、フランス王はプロテスタントを応援します。これは、信仰上の理由もありそうですが、トルコのオスマン帝国と同盟してでも、皇帝と渡り合おうとした皇帝憎しのためもあります。
聖書に従わない今の教会なんてダメだ!
っていうのを黙認してたら、
なんか貴族たちがどんどんあっち側に行ったし禁止しなきゃ……
対皇帝のために、おおっぴらにルター派のドイツ貴族たちと同盟しまーす
後ろは任せろ
ところが、このフランスでとんでもない問題が起きます。1572年、フランス王シャルル9世の妹と、新教であるカルヴァン派の信者だったアンリの結婚式を祝いにやってきた新教徒をカトリック派の人々が虐殺したのです。その背後に、現在のフランス王の母親で摂政のカトリーヌ゠ド゠メディシスがいたと言われたことから、新教徒派の貴族とカトリック派の貴族が戦争状態になる、ユグノー戦争が30年近く起きました。
え?妹の結婚式でユグノー(新教徒)が虐殺された?
裏に母さんがいるって噂になってる?
最終的に3人のアンリが相争う「三アンリの戦い」を制し、王になったのが、この虐殺の時にシャルル9世の妹の結婚相手だった、アンリ4世でした。かくして、フランスではブルボン朝に移ります。
現実的な目論見からカトリックに改宗するが、
ユグノーもきちんと地位を与えるぞ
その結果、この人が王家から出ます。
朕は国家なり
ところがこのルイ14世があまりにも戦争をし続けたことと、よりにもよってユグノーの特権を廃止したことでユグノーが逃げ出して商工業者が減り、財政が悪化します。
ひいおじい様の後を継がされたが、
どこからも戦争を仕掛けられて軍費の支出が止まらぬ……
で、ロシア音楽史のページでなんでここまで長々とフランス史を追ったかというと、オーストリア、ハプスブルク家のこの人のせいです。
このままではプロイセンからシュレジエンを取り戻せない……
とにかく味方を増やさねば……
オーストリア継承戦争にてシュレジエンを奪ったプロイセンに対抗しようとしたオーストリアのハプスブルク家当主・マリア゠テレジアが外交戦を展開。ポンパドゥール夫人経由でフランスのルイ15世と結び、またロシアのエリザヴェータ女帝とも結びます。この結果七年戦争が起き、結局オーストリアはシュレジエンを取り戻せなかったのですが、フランスとロシアに以後そこそこ密な交流が生まれるのです。
オーストリアの支援?
もちろんいいですよね?
ああ(正直もう財政がギリギリなんだが……)
オーストリアの支援?
やりましょうやりましょう
こうした結果、この人がフランスからも多くの文化人を招きます。
技術者はドイツあたりがいいが、
文化人はやはりフランスやイタリアあたりから招きましょう……
まあ、それはそれとしてフランスでは大変なことになっているのですが。
14世どころか後を継いだおじい様の15世まで財政を悪化させてしまった……
これは、貴族や教会以外の力も借りねば……
フランス革命以後のロシア
という中で起きたのが、フランス革命です。ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑された後も、フランスでは混乱が続きます。
ハプスブルク家からフランスのブルボン家に嫁いでいました
このフランス革命で最終的にフランスをまとめたナポレオンが、一気に全ヨーロッパに勢力を拡大します。
かなりの領域を獲得しました
ところがイギリスとロシアの抵抗の前に敗れ、ヨーロッパにとってそこそこ赤の他人だったはずのロシアの影響力が一気に増します。
いわゆる冬将軍に負けました
勝ちました
さらに、神聖ローマ帝国の領域ではプロイセンがオーストリアのハプスブルク家以外を統一し、ドイツ帝国を築きます。
鉄と血で無ければ国は築けん
こうして、旧来は東側でそこそこ軽んじられていた国々が、一気にヨーロッパ全体の在り方にすら口出しできるほどの存在になりました。
国境線もだいぶ変わりました。
上と下でだいぶすっきりしたでしょう?
しかし、このことは、ロシアの人々も戸惑っていました。というのも、ナポレオンとの戦いで、「ナポレオンにも勝ったけど、あっちの方が進んだ考え持ってるしウチの国は遅れすぎじゃない…?」という考えを抱き始めたからです。
この結果、国のシステムを変えたいと思う若者が、知識人を中心に増え始めていきます。ただし、ある問題がありました。この国を豊かにするために、どの方向性にするのか?ということです。ここで、結構前から問題だった、「俺たちは俺たちだろ」という派閥と、「いや普通に西の人たち真似しようぜ」という派閥の二つに分かれました。
一方で、当然といえば当然なのですが、それは皇帝家を中心とした現在の支配体制を割と揺るがすものでした。なので、以後ロシアは反乱や、皇帝の暗殺などが繰り返される状況になります。
テロで暗殺されました
ただし、こうした改革を志す人々は、言ってしまえばエリートです。当時のロシアの本当の普通の人というのは、ほとんど字の読めない圧倒的大多数の農民、それも西側と違い農奴と呼ばれる貴族の財産でした。
しかし、この農民をどうにかしたいという試み「ナロードニキ」のほとんどは失敗し、しかも皇帝へのテロに至ったことで、現行の体制を改革するレベルでは無理だと気づき始めました。
この結果、この国を変えたいと思っていたエリート層は、以後真っ二つに分かれました。もう完全に国自体ぶっ壊さないとダメだと思って革命闘争に加わる人と、割と現実逃避気味に芸術や宗教に没頭する人たちです。
19世紀のロシアの音楽―前編―
というナポレオン戦争から世紀末にいたるまでの100年近い間に、ロシアの音楽界もだいたい同じようなことが起きていました。ちなみに、ナポレオン戦争頃にドイツで活躍していたのがベートーヴェンというのを大体の目安にしてください。
戦争の頃が、ちょうど脂が乗り始めた時期です
ちなみに、この人たちは大体以下の感じです。
もう亡くなってから半世紀以上になります。
そろそろ思い出されてブームになるころです
亡くなってからまだ15年前後です
亡くなってからまだ10年経ってません
最近注目の若手です。
まあ、若死にしてしまうのですが……
ちなみに、この頃私はまだ存命です
このくらいの時期、ようやくロシアでは自分の国の作曲家が曲を作り始めるころでした。グリンカやダルゴムイシスキーあたりがそれにあたります。なお、このグリンカですらシューベルトより年下なので、かなり若い存在です。
これ以前、18世紀のいわゆる「女帝の時代」は、フランス人やイタリア人作曲家の方が有力でした。例えば、エカチェリーナ2世は宮廷音楽家に以下のイタリア人を招いています。
技術者はドイツ人が素晴らしいが、
文化はやはりイタリアから輸入しよう
オペラ・ブッファの大家としておなじみのガルッピです
フランス流の奏法をイタリアに持ちこんだトラエッタです
ロッシーニ以前の大家だったパイジエッロです
ロッシーニ以前の大家だったチマローザです
一方ロシア帝国からは留学生も派遣されえており、その中でもとりわけ目立っていたのが、ベレゾフスキーやボルトニャンスキーなど西側からの窓口としてその影響も強かった、現在のウクライナにあたる地域の出身者でした。
イタリアで学んだあと、ロシア帝国では初めて鍵盤作品・交響曲・室内楽作品を作りました。
もっとも早死にしてしまうのですが……
イタリア留学中にオペラを作りました。
その後多数の楽曲を作り、帝室合唱隊監督の任につきました。
なので、言ってしまえば、18世紀のロシア音楽界とは、イタリア人やウクライナ出身者が大部分を占めていたとも書けます。
それが、若干変わるのが、次の皇帝のせいです。
母・エカチェリーナ2世の外国びいきなど葬り去ってしまえ
この人は、一瞬で暗殺され、次の代にはまた元に戻ります。
父上のような真似をすると殺されるのだ。
いったん、祖母の代のやり方に戻そうと思う
しかし、この一瞬の外国文化排除の結果、ロシア貴族に自国文化への関心がもたらされました。また、このパーヴェル1世の縁故を便り、クレメンティが西からやってきました。かつて皇太子だった頃に母親に送られたオーストリアのヨーゼフ2世の宮廷で会っていたためです。
遠路はるばるようこそ皇太子殿下
これが、今うちの宮廷にいるクレメンティだよ
あの、モーツァルトとも対決したとかいう……
もっともその話は真偽不明なのですが……
彼がたどり着いた時にはパーヴェル1世はすでに暗殺されていたのですが、クレメンティは弟子のフィールドに店頭で演奏させて、最新鋭の「イギリス式アクション」のピアノを売りさばきます。
え?パーヴェル1世がもういない?
こうなったらこのままピアノ屋でもやって稼ぐか……
今演奏しているこのピアノフォルテ。
ピアノフォルテという名前の通り、クラヴィコードやチェンバロと違って強弱がくっきりとつけられるんですよ
また、フィールドは教育者としてもすぐれていたので、瞬く間にロシアにピアノ演奏の伝統を根付かせます。
以下が私の弟子です
後世、ロシア史上最初の作曲家として祀られてしまったグリンカです
バラキレフやズヴェーレフ、ヴィロインクの師匠にあたるデュビュックです
他には私の師匠のアントン・ゲルケなんかもそうですね
このように、ナポレオン戦争が終わった後もこれまでと同様、西から音楽家を招き、その人たちが音楽を広めるという点はあまり変わりませんでした。ただし、その招く地域が次第にドイツやオーストリアになっていきます。先ほど挙げたクレメンティ、フィールドのほかにはシュポーアなども代表例です。
大半の人はファッションか何かで聴いてるだけだけど、
熱心な人もいるにはいるなあ
例えば、アレクサンドル1世の皇太子時代のピアノの先生は、バッハの孫弟子のヘスラーでした。
そもそもウチの家系は代々音楽好きで名が知られていますからね
ロシアに当時そこまで知名度があるとは言えないバッハを広めたのは、
実質的に、孫弟子にあたる私かもしれません
というか、この頃の音楽事業は基本的に皇帝が主導です。皇帝はペテルブルクやモスクワで、例えばマリインスキー劇場だったりボリショイ劇場だったりといった、自前のオペラハウスでオペラを開かせます。それに、貴族が音楽家として加わり、皇帝や貴族の農奴たちが演者などとして関わっていったのです。
一方、19世紀前半というのは、ヴィルトゥオーソの時代です。簡単に言うと、凄腕ピアニストやヴァイオリニストが名をはせ、パリなどの栄えた土地をめぐって身を立てる時代です。
パガニーニ、ショパン、リストなどはこれで国際的な名声を得ます。なお、彼らの一部はロシアのペテルブルクの宮廷にも訪れており、例えばリストは1843年にやってきてロシアにバッハブームをもたらすことになりました。
若干忘れられがちですが、私はオルガン奏者でもあるのですよ
一方で、ロシア領からも同様の存在が現れました。アントン・ルビンシテインです。
とはいえ、今のモルドバ出身なんだけどね
アントン・ルビンシテインは、ロシアに戻ると、リベラルな考えの持ち主だったミハイル大公妃エレーナのサロンに迎えられます。これが1852年です。
やはり、少しずつでも社会を良くしなければ……
ここで意気投合した2人は、1859年にペテルブルクにロシア音楽協会を築きます。アントン・ルビンシテインは弟のニコライ・ルビンシテインをモスクワに派遣するなど、ロシア各地で同様の組織を作らせました。
弟も才能があるし、
モスクワを任せられるだろう
わかったよ兄さん
ロシア音楽協会は、さらに1860年からエレーナのおひざ元で教育活動を始めました。これが1862年にペテルブルク音楽院になり、アントン・ルビンシテインが院長になります。このペテルブルク音楽院には、例えば西側からピアニストのレシェティツキが招かれるなど、西側の音楽を根付かせる拠点として運営されました。
リストの兄弟弟子です
1866年にはニコライ・ルビンシテインもモスクワで、ニコライ・ペトロヴィッチ・トルベツコイやユルゲンソンの協力の下にモスクワ音楽院を作りました。
ちなみに哲学者のエフゲニー・トルベツコイ、セルゲイ・トルベツコイは、
私の息子です
私はその後、いわゆる老舗の楽譜出版社となります
しかし、こういう人たちも出てきます。あんなの西の真似をしたエリート養成コースでしかないのではないかと。
あんなの、エリート向けのアカデミーコースじゃないか
この、今でいうストリート系的な人たちが、おおよそ以下の人たちです。
バラキレフ!
キュイ!
ムソルグスキー!
ボロディン!
リムスキー゠コルサコフ!
(5人そろえて)力強い一団!
いわゆる「ロシア5人組」です。
この人たちはバラキレフ以外はアマチュアで、簡単に言うと「西の真似なんかしてるアカデミーの連中と違って、俺たちは俺たちらしい音楽でロシアの音楽を発展させる」的な人たちです。スターソフのプロモーションのせいで実態はよくわからなくなっていますが。
それはそれとして、ペテルブルク音楽院ではこの人が見つけだされました。チャイコフスキーです。アントン・ルビンシテインは彼を弟・ニコライ・ルビンシテインの下におくります。
これからはモスクワの発展に力を入れます
ありがとう!
助かるよ!
ちなみに、このチャイコフスキーもいわゆる雑階級人でした。確かに音楽院はバラキレフたちの言う通り、前代以来の貴族階級のトレーニング施設ではあったのですが、貴族以外もようやく頭角を現し始めたのです。
しかし、音楽性としては、チャイコフスキーはルビンシテイン兄弟の影響下の、いかにもな西側風のものです。当然、5人組とルビンシテイン兄弟+チャイコフスキーあたりの勢力は対立します。
でも、民衆にも音楽が必要でしょう?
理想は経験的にもわかるんだけどねえ……
ここで、アントン・ルビンシテインはバラキレフに一度ロシア音楽協会の指揮者を任せてみました。
一度普通の音楽家に戻る。
そんなに言うなら一回任せてやる
ほう
ところが、バラキレフはエレーナと対立し、あっさり退任しました。
やはりあの人とは合いません
むぅ……
ただし、ナプラブニクなどがロシア音楽協会で5人組の曲を取り上げていきます。さらに、1871年には、リムスキー゠コルサコフがペテルブルク音楽院に招かれ、音楽院vs5人組という対立構造が崩壊していきます。
こうして、次第にアカデミー系vsストリート系というよりは、5人組とチャイコフスキー的な音楽の対立をある程度継承し、両音楽院で育っていく、ペテルブルク派(5人組系)vsモスクワ派(チャイコフスキー系)という軸になっていきます。
この世代が、1880年代ごろから活躍する、リャードフ、タネーエフ、リャプノフ、アレンスキー、ブルーメンフェルト、グラズノフあたりです。
1855年生まれで、
ペテルブルク音楽院で教わって以来ずっと5人組と親しくしています。
というか、ガチガチのペテルブルク派の重鎮ですな
1856年生まれで、
モスクワ音楽院で大金メダルを手に入れた、ラフマニノフの先例です。
1885年~1889年には音楽院の院長も務めたモスクワ派の重鎮です
1859年生まれで、
モスクワ音楽院を出た後はずっとペテルブルク派と一緒に仕事をしていました。
ただ、一部では超絶技巧練習曲を補った人としか言われませんが……
1861年生まれで、
ペテルブルク音楽院を出た後、モスクワ音楽院の教授になってヒンシュクを買いました。
まあ、両派が和解し始めたのが私のおかげという声もありますが……
1863年生まれで、
ペテルブルク音楽院で育ちました。
長らく活躍していたのですが、今はホロヴィッツの師匠としか触れられません
1865年生まれで、
ほぼ5人組の個人的なレッスンのみで音楽家になりました。
先輩のリャードフと一緒にペテルブルク派の重鎮です
19世紀のロシアの音楽―後編―
この一方で、音楽史全体に大きく影響するので、ドイツに話を戻します。この人の登場です。
音楽は音楽にとどまらない、総合芸術であるべきなのだ!
音楽というのは、世界を革命する力にもなりえるのである!
たびたび援助してきたけど、
なかなか面白いことをやりそうだ
ワーグナーが表現した音楽は、簡単に言えばそれまでにない新しい音楽でした。しかし、これに思いっきり着火してしまう出来事が起きます。
作曲に専念したいし、批評はもうやめにしよう。
編集はブレンデルくんに任せるよ
ワーグナーこそベートーヴェンの真の後継者!
ベルリオーズ、リスト、ワーグナーのような音楽こそ至高の芸術!
え?
手短に言うと、シューマンという作曲家がいました(SSRくらいの作曲家なので詳細は省きます)。彼は音楽批評を確立し、名声を得ていました。そのシューマンが、作曲に専念するために、ブレンデルという人に後を託しました。ところがブレンデルは、リストやワーグナーのような音楽ばかり取り上げてしまうのです。
幻想交響曲とか作ったけど、
フランスにいる私の名前を勝手に使うのはどうなの?
さらに、シューマンの死後、この雑誌の創刊25周年の席に、シューマンの身近な人が全く呼ばれませんでした。これがさらに炎上させます。シューマンの未亡人のクララ、シューマンの弟子ブラームスらが、リストやワーグナーのような音楽への批判投稿を行ったのです
リストやワーグナーのような音楽を、
みんなが認めているわけがないから!
お力になりますよ
この中で、1865年、ワーグナーは楽劇「トリスタンとイゾルデ」をぶちあげました。この曲では、序曲でこれまでにない響き「トリスタン和音」をしょっぱなからぶちこみ(動画の10秒あたり)、以後クラシック音楽は徐々に既存のシステムから離れていく歴史になります。
が、当然これにキレる人もいます。
音楽ってのは音楽だけで成立するものなの!
ワーグナーなんてイロモノじゃなくて、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、シューマンを引き継ぐのは、ブラームスみたいなやつなの!
え?
なんかヒートアップしてきたな……
無茶苦茶単純化して書きましたが、これが19世紀後半のドイツに起きた、ワーグナー派とブラームス派の対立です。とても簡単に言ってしまうと、ベートーヴェンの後継者は、エンタメなのか、抽象的な芸術なのか、どっちがふさわしいの?という戦いです。
それで、この流れで担ぎ出されたのが、この人です。
もう年老いたおじさんだけど、ワーグナーさんみたいな作曲家になりたいなあ。
でも、こんな地味な交響曲しか作れないや
何!?ワーグナー派!?
じゃあ、敵だな!?
おお、もしかしたら、ベートーヴェンの後継者っぽい感じの曲の、
ブラームスのアレと戦える逸材かもしれない
え?
嘘です。無茶苦茶適当書きました。でもだいたいこんな感じで、ブラームスっぽい音楽しか作らないのにワーグナー派として持ち上げられる交響曲作曲家、ブルックナーが誕生します。
ただ、ワーグナーやリストは1880年代には亡くなってしまいます。以後、ワーグナーの正統な後継者判定は、リストの娘でワーグナーの下に嫁いだコジマが率いる、バイロイト音楽祭を担うワーグナー一族がある程度行います。
以後、ワーグナーの末裔としてバイロイト音楽祭は神格化されます
そして、当時のウィーンは、ワーグナー・ブルックナーの影響が強いです。その中から出てきたのが、この人たちでした。
ブラームス?あのカビの生えた音楽しか作れない間男?
ブルックナーみたいな作曲をしたいなあ
さらに、ワーグナーの一門入りしたことで、この人も躍り出ます。
昔はブラームスの方が好きだったけど、
ワーグナーを超えてみたいなあ
しかし、結局のところ、ワーグナーという個性がいなくなったことで、ふわっとワーグナー対ブラームスの対立は解消されます。結局、以後以下のようなワーグナーとブラームスのいいとこどりをした人たちが、ドイツ音楽の本流になっていきます。
ブラームスさんみたいな曲で、
ワーグナーっぽい癖をつけてみたらどうなるだろうか?
この路線の延長線に、
偉大なバッハやモーツァルトの楽曲を組み込んだら面白いことをができるかも?
今の新しいフランス音楽とかも混ぜてみたらどうなるだろう?
けしからん!
で、ロシアの音楽という見出しで、なんでこんな長々とドイツのことを書いたのかという理由は2つです。1つは、何度も言っている通り、ロシアの音楽はこの頃だいたいドイツからの輸入だったこと、もう1つは、ワーグナーという個性があまりにも強すぎて、受け入れるのに相当苦労したんだなあというのが読み取れることです。
エンタメ!新機軸!革命!
私も一時期ワーグナーなら世界を変えられると思っていました。
今ではもう昔の、忘れたい過去ですがね
そんなワーグナーですが、売れる前の1863年に一度ロシアに呼ばれています。その時、彼が今ではもう当たり前になっている客席に背を向けて指揮をしたことに、衝撃を受ける聴衆もいました。ですが、この人はこんな感じでした。
まあ、こんなもんか
一方、この人は若干トーンが違いました。
新しいことをやろうとしている。
取り上げる価値はあるかもしれない
この人が結構取り上げた結果、チャイコフスキーが結構コロコロ意見を変えます。
1863年のワーグナーの演奏を熱心に通ったけど
よくわからなかったよ……
オペラをちゃんと勉強したら、
あの頃ワーグナーがやっていた曲は素晴らしいものじゃないか!?
ドイツ音楽をちゃんと勉強したが、ワーグナーが今やってることは何なんだ!?
バイロイト音楽祭までいやいや行ったけど、聴きに行くんじゃなかったよ……
いろいろ悩んだけど、良くも悪くもワーグナーは偉大だと思うよ……
しかし、これは彼がチャイコフスキーだからで、別の立場である5人組の場合ですら、割れました。
ワーグナーのやり方は間違ってる!
あんな音楽に影響されるなんてけしからん!
うーん、手放しでほめられんやつではあるが……
上の人たちがどう言おうと、
あれは素晴らしいと思う
で、これが例えばグラズノフだったり、タネーエフだったりといった、1880年世代になってくると、もうワーグナーの音楽性を自然なものと受け入れています。つまり、ワーグナーの音楽性はこのくらいの頃にロシアでもまず前提として共有されていくのです。
旧ソ連時代の伝記だと、なぜかアンチワーグナー扱いされていますがな
ということで、メトネルは世代的に生まれた頃にもうワーグナーを自然なものとしている作曲家が活躍している頃です。ということなので、メトネルにとって、理想の音楽側にワーグナーが含まれてることもごく自然なのです。
一方、1873年にエレーナが亡くなることに象徴されるように、パトロンの層が入れ替わります。つまり、これまでの皇族や貴族から、新しいパトロンが目立つようになります。
この時期を象徴するパトロンとして、ペテルブルクの木材商人ベリャーエフ、モスクワの鉄道王マーモントフの2人がいます。彼らのようなブルジョア資本家によって、音楽院出の作曲家が支えられる、というのが19世紀末のロシア音楽界、というわけです。
音楽院があるおかげで、
有望な若手を青田買いしやすくなったな
まあ、金がある人間が箔をつけるために援助するというのは、
いつの時代も変わらんのですよ
この有名な例こそ、チャイコフスキーの伝記に頻出の、鉄道業で成功したフォン・メックの未亡人こと、フォン・メック夫人です。
何かと必要でしょうから、
私が助けましょう
助かります
ベリャーエフは、リムスキー゠コルサコフ、リャードフ、グラズノフの3人を従え、このベリャーエフサークルが若手の登竜門として機能していました。
そして、上記のマーモントフの従姪こそが、スクリャービンの指導を受けた後、夫のモロゾフの遺産もあってモスクワでサロンの女主人として君臨し、メトネル兄弟ともかかわっていくマルガリータ・モロゾワだったりします。
いとこでもある彼女の父・キリルが没落して自殺したので、
後々親戚中で援助したのですな。
といってもそこそこ遠い親戚なので、そこまでエピソードもないのですが……
母方の援助もあり、当面の生活もしのげました。
少し経って父方のマモントフ家の援助も受け、音楽などの芸術を学べるようになります
メトネル兄弟が生まれるまで
そして、そんな中でこの記事のニコライ・メトネルの父方の家が西からやってきます。後世エミリィ・メトネルの認識では、カールの父方はデンマーク人だったのですが、上のプロイセンの統一過程でドイツに組み込まれたシュレスヴィヒ・ホルシュタインの人間でした。おまけに、この家系はそれ以前のフランス革命~ナポレオン戦争の頃にエストニアに流れてきているので、はっきり言うと彼らがドイツに属していた瞬間はありません。
エストニアにやってきた後、彼らはエストニアのペルヌ市の市民権を持っていたのですが、ニコライ・メトネルの祖父・ピョートル・メトネルの代にモスクワに来ます。そこで、スペインからやってきて、ドイツあたりに何代も住んでいたモリアン家の女性、マリヤ・モリアンと結婚し、ニコライ・メトネルの父親・カール・メトネルが誕生します。
このカール・メトネルには商売の才能があったのか、ただちにモスクワレース工場を経営する資本家になりました。なお、実はこの時点では、メトネル家はまだエストニアのペルヌの住人でした。
カールはまだロシアに来たてだったこともあり、ロシア文化よりも、19世紀のドイツロマン主義にどっぷりつかった、文学や哲学畑の趣味人だったようです。
そんな彼の下に、アレクサンドラ・ゲディケという女性が嫁ぎました。彼女の母方は上にも書いたドイツからやってきた俳優のゲプハルト家の子孫で、同じく西のポンメルンから来たゲディケ家に嫁ぎ、姓がゲディケになっていました。
このアレクサンドラの兄弟にはフョードル・ゲディケがおり、彼はモスクワ音楽院で教師を担えるほどの演奏家でした。さらにフョードルの息子に、後にソ連のオルガン奏者の一派を築く、アレクサンドル・ゲディケがいます。
ニコライ・メトネルのいとこです
また、アレクサンドラ自身も音楽教育を受け、メゾ・ソプラノの声楽家でした。つまり、アレクサンドラの実家は、音楽の家風が強いということです。
この、父方が人文系、母方が音楽系という家風は、この2人の子供の教育に大きく影響していきます。
当然といえば当然なのですが、彼らはロシアの正教徒ではなく、ルター派のプロテスタントでした。
なお、カールの姉妹のエミリヤはシュテンベル家に嫁ぎ、彼女が設けた息子が、画家のヴィクトル・シュテンベルです。
ニコライ・メトネルのいとこです