誕生
メトネル家の4男
この、カールとアレクサンドラの間の4男として、1879年12月25日(ユリウス暦)/1880年1月5日(グレゴリオ暦)に生まれました。一つ注意がいるのが、当時ロシアはまだ革命以前なので、旧暦のユリウス暦を使っています。このため、メトネル本人はクリスマス生まれだと自分のことを思っていたと思います。
彼が生まれたのは、当然カールの工場があったロシアのモスクワです。このカールは工場を経営する資本家だったので、貴族ほどではないがそれに次ぐくらいのアッパークラスの家の、後継ぎとならなくてもよい末の方の男子、という出自が大きく彼の人生に影響します。
なお、以下の2人はもっと上の、いわゆるいいとこの出でした。
父の代で一度没落しましたが、実は貴族です
もうほとんど、士官にかろうじてなれる程度の、
ラフマニノフよりかなり小さめの家ですが、貴族の出です
ただし、ニコライ・メトネルが生まれたころというのが、ロシアで皇帝が暗殺され、きな臭い状況になりつつあった時期です。結果として、知識人の、革命に向かうか、文化に向かうか、という2方向の分離が、彼の人生に大きく影響します。
私が殺されたのが1881年です
メトネルの兄弟
メトネルには他に5人の兄弟がいました。3人のお兄さんと、1人のお姉さん、1人の弟です。
メトネルの1番上のお兄さんは、エミリィです。彼はお父さん・カールの持っていた、人文系の方の家風を受け継ぎました。当初は文学の志を持ったのですが、自分で作品を作るのは次第にあきらめ、やがて弟・ニコライ・メトネルのプロデューサー的な存在となりました。一方で、自分の理想の音楽性などを世界に広めようとし、「ヴォリフィング」のペンネームで音楽批評を行っていきます。
弟とは生涯にわたり、色々なことがありました
このエミリィは、かの有名な精神分析家、カール・グスタフ・ユングと友人になっていきます。
心理学史に出てくるあのユングです
私の元弟子です
また、3番目のお兄さん・アレクサンドルは、ニコライ・メトネルと同じく母親の音楽家の家風の方を受け継ぎました。彼もまたモスクワ音楽院に進み、ヴァイオリニスト、指揮者となります。
なお、1番上のお兄さんが公務員になった後にドロップアウトして在野の思想家に、弟2人が音楽家になったので、父親の工場は2番目のお兄さんのカール(父親と同じ名前)が継ぎます。しかし、彼は第一次世界大戦に従軍中、ロシア革命が起きて革命軍につかまります。家族の助けで釈放された後、内戦に徴兵されてすぐに戦死してしまいます。
また、姉にソフィヤがいます。このソフィヤはサブロフという家に嫁ぎ、彼女の息子が思想家のアンドレイ・アレクサンドロヴィッチ・サブロフ(Андрей Александрович Сабров)です。
なお、ニコライ・メトネルの唯一の下の兄弟、弟のウラジーミルは10歳で亡くなりました。このため、彼について書けることはほとんどありません。
兄弟順です。
- エミリィ:長男、批評家、妻をめぐって色々あった人
- カール:次男、後継ぎで、エミリィとニコライに関わるアンナの姉・エレーナの夫。
ヴェーラ・タラゾヴァの父親 - アレクサンドル:三男、同じく音楽家
- ソフィヤ:長女、アンドレイ・サブロフの母親
- ニコライ:四男、本人
- ウラジーミル:五男、わずか10歳で亡くなり、特に書くことはない
メトネルの入学まで
メトネル兄弟のうち、下の方であるニコライなどは、相続などとほぼ無関係なので、伸び伸びと育ちました。そのうえ、3人目の息子のアレクサンドル、4人目の息子のニコライは、音楽の才能を示しました。
ここで、長男のエミリィにしばらくしこりを残すある事件が起きます。特にニコライが音楽の才能を強く示したため、家族総出で彼を音楽家として大成させようとし、全てにおいてこのことを優先したことです。
ここで、父の気風を継ぎ、文学か何かでも書こうとしていたエミリィは、夢をあきらめることとなります。
今後は、弟に自分の理想的な存在になってもらうことを、生涯の目標としよう
一方、ニコライはそんなことは全く知らず、伸び伸びと才能を伸ばしました。6歳の頃から兄・アレクサンドルの影響で勝手にヴァイオリンをはじめ、母親や叔父のモスクワ音楽院でオルガン講師を務めていた、フョードル・ゲディケからピアノも習いました。
ただし、この頃のメトネルはこんな子供だったようです。
叔父さん、子供向けの曲なんかいやだよ。
バッハやベートーヴェン、モーツァルトやスカルラッティがやりたいんだい
結果として、11歳の頃にはもう自分から勝手に作曲すら始めるような人間になっていたのです。
音楽って素晴らしいなあ。
理想の音楽を作ってみたい
しかし、そうはいっても完全に音楽の道に行かせることは、親としては葛藤があったようです。ここで一度ニコライ・メトネルは、通常の学校生活に進まされ、ギムナジウムに進む選択肢も残されました。しかし、ある日、メトネルは学校から帰ってくるともう学校に行かず、音楽の道一本でやっていくと述べます。
もう学校には行かない。
音楽院に入る
これに困惑した両親は、ギムナジウムの教師だった、ゲディケ家のヴラディーミル・ゲディケを頼ります。しかし、あまりにも音楽を好んでいたニコライとそれを推し進めたい兄・エミリィの後押しで、結局モスクワ音楽院に1892年に進学します。なお、ニコライ・メトネルの入学年は、英語版Wikipediaが盛大に間違えてるので注意してください。
音楽のことしか考えられないんだ!
もう音楽だけやらせてくれ
ここまで来たんだから、ニコライは音楽一本でやらせるって覚悟を決めてくれ!
こっちはとっくに人生かけるって腹づもりなんだから
この2人の説得がうまくいった理由としては、正直いとこにすでに音楽院に行ったアレクサンドル・ゲディケがいたためでした。
ニコライの3歳上なので、先輩という見本になってしまいました
また、この説得の結果、まったく同じタイミングで兄のアレクサンドルも音楽院に入学しました。
ニコライ・メトネルは、ピアノ科に進学しました。なお、ラフマニノフもスクリャービンも卒業年が1892年5月なので、この2人の先輩らとはほぼ重なっていません。
ちなみに私が日本で襲われた「大津事件」があったのが、この直前です
おおよそ、メトネルが音楽院に入るまでに、音楽界で登場した楽曲は、マーラーの交響曲第1番「巨人」(1888年)やサティのジムノペティ(1888年)、ドビュッシーのベルガマスク組曲(1890年)などです。
入学直前に音楽院で起きていた政争
ここで、ニコライ・ルビンシテインが築き、チャイコフスキーらが引き継いだモスクワ音楽院で、ピアノ科に直近にある事件があったことを書きます。1889年にタネーエフに代わり院長となったワシーリー・サフォノフと、ラフマニノフをモスクワ音楽院に呼んだ元凶でもある彼のいとこ・アレクサンドル・ジロティの対立です。
アレクサンドル・ジロティは、ニコライ・ズヴェーレフの生徒でした。つまり、ラフマニノフやスクリャービンを幼いころ育てたあのズヴェーレフの下でしごかれた人間です。一方、あのフランツ・リストの弟子ということで注目を浴びていた、当時まだ30にも満たない若手のピアニストでした。
ジロティです。
モスクワ音楽院で学んだあと、リストの下に派遣されて晩年の彼から学ぶことができました
晩年の私の弟子です
一方、ワシーリー・サフォノフはジロティの一回り上の世代で、テオドール・レシェティツキの弟子です。彼はピアノや指揮者としての腕前は高く、強いリーダーシップの持ち主でしたが、逆に言えば独裁的で、権威主義的な性格の人間でした。
サフォノフです。
ペテルブルク音楽院に入るより前に、当時教授だったレシェティツキに学びました
私の弟子です
ちなみに、リストもレシェティツキもカール・チェルニーの弟子です。ということは、ジロティもサフォノフもチェルニーの孫弟子ということなので、どちらもピアニストとしてはベートーヴェンのひ孫弟子にあたります。
リストもレシェティツキも、ピアノ教材でおなじみの私の弟子です
チェルニーは私の弟子の一人です
彼ら2人は、1885年~1889年のタネーエフが院長を務めていた時代に招かれた存在です。この時期というのは、ニコライ・ルビンシテインの、学校といってもほぼ借り教室でやっていた手探りの状態から、変わろうという時期でした。赤字まみれの経営をタネーエフが建て直し、次第に規模が大きくなり、教育機関として完成しつつある、そんな状況でした。
正直私も30前後のまだ若造なんだがなあ……
ジロティは、ズヴェーレフや、当時院長だったタネーエフの要望で、1888年に音楽院にやってきました。
ジロティは信用できるから、
ラフマニノフやイグムノフあたりの有望な弟子を任せてもいいか……
一方サフォノフは、それに先立つ1885年にチャイコフスキーの要請で音楽院に来ました。
なお、ここで2人の有名なピアニスト出身の教授がいたことが、ある運命を分けます。ラフマニノフがジロティの生徒になったことと、スクリャービンがサフォノフの生徒になったことです。
ズヴェーレフといろいろあったこともあり、
ジロティに後を託されました
まあほぼ身内ですしね
音楽院ではタネーエフやアレンスキー、サフォノフらに学びました
まあ、言ってしまえば、
普通に教育され、普通に卒業したという感じだな
しかし、1889年にタネーエフの母親が亡くなります。このショックのため、タネーエフはいったん心身を休ませる意味で辞任を表明しました。ここでタネーエフが後任として推薦したのが、サフォノフです。一方、チャイコフスキーやズヴェーレフといったニコライ・ルビンシテインを知る世代は、ジロティを推していました。ですが、ジロティはあまりにも若く、リーダーシップが強く人脈のあるサフォノフが最終的に勝ちました。
性格に難があるが、
将来的にはリーダーシップを発揮できるサフォノフを推したい
ジロティ君の方がいいと思うのだが、まだ若すぎるか…
この決定でモスクワ音楽院は機関としてさらに成熟することになりました。しかし、超保守主義で権威主義であったサフォノフと、リベラルな思想の持ち主で音楽性もある程度革新的だったタネーエフはあっさり対立します。しかし、そうはいっても人事権などをほとんどサフォノフに渡してしまったタネーエフは反主流派となります。
タネーエフは、以後返り咲くことも全くなく院内の野党側として過ごします。
こんなことならジロティにしておけば……
そのうえ、この決定によって、院内が完全にサフォノフの思い通りになった結果、ジロティとしてはかなり不満が多かったようです。結果、ちょうどニコライ・メトネルが入学する直前の1891年8月に、ジロティは辞表を出し、去っていきました。
私が院長になったからには、私のやり方で音楽院の発展に努めさせていただく
生徒には申し訳ないが、
さすがに彼と争うよりは、音楽家として身を立てていこう。
彼は優秀な演奏家だから、生徒を任せるに足る実力はあるだろうし……
なお、この騒動に巻き込まれたのがラフマニノフとスクリャービンでした。まず、ラフマニノフはジロティが辞めると分かった結果、卒業を1年早めようとします。これがなぜか認められてしまった結果、1年上のスクリャービンなどと一緒に卒業に向かっていきます。
ジロティがいなくなった後の1年のことを考えてしまうとね……
このラフマニノフとスクリャービンは、2人とも正直サボり魔だったのですが、作曲クラスに関しては対称的な生徒でした。というのも、ラフマニノフはアレンスキーから才能を認められ、とても教師としては褒められた人間ではないアレンスキーから手取り足取り教えられたことで、期待に応えようとします。一方、スクリャービンも才能を認められていたのですが、アレンスキーの要求をガン無視してピアノ曲にしか身が入りません。おまけにアレンスキーはサフォノフと逆の党派にいたため、サフォノフの弟子のスクリャービンの態度に反発します。
モスクワに来た後、
チャイコフスキーやタネーエフと仲良くしていたというところから察してください
正直、もう教わることはないと、
タネーエフの方の授業はサボりまくっていました。
ただ、カンニング疑惑は置いておいても、書類上成績は良かったのですよ
伝記によって原因はまちまちなのですが、
唯一確かなのはアレンスキーには嫌われたことでしょうね
この結果、ラフマニノフは作曲科とピアノ科をそろって金メダルで卒業し、過去にタネーエフくらいしか成し遂げていない大金メダル卒業となりました。一方、スクリャービンは作曲科の卒業を諦め、ピアノ科のみを金メダルで卒業します。
ちなみに、ラフマニノフが1位で、スクリャービンが2位で卒業したというのは、
金メダル制度の誤解から来たものです
しかし、ジロティ派とみなされたラフマニノフは、卒業当初は目立った職に就けず、細々と暮らしていました。
あのジロティの親戚で弟子というのは、
あまり関わりたくはないのでな
別の場所で活躍する手はずを整えないと……
一方、スクリャービンはサフォノフに手厚く支援され、ベリャーエフというパトロンを得たり、モスクワ音楽院で1898年にピアノ教師になっています。
期待にも応えられているようだし、
仕事も与えようではないか
仕事に困らないのはありがたい
ちなみにこの頃のスクリャービンの生徒の一人です
という一連の経緯の結果、メトネルは完全にサフォノフの天下になったモスクワ音楽院に入ってきたわけです。
ちなみに、このころチャイコフスキーはギリギリまだ存命でしたが、特にメトネルと何かあったわけではありません。
1893年没なので、まだ存命です
メトネルの学園生活
ニコライ・メトネルが入学した後、ピアノ科として以下の4人の先生に教わりました。
- アナトリー・ガッリ:ズヴェーレフの弟子
- パーヴェル・パプスト:リストにも教わっているので、ある程度ドイツ系の系譜
- ワシーリー・サペルニコフ:パプストの死によるもの、サリエリ→モシェレス→ブラッサンの系統
- ワシーリー・サフォノフ:当時の院長
メトネルには、ラフマニノフやスクリャービンのような、在学中の個性的なエピソードが特にあるわけではないようです。とはいうものの、ピアノ科自体は金メダルで1900年に卒業することになりました。サフォノフから「ダイヤモンドのメダルがふさわしい」と評されるほど優秀な生徒だったようです。
あのメトネルは、なかなか見込みがありそうだ。
これなら「ピアニスト」として、名声を獲得できる逸材になるだろう
作曲関係は基礎理論をカシュキン、和声と楽曲分析をアレンスキー、対位法をタネーエフなどに教わりました。しかし、年度が終わるまでに対位法の授業に出るのをやめてしまったようです。理由としてはあまり身を入れて打ち込めなかったようでした。
ただし、その後タネーエフからは個人的なレッスンを受けることになります。この結果、このタネーエフの個人レッスンが、生涯唯一の対位法に関する教育となってしまうのです。
あのメトネルは、なかなか見込みがありそうだ。
もしかしたら、「作曲家」としても、やっていくのに十分な存在かもしれない
この作曲の正式な教育をほとんど受けていない点は、後世までメトネルの脳裏にしこりとして残り続けました。
正規の教育をほとんど受けていないのに、
本当に作曲で戦っていけるのだろうか……?
ちなみに、メトネルの在学中の1897年に、ラフマニノフが交響曲第1番の初演を失敗してしまう事件が起きました。
あれが音楽?あんな邪悪なものが?
せっかくのチャンスをフイにしてしまった……
これはしばらく、演奏に専念した方がいいのかもしれない
でも、グラズノフの指揮がもっと良ければな……
そんなこと言われても……
また、実はスクリャービンがビアノ科で教え始めたのが1898年なので、教師としてのスクリャービンとメトネルは面識はあるはずなのですが、特にエピソードは残されていません。
おおよそ、メトネルが音楽院を卒業するまでに、音楽界で登場した楽曲は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」(1893年)や、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」(1893年)、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」(1894年)、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」(1896年)などです。
作曲家の道へ
卒業後、先輩のアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルとともに、1900年8月にウィーンで開かれた第3回ルビンシテイン国際コンクールにピアノ部門で出場することになりました。このルビンシテイン国際コンクールとは、後世ショパコンとも呼ばれるショパン国際コンクールの前身にあたる存在です。
また、ここで出てくるアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルとは、簡単に言えばラフマニノフやスクリャービンの後輩でメトネルの先輩にあたるピアニストです。ラフマニノフと同じくジロティの生徒であり、ジロティがいなくなった後パプストに任され、1895年に一度ピアノ科を卒業します。ですが、すぐに作曲科に再入学して1897年に二度目の卒業をしています。
ゴリデンヴェイゼルは、ラフマニノフ、スクリャービン、メトネルらの友人としてたびたび登場します。特に晩年のトルストイに付き従い、ラフマニノフをトルストイに紹介したのも彼ということになっています。また、後で出てくるベールイの回顧録には、メトネル家に飲みに行ったときにいる酔っ払いとして認識されていました。
メトネル以外ほとんどだれも作っていないおとぎ話というジャンルを、
スターリン体制期に作っていたりします
日本では、コンスタンチン・イグムノフ、ゲンリヒ・ネイガウス、レオニード・ニコラーエフ、もしくはサムイル・フェインベルクと並んでロシア・ピアニズムの四大教師とも言われています。しかし、すでに名前が5人出てきている通り、日本に限って言えば正直「ロシア・ピアニズム」という一種のフィクションの一環として祭り上げられている存在で、実際ロシアに本当にそんなものがあるのかは怪しいです。
ラフマニノフと同い年で、
ラフマニノフ、ゴリデンヴェイゼルと同じくジロティの生徒でした
後世モスクワ音楽院の院長も務めたほどです
シマノフスキやブルーメンフェルトの親戚です。
正直ほとんど海外で教育を受けたのですが、名前が出てくるのは後世モスクワ音楽院で教えたせいだと思います。
息子のスタニスラフ・ネイガウス、孫のブーニン、ひ孫のアディと、代々ピアニスト一門です
もともとモスクワ音楽院の人間だったはずなのですが、
教育活動はペテルブルク音楽院でずっと行っています
院が違うこともあってか、2010年代以降は四大教師と扱われているのを見たことが無いような……
確かにずっとモスクワ音楽院にいましたが、
ゴリデンヴェイゼル先生の生徒なので、ほかの4人と世代が違います。
そもそも生徒は全員ゴリデンヴェイゼル先生の孫弟子でもあるので、四大教師というのは眉唾な気もします
それはさておき、このメトネルとゴリデンヴェイゼルの一行には、メトネルのいとこのアレクサンドル・ゲディケも作曲部門で出場するということで、3人でそろって渡欧していきました。
ただし、本来メトネルは両部門に出場する予定だったようです。しかし、これを見かねたサフォノフが勧めて、片方に専念させました。明らかにメトネルがパンクしていたという理由です。
君はピアニストとして実力があるのだから、ピアノ一本で戦えばいいじゃないか
せっかく作曲でも実力を試すチャンスだったのに……
しかし、いざ現地に行くと、コンクールの質や政治抗争が透けて見えてしまいます。このことは、事前に優勝者が決まっていると、現地でサフォノフに打ち明けられてしまったほどでした。この上、作曲部門でゲディケが賞を取ったため、ピアノ部門の出場者は反露感情から不利な立場に追い込まれてしまいます。
ついには、自身が大失敗したと感じた演奏が奨励賞になってしまいます。この結果、すっかり不快感を覚えてコンクールを終えることになっていまいました。
なんだこのコンクールは?
本当に実力を測る場なのか?
さらに、サフォノフの用意した演奏旅行を蹴ってしまいます。まず、好ましくない選曲があったためと、作曲の熱が入り始めたためでした。つまり、メトネルは、ピアニストではなく作曲家としてのキャリアに専念したいというのです。
エミリィとタネーエフ以外が猛反対した、このピアニストとしてのキャリアを閉ざす選択は、サフォノフを怒らせることになりました。この結果、メトネルは、サフォノフとはずっと和解できず、1916年に久々にサフォノフの手紙を受け取るまでは縁も切れます。
せっかく期待していたのに、いちいち逆らいおって!
もうお前など知らん!
それでも……
自分の中の理想の音楽を、この世界に出してあげたいのです……
ちなみに、だいたいこの時期がラフマニノフがピアノ協奏曲第2番に向き合って立ち直るくらいで、1901年秋に初演されました。
作曲に向かえなくなっていただけで、
普通にその間も指揮者としてバリバリ働いていましたよ