メトネル家のルーツ
メトネル兄弟が生まれるまで
ロシア皇帝がドイツ人を招く中で、この記事で取り扱うニコライ・メトネルの母方の先祖、ゲプハルト家がロシアに来ました。チューリンゲンのとある有名なオルガンの一族から逃げ出し、全く別の土地で俳優として身を立てようとし、そのままロシアに流れてきたようです。この後、先祖はロシアで成功し、そのままロシアに居ついたようです。

エミリィ・メトネルが、この先祖が私の親戚かもしれないと思っていた疑惑もあるのですが、
実証しようがないですな
また、一方でこの記事のニコライ・メトネルの父方の家も西からやってきます。後世エミリィ・メトネルの認識では、カールの父方はデンマーク人だったのですが、上のプロイセンの統一過程でドイツに組み込まれたシュレスヴィヒ・ホルシュタインの人間でした。おまけに、この家系はそれ以前のフランス革命~ナポレオン戦争の頃にエストニアに流れてきているので、はっきり言うと彼らがドイツに属していた瞬間はありません。
エストニアにやってきた後、彼らはエストニアのペルヌ市の市民権を持っていたのですが、ニコライ・メトネルの祖父・ピョートル・メトネルの代にモスクワに来ます。そこで、自分をムーア人の子孫とアイデンティティにしているエストニア(当時はスウェーデン)の名家・モリアン家の女性、マリヤ・モリアンと結婚し、ニコライ・メトネルの父親・カール・メトネルが誕生します。
このカール・メトネルには商売の才能があったのか、ただちにモスクワレース工場を経営する資本家になりました。なお、実はこの時点では、メトネル家はまだエストニアのペルヌの住人でした。
カールはまだロシアに来たてだったこともあり、ロシア文化よりも、19世紀のドイツロマン主義にどっぷりつかった、文学や哲学畑の趣味人だったようです。
そんな彼の下に、アレクサンドラ・ゲディケという女性が嫁ぎました。彼女の母方は上にも書いたドイツからやってきた俳優のゲプハルト家の子孫で、同じく西のスウェーデンからポンメルンを経由して来たゲディケ家に嫁ぎ、姓がゲディケになっていました。
このアレクサンドラの兄弟にはフョードル・ゲディケがおり、彼はモスクワ音楽院で教師を担えるほどの演奏家でした。さらにフョードルの息子に、後にソ連のオルガン奏者の一派を築く、アレクサンドル・ゲディケがいます。

ニコライ・メトネルのいとこです
また、アレクサンドラ自身も音楽教育を受け、メゾ・ソプラノの声楽家でした。つまり、アレクサンドラの実家は、音楽の家風が強いということです。
この、父方が人文系、母方が音楽系という家風は、この2人の子供の教育に大きく影響していきます。
当然といえば当然なのですが、彼らはロシアの正教徒ではなく、ルター派のプロテスタントでした。
なお、カールの姉妹のエミリヤはシュテンベル家に嫁ぎ、彼女が設けた息子が、画家のヴィクトル・シュテンベルです。

ニコライ・メトネルのいとこです