若き日のメトネル
兄嫁・アンナとの関係
さらに1902年に別の事件が起きます。エミリィの結婚です。しかも、その相手というのが、学生時代から家族ぐるみで交流があり、かねてより恋愛感情を持っていたアンナ・ブラテンシーだったのです。
この、アンナ・ブラテンシーのブラテンシー家はユダヤ系で、父親・ミハイル・マトヴェイェーヴィッチ・ブラテンシーは歯科医の中産階級でした。もともとは、ニコライ・メトネルの姉・ソフィヤと、アンナの妹・マリヤが学校の友人で、その縁でメトネル兄弟のカールと、アンナの姉妹のエレーナが結婚します。こうした意味から、アンナはエミリィにとっても、ニコライにとっても、兄弟の奥さんの実家の人として、昔馴染みでした。
ちなみに、このアンナはヴァイオリンもたしなんでおり、音楽の素養もありました。
おおよそどの伝記も、以下のような経緯です。
もともと、家族ぐるみで付き合いのあったアンナには、エミリィとニコライは同時に親しくなったようです。そのうち、エミリィとアンナの交流の中でニコライがアンナへの恋愛感情を強めていることを察した母親が、ニコライにアンナとの交流を禁止します。
ニコライ……
お前まさかアンナのことが……?
やがて、ニコライは音楽院を卒業したあたりでマルクグラフ1と知り合い、これに安心した両親に婚約させられます。一方、アンナ本人は三角関係に苦しんでいたのですが、エミリィからプロポーズされたときにすでにニコライに婚約者がいたので、最終的にエミリィと結婚します。
だってアンナを最初に好きになったのは、
エミリィ兄さんなんだもん
そして、エミリィは公務員としてニジニーノヴゴロドに行き、アンナもそれについていくことになります。
モスクワとニジニーノヴゴロドの距離は、
後世の鉄道路線図の赤線を参考にしてください
しかし、実際は、後世色々あって資料の残りも悪いので、よくわかりません。というか、ブラテンシー姉妹の姉妹順すら、伝記によってまちまちです。
しかし、ニコライは、エミリィとアンナをニジニーノヴゴロドまで追いかけ、2人と同棲します。さらに、結局ニコライとアンナはあっけなく恋を燃え上がらせてしまいます。ニコライは、エミリィにすべてを打ち明けます。エミリィはこれを受け入れ、ニコライはマルクグラフの婚約を破棄し、エミリィ公認の恋愛関係となります。ただし、両親には心配をかけないために、エミリィはここで止まるようにとも言っていました。
アンナは僕が最初に好きになったんじゃないか…
(混乱しているな……?)
お前たち2人が愛し合っているのは認めるが、
頼むからプラトニックな関係で済ませてくれ……
ところが、1904年と1907年に、二度の流産事件を引き起こし、3人に後世まで残る暗い影を落としました。これが原因で、ニコライとアンナは、事実上の夫婦といっても子供も作ろうとせず、ほとんど公私を共にするパートナーくらいの距離感で生涯を終えます。
何やってるんだお前!
子供が死んだのは、アンナがお前のことで苦しんだせいだ!
そんな……
なんてことをやってしまったんだ……
ただし、このことでエミリィと疎遠・険悪にはなりませんでした。エミリィは、以降もニコライ・アンナと生涯続く交際を続けていくことになります。
しかし、ニコライとアンナの関係は両親には全く認められず、2人の結婚は、ロシア革命以後まで待つことになります。
ちなみに、だいたいこの時期がスクリャービンが不倫をしているくらいで、1904年春にスクリャービンはスイスに新しい妻を連れて逃げ出し、1909年までロシアに戻ってきませんでした。
だってロシアの法律じゃ離婚できなかったから……
兄・エミリィとの関係
一方で、エミリィは、弟のニコライに、かなり屈折した期待を抱いていました。つまり、本来ワーグナーが構想していたにもかかわらず、死によって失敗した音楽による革命を、ロシアでニコライに起こさせようとしていたのです。このエミリィは、要するにアーリア主義者2でした。
お前はアーリア人の末裔のゲルマン民族として、
あの偉大なワーグナーの跡を継ぐ存在になるのだ!
総合芸術による革命を世界に起こすのだ!
そんなことがやりたいわけじゃないのに……
エミリィは、自分に流れるドイツ系の血を誇りに思います。結果として、スクリャービンやレビコフといったフランス文化寄りの人物に対抗する、ドイツ派のボスとして、モスクワに君臨します。つまり、エミリィというのは、ロシアのインテリにとって、革命運動に身を投じるつもりはないような「西に学ばなければならない」派の中で、複数いた学ぶ国・地域のうち、ドイツを選ぶ時に手を結ぶ相手、というわけです。
フランス人は今面白いことをやっているね。
あれを元にすれば、本当に音楽で世界を変えられるのかもしれない
フランス人のやっている印象派音楽は、面白いな……
あれが本当に音楽なのか?
ベートーヴェンたちが志した、理想の音楽なのか?
それは確かにそうだけど……
よって、エミリィはある種プロデューサーとして、弟のニコライにドイツ音楽の後継者的な存在としてふるまわせていました。しかし、マリエッタ・シャギニャン3ら第三陣営の人々らから見ると、弟からはある程度距離を置かれており、正直空回りしていた扱いをされていたようです。
メトネルは、ラフマニノフさんの力になるかもしれない……
でもあのお兄さんはちょっと……
ただし、ドイツ文化を発信し、音楽こそ世界を革命させる力であるとしていたエミリィは、アンドレイ・ベールイら第二世代の象徴主義者とかなり仲良くしてました。この象徴主義というのは、ざっくリ言うと、見えないモノを見ようとして」覗き込んじゃった感じの人たちです。つまり、政治運動ではなく、何かこの世のものではない力で世界を変えられるのではないかという方向に向かった人たちです。
このきっかけとして、科学が進歩してきた結果、「リアルリアル云々言ってたけど、人間に知覚できないものってこの世界にいっぱいあるじゃん……」となった19世紀の時代感があります。さらにロシアの場合は、ナロードニキ運動などの失敗による、閉塞感も後押ししました。
ということで、ベールイのアルゴナウタイ同盟という、「世界の夜明けが云々」というサークルに、メトネル兄弟はそろって同志の範囲にカウントされることになります。正直、エミリィは1906年にあっけなく仕事をやめ、『金羊毛』といった雑誌刊行に関わっていくようになります。
なあ、エミリィよ。
2人で、あのアルゴナウタイのように、真の美を求める探求に行こうではないか?
弟のニコライもそれを実現する器に値するのではないのか?
その通りだ!
一緒に金羊毛を探しに出航する、同志となろう!
でも、あの人たちのやりたいこと、何かちょっと違うな……
ただ、メトネル自身もドイツ的なものを好んでいたというのは事実です。例えば後世アメリカで誤訳されたことでおとぎ話として定着した楽曲群は、メトネル本人的にはドイツロマン主義的なメルヒェンでした。つまり、これらの楽曲はあくまでも、個人的な体験、内なる葛藤、対立についての物語なのです。
Märchen~
作曲家メトネル
メトネルは、在学中にもすでに曲を作っていましたが、中でもある大作に着手します。ピアノソナタです。
ということで、ちょうどエミリィとアンナとの関係が始まりつつあった頃、最初のピアノソナタ第1番を作りました。この曲は、初めての大作ということで、作曲中にヨゼフ・ホフマンなどに見てもらい、石橋を叩いて渡るような時間のかけ方をしました。
対位法を学んでないと謙遜しているが、
まだ若いのになかなか見どころがある。
自信をもって完成させればいい曲になると思うよ
ありがとうございます!
この楽曲は大成功となり、ベールイやタネーエフからも称賛されました。
ベートーヴェンからシューマンまでの音楽における
「夜明け」のテーマで作った曲だね
まるでソナタ形式とともに生まれてきたようだ
正式な教育を受けていないのに、
そんなことを言ってもらえるなんて
ちなみに、このピアノソナタ第1番はアンナへの思いが曲中にあふれているともいわれています。ただし、唯一英語で読めるMartynの伝記が言ってるだけで、本人にしかたぶんわからないと思います。
彼の楽曲は作曲の師・セルゲイ・タネーエフの紹介で、上で述べたベリャーエフの支援で出版されることになっていました。改めて説明すると、ペテルブルクで音楽家を囲い、ベリャーエフサークルを築いていた、木材商人です。手短に言うと、ペテルブルクにおける音楽界のドンです。
なかなか見どころがあるようだし、
まあ任せなさい
作曲家の登竜門みたいなところに、
加われることができるなんて……
ですが、ベリャーエフは1904年に死んでしまいます。結局、メトネルが持ち込んだ最初の曲も、ユルゲンソン社が代わって出版し、はじめはユルゲンソン社と契約する身でした。
モスクワの最大手といえば、
うちの会社ですからね
当てが外れちゃったけど、
まあなるようになるか
この後、メトネルは1906年までに三部作ソナタを完成させます。この3つのピアノソナタをまとめた曲集は、3曲とも第1番とは打って変わって、すべて単一楽章という変則的なものでした。
さらに、この頃国外にいたスクリャービンも、1907年に単一楽章のピアノソナタ第5番を作ります。この楽曲はそれまでのスクリャービンと打って変わって、完全に異なる音楽性のものでした。なお、ロシアでは1908年に初めて演奏されました。
メトネルはこれ以降のスクリャービンの音楽性を正直認めていませんでしたが、以後メトネルとスクリャービンの2人によって、単一楽章のピアノソナタがたくさん作られ、それに影響された若手たちがたくさん現れます。それ以前ピアノソナタの伝統がほぼなかったロシアに、ピアノソナタがたくさん作られるきっかけとなったのです。
メトネルって知ってるかい?
これがなかなかいい曲を作るんだ
なかなか手になじむじゃないか!
彼みたいな曲を作ってみたいものだな……
スクリャービン、メトネル、
2人とも尊敬に値する先輩だなあ
君には才能があるんだから
すぐにあの2人みたいになれるさ
教育者メトネル
一方でメトネルは、レフ・コニュスの学校や、エリザヴェチンスキー女子学院などで教師として指導をして、生活していたようです。
以後私も大体ラフマニノフと同じような、
生涯にわたるメトネルの友人となります
なお、ちょうどこの頃起きたのが、日露戦争です。
バルチック艦隊破れたり!
この結果、ロシアは血の日曜日事件などが起き、第一次ロシア革命に至りました。
民衆を撃つような皇帝など、国のリーダー失格ではないか!
この状況でさらにまずいことになったな……
この事件には、メトネルは2つの意味で巻き込まれます。1つは、アンナの兄弟であるアンドレイが秘密警察の追跡に耐え兼ね、自殺した事件。もう1つは、ペテルブルク音楽院で、学生のストライキがきっかけとして起こった、リムスキー゠コルサコフが辞任に追い込まれた事件です。
1番目については、すでに述べたソナタ三部作に、アンドレイを追憶する楽曲が入っています。
2番目については、以下の経緯です。体制派だった当時の院長、アウグスト・ベルンハルトが、ストを行う学生に対して憲兵などを呼び、鎮圧。さらにストに同情的だったペテルブルク音楽院の教授で、5人組の生き残り、リムスキー゠コルサコフが辞任に追い込まれます。
この状況で現体制を擁護するなんて、
いくらなんでも間違ってる!
このあまりの重鎮に起きた事件に、ペテルブルク、モスクワを問わず、ロシア音楽界が猛反発し、署名運動も起こりました。メトネルもこの署名に加わっています。
結果として、ペテルブルク音楽院は、最終的にリムスキ-゠コルサコフ派のグラズノフが院長に変わります。
なんとか事は収まったが、
君はこれから政治をやらなければならないよ?
覚悟の上です
この騒動に盛大に巻き込まれたのが、当時生徒だったプロコフィエフたちでした。
まさか、教授たちがほとんど入れ替わるなんて……
このことが吉と出るか、凶と出るか
ちなみに、このことはモスクワ音楽院でもある騒動を起こします。というのも、サフォノフは体制派だったので、当然このことを冷ややかに見ていました。結果として、サフォノフに反発したタネーエフの辞任と、サフォノフ自身も学生などのリムスキー゠コルサコフに同情的な音楽家たちからの圧力に勝てず、辞職に至ります。
あんな権威主義の下でやってるのはまっぴらだ!
私は、無償で人民のために奉仕する人間になる!
もう付き合いきれないよ……
私ももう、ただの音楽家として生きていこう……
こうした騒動の後、メトネルは1909年にペテルブルク音楽院の院長であるグラズノフに誘われました。しかし、これを蹴ります。
縁もゆかりもないのはわかってるけど、
ウチも今大変だから力になってくれないかい?
うーん、音楽だけに関わりたいからなあ……
一方、モスクワ音楽院のイッポリトフ゠イワノフに招かれて、この年から同学院でピアノを教えるようになりました。つまり、メトネルは完全にモスクワ側の人材となったようです。
作曲の邪魔にならないように最大限配慮するからさ
こんな大変な時だし、ピアノ教育だけ手伝ってくれないかい?
まあ、さすがに手に職がないとね……
しかし、12人も生徒がいたことで、完全に作曲活動に身が入らなかったようです。結果、メトネルは1年でこの仕事をやめてしまいます。
さすがに12人も面倒見切れないよ!
生活に支障が出たし、もっと人数絞ってくれないと
ちなみに、あっさり仕事を辞めたことで、父親からは怒られています。
ただし、このあと数年交渉し、メトネルは1915年に再任します。最大8人の、実質的なエリートコースを担ったようです。
この人数なら回し切れるかな?
優秀な人しか見てないんだし……
なお、残された手紙などによると、そうはいってもモスクワ音楽院に影響力を残したいゲディケやメトネルの意向で、姪のイリーナや従甥のニコライ・シュテンベルら親戚が、ちゃんと面倒見るからと誓って駆り出されたようでした。
あ~、アレクサンドル兄さん?
ちゃんと手厚くサポートするから、娘のイリーナをピアノ科に入学させてくれない?
ただし、後世ロシアのピアノ教育は、あまりにもいわゆる四大教師が伝説的に神格化されているので、メトネルの影響力についてはよくわかっていません。ちょうどそれが今見直されているのが現在進行形です。
おおよそ、メトネルが最初に音楽院で仕事を始めたころまでに、音楽界で登場した楽曲は、エルガーの「威風堂々」第1番(1901年)、ドビュッシーの交響詩「海」(1905年)、マーラーの交響曲第8番「千人」(1906年)、ラフマニノフの交響曲第2番(1907年)などです。
当時の最新の音楽との関係
あまり触れる余裕がなかったのですが、メトネルはオフの期間ほとんど渡欧し、ドイツなどで演奏会などを行っていました。そのため、当時最新の音楽界の情報は、ある程度リアルタイムで伝わっていました。
たとえば、メトネルは1907年の渡欧の時にグリーグをロシアに招こうとします。しかし、グリーグがこの年に亡くなるように、この試みはうまくいきませんでした。
あなたは素晴らしい音楽を作るので、
なんとかロシアに来てくれませんか?
お気持ちはありがたいが、
もう歳だし断らせていただくよ
しかし、そんなメトネルは、当時のドイツ音楽を全く受け入れることができませんでした。
レーガーやリヒャルト・シュトラウスのようなワーグナーの下の世代なんて、
聴くに堪えないよ……
それ以外なんて論外さ
正直面識もないし……
そんなこと言われてもなあ……
しかも、ここでついに音楽史を決定的に変える人たちが出てきます。ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、バルトーク、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンといった、20世紀音楽の幕開けともいうべき作曲家たちです。
ストラヴィンスキーのバレエ「火の鳥」が、ついに1910年にパリで初演されました。これは、ロシアの興行主・ディアギレフによってパリでプロデュースされていた「バレエ・リュス」によるものです。要するに「俺たちは俺たちでいいんだ!というかもっと東に目を向けていいんだ!」と思っていた層を音楽化したような、原始主義の音楽をそのままパリで響かせたのです。この曲は、以後ロシアのステレオタイプと化すように、大成功しました。
初演が断られたことで1918年まで世に出ませんが、バルトークの「青ひげ公の城」が1911年です。
さらに、シェーンベルクが1912年の「月に憑かれたピエロ」などで無調音楽に踏み出します。ワーグナーがトリスタン和音で新しい一歩を踏み出したのがかわいく思えるくらい、クラシック音楽は既存のシステムからの別れを告げようとしていました。
さらに、1913年には、ストラヴィンスキーがパリでいわゆる「春の祭典」事件を引き起こします。初演時に聴衆を混乱の渦に巻き込んだ、あの曲が世に出たのです。
一方、若手だったプロコフィエフがストラヴィンスキーに近いリズミカルな楽曲を作ります。
さらに、シェーンベルクに続く形で、弟子にあたるベルクやウェーベルンも楽曲を出していきます。彼ら新ウィーン楽派によって、十二音技法と呼ばれる新しい境地にクラシック音楽は向かい始めました。
つまり、クラシック音楽というのは、この1910年前後を境に、皆が美しいと感じるわけではない、実験的な音楽への第一歩を歩み始めます。そして、メトネルは、盛大にこの一歩にドン引きします。
ドイツの今の音楽ですら耐え難かったのに、
あんなのもはや音楽じゃない!
のちの伏線になるので美術サイドにも触れます。例えば、当時の西欧はアヴァンギャルドな芸術のメッカになっていました。例えば青騎士の流行ったドイツや、キュビスムの流行ったフランスなどです。しかし、彼らはあくまでも、表現方法に革命をもたらしただけで、扱う題材は旧来のままでした。
そこに1909年、イタリアからフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが未来派宣言を行います。
古典的な芸術作品よりも、車なんかの方がよっぽど美しいじゃないか!
つまり、取り扱う題材すら既存のものから離れだしたのです。
このマリネッティの傍らには、自分で騒音音楽用の楽器を作ってしまったルイージ・ルッソロなんかもいました。
まあ、私の楽器はもうあまり残されていないので、よくわからないのですが……
一方、ロシアでもだいたいこの時期似たようなことが起きていました。1910年というまさにその年に、ニコライ・クリビン、アレクサンドル・ベヌアといった画家が物議を呼び、ロシア画家同盟が分裂します。この結果、「印象派」、「ダイヤのジャック」、「ギレヤ」、「青年同盟」といった、グループが乱立し、のちのロシア・アヴァンギャルドに通じる未来派運動がロシアで始まります。
ここに出てきたニコライ・クリビンが、音楽も含めてこのような芸術観の持ち主だったことが、ロシア芸術にとってある種始まりとなり、メトネルにとっても不幸の始まりとなります。
芸術ってのは調和と不調和の戦いで成り立ってるの!
不調和な音があったって、全体で調和すればすべて良し
東洋にも目を向けなよ
このクリビンもショーペンハウエルやニーチェ、ブラヴァツキー夫人やシュタイナーの思想を取り入れているため、完全にメトネルと同じ土壌から生まれた申し子だったりします。しかし、このクリビンの1908年ごろに広まった思想は、文学界のザーウミ運動や、美術界の「転移」といった概念の導入だけでなく、音楽界にも微分音ブームをもたらしていきます。また、クリビンはリムスキー゠コルサコフや、アレクサンドラ・ザハリイナ゠ウンコフスカヤに影響され、色彩音楽の概念を唱えます。
ここで出てきた微分音とは、全音階や黒鍵も含めた半音階どころか、それより狭い音程を使った音楽を志向するものです。例えば、1922年に亡命したことで、西側に微分音というものを広めたヴィシネグラツキーの音楽はこんな音です。
もっとも、さっさと亡命したから有名になったわけだから、
ロシア・アヴァンギャルドの作曲家じゃ全然ないんだよね
1912年には「ダイヤのジャック」のブルリュークが以下のような宣言を行います。
我々は既存の社会の趣味への平手打ちを行う!
1913年になるとメトネルが姪に皮肉るイラストを送った程度には嫌いだったヴェリミール・フレーブニコフと、アレクセイ・クルチョーヌィフ、ミハイル・マチューシン、カジミール・マレーヴィチというそうそうたるメンバーが、それに対抗する宣言を行います。
平手打ちの時代ももはや過去になった。
これからは爆音と威嚇の彫刻が芸術を湧き立たせるのだ!
ということでこの4人で、『太陽の征服』という、オペラを名乗るよくわからないものを世に出しています。
こうした未来派運動の中で、後世ロシア・アヴァンギャルドの作曲家といわれる存在が育っていきます。例えばペテルブルク音楽院の生徒だったアルトゥール・ルリエーが、1915年ごろから微分音などの分野で第一人者になろうとします。一方モスクワ音楽院のロスラヴェッツもまた、1910年代中ごろからスクリャービンをさらに推し進めたような既存の枠組みにとらわれない音楽を作り始めます。
実はメトネルの人生とは結構かかわりが深かったりします
マチューシンやルリエー、サバネーエフと違って、
私の出番はやはり革命後ですね
ということなので、メトネルの祖国ロシアでも、徐々に革命後の伏線が敷かれ始めたというわけです。
なんだこれはなんだこれはなんだこれは
ちなみに、メトネルとの出会いはおそらくもっと先ですが、この時期アメリカではようやくジャズが流行り始めたことは書いておきます。
また、おなじくアメリカではブルースも流行りはじめ、第二次世界大戦後の大衆音楽のルーツが少しずつ表れ始めていました。
モスクワの3人の並び立ち
この直前の1909年に、スクリャービンがロシアに戻ってきます。スクリャービンは、戻ってきた直後の1910年に、「プロメテウス」をロシアにぶっぱなしました。
さらに、スクリャービンが帰ってきたのとほぼ同時期に、金持ちで指揮者だったセルゲイ・クーセヴィツキーもまた、故郷のロシアをよく訪れるようになります。このセルゲイ・クーセヴィツキーの音頭取りで、新しい出版社が作られることになりました。
正直音楽史ではもう、
バーンスタインの師匠としてしか触れられることもないかな……
このクーセヴィツキーの作った出版社に、スクリャービン、ラフマニノフ、メトネルらはそろって参加します。
一緒にロシアの音楽界を盛り立てていこう!
やるからにはちゃんとした音楽だけを選びますよ
ただ、スクリャービンは金の工面の問題もあってか、あっけなくクーセヴィツキーとは縁が切れてしまうようで、すぐにいなくなります。
一方、この少し後からメトネルはラフマニノフとの交流が生まれるようになります。すべてのきっかけは、マリエッタ・シャギニャンが、ラフマニノフを擁護する投稿を雑誌に載せたいとエミリィのところに殴り込みに来たことです。
ここがメトネル派の拠点なのは知っているが
不当に評価されていないラフマニノフさんを擁護させてほしい
向いている方向は違うが、
根っこは同じそうだしまあいいか……
この後、シャギニャンはメトネル家と仲良くしつつも、ラフマニノフと文通を通し、いい感じにメトネルとコンタクトを取れるように誘導を行います。この結果、メトネルとラフマニノフが1913年5月の渡欧中、ようやく交流を持ち始めます。
これでラフマニノフさんにも、
心強い味方ができた……
実は、メトネルくんがピアノソナタ第1番を作ってる頃に、
会ってはいるんだよね。
そもそも出版社の話もこっちから持ち掛けてるし……
当初食事中にすら思想や哲学の話をしたがるメトネルに合わないものを感じていたラフマニノフですが、結局シャギニャンの思惑通り、メトネルとラフマニノフは急速に仲良くなります。
ラフマニノフ先輩は、
ショーペンハウエルやニーチェはお読みですか?
興味のない話ばかりされるのはなんだが、
いいやつではあるようだ
なお、この2人は内心相手の方が才能があると思い、ラフマニノフはロシア時代のメトネルとの友情を生涯にわたって報い続けることになります。
メトネルと後輩・プロコフィエフ
一方、この頃メトネルという作曲家の位置づけをめぐって、ある争いがありました。プロコフィエフみたいな音楽が魂がこもったロシアの音楽であって、メトネルなんてドイツ風のすっからかんな構造だけの音楽じゃないかという論争です。これは割と、かつての「西に目を向けるべきだ」と「俺たちは俺たちらしくあるべきだ」のインテリの論争の再演だったりします。
このときにメトネルを叩いたのが、ヴァチェスラフ・カラトゥイギン、メトネルを擁護したのがミャスコフスキーです。ちなみに、ちょうどメトネルがピアノソナタ「夜の風」などを出した頃でした。
メトネルの音楽になんて、ロシアの魂はないじゃないか
メトネルもプロコフィエフも素晴らしい曲を作りますよ
曲は好きだけど、
あんなおじんと一緒に列挙されるのはちょっとなあ……
1913年3月3日(おそらく旧暦)に、この出版社に持ち込みに来たプロコフィエフの楽譜をメトネルとラフマニノフがそろって猛反対したことは、幼いころメトネルのファンだったにもかかわらず、プロコフィエフに生涯恨まれることになります。
ない
ない
あんたたちみたいなロートルよりも、
才能があるってことを証明してやる!
先輩・スクリャービンとの関係
1910年代中頃までは、ニコライ・メトネルはエミリィ・メトネルやアンドレイ・ベールイ、セルゲイ・ドゥルイリンといった人々にとって、「オルフェ」4とみなされていました。つまり、エミリィ、ベールイ、ドゥルイリンといった人々が、メトネル派ということになります。
ムサゲート出版社もできたことだし、
ここでウチのニコライのような、理想的な美について発信しようじゃないか
その通りだ同志よ!
なかなか面白いことをやっているね。
その活動に加わっていいかい?
みんな大切な友人だけど、
微妙に何かやりたいことと違うような……
そしてモスクワでは、スクリャービンを「オルフェ」とするボリス・シュリョーツェル5やレオニード・サバネーエフ6、 ヴャチェスラフ・イヴァノフらと両陣営ができました。
まさか、スクリャービンがウチの妹と不倫するなんて……
でも、彼は面白い音楽を作るし、力になってやろう
私こそが、スクリャービン様の一番の理解者なんだ……
ベールイがメトネルを選ぶとはねえ。
スクリャービンの方が面白いと思うのに……
そんなことより、神秘劇を作らねば……
ただし、後世、サバネーエフが強調するほどスクリャービンとメトネルは仲が悪かったわけではないようです。
例えば、アンドレイ・ベールイの回想録によると、まだスクリャービンと断交してなかった頃のクーセヴィツキーの紹介でメトネルはスクリャービンと知り合うことになり、以後縁ができたようです。
作曲が煮詰まっているようなら、
スクリャービンを紹介してあげるから、相談してみなよ
ああ、君があのメトネルか
なんか顔見知りになっちゃったな……
ワーグナー好きなの?
んで、リヒャルト・シュトラウス嫌いなの?
さらにニーチェも好きなの?
なんか気が合いそうじゃない?
また、メトネルの姪のヴェーラ・タラゾヴァの回想録などによるとスクリャービンはたまにメトネルの家に家族でやってきて、ご飯食べながら神智学7がどうのといった話をしたりしていたらしいです。
ところで君、神智学って知ってるかい?
いや、そんなに興味があるわけじゃないんだけどさ
ウチにその本があって、そこにはこんなことが書かれているみたいでさ
マハトマの教えはやはり偉大……
ちなみに私はもともとロシアの出身です
とか言いつつ、ずっと討論しちゃったな……
このため、おそらく両者本人がはっきり対抗していたわけではなかったのだと思います。ラフマニノフ派だった、マリエッタ・シャギニャンの回想録によると、作曲家本人よりは本人を無視した取り巻き同士の戦いがそこらへんで起きていたというのが実態に近いようです。
また、このことを表す、最大の逸話があります。1910年に起きた、メトネル対メンゲルベルクの戦いに関連するものです。ヴィレム・メンゲルベルクとは、オランダの指揮者で、ベートーヴェンのひ孫弟子にあたる通りベートーヴェンの第一人者を自負していました。
クーセヴィツキーはそのメンゲルベルクの指揮で、メトネルにベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を弾かせるコンサートを企画しました。
そして、1910年12月7日(旧暦)のこの練習中、メトネルとメンゲルベルクは、曲のテンポをめぐって大喧嘩を繰り広げ、メトネルは降板させられました。
ベートーヴェンのこの曲をこんなテンポで弾くなんて、
ベートーヴェンへの冒涜だ!
ベートーヴェンのことはこっちがよく理解している。
君の方がよっぽど身の程知らずだよ、ひよっこ
その翌日、メトネルは雑誌に長文の投稿を送り、気持ちを表明します。さらにこれに擁護に立ったのが、スクリャービンを先頭にした人々でした。
芸術家というのは、作品の理解に人生をささげるのだ。
それを披露するメトネルの権利は当然尊敬に値し、保証されるべきだ
12月15日(旧暦)にはアーネスト・ウェンデルの指揮で代わりのコンサートが開かれ、メトネルは無事それを全うします。メトネルは直後に、プロモーターのクーセヴィツキー以外にも、この間支援したスクリャービンやタネーエフ、イッポリトフ゠イワノフといった人々に感謝を表明しました。
メトネルは後世スクリャービンをこのように回顧しています。
スクリャービンの晩年の曲は、
あれほどの音楽的制約で縛り付けていたのに何かは成し遂げたと驚いているよ
演奏家スクリャービンのペダルの踏み方は死ぬまで忘れないだろうね
先輩・ラフマニノフと兄・エミリィの関係
ちなみに、この辺のスクリャービン派とメトネル派の抗争にラフマニノフはほぼ我関せずだったようです。ラフマニノフは、そもそも好きな音楽を作ればよく、そこに思想を持ち込むのも違うんじゃない?というレベルで、特定のバックグラウンドを持つのを避ける人間だったためです。
どうでもいいから、やりたいようにやらせてくれ……
このことは、エミリィの1912年の著作、「モダニズムと音楽」の件でも表れます。メトネルとラフマニノフが知り合いになる直前の1912年11月、エミリィはこの本をラフマニノフに送るのですが、ラフマニノフは軽いお礼だけ送り、シャギニャンに全く気に入らなかったことを告白しています。
アーリア人の末裔であるウチの弟みたいな音楽が理想なの
よくわからないな……
なお、メトネル兄弟とアンナは1914年2月8日(旧暦)のラフマニノフの合唱交響曲『鐘』のモスクワ初演を聴きに行きます。
メトネルは、シャギニャンの勧めでエドガー・アラン・ポーの詩をバリモントが訳したものを歌にしたものという点に1年くらい不安をずっと抱いていたようですが、「本物の美を表現している」と称賛していたようです。ところがエミリィは、遅れてやってきた挙句、何か悶々としてました。そして、しばらくの間書面でラフマニノフバッシングをエミリィは繰り広げたのです。
ラフマニノフなんてうわべが美しいだけの作品じゃないか
顔見知りとはいえ許せぬ
兄さん……
この辺の争いは、ラフマニノフがこの曲をメンゲルベルクに献呈したことで、メトネルとの友情は続くもののメトネル周辺の人物を不快にさせたとシャギニャンは回顧しています。
この曲はあなたにあげますよ
なんだかありがたいねえ
ラフマニノフさん……