メトネルの亡命
革命までのメトネル
メトネルは、こうして身を立てつつも、1911年以後、コンスタンチン・ヴィクトロヴィチ・オシポフの領地でエミリィ、アンナと共に過ごしていきます。やがて、仕事のため1913年からモスクワに移っていきます。
1914年に後輩のスタンチンスキーと知り合ったことが、特筆すべきことです。
あなたがメトネル先輩ですね
君がなかなかいい線行ってるっていう、
後輩のスタンチンスキーか……
ちなみにこの頃、エミリィはずっと付き合いのあったドイツ人の友人・ヘドヴィヒ・フリードリヒと結婚し、ニコライとアンナを結ばせようとも考えていました。
正直なところ、今更アンナにそういう感情ももはやないしな
一方、メトネルはそのままモスクワ音楽院の教師職の再任に向けて準備をしていました。ところが、ついにあの事件が起きます。サラエボ事件、第一次世界大戦の開戦です。
ハプスブルク家死すべし!
ぐわっ、ゾフィー……
ドイツをはじめとした枢軸国を、フランス、ロシア、イギリスが包囲する形で始まった大戦は、ドイツの構想とは裏腹に膠着し、数年にわたる塹壕戦に突入します。ここで、メトネルやラフマニノフは徴兵を免れますが、メトネルの兄で、家業を継いでいたカールは前線に送られます。さらに、エミリィは当時ドイツにおり、最終的にスイスのチューリヒに逃れますが、東部戦線を挟んで完全に家族と分断されました。
エミリィ兄さんとはほとんど連絡が取れないし、
カール兄さんも前線……
両親だけじゃなくて、カール兄さんの家族やブラテンシーさんの家も、
一人で支えなきゃいけないのか……
なお、当時エミリィがいたスイスのチューリヒは、悲観的な芸術家が始めたダダの動きとは別に、あることを書いておきます。この後メトネルの人生を大きく変えるきっかけとなる、あの人がいたことです。
革命家・ウラジーミル・レーニンです。
この辺のくだりは長くなるので飛ばす
ちなみに、本職が軍人だったので、ミャスコフスキーは士官として前線に送られます。
なあに、すぐ帰ってこれるさ
死ぬんじゃないぞ……
別にミャスコフスキーが死ぬわけではないです。
ただし、ラフマニノフと因縁のあったエミリィがいなくなったこと、メトネルが頼りにできる人がほとんどいなくなったことから、メトネルとラフマニノフがさらに接近します。
お兄さんとはいろいろあったが、
ウチには財産もあるし困ったときには助けてやるからな
ありがとうございます……
しかし、1914年8月28日に亡くなったリャードフを皮切りに、この後戦争とは無関係に立て続けに作曲家の死人が何人も出ていきます。
スタンチンスキーは10月6日に謎の怪死を遂げました。自殺ともいわれています。メトネルは彼を追悼する曲を捧げました。
知り合って間もないけど、
いいやつだったのになあ……
我が友よ、
お前が生きた証を絶対にこの世界から消させないからな
翌1915年にはスクリャービンがあっけなく亡くなりました。
最近何がやりたいのかよくわからなかったけど、
いい人ではあったなあ……
おまけに、スクリャービンの葬儀で風邪をこじらせ、タネーエフもあっけなく亡くなりました。
先生まで!?
このことは、ラフマニノフにとって別の転機となりました。スクリャービンが亡くなったことを追悼するコンサートを1915年秋から開催するようになり、それまで自分の曲しか弾かなかったラフマニノフが、ピアニスト・ラフマニノフとして大成するきっかけとなったのです。
しかし、このことは、スクリャービンの曲はスクリャービンのように弾くべきだという立場からは批判を招き、スクリャービンという未完の神話が徐々に形作られるきっかけになります。
ただし、結構さらっと流されるのですが、ここでメトネルもラフマニノフのスクリャービンはスクリャービンじゃない派でした。
ラフマニノフは、自分の個性でスクリャービンの曲をラフマニノフにしてしまっているなあ……
ちなみに、プロコフィエフは相変わらずでした。
ラフマニノフさん、あのスクリャービンの演奏ですが、
まーまーよかったですよ(100%の善意)
は?
は?
しかし、スクリャービンの葬儀の直後に起きたドイツ系ロシア人が殺される事件をきっかけに、次第にこのままここにいていいのかとぼんやり考え始めます。
人間関係の変化
なお、このスクリャービンの死んだ時期頃に、エミリィ・メトネルとアンドレイ・ベールイが完全に仲たがいします。
すべての始まりは、1911年以降のベールイとエミリィの、ムサゲート出版社をめぐる対立です。早い話、ドイツ的な純粋哲学を推し進めたいエミリィに対し、宗教やオカルトに傾倒するベールイが、徐々にしっくりこなくなった結果です。
1912年以降に人智学協会のルドルフ・シュタイナー8に接近するアンドレイ・ベールイらと、それを引いた眼で見ているエミリィ・メトネルがはっきりと対立します。さらに、これにロシアの右翼のドンみたいな存在であるイヴァン・イリインが、エミリィ擁護に立ちます。結果、ドイツにいるベールイとスイスにいるエミリィがどんどん戦いを激化させ、ニコライとほぼ無関係に決着がつきました。
エミリィのやっていることは、本当にアルゴナウタイのすることなのか?
シュタイナー先生のような思想の方がよいのではないか?
せっかく哲学をやっている仲間も加わったんだから、
ムサゲートはこの路線で進めていくべきなんだよ!
エミリィさんに味方しますよ
一方で、このイリインは、フロイト的な精神分析を実践していました。ここで、スクリャービン派にいた、第二世代象徴主義のリーダーの一人である、ヴァチェスラフ・イヴァノフを自分の影として敵視してました。
先ほど述べたように、イヴァノフがスクリャービン側にいたので、イヴァノフに対抗してエミリィの弟のニコライを崇拝し始めたわけです。
スクリャービンは面白いことをしているね
あんな奴に関わっちゃダメです
また兄さんの知り合い?
ところが、スクリャービンの死後にニコライにイヴァノフが仲良く話していたことから、イリインは報復行為に出ます。イヴァノフがニコライ・メトネルに同性愛めいた感情表現をした偽の手紙を送り、2人を断行させます。このため、イヴァノフとメトネルが以後仲良くすることはありませんでした。
せっかく仲良くできると思ったのに、
なんて奴だ
心配しないでください
あなたには私がいますよ
ということで、ニコライ・メトネルと全く関係ないところで起きたごたごたで、ニコライ・メトネルを「オルフェ」とする勢力に変化が起きたわけです。ただし、イヴァン・イリインは、その後革命政府に追放され西欧に行った後も、生涯にわたってメトネル兄弟を助け続ける一人になりました。
ロシア革命
この後戦争中とはいえ落ち着いた状態にはあります。そもそもロシアは戦場にはなっておらず、イギリスなどの連合国との行き来も可能だったためです。
この時期のメトネルには、イギリスにいる、かつての先生であるサフォノフから歌曲をほめる手紙が届きました。かつての断交以来久々の連絡で、この後何もなければ、和解に至ることもあったかもしれません。
作曲家として頑張ってるようだな。
今度一緒に何かやらないか?
先生……
しかし、さらなる事件が起きます。ロシア革命です。
話が脱線するので、
とりあえず私が政権を取ったところまでは飛ばす
正直私は出ません
なお、秘密列車でロシアに戻ってきたレーニンを迎えた民衆に、ショスタコーヴィチがいたという話があります。しかし、本人自身もスターリン体制期での政治パフォーマンスを繰り返してしまった結果、彼関係の証言を証明するすべがあまりありません。
そもそもまだ幼い子供のころだからね
話を戻すと、レーニンは、ボグダーノフ派という別の党派にいたにもかかわらず、教育・文化事業をルナチャルスキーという人間に任せました。そのルナチャルスキーに当初重用されたのが、詩人マヤコフスキーや演出家メイエルホリド、作曲家ルリエーといった存在でした。
革命が成功したからには、
人民のために新しい文化体系を築く必要がありそうだ
詩のあり方を変えるきっかけになるのでは?
演劇を革命するいいチャンスかもしれない
自分の音楽性を広める機会がやってきたようだ
ちなみに、ルリエーの音楽というのは、こんな感じです。
このルナチャルスキー、ルリエー体制期の音楽を象徴する楽曲こそ、アヴラーモフが都市全体を楽器化して演奏した、これです。
とりあえず、貴族の出だったラフマニノフがその年の末に亡命した以外は、普通の思想信条の人はそのまま暮らし続けました。
といっても、私も正直なところは先の不安というよりは、
領地を失ったことが原因で、当面の収入を得に合法的に出国しました。
ここでラフマニノフやメトネルのような亡命した人間の亡命した理由は、ソ連に配慮して回顧録では建前が書かれているかもしれないということに気を付ける必要はあります。しかし、後世アレクサンドロフの語ったところでは、メトネルはこの頃まだこう考えていたようです。
ラフマニノフみたいなことはしませんよね?
燃えている家から逃げ出すような真似なんてしないさ
一方で、メトネルはまず、1918年にロシア革命によって結成された公教育人民委員部に加わります。しかし、当然、ルリエーとメトネルはそりが合わないわけです。
あんな音楽でもないものを作るやつの下でなんて……
ただし、ルリエー側は演説などを見た限りこのように考えていたようです。
メトネルはチャイコフスキー、タネーエフ、スクリャービンら偉人に続くような、
今日のロシア音楽の非常に興味深い現象さ
なお、こうした新体制についていけない存在には、ルナチャルスキーは体制批判さえしなければ出国も簡単に認めました。その代表例が、1918年初めに日本経由でアメリカに向かったプロコフィエフです。ちなみに、プロコフィエフは日本で音楽家と交流し、ロシア通だった大田黒元雄とも交流していきます。
今の音楽界は、
先生以外だとミャスコフスキーさんとかが有力なんですか?
いや、メトネルの方がよっぽど人気がありますねえ
一方メトネルはこの頃、前線に行って連絡が取れなかったカールが革命軍につかまっていたことを知り、父親と釈放の交渉に向かいます。さらに、安心したのもつかの間、母親のアレクサンドラが亡くなります。こうした悲劇のさなか、メトネルはピアノ協奏曲第1番の披露を行いました。
ちなみに、この曲の影響元はおそらくカトゥアールと言われており、メトネル本人はブラームスと比較されるのを嫌がりました。
しかし、革命政府は、対戦国であったドイツとブレスト゠リトフスク条約を結び戦争から手を引いた結果、各地の白軍やそれを支援する諸外国との内戦状態に陥ります。さらに、それに対抗するチェーカーの赤色テロルなどで、体制派の犠牲者が多く出ます。
代表例がこの人たちです。
最後の皇帝です
その娘の一人です
ちなみにサフォノフもそこそこ危うかったのですが、幸か不幸か1918年2月27日に病死しました。
先生と何かをやろうという夢は、
かなわなくなってしまったのか……
この後しばらく、ペテルブルクからすでにペトログラードと名を改めたペトログラード音楽院の再建に関わったり、グラズノフ、アサフィエフ、ゴリデンヴェイゼルらと公教育委員会に関わったりして、現実を知っていきます。というか、メトネル家にとって一番の問題は、ホロドモールの原因とも言われている、1918年~1919年のロシアを覆った食糧不足でした。
1919年にモスクワをついに離れ、ブグリのアンナ・トロヤノフスカヤの別荘に移ります。さらに、母親が死に、エミリィもいなかった結果、1919年6月21日にメトネルとアンナは結婚しました。
もう20年近く事実婚みたいなものだったけど、
複雑だな……
当然といえば当然なのですが、この革命に伴い、資本家であった父親の工場は権利を奪われます。さらに、兄のカールは釈放後にロシア内戦に従軍させられ、1920年3月ごろまでに戦死してしまいます。こうした結果として、メトネルは、自分の両親だけではなく、カールの遺族や男手が早世でいなかった姻族のブラテンシー家まで養う必要が出て来ました。
このため、その後もしばらくはロシア国内で演奏会を続けます。なお、プロコフィエフ曰く、スクリャービンが死に、ラフマニノフもプロコフィエフもいないロシアにおいて、メトネルが重鎮としてリーダーシップを強く発揮しているようでした。しかし、古くからの知り合い、マルガリータ・ モロゾワが主催する「モスクワ宗教哲学協会」で、メトネルのドイツ性の批判などがありました。
この時期に作ったのが、ピアノソナタ第十一番通称「悲劇的」などで構成された「忘れられた調べ」です。
やがて、1920年になると、白軍との戦いがほぼ赤軍側の勝利に傾きます。この結果、文化事業に盛大な見直しが来ました。なので、ルリエーなどは少し風向きが怪しくなります。
これまでは人気取りのために見逃していたが、
さすがにあんなよくわからない連中を重用しなきゃいけないのはおかしいのでは?
私の沽券にもかかわるし、擁護もできんか
なんか期待はずれだな……
一方で、メトネルもまた、1921年にロシアを離れることとなりました。ロシア内戦が終わるのが1922年だったので、安全に出国できる結構きわどいタイミングでした。メトネル本人の感覚としては、当初はあくまでも生活費を賄う一時的な出国でした。しかし、結果的に生涯帰ることのない「亡命」となり、あの時代に典型的な亡命ロシア人の一人として、西側で身を立ててていく必要になります。
あんなルリエーの下では活躍できないし、
父さんや兄さんの家族を養うには、外に出稼ぎに行くほかないか……
とりあえずエミリィ兄さんに会いに行こう
おおよそ、メトネルが亡命するまでに、音楽界で登場した楽曲は、レスピーギの交響詩「ローマの噴水」、(1916年)、プロコフィエフの交響曲第1番「古典」(1917年)、ホルストの「惑星」(1918年)などです。
また、1919年にはついに電子楽器、テルミンが誕生します。
さらに、この時代というのは、レコードやラジオが一般的になる段階でした。これまでの楽譜と1回きりの演奏を楽しむ、というスタンスから人々の価値観が次第に変わり始めたのです。ということで、レコードで録音されたポップスやジャズが、ミリオンヒットを記録するようになったのもこの時代からでした。
また、こうした動向によって、各国の大衆歌謡が徐々に記録されます。後世ワールドミュージックと分類されるものの結構な割合の起源が、この辺りの時代にあります(以下後世のカバーも含みます)。