ドイツとフランスのメトネル
ドイツのメトネル
メトネルは、貧しい暮らしとエミリィに会うために、最初はロシア人知識人たちの集まっていたベルリンに亡命しました。確かにエミリィにはようやく再会できたのですが、1910年代時点で不満を抱いていた当時のドイツ音楽界とそりが合わず、またロシア音楽への蔑視なども感じ取ったようです。
あー、ついに結婚してたんだ……
兄さん……
国を出たとたん、父さんも死んだよ……
当初の予定では、メトネル家としては、ベルリンフィルの指揮者、アルトゥール・ニキシュらに自分の音楽性の介在者となることを期待していました。ところが、ちょうどよくニキシュが死に、ワルター、フルトヴェングラーらへの世代交代が起きたため、これが実現できませんでした。
旧世代の巨匠として今は扱われていますが、
私は自分で交響曲も作る、当時のドイツ音楽を発信するインフルエンサーですよ
あんな若造にドイツ音楽をゆだねるなんて、
世も末だなあ
ここまでずっと書いてきたように、当時のドイツ音楽界は、アルノルト・シェーンベルクやリヒャルト・シュトラウス、さらにはフランツ・シュレーカー、フェルッチョ・ブゾーニ等が席巻していました。そして、メトネルは彼らにかなり不満を抱いていました。
メトネルさん、
仲良くしましょうよ
音楽性の違いで無理です
こっちなんてほとんど隠居の旧世代ですよ!?
あんなブゾーニなんかに重要なポストを就かせるなんて、
(あまりにもひどいこと書きすぎて、伝記で省かれる記述)
さらに、ここにソ連に見切りをつけたルリエーまでやってきて、彼みたいな音楽しか評価されなかったので、完全にキレました。
もうソ連の連中とは付き合いきれないわ
どの面……
どの面下げて……
なお、この頃ラフマニノフと交流のあったプロコフィエフは、メトネルをアメリカに連れていきたいという話を聞いて様子を見に、1922年2月~3月ごろにメトネルの家に押しかけています。
おとぎ話って曲ありましたよね?
おとぎ話みたいな曲作ったんで、聴いてくださいよ~
思ったよりはいいやつかもしれないけど、
やっぱり曲はわからん
ああ、やっぱり”そういう”人なんですね
一方、この時期メトネルはクーセヴィツキーとの関係が途絶えます。結果、メトネルは革命を受けてロシアからドイツに移ってきた出版社、ツィマーマンからの楽譜出版を主な財源とします。ただし、ツィマーマンとの関係はフランス時代まで続きますが、正直あまりしっくりいきませんでした。最終的に関係が悪化し、イギリスのノヴェロなどと契約することになります。
結局、メトネルはラフマニノフの招きで、1924年の末にアメリカにツアーに出かけます。そこで目にしたのは、第一次世界大戦後の好景気に沸き、新しい文化が栄えるアメリカの姿でした。
ちなみにここでスタインウェイに呼ばれたときたまたまストラヴィンスキーの近くにいたのが、ラフマニノフにいじられていたりします(メディア・コモンズになかったのですが、調べればすぐ写真が出てきます)。
クライスラー見てごらん?
メトネルはストラヴィンスキーのあんなに近くに座ってるなんて、彼のことがよっぽど好きなんだな
冗談はやめてください!
このアメリカの旅で、新しい友人もできます。スクリャービンの弟子で、それをきっかけにロシア音楽の発信者となった、カナダのピアニスト・アルフレッド・ラリベルテ。メトネルやラフマニノフと同じく、亡命ロシア人でアメリカにいた音楽学者・アルフレッド・スワン夫妻。こういった人々が、今後ラフマニノフやイリイン、コニュスやエミリィに加わって、メトネルを支えていきます。
しかし、メトネルは全くといっていいほどアメリカになじめず、1925年頭にヨーロッパに戻ります。しかし、彼が家を探したのは、これまで住んでいたベルリンではなく、フランスのパリでした。
アメリカにいればすぐに力になれるのに……
申し出はありがたいけど……
ありがたいけどさ……
なお、直前の1924年1月に、メトネルの故郷、現ソヴィエト連邦では、トップの交代が起きます。つまり、レーニンの死によるスターリン体制への移行です。このことが、ソ連音楽界にも大きな影響をもたらします。
あれ?
そういう予定だったっけ?
トロツキーだけはダメ、
という方が大勢いらっしゃったので……
おおよそ、メトネルがドイツにいるころに、音楽界で登場した楽曲は、オネゲルの「パシフィック231」、(1923年)、ミヨーの「世界の創造」(1923年)、シベリウスの交響曲第7番(1924年)などです。
また、アメリカでは、1924年ついにクラシック音楽とジャズを融合させたガーシュウィンの「ラプソディーインブルー」が作られました。
フランスでの活動開始
ドイツの音楽界に嫌気がさしたのと、1923年のドイツに起きたハイパーインフレによって、1925年からパリに移ってきました。
もうドイツはこりごりだ。
パリは自信はないが、ドイツよりはましだろう
亡命ロシア人音楽家の拠点であったパリは、以下のような、亡命者が暮らしていました。
- イーゴリ・ストラヴィンスキー
- イワン・ヴィシネグラツキー
- ニコライ・チェレプニン
- アレクサンドル・チェレプニン
- フォマ・ガルトマン
- フョードル・シャリャーピン
- ヴラジーミル・ポーリ
- アルトゥール・ルリエー
- アンナ・ヤン゠ルバン
- セルゲイ・プロコフィエフ
- アレクサンドル・グレチャニノフ
- レオニード・サバネーエフ
- アルカージー・トレビンスキー
- アレクサンドル・グラズノフ
さらに、1923年にはニコライ・チェレプニンを中心に、モスクワとペテルブルクの音楽院の教授たちによって「パリ・ロシア音楽院」が設立されます。。1931年には「パリ・ロシア音楽協会」が設立され、ドイツとは異なり明らかにロシア音楽が活発でした。おそらく、20世紀初頭からバレエ・リュスとして活動していた、ストラヴィンスキーやディアギレフらの影響がいまだに残っているのでしょう。
これはやっていけるかもしれない……
ところが、グラズノフやグレチャニノフといった保守的な人物も活躍していた一方で、力を持っていたのはやはり、イーゴリ・ストラヴィンスキーのような前衛的な作曲家です。ピョートル・スフチンスキー、アルトゥール・ルリエーといった人々はストラヴィンスキーを「オルフェ」とみなし、ストラヴィンスキーが音楽界の中心にいたのです。
そりゃあもう、
ずっとフランスでやってきてますからね
ユーラシア主義者としても、
彼の音楽には惹かれるものがあるからね
この人となら理想をかなえられるかもしれない
やっぱりだめかも……
フランスでの挫折
メトネルは、ラフマニノフやエミリィにリサイタルが仕事につながらない、次のリサイタルが成功するかわからない、といった愚痴や不安を何度も手紙に書いているような状況に陥ります。
本当の音楽というのは、
もう理解されないのかもしれない……
力にはなりたいが、
大西洋を挟んでいるのでめったに会いに行けないな……
もうこっちからしてあげられることはないのか……?
一方で、この時期、作曲家のマルセル・デュプレと交流を持ち、以後彼の娘のピアノの教師を10年にわたって続けることになります。しかし、デュプレは例外的な人物でありました。
デュプレの音楽も好みとは少し違うが、
優しくしてくれるようだ
近くにいるので、
力になれることがあればお助けしますよ
悶々としていたものの、ピアノ協奏曲第2番をこの時期完成させています。
そして、メトネルはついに決心します。この曲を引っ提げて、ソ連にツアーに出かけ、一度様子を見ることでした。これが1927年2月です。
別に思想的に受け入れられないわけではないし、
一度戻った方がいいのかもしれない
しかし、この時期のソ連音楽界というのは、スターリンの締め付けがひどくなる前の、一般的にロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる文化の最盛期でした。
プロレタリアのために新しい音楽を!
ルリエーが失敗したとはいえ、
案外いろいろな曲を作れるようだ
今の体制は新しい音楽にどんどん挑戦できるな
ということで、メトネルは完全に摘みます。ロシアも大体、メトネルの嫌いな、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、ヒンデミット、クシェネク、フランス6人組、といったものに近い音楽が中心だったのです。
故郷まで、ドイツやフランスの、
あんな音楽もどきだけしかやらなくなっていたのか……
ということなので、ソヴィエト連邦への一時帰国も、現在のソ連音楽界への不満や、ボリシェヴィキの目の前でボリシェヴィキ批判を行うレベルの体制への反発を起こしました。
昔から尊敬していたあなたの力になりたいです。
革命前の様に仲良くやりましょう
でも君も、ああいう音楽を授業で教えるようになったじゃないか
また、このときたまたま一緒のタイミングで帰国していた人がいます。プロコフィエフでした。
もう見るに堪えないな。
結局、いろいろと学んでちゃんと”今この時”のこういう曲を作れない、それだけだよ……
結局、何の成果も得られず、パリに戻ります。ちなみにこの頃、あまりにもメトネルがかわいそうなので、ラリベルテがカナダに連れていくべきだと言い、それに対しラフマニノフがアメリカに連れていくべきだと主張し、討論しています。
一方、タチアナ・マクシーナという見知らぬロシア人から、イギリス行きの依頼を受けました。このソプラノ歌手・タチアナ・マクーシナはロシア出身で、全く面識がなかったのですが、グレチャニノフの勧めもあってメトネルはイギリスにわたります。
この1928年ごろからイギリスツアーによくいくようになります。そして、メトネルはこのイギリスという土地を、かなり気に入ります。イギリスは今でこそ前衛音楽のメッカですが、この時期いたのはエルガーやホルスト、ヴォーン・ウィリアムズといった、最先端の音楽とは無縁の人々だったというのもあります。
とはいえ、メトネルは例えばアーノルド・バックスをストラヴィンスキーやリヒャルト・シュトラウスみたいな曲を作るやつだと思い、アポイントメントを断ります。
一度お会いしたいです!
でも君もああいう音楽なんでしょ?
一方で、ラフマニノフからの助けもあるので、1929年にアメリカにさらにツアーに行きました。ここで、1929年10月24日、「暗黒の木曜日」をアメリカで迎えることになります。
ウォール街の株価がひどいことになっているが、
まあなんとかなるだろう
へー、そう
しかし、これが何とかならなかった結果、第二次世界大戦に至るという歴史をたどります。
それはそれとして、アメリカは最後まで「よそ者」感がぬぐい切れず、ヨゼフ・ホフマンからのジュリアード音楽院への招きも断ります。
見込み通り実力をつけていたから、
それに報いたかったんだがな
結局1930年2月にイギリスに直行し、二度とアメリカにわたることはありませんでした。なお、このとき海路でギャラを紛失させられ、ラフマニノフなどからお金を送ってもらっています。
1933年12月には、再びソ連に行こうとしました。しかしこのときはビザすら断らえ、入国すらさせてもらえませんでした。ついに、帰国自体徐々にあきらめていくことになります。
私が殺されるのが1934年なので、
そろそろソ連の雲行きが怪しくなるころですな
その辺は省略
こうしていろいろ踏んだり蹴ったりだったメトネルは、1935年に『ミューズと流行』という自身の音楽論を述べた単著を出しました。しかし、支援者のイヴァン・イリインからもあまり評価されず、ラフマニノフから理解された程度で終わったようで、ラフマニノフの出版社から出ることになりました。
やっぱり、音楽ってのはこうじゃなきゃいけないと思うんだ
私でもよくわからないですね……
出版社経営してるから、
ウチから出す?
この頃のメトネルの曲というのは、ざっくりこういう感じです。19世紀的と形容されるような、同時代の音楽とは全く異なるものでした。というかこの辺の曲は、世界恐慌の影響もあって全く売れてないです。
結局、メトネルはパリでの生活を諦めます。1935年10月に非常に好意的に迎えられたイギリスにわたり、ロンドン暮らしが始まりました。
ちなみに、この時期にメトネルはプロテスタントから正教に改宗しています。
おおよそ、メトネルがイギリスに移るまでに、音楽界で登場した楽曲は、ラヴェルのボレロ(1928年)や、ヴァレーズのイオニザシオン(1931年)、ヒンデミットの交響詩「画家マティス」(1935年)などです。
また、アメリカではマイクロフォンの発明などにより、ますます録音技術が発達し、ヒットソングのバリエーションが増えました。
このあたりのアメリカ流行歌謡は、第一次世界大戦後のアメリカの影響力拡大に伴い、ヨーロッパにも着弾しました。例えば後世ワイマール文化の象徴とされるドイツのキャバレーの音楽、フランスのミュゼット黄金期の3拍子の曲、などがジャズの影響下で成立した楽曲です。
こうした音楽は、クラシック音楽においても、ドイツの新古典主義や新即物主義に取り入れられます。その最大の例が、クシェネクのオペラ「ジョニーは演奏する」のジャズの影響です。ただし、これらの音楽はやがてナチスが政権を握ると、退廃音楽として抹消されていきました。
なお、この時期はすでにトーキー映画も登場したので、ディズニーの躍進なども始まっています。
戦間期のトーキー映画の名作たちによって、映画音楽という新たなジャンルも作られました。こうした映画音楽はおもにマーラー関係者が当初は作っていき、アメリカにいたラフマニノフの音楽がパクられるなど、おおよそ後期ロマン主義的な音楽がそのまま受け継がれていきます。