イギリスのメトネル
イギリス生活の始まり
一度書いたのですが、あくまでも一般論としては、当時のイギリスは音楽史的にはそこまで目立った特徴もなく、とがった曲もほとんどありませんでした。よって、前衛的な音楽はあまり活発な活動は行われておらず、メトネルのような伝統的な作曲家が評価されるような土地たっだということです。
こうしてパリで不遇を感じていたところから、ある程度復権します。
うまくいったのはほとんど演奏活動だけど、
それでも褒めてもらえるのは嬉しいな
この頃、最後の弟子ともいうべきピアニスト・エドナ・アイルズがメトネルに教わり始めます。
しかし、1936年7月11日、兄・エミリィが死にました。
兄さん、ずっと迷惑かけっぱなしだったなあ……
以後、しばらくメトネルについては特にかけることが無くなります。
一方、このときメトネルとは全く真逆の選択をした人がいました。1936年にソ連に帰国したプロコフィエフです。
さすがに西側でやっていくのも限界かな?
面白い後輩たちもいるし、そろそろ戻ろうか
以後、プロコフィエフの選択肢を特に評価せず、ある程度客観的に描きたいのですが、事実としてこのタイミングでソ連にある出来事が起きます。ショスタコーヴィチが新聞「プラウダ」への投稿でバッシングされたプラウダ批判に前後して、音楽の締め付けが厳しくなったということです。
経緯としては、ショスタコーヴィチは、オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の大ヒットを成功させました。こうして連日公演が行われていたのですが、このオペラはベッドシーンがあるなど、だいぶ大胆な構成でした。
それで、この人が見に来ます。
何が流行ってるのかはきっちりこの目で見ないとな
その直後に、急にショスタコーヴィチのバッシングが始まります。
確かに匿名だけどさあ……
この時期すでに大粛清が始まっているので、うっかりミスをすると死につながりかねません。このため、ショスタコーヴィチはわかりづらい交響曲第4番も封印し、どんな人間でも気に入る”わかりやすい音楽”を爆速で作ります。交響曲第5番です。
この出来事と合わせるように、以後ソ連ではロシア・アヴァンギャルドのような前衛的な音楽から、わかりやすい音楽への変化が起きます。いわゆる社会主義リアリズムというものです。実際はもう少し複雑なのですが、初心者向け記事なので、この程度のざっくりした説明で終えます。
例えば、旧来のロシア・アヴァンギャルドを担っていた作曲家の代表例、モソロフは強制労働に送られています。
先生たちが助けてくれなければ、
8年間ずっと缶詰の予定でした
つまり、プロコフィエフは、割とめんどくさいタイミングで、戻ってきます。というか、これまでけん引してきた後進たちがそこそこ消えるタイミングで急に戻ってきた長老格みたいなポジションになります。
聞いていた話と違うな……
ともあれ、プロコフィエフはこの後「ロミオとジュリエット」や「ピーターと狼」などの親しみやすい曲や、エイゼイシュテインと組んだ映画音楽などで名をはせていきます。
一方メトネルは、そんなことはつゆ知らず、ヴァイオリンソナタ第3番などを作っています。これまたかなり古風な曲です。
第二次世界大戦
一方世界史においては、ついにこの人たちが出てきます。
ローマに凱旋せよ
ジーク・ハイル!
特に、国内をまとめ上げたヒトラーは、国外進出への野望を露骨に見せ、1939年9月1日のポーランド侵攻で第二次世界大戦がはじまりました。西部戦線は瞬く間にドイツ軍が勝ち、フランスは降伏。ヴィシー政府とは別に、ドゴールなどの亡命政権が率いるレジスタンス活動が各地で展開されます。ちなみに、このレジスタンスに身を投じ、戦死した存在として、スクリャービンの娘のアリアドナがいます。
両親の死後、おじのボリスなどとパリに亡命していました。
詩人のクヌートとともにレジスタンスに加わりました
一方、フランスの降伏によって、イギリスはドイツの攻撃の射程に入ります。この結果、1940年以来続くロンドン空襲でメトネルは疎開生活を強いられました。仕事の激減でも貧困にあえぐことになります。
ここで問題となったのが、メトネルがドイツ系ということです。ラジオ出演したときなどにも、メトネルはそのことに気を遣う必要が出てきました。
ほとんどかかわりがないのに、
ドイツ系というだけで、ここまで敵視されるなんて……
さらに、当初連携していたはずのドイツとソ連は、突然戦いを勃発させます。独ソ戦です。要するに、自分のアイデンティティに関わる国が、自分の祖国と戦争を始めました。当然ロシアには、兄・アレクサンドルや姉・ソフィヤ、古くからの友人ゴリデンヴェイゼルなどの身近な人々もいます。
もう誰か助けてくれ
この事態は、革命政府から逃げ、ノンポリとずっと振舞っていたラフマニノフですら、ソ連への支援金を送るほどでした。
一方、レニングラードやスターリングラードで大規模な戦闘が起きる中、国威掲揚のために文化に再注目されます。文化への締め付けが緩和されたほか、疎開させた作曲家たちに曲も作らせました。
そのもっとも有名な例が、ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」です。
君は本当にそういう生き方しかできないんだね
あなたよりもガス抜きのやり方がうまいだけですよ
しかし、次第に枢軸国は敗北を重ねていきます。このため、連合国側の人々は、徐々に落ち着いた生活を取り戻していきます。ただし、ラフマニノフが亡くなったのは、このような時期の1943年3月28日でした。
ずいぶん助けてもらったけど、
もう力を借りることはできないんだなあ……
1943年4月20日になるとメトネルもロンドンに帰ってくることができました。
直接戦闘が行われていないとはいえ、ロンドンもボロボロだな……
これからどうやって生きていけばいいのだろう……
とはいえ、イギリスで演奏活動も再開されました。この時期に、メトネル晩年の作品であるピアノ協奏曲第3番が発表されています。
この頃、メトネルは自分の人生に本当に意味があったのか悩むようになりました。
結局、何もなせなかったのかな……
マハラジャの支援
こうして、第二次世界大戦も終わりました。しかし、メトネルがコンサートを行ったのは、1946年6月2日が最後になりました。
ここで、本来であればアルフレッド・スワンらの計画でメトネルをアメリカに連れていくことになっており、ほぼ実行段階に至っていました。しかし、ある奇跡によって、メトネルの最後の5年間の人生は大きく変わることになります。
1946年11月19日、インドのマイソール王国のマハラジャである、ジャヤ・チャーマラージャ・ワディヤール(チャーマ・ラージャ11世)から援助の申し出がありました。
インドのマハラジャ?
なんで?
あなたの音楽が好きなのです
こうして、彼の支援のものメトネル協会が設立されます。このメトネル協会を基に、以後のメトネルは今も「メトネルプレイズメトネル」などの音源で聴くことができる、録音活動に従事します。
この時期、情勢が落ち着いたこともあり、ヨーゼフ・マルクスなど彼を慕う作曲家からのコンタクトもあったようです。その中の一つで、手紙を送ってきたゲオルギー・セリコフに冗談めかして、以下のようなことを書いています。
君の曲をぼろくそに言っているが、
尊敬するラフマニノフの晩年の作品でも、
わからないと言えるような人間の言うことは気にしないでほしい
しかし、すぐにマハラジャからの資金援助は終わってしまいます。というのも、以下の人たちが出てくる、世界史上有名なインドの民族運動によって、インドの政情が不安定になりました。さらに、結果としてだいたいの旧来の支配層は没落していきました。
非暴力、不服従
これも歴史の流れですよ
とはいえ、ここでマハラジャによって形作られたメトネル協会が、以後メトネルの活動を支えていくことになります。
晩年のメトネルの同時代の音楽
正直、今となっては、イギリスで成功できたメトネルはまだ幸運な方なのでしょう。第二次世界大戦にともないアメリカに亡命した作曲家のほとんどは、失敗しています。数少ない成功例が、ハリウッドで大成したコルンゴルトなどです。
また、ソ連も、戦争終結に伴い、文化の再引き締めが行われました。そのことによる大きな事件が、1948年に起きたジダーノフ批判です。
この経緯としては、当時流行っていたムラデリのオペラ「偉大なる友情」が批判されたというきっかけがあります。それがいつの間にか、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ハチャトゥリアンなどが一緒に批判され、スターリンが死ぬまではプラウダ批判と同様の締め付けになりました。
まさか君まで巻き込まれるとはなあ
若い世代はともかく、
もう我々にはチャンスはないのかもしれない
こうした批判の結果、しばらくソ連では交響曲とオペラが衰退します。代わってカンタータやオラトリオの時代が築かれます。この時期に体制側として躍進したのが、フレンニコフ、カバレフスキー、シャポーリンといった、現在ではあまり聴かれることのない作曲家たちのわかりやすい音楽です。
また、戦地となった西側では、ガス室に送られた作曲家、ナチスなどに協力した作曲家、亡命した作曲家など、演奏家も含めてかなりの世代が一気に消えます。この結果、逆に若手が躍進していく結果となります。
1946年より、かの有名なダルムシュタット夏季現代音楽講習会が行われます。当初は、メシアン、レイボヴィッツ、アドルノ、フォルトナーといった、新古典主義や新ウィーン楽派ほど年長ではないが、ギリギリ彼らと同時代を生きた人々が若手にかつて存在した音楽を教える場でした。
ちょうどこうした世代から、ヴェーベルンっていい作曲家だな……と思った若手に主導権が移るのが、メトネルの晩年くらいです。ブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼンなど、現代音楽初期の代表的な作曲家としておなじみの人々です。
さらに、まったく戦火に合わなかったアメリカでは、アンタイル、カウエル、パーチ、ホヴァネス、ケージといった、実験音楽を行う層が、第二次世界大戦期に勢力を増します。
やがて、ヨーロッパの現代音楽勢と、アメリカの実験音楽勢の交流も生まれるのですが、それはメトネルが死ぬよりも後のことなので、触れません。
加えて、この1940年代後半ごろから、アメリカではリズム&ブルースが少しずつ形作られていきました。
また、ジャズではビバップ革命が起き、一気にジャズの価値が認められるようになります。
フォーク歌謡なども目立つようになり、ますます音楽が多様化しています。
1956年のエルヴィス・プレスリーのヒットによる、ロックの誕生までもう間もなくとなってきました。
音楽は一体これからどうなってしまうんだ……
メトネルの死
という時代の流れがあったので、1947年以降メトネルは、メトネル協会のサポートの元次々にレコーディングを繰り返します。
さらに、遺作にあたるピアノ五重奏曲を作ったのも、このタイミングでした。後世のアンナ曰く、レコーディングの後しばらくこれの作曲に注力し、何とか書き上げたとのことでした。当然これも、かなり古風な曲といって過言ではありません。
そして、メトネルはこのピアノ五重奏曲をなんとか録音しようとするのですが、心臓発作が続きます。しかし、この曲の録音は、最終的に無事に行うことができました。
メトネルとしては、音楽の行く末がかなり不安であり、自分の音楽性の発露もまだ足りていないと思っていました。そこで計画されたのが、アルフレッド・スワンたちと進めた「ミューズと流行」の英訳です。
前は全然理解されなかったけど、
きっと英語にすれば、もっと多くの人に読んでもらえるはずだ……
しかし、もうこの時点で肉体は限界でした。資金援助自体はできなくなったチャーマ・ラージャ11世からも新しい録音のお願いが来て、メトネルはやり遂げようとするのですが、心臓が限界の様でした。
メトネルはピアノが弾けなくなっても、執念で命をつなぎました。メトネルは死ぬ直前の11月1日にもこのような手紙を送っています。
今やっている仕事の遅れは、これから戦いに向かう戦車の車輪のスポークなんだから、ねばらないと……
この仕事こそ、きっと最後の審判にも影響するだろうさ
しかし、出版計画の最終段階に至ったところで、1951年11月13日、心臓病で71年にわたる生涯を終えました。
ここで終わりなのか?
まだ、成し遂げられていないのに……
アンナは、長年の執念でやってきた作曲による心労かもしれなかったと語っています。