ざっくりとしたニコライ・メトネルの生涯

メトネルの死後

1953年3月5日、スターリンが亡くなりました。皮肉なことに、まったく同じ日にプロコフィエフも亡くなりました。

この結果、スターリンの後を継いだフルシチョフによって、1956年にスターリン批判が行われます。

フルシチョフ
フルシチョフ

もうスターリンのやり方ではダメなのだ

この後起こったスターリン体制の反動である「雪どけ」は最終的には中途半端に終わりますが、スターリン体制で抑え込まれていたものが緩められたということは確かでした。ということで、この人がさっそく音楽分野でも雪どけを主張しています。

ハチャトゥリアン
ハチャトゥリアン

これまでよりも自由に音楽ができるんだ

こうした流れを受けて、1953年にはこの時期のソ連を代表するピアニスト、ギレリスがメトネルの復権論文を発表しました。

ギレリス
ギレリス

ソ連から出てしまったからといって、

あんな素晴らしい作曲家を不当に貶めてはいけない

こうした動向の結果、1958年にアンナ・メトネルはギレリスなどの助けでソ連に戻りました。ただし、以後のアンナはメトネルの回顧録に投稿があった記録くらいで、2人の間に子供もいないので、その後はよくわかりません。

こうして、メトネルの長い人生で語ることは終わりました。彼の人生というのは、悲劇的な結末でもなければ、めでたしめでたしとも言えない、そういうものです。ですが、東西冷戦において両陣営双方で認められた存在ではあったため、割合早くから一定の評価はされていました。この流れは冷戦終結後、ミルン、トーザー、アムランといったピアニストたちによる全集事業が相次ぐことで、加速します。

やがて、日本でも楽譜が刊行されるなど一定の知名度が確立します。特に、ウラジーミル・トロップの弟子であるメジューエワの日本在住などもあって、小曲の国内版もリリースされるようになりました。また、なぜか声優・牧野由依の特典CDで彼女がメトネルを演奏しているのも、師匠とかそういうアレです。

メトネルの生涯は、辛く苦しいものとなり、必ずしも本人にとっては報われたものではないかもしれません。しかし、71年の歩みの中で、メトネルは確実に爪痕を残し、今もなお愛されている存在なのです。


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