概要
ニコライ・メトネルには膨大な手紙などが残されている。これはすべて、彼の残した資料を、(一部を除いて)遺そうと努力した未亡人のアンナ・メトネルの努力によるものである。このため、プロコフィエフのように数十年分の日記が残っているわけではないが、ニコライ・メトネルが何をやっていたのかは、比較的一次史料から追いやすい。
のだが、ニコライ・メトネルの資料でも書いた通り、このうち翻刻され出版されたアペチャン編に記載の手紙は、モスクワに現在保管されているものののみであり、さらにそのうちの1割未満である。
おまけに、先行研究などでも指摘されている通り、ソ連時代の史料集は史料文言すら検閲によって書き換えられている可能性もある。また、史料の残り自体もアンナ・メトネルとソヴィエト連邦という二重のバイアスを経ているため、他の時期を考えると違和感を感じるレベルで空白があり、明らかに「なかったことにされている」時期があることもWendelin Bitzanなどが指摘している。
ということなので、アペチャン編の手紙集は、悪くいってしまうとソ連に都合のいい偉人メトネルという、フィクションのイメージを作るためにピックアップされたものということになる。ただ、この手紙集が唯一刊行された史料集ということもあり、すべての研究の基盤になっているので、一度ニコライ・メトネルが残した手紙などの文書について、目録を作っておく。
目録
ロシア時代(1880年~1921年)
アペチャン編に収録済みの場合番号 | 年月日 | 宛先 | 内容の要約 |
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Apetyan1 | 1897年5月25日(旧) | エミリィ・メトネル | 師・パーヴェル・パプストの死へのショックと、サフォノフが提示する進路について |
Apetyan2 | 1899年8月19日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 父と旅行中のオデッサとキエフの様子について |
Apetyan3 | 1899年8月26日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 父と旅行中のヤルタなどの様子について |
Apetyan4 | 1899年8月30日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 父と旅行中のクリミアなどの様子について。 また、かの有名な、母親の手紙をボーイが靴下にいれておくサプライズの演出とピアノが散らかっているエピソードの出典 |
Apetyan5 | 1900年8月15日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 第3回アントン・ルビンシテイン国際コンクールの結果報告 |
Apetyan6 | 1900年9月2日(新)/8月20日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | コンクール帰りのアルプス旅行について。 また、浮かれてでたらめなイタリア語もどきを書いているので、難読 |
Apetyan7 | 1900年9月6日(新)/8月24日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | コンクール帰りのモーツァルト博物館の様子。 また、もうすぐモスクワに帰る連絡 |
Apetyan8 | 1902年11月11日(旧) | エミリィ・メトネル | エミリィの結婚式の後にあった、ホフマンも出席した自分のコンサートやベールイらの訪問などの報告 |
Apetyan9 | 1902年11月20日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ピアノソナタを見せにホフマンに会うため、婚約者のマルクグラフのいるペテルブルクに泊まったことなどの報告 |
Apetyan10 | 1902年12月26日(旧) | エミリィ・メトネル | アンナとの結婚式にいなかったことをマルクグラフの名前を出しながら釈明し、ホフマンがモスクワに来るまでにピアノソナタを完成させる宣言をする。 また、ベールイとの交流の報告 |
Apetyan11 | 1903年8月2日(旧) | エミリィ・メトネル | (何かあったために)毎日エミリィ・メトネルに手紙を書く宣言 |
Apetyan11 | 1903年8月4日(旧) | エミリィ・メトネル | 昨日手紙を書かなかったことの言い訳 |
Apetyan11 | 1903年8月5日(旧) | エミリィ・メトネル | 「スコーピオン」や「グリフィン」の影響でチュッチェフやフェートを読み始め、ゲーテに思いをはせる |
Apetyan12 | 1903年10月22日(旧) | エミリィ・メトネル | 兄の結婚記念日を祝いつつ、エミリィの評論の話や、ホフマンに送ったソナタの話、ベールイの話、ベリャーエフサークルに行こうとしている話、タネーエフが昔けなしたのを忘れて「音の絵」をほめた話などをつらつらと展開 |
Apetyan13 | 1903年11月16日(旧) | カール・メトネル(父) アレクサンドラ・メトネル | ペテルブルクでベリャーエフに会えない間、ゲディケの交響曲とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の初演の評を聞いた感想 |
Apetyan14 | 1903年11月18日(旧) | カール・メトネル(父) アレクサンドラ・メトネル | ペテルブルクで風邪を治した後、ベリャーエフに会いベリャーエフサークルの3人のアポを取るように勧められたこと。 なお、ベリャーエフの部屋の前でスクリャービンとすれ違っていることもついでに書いている |
Apetyan15 | 1903年11月19日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 昨日ベリャーエフに会いに行ったことと、明日も再度会うことの連絡 |
Apetyan16 | 1904年1月5日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ニジニーノヴゴロドから。 新しい曲を作るためにどこかに隠れたい願望を連絡 |
Apetyan17 | 1904年1月8日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ニジニーノヴゴロドから。 しばらくこの町にいることと、ゲオルギー・コニュスの要請でピアノ教師に誘われていること。 また、あまり望ましげじゃないこと |
Apetyan18 | 1904年2月16日(旧) | セルゲイ・タネーエフ | 今日見せた曲があまりにも草稿だったことの謝罪 |
Apetyan19 | 1904年3月15日(旧) | エミリィ・メトネル | 久々の便りを送ったことと、間もなくニジニーノヴゴロドに向かうが交通の便が問題ないかどうかの確認。 また、楽譜出版を急いだあまり校訂が甘いものになっており、そのことを見抜いたアレクサンドル・ゲディケに慰められたことの報告 |
Apetyan20 | 1904年10月1日(旧) | エミリィ・メトネル | 久々の便りを送ったことと、様々な助言の要請。 なお、ここでメトネルは作品番号7番の「アラベスク」を、義和団事件の時の「中国の発酵」で思いついたと記している |
Apetyan21 | 1904年11月7日(旧) | オリガ・プレムゼン | 自分の曲を歌ってくれた謝辞と、明日からのドイツ行の前に楽譜出版を自分で進めてしまったことの謝罪 |
Apetyan22 | 1904年11月22日(新)/11月9日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ドイツ到着の報告 |
Apetyan23 | 1904年11月26日(新)/11月13日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ドイツに来てすぐ高熱にかかったため、まだ何もできていないことの報告。 また、結局ゲオルギー・コニュスからの教師としての採用を断ったこともわかる。 なお、この頃日露戦争で徴兵されたカール・メトネル(子)がリビンスクにおり、母親がどっちにいてもいいように手紙を書いている |
Apetyan24 | 1904年12月9日(新)/11月26日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ドイツでの音楽鑑賞と芸術界への若干の不満の吐露 |
Apetyan25 | 1904年12月26日(新)/12月13日(旧) | エカテリーナ・ドミトリエヴナ・フォン・マンスフェルト | 生徒であるマンスフェルトに対し、軽めの状況報告などの便り |
Apetyan26 | 1904年12月27日(新)/12月14日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 久々の手紙になった謝罪と、ドイツの批評を読まないようにお願い |
Apetyan27 | 1905年1月24日(旧) | エミリィ・メトネル | 正教会の祭りである「マースレニツァ」のために間もなくニジニーノヴゴロドに行く連絡 |
Apetyan28 | 1905年4月12日(旧) | アレクサンドル・ザタエヴィチ | ドイツから帰るときワルシャワで会ったザタエヴィチに対し、手紙を送ることが遅くなったことの謝罪 なお、この頃メトネルがレフ・コニュスの学校で教えていたことがわかる |
Apetyan29 | 1905年5月13日(旧) | エカテリーナ・ドミトリエヴナ・フォン・マンスフェルト | 生徒のマンスフェルトに何らかの不幸があり、しばらくピアノから距離を置くように助言する。 なお、再びピアノが再開できるようになる喜びを、メトネルはコロンブスのアメリカ発見に例えている |
Apetyan30 | 1905年8月20日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 日露戦争が終わった喜びをようやく伝えられたことと、ソフィアに起きた吉事(おそらくレオニード・サブロフの出産)の祝い。 なお、ここで従軍していたのがカール・メトネル以外に、ソフィアの夫・アレクサンドル・サブロフ、アレクサンドル・メトネルもいたことがわかる |
Apetyan31 | 1905年11月7日(旧) | エミリィ・メトネル | 受け取ったドイツ語の詩の訳があまりにもひどいので、アドバイス通り、セルゲイ・ソロヴィヨフに翻訳を任せる連絡 |
Apetyan32 | 1905年11月14日(旧) | エミリィ・メトネル | エミリィの到着を心待ちにしている話と、ニコライ2世の勅令を見て、検閲の仕事に変化が起きるのではないかという期待 |
Apetyan33 | 1906年2月21 日(旧) | エミリィ・メトネル | 心配していた便りと、仕事が順調な報告。 また、ペトロフスキーから住所を尋ねられた件と、作曲中の主題(作品番号8)への助言依頼の件 |
Apetyan34 | 1906年3月21 日(旧) | アレクサンドル・ザタエヴィチ | ユルゲンソン社でザタエヴィチの作品を出版できないかという依頼が遅々として進まないことの謝罪と、実は自分がユルゲンソンとの契約から抜けようとしていることの情報共有 |
Apetyan35 | 1906年7月8 日(旧) | アレクサンドル・ザタエヴィチ | これまで通りユルゲンソン社との間に立つと誠意を見せつつ、ザタエヴィチの現状を確認する質問 |
Apetyan36 | 1906年9月22日 日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | レーガー、リヒャルト・シュトラウスの作品の鑑賞会をレフ・コニュス、アレクサンドル・メトネルらと行おうと誘っている |
Apetyan37 | 1906年12月22日(新)/12月9日(旧) | アレクサンドラ・メトネル、カール・メトネル(父) | ウィーン到着の連絡 |
Apetyan38 | 1906年12月24日(新)/12月11日(旧) | アレクサンドラ・メトネル、カール・メトネル(父) | 休みの日にウィーンの居心地の良さを連絡 |
Apetyan39 | 1906年12月30日(新)/12月17日(旧) | アレクサンドラ・メトネル、カール・メトネル(父) | ミュンヘンに到着したことを連絡。 アレクサンドラ・メトネルの誕生日(12月13日(旧)/12月25日(新))の連絡以外、ロシアから何も来ていないらしい ちなみに、ぎゅうぎゅう詰めの馬車での10時間の移動は遊牧民ではないので耐えられないたとえが載っている |
Apetyan40 | 1907年1月8日(新)/1906年12月26日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 自分の誕生祝いをしてくれたお礼と、ミュンヘンの年末年始の様子の連絡 |