概要
ニコライ・メトネルには膨大な手紙などが残されている。これはすべて、彼の残した資料を、(一部を除いて)遺そうと努力した未亡人のアンナ・メトネルの努力によるものである。このため、プロコフィエフのように数十年分の日記が残っているわけではないが、ニコライ・メトネルが何をやっていたのかは、比較的一次史料から追いやすい。
のだが、ニコライ・メトネルの資料でも書いた通り、このうち翻刻され出版されたアペチャン編に記載の手紙は、モスクワに現在保管されているもののみであり、さらにそのうちの1割未満である。
おまけに、先行研究などでも指摘されている通り、ソ連時代の史料集は、どの人物であっても史料文言すら検閲によって書き換えられている可能性もある。また、史料の残り自体もアンナ・メトネルとソヴィエト連邦という二重のバイアスを経ているため、他の時期を考えると違和感を覚えるレベルで空白があり、明らかに「なかったことにされている」時期があることもWendelin Bitzanなどが指摘している。
ということなので、アペチャン編の手紙集は、悪くいってしまうとソ連に都合のいい偉人メトネルという、フィクションのイメージを作るためにピックアップされたものということになる。ただ、この手紙集が唯一刊行された史料集ということもあり、すべての研究の基盤になっているので、一度ニコライ・メトネルが残した手紙などの文書について、目録を作っておく。
目録
ロシア時代(1880年~1921年)
アペチャン編に収録済みの場合番号 | 年月日 | 宛先 | 内容の要約 |
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Apetyan1 | 1897年5月25日(旧) | エミリィ・メトネル | 師・パーヴェル・パプストの死へのショックと、サフォノフが提示する進路について |
Apetyan2 | 1899年8月19日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 父と旅行中のオデッサとキエフの様子について |
Apetyan3 | 1899年8月26日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 父と旅行中のヤルタなどの様子について |
Apetyan4 | 1899年8月30日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 父と旅行中のクリミアなどの様子について。 また、かの有名な、母親の手紙をボーイが靴下にいれておくサプライズの演出とピアノが散らかっているエピソードの出典 |
Apetyan5 | 1900年8月15日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 第3回アントン・ルビンシテイン国際コンクールの結果報告 |
Apetyan6 | 1900年9月2日(新)/8月20日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | コンクール帰りのアルプス旅行について。 また、浮かれてでたらめなイタリア語もどきを書いているので、難読 |
Apetyan7 | 1900年9月6日(新)/8月24日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | コンクール帰りのモーツァルト博物館の様子。 また、もうすぐモスクワに帰る連絡 |
Apetyan8 | 1902年11月11日(旧) | エミリィ・メトネル | エミリィの結婚式の後にあった、ホフマンも出席した自分のコンサートやベールイらの訪問などの報告 |
Apetyan9 | 1902年11月20日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ピアノソナタを見せにホフマンに会うため、婚約者のマルクグラフのいるペテルブルクに泊まったことなどの報告 |
Apetyan10 | 1902年12月26日(旧) | エミリィ・メトネル | アンナとの結婚式にいなかったことをマルクグラフの名前を出しながら釈明し、ホフマンがモスクワに来るまでにピアノソナタを完成させる宣言をする。 また、ベールイとの交流の報告 |
Apetyan11-1 | 1903年8月2日(旧) | エミリィ・メトネル | (何かあったために)毎日エミリィ・メトネルに手紙を書く宣言 |
Apetyan11-2 | 1903年8月4日(旧) | エミリィ・メトネル | 昨日手紙を書かなかったことの言い訳 |
Apetyan11-3 | 1903年8月5日(旧) | エミリィ・メトネル | 「スコーピオン」や「グリフィン」の影響でチュッチェフやフェートを読み始め、ゲーテに思いをはせる |
Apetyan12 | 1903年10月22日(旧) | エミリィ・メトネル | 兄の結婚記念日を祝いつつ、エミリィの評論の話や、ホフマンに送ったソナタの話、ベールイの話、ベリャーエフサークルに行こうとしている話、タネーエフが昔けなしたのを忘れて「音の絵」をほめた話などをつらつらと展開 |
Apetyan13 | 1903年11月16日(旧) | カール・メトネル(父) アレクサンドラ・メトネル | ペテルブルクでベリャーエフに会えない間、ゲディケの交響曲とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の初演の評を聞いた感想 |
Apetyan14 | 1903年11月18日(旧) | カール・メトネル(父) アレクサンドラ・メトネル | ペテルブルクで風邪を治した後、ベリャーエフに会いベリャーエフサークルの3人のアポを取るように勧められたこと。 なお、ベリャーエフの部屋の前でスクリャービンとすれ違っていることもついでに書いている |
Apetyan15 | 1903年11月19日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 昨日ベリャーエフに会いに行ったことと、明日も再度会うことの連絡 |
Apetyan16 | 1904年1月5日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ニジニーノヴゴロドから。 新しい曲を作るためにどこかに隠れたい願望を連絡 |
Apetyan17 | 1904年1月8日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ニジニーノヴゴロドから。 しばらくこの町にいることと、ゲオルギー・コニュスの要請でピアノ教師に誘われていること。 また、あまり望ましげじゃないこと |
Apetyan18 | 1904年2月16日(旧) | セルゲイ・タネーエフ | 今日見せた曲があまりにも草稿だったことの謝罪 |
Apetyan19 | 1904年3月15日(旧) | エミリィ・メトネル | 久々の便りを送ったことと、間もなくニジニーノヴゴロドに向かうが交通の便が問題ないかどうかの確認。 また、楽譜出版を急いだあまり校訂が甘いものになっており、そのことを見抜いたアレクサンドル・ゲディケに慰められたことの報告 |
Apetyan20 | 1904年10月1日(旧) | エミリィ・メトネル | 久々の便りを送ったことと、様々な助言の要請。 なお、ここでメトネルはOp.7の「アラベスク」を、義和団事件の時の「中国の発酵」で思いついたと記している |
Apetyan21 | 1904年11月7日(旧) | オリガ・プレムゼン | 自分の曲を歌ってくれた謝辞と、明日からのドイツ行きの前に楽譜出版を自分で進めてしまったことの謝罪 |
Apetyan22 | 1904年11月22日(新)/11月9日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ドイツ到着の報告 |
Apetyan23 | 1904年11月26日(新)/11月13日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ドイツに来てすぐ高熱にかかったため、まだ何もできていないことの報告。 また、結局ゲオルギー・コニュスからの教師としての採用を断ったこともわかる。 なお、この頃日露戦争で徴兵されたカール・メトネル(子)がリビンスクにおり、母親がどっちにいてもいいように手紙を書いている |
Apetyan24 | 1904年12月9日(新)/11月26日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ドイツでの音楽鑑賞と芸術界への若干の不満の吐露 |
Apetyan25 | 1904年12月26日(新)/12月13日(旧) | エカテリーナ・ドミトリエヴナ・フォン・マンスフェルト | 生徒であるマンスフェルトに対し、軽めの状況報告などの便り |
Apetyan26 | 1904年12月27日(新)/12月14日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 久々の手紙になった謝罪と、ドイツの批評を読まないようにお願い |
Apetyan27 | 1905年1月24日(旧) | エミリィ・メトネル | 正教会の祭りである「マースレニツァ」のために間もなくニジニーノヴゴロドに行く連絡 |
Apetyan28 | 1905年4月12日(旧) | アレクサンドル・ザタエヴィチ | ドイツから帰るときワルシャワで会ったザタエヴィチに対し、手紙を送ることが遅くなったことの謝罪 なお、この頃メトネルがレフ・コニュスの学校で教えていたことがわかる |
Apetyan29 | 1905年5月13日(旧) | エカテリーナ・ドミトリエヴナ・フォン・マンスフェルト | 生徒のマンスフェルトに何らかの不幸があり、しばらくピアノから距離を置くように助言する。 なお、再びピアノが再開できるようになる喜びを、メトネルはコロンブスのアメリカ発見に例えている |
Apetyan30 | 1905年8月20日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 日露戦争が終わった喜びをようやく伝えられたことと、ソフィアに起きた吉事(おそらくレオニード・サブロフの出産)の祝い。 なお、ここで従軍していたのがカール・メトネル以外に、ソフィアの夫・アレクサンドル・サブロフ、アレクサンドル・メトネルもいたことがわかる |
Apetyan31 | 1905年11月7日(旧) | エミリィ・メトネル | 受け取ったドイツ語の詩の訳があまりにもひどいので、アドバイス通り、セルゲイ・ソロヴィヨフに翻訳を任せる連絡 |
Apetyan32 | 1905年11月14日(旧) | エミリィ・メトネル | エミリィの到着を心待ちにしている話と、ニコライ2世の勅令を見て、検閲の仕事に変化が起きるのではないかという期待 |
Apetyan33 | 1906年2月21 日(旧) | エミリィ・メトネル | 心配していた便りと、仕事が順調な報告。 また、ペトロフスキーから住所を尋ねられた件と、作曲中の主題(Op.8)への助言依頼の件 |
Apetyan34 | 1906年3月21 日(旧) | アレクサンドル・ザタエヴィチ | ユルゲンソン社でザタエヴィチの作品を出版できないかという依頼が遅々として進まないことの謝罪と、実は自分がユルゲンソンとの契約から抜けようとしていることの情報共有 |
Apetyan35 | 1906年7月8 日(旧) | アレクサンドル・ザタエヴィチ | これまで通りユルゲンソン社との間に立つと誠意を見せつつ、ザタエヴィチの現状を確認する質問 |
Apetyan36 | 1906年9月22日 日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | レーガー、リヒャルト・シュトラウスの作品の鑑賞会をレフ・コニュス、アレクサンドル・メトネルらと行おうと誘っている |
Apetyan37 | 1906年12月22日(新)/12月9日(旧) | アレクサンドラ・メトネル、カール・メトネル(父) | ウィーン到着の連絡 |
Apetyan38 | 1906年12月24日(新)/12月11日(旧) | アレクサンドラ・メトネル、カール・メトネル(父) | 休みの日にウィーンの居心地の良さを連絡 |
Apetyan39 | 1906年12月30日(新)/12月17日(旧) | アレクサンドラ・メトネル、カール・メトネル(父) | ミュンヘンに到着したことを連絡。 アレクサンドラ・メトネルの誕生日(12月13日(旧)/12月25日(新))の連絡以外、ロシアから何も来ていないらしい ちなみに、ぎゅうぎゅう詰めの馬車での10時間の移動は遊牧民ではないので耐えられないたとえが載っている |
Apetyan40 | 1907年1月8日(新)/1906年12月26日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 自分の誕生祝いをしてくれたお礼と、ミュンヘンの年末年始の様子の連絡 |
Apetyan41 | 1907年2月4日(新)/1907年1月22日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | ゲディケに送った過去2通の手紙が紛失させられたことを詫びつつ、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』やレーガーなどを聴き、現在のドイツ音楽界に落胆した事実が語られる |
Apetyan42 | 1907年2月15日(新)/1907年2月2日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | ゲディケからの返答とフランクの交響曲で落ち着きを取り戻しつつも、レーガーへの怒りが残っている |
Apetyan43 | 1907年3月2日(新)/1907年2月17日(旧) | アレクサンドル・メトネル | 体調不良に苦しみつつも、ゲオルク=シュネーフォイヒト、シュターフェンハーゲンら古典のみ取り上げる指揮者への感動と、ドイツの歌手のレベルの低さに憤慨している。 アレクサンドルを気遣いつつ、カトゥアールへのわびを代理でお願いしている。 |
Apetyan44 | 1907年3月8日(新)/1907年2月23日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | 父親からの送金について書きながら、自分がいないモスクワでダンディらの演奏がどうだったのかをゲディケから聞こうとしている |
Apetyan45 | 1907年3月31日(新)/1907年3月18日(旧) | ニキータ・モロゾフ | 先輩作曲家モロゾフからの手紙を受け取ったことに感謝を述べつつ、三部作ソナタの構想を伝えている。 |
Apetyan46 | 1907年4月6日(新)/1907年3月24日(旧) | ユーリー・エンゲル | 打診されていたグリーグのモスクワ招聘の説得に失敗した連絡 |
Apetyan47 | 1907年4月15日(新)/1907年4月2日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | コルニロフの死のショックと自分の時間管理術のせいにしながら、教師の辞職の決意の共有と、マリヤ・デイシャ=シオニツカヤが開催したコンペのために曲を送るので提出してほしい依頼をお願いしている なお、註によると、結局メトネルが送ったOp.13はゲディケの提出が遅れに遅れた模様。 |
Apetyan48 | 1907年5月28日(新)/1907年5月15日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 兄・アレクサンドルがヴァイオリンに専念している情報を得て感心していることと、結局デイシャ=シオニツカヤのコンペで曲が上演すらされなかった情報共有が来たことの憤慨を記載。 |
Apetyan49 | 1907年5月28日(新)/1907年5月15日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 家からディケンズの『荒涼館』を送ってほしいのと、自分の代わりに『バーナビー・ラッジ』を買っておいてほしいと母親についでに依頼。 |
Apetyan50 | 1907年6月25日(新)/1907年6月7日(旧) | アレクサンドル・メトネル | 兄のためにヴァイオリンソナタを書いていることの報告と、勉強のためにチェリストのアレクサンドル・クラインなどに会う勧めで兄を持ち上げつつ、金が必要なのでゲディケから楽譜を回収してついでに訂正し、ユルゲンソンに出版させる代行を依頼している。 なお、手紙を書くことを嫌っていると前置きしつつ、絶対に公開しないように告げて、ゲディケとの手紙のやり取りへの恨みを匂わせている |
Apetyan51 | 1907年7月25日(新)/1907年7月12日(旧) | カール・メトネル(父)、アレクサンドラ・メトネル | ミュンヘンからローテンブルク・オプ・デア・タウバーに移ったことを共有 |
Apetyan52 | 1907年7月27日(新)/1907年7月14日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ローテンブルク・オプ・デア・タウバーの古風で自然に満ちたな街並みの興奮を共有 |
Apetyan53 | 1907年7月31日(新)/1907年7月18日(旧) | アレクサンドル・メトネル | 演奏活動をしばらく中断していたので再開した報告と、兄のためのヴァイオリンの曲を作っていることの再報告 |
Apetyan54 | 1907年8月20日(新)/1907年8月7日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | (おそらく直前のコンペへの未提出などが重なって)手紙を送っていなかったゲディケに、ワイマールに来たことで心機一転したのか手紙をまた送り始める宣言をする。 |
Apetyan55 | 1907年8月27日(新)/1907年8月14日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | ニコラーエフなどを比較にあげつつ、コンサート前の不安を吐露している。 なお、技術を身に着けるための気の遠くなるような長さを、メトセラくらい長生きする必要があると例えている |
Apetyan56 | 1907年9月1日(新)/1907年8月19日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | 鬱々とした気持ちをゲディケに吐露。 ついでに、アレクサンドル・メトネルに楽譜を送るので、校正してほしい依頼を書いている |
Apetyan57 | 1907年9月14日(新)/1907年9月1日(旧) | アレクサンドル・メトネル | 兄のためのヴァイオリンの演奏会の企画と、そこに加えるヴァイオリンソナタをまだ作っている報告。 また、そろそろ帰国してペテルブルクの「現代音楽の夕べ」にも顔を出したいことと、ゲディケから送った作品に関する返答がまた来ていないことの怒りを吐露 |
Apetyan58 | 1907年9月25日(新)/1907年9月12日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | やっと返答が来たことの感謝と、他のピアニスト(誰かは不明)のコメントと比較して、ゲディケの曲の感想にまだ不安がある心情を匂わせている。 また、ロシアの「金羊毛」などの象徴主義の動向を聞きたがっている |
Apetyan59 | 1907年9月30日(新)/1907年9月17日(旧) | ボリス・ユルゲンソン | 兄・アレクサンドルが行ったユルゲンソンとのギャラ交渉の結果に不満を抱いており、金が必要なのでもっと上げてほしい依頼をしている |
Apetyan60 | 1907年10月3日(新)/1907年9月20日(旧) | アレクサンドル・メトネル | 演奏会のためにエミリィ、アンナとは別にドレスデンに来たことと、父親が翻訳を送ってきたことの感謝。 なお、直前にメイの長女(おそらくはとこのロニア)が夫(おそらくビューラー)と息子を連れて尋ねに来たらしい |
Apetyan61 | 1907年10月24日(新)/1907年10月11日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | ゲディケからの曲の批評に対するコメントと、ベルリンから再度ドレスデンに戻る連絡 |
Apetyan62 | 1907年11月17日(新)/1907年11月4日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ライプツィヒでの演奏会で、大きな評判を得たことの報告 |
Apetyan63 | 1907年11月21日(新)/1907年11月8日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 母親の誕生日(11月10/22日)を祝いつつ、メイの家でドレスデンでのコンサートで空振りし、批評も的外れな賞賛しかなかったことの不満をまとめている。 なお、ペテルブルク音楽院のかつての院長・アウグステ・ベルンハルトもいたので、挨拶に行こうとしている |
Apetyan64 | 1907年11月25日(新)/1907年11月12日(旧) | ボリス・ユルゲンソン | 再びワイマールから、ユルゲンソンにコンサートで予算が枯渇気味なので出版の前金の催促をしている。 なお、註によると送られたかどうかは良くわからないらしい |
Apetyan65 | 1907年12月20日(新)/1907年12月7日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | そろそろ家に帰ることと、兄・エミリィの誕生日祝いをする連絡をワイマールから送っている |
Apetyan66 | 1907年12月20日(新)/1907年12月7日(旧) | アレクサンドル・メトネル | ワイマールからまだ兄のためのヴァイオリン曲を作っている報告をしている |
Apetyan67 | 1908年11月5日(旧) | エミリィ・メトネル | ダルハイムのところでヴォルフの曲を手に入れたこと、ゲーテの歌曲を作っていること、モロゾワがエミリィの様子を尋ねてくることなどを報告 |
Apetyan68 | 1908年12月3日(旧) | エミリィ・メトネル | 誕生日を祝いつつ、パブロ・カザルスの演奏会に行くことと、最近エミリィが何も批評を書いていないことを機にかけていることを言及 |
Apetyan69 | 1908年12月22日(旧) | エミリィ・メトネル | 年末年始の挨拶と、ワンダ・ランドフスカの演奏会に行くことの報告 |
Apetyan70 | 1909年6月17日(新)/1909年6月4日(旧) | カール・メトネル(父) | スウェーデンのマルストランドから、モスクワ音楽院のイッポリトフ゠イワノフからのモスクワ音楽院招聘の誘いを代わりに対応してほしいと依頼 |
Apetyan71 | 1909年6月17日(新)/1909年6月4日(旧) | エミリィ・メトネル | スウェーデンのマルストランドから、モスクワの様子を尋ねつつ、イプセンの『皇帝とガリラヤ人』を読み終わりそうなので来るときに本を持ってきてほしい依頼と、作っている歌曲(Op.19)の進捗を共有 |
Apetyan72 | 1909年8月1日(新)/1909年7月18日(旧) | アレクサンドル・メトネル | ピルニッツから、アレクサンドル・メトネルが開いたコンサートについて聞いた連絡とイッポリトフ゠イワノフから来た条件が厳しいというコメントを共有 |
Apetyan73 | 1909年8月2日(新)/1909年7月19日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 姉・ソフィアやレフ・コニュス、ゲディケ、ニコライ・ストルーヴェらに返事を送れていない弁明と、10人を超えているとはいえ報酬や地位からイッポリトフ゠イワノフの依頼を受けることを連絡 |
Apetyan74 | 1910年5月20日(旧) | アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル | 「労働と日々」に載せる記事の条件をエミリィの代わりに伝え、Op.18の披露を予告している |
Apetyan75 | 1910年7月25日(新)/1910年7月12日(旧) | カール・メトネル(父) | パリを楽しんでいることの軽い報告 |
Apetyan76 | 1910年8月1日(新)/1910年7月19日(旧) | アレクサンドラ・メトネル、カール・メトネル(父) | ケルンからシューマンの墓とベートーヴェンの生家の感想を報告 |
Apetyan77 | 1910年8月29日(新)/1910年8月16日(旧) | ソフィア・サブロワ(ソフィア・メトネル) | ピルニッツから、モスクワ音楽院の教師を辞職した報告と、そのことに対する家族への罪悪感の吐露 |
Apetyan78 | 1910年8月30日(新)/1910年8月17日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | ピルニッツから、母親からの手紙である程度立ち直ったことと、それでもモスクワ音楽院を辞める決心が変わらないことの報告 |
Apetyan79 | 1911年12月9日(旧) | 「音楽」誌の編集者あて | 前日のメンゲルベルクとのリハーサル中のいさかいの投書 |
Apetyan80 | 1911年12月19日(旧) | レオニード・ニコラーエフ | 従姪でピアノを学んでいるナデージュダ・シュテンベルをニコラーエフのクラスに入れてくれるよう頼んでいる |
Apetyan81 | 1911年1月14日(旧) | マリア・ケルジナ | 「ロシア音楽愛好家の輪」のマリア・ケルジナが自分のOp.15を取り上げたことの感謝を示している |
Apetyan82 | 1912年4月4日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 日食が見たいので自分の代わりにレッスンを休む連絡を生徒に入れてほしい依頼 |
Apetyan83 | 1912年8月27日(新)/1912年8月14日(旧) | ソフィア・サブロワ(ソフィア・メトネル) | 姉の誕生日を祝いつつ、ルクセンブルクからウィーン経由で帰国する連絡と、バイロイト音楽祭でワーグナーを聴いた興奮の共有 |
Apetyan84 | 1912年11月29日(旧) | ロシア作曲家・音楽家奨励評議委員会 | グリンカ賞受賞の謝意と、報酬を父親宛てに送ってほしい依頼 |
Apetyan85 | 1913年6月7日(新)/1913年5月25日(旧) | アレクサンドル・メトネル | ベルギーの暗い気候がうんざりしすぎて、卵料理くらいしか楽しみがないことと、ベルリンでラフマニノフに会ったことを共有している。 なお、モスクワ音楽院を辞めたことで、ラフマニノフから怒られたらしい |
Apetyan86 | 1913年6月9日(新)/1913年5月27日(旧) | エミリィ・メトネル | 日の光を浴びれないベルギー生活のために、太陽のない海を現代芸術に例えている。 なお、エミリィにもラフマニノフから怒られた話をしている |
Apetyan87 | 1913年6月14日(新)/1913年6月1日(旧) | マリエッタ・シャギニャン | アンナと一緒にレスコフの『聖堂の民』などを読みながらベルギーで暮らしていることと、ラフマニノフの『鐘』の草稿の感想を伝えている。 |
Apetyan88 | 1913年6月17日(新)/1913年6月4日(旧) | ソフィア・サブロワ(ソフィア・メトネル) | レスコフがお気に入りの作家の一人になったことを伝えている |
Apetyan89 | 1913年6月19日(新)/1913年6月6日(旧) | ニコライ・シゾフ | ベルギーから、かつての生徒であるシゾフが、生きる意欲を失っているのを心配し、「へその緒を切り落とす」ようにアドバイスし、シュタイナーなどの治療家、特にダーリ医師の治療を受け、チェルニゴフ州などの離れた場所に住むことを勧めている |
Apetyan90 | 1913年6月20日(新)/1913年6月7日(旧) | アレクサンドル・ゲディケ | 完全にやる気のなくなったモスクワ音楽院の仕事をゴリデンヴェイゼルの説得で少し戻ろうか迷っている真情の吐露と、ベルリンのラフマニノフが『鐘』の草稿を弾いた情報の共有 |
Apetyan91 | 1913年6月22日~7月5日の間(新)/1913年6月14日~22日の間(旧) | エミリィ・メトネル | エミリィからの何らかの手紙に対し、心理学ではなく天文学的な光明によって人は救いを得るのだという神学観じみた態度を示す。 なお、ほとんど省略されており、内容の詳細は不明 |
Apetyan92 | 1913年8月8日(旧) | ミハイル・イッポリトフ゠イワノフ | モスクワ音楽院の教授職に復帰してほしいという誘いを、丁重に断っている |
Apetyan93 | 1913年8月(旧) | セルゲイ・ドゥルィリン | メトネルが作ったロシア詩人の歌曲をほめたたえるドゥルィリンの手紙を受け、昨日マルガリータ・モロゾワに頑張って会いに行った報告と、ドゥルィリンの勧めでプーシキンの詩を歌にする決意を連絡 |
Apetyan94 | 1914年1月(旧) | カール・メトネル(父) | 父からのハリコフの演奏会のアドバイスに感謝しつつ、調子が悪くコンサートができそうにもない報告 |
Apetyan95 | 1914年3月14日(旧) | マリエッタ・シャギニャン | コンサートの日に会えなかったことの謝罪と、シャギニャンの病状が悪くなかったことの喜びを共有。 このとき、メトネルは病気だったので、セルマ・ラーゲルレーヴの『聖歌集』などを読んで過ごしていた |
Apetyan96 | 1914年4月3日(旧) | アレクセイ・スタンチンスキー | 11日に訪問を待っていることと、ジリャーエフを連れてくるかどうかは任せる連絡 |
Apetyan97 | 1914年4月17日(旧) | セルゲイ・タネーエフ | 金曜日に会いに行く連絡 |
Apetyan98 | 1914年5月26日(旧) | アレクセイ・スタンチンスキー | 旅行に出ていて返事が遅れた詫びをしつつ、自分の家への交通手段などの質問に答えている |
Apetyan99 | 1914年6月26日(旧) | アレクサンドル・メトネル | アレクサンドル・メトネルの指揮のコンサートに対し、この兄がカラトゥイギンからは称賛を、ニコライ・ダヴィドヴィッチ・ベルンシュテインからは酷評を受けたことのリアクション。 特に自分に対して批判しかしないカラトゥイギンから兄が称賛されたことで勇気づけている。 また、姪のイリーナと会う約束もしている |
Apetyan100 | 1914年9月19日(旧) | アレクセイ・スタンチンスキー | 手紙を受け取ったことに感謝しつつも、ちゃんと返事もできていないし会えてもいないことを詫びている |
Apetyan101 | 1914年11月8日(旧) | エミリィ・メトネル | 東部戦線で隔たれたチューリッヒにおり、第一次世界大戦の開戦によって、郷里のロシア人がドイツを敵視していると不安がるエミリィを安心させている。 ドイツ側のヴントなどを引用しつつも、メトネルは、リヒャルト・シュトラウスのような相いれない人間以外への敵視は特になく、人々の不和などにおびえている心情を伝える なお、スクリャービンはこの頃まだピンピンしており、ベートーヴェンを父のように慕ってメトネルを安心させたジリャーエフを煽り喧嘩しかかったらしい |
Apetyan102 | 1915年2月2日(旧) | エミリィ・メトネル | エミリィに全然手紙を送れていない自分をさげすんでいる |
Apetyan103 | 1915年3月17日(旧) | エミリィ・メトネル | 弟子のコンサートでシゾフの失敗やミレーロームの大衆的な演奏を経て、最近聞く機会の多い大衆音楽への違和感を表明する。 一方で、ラフマニノフやクーセヴィツキーの演奏で気を取り戻しつつ、ユングらと交流するスイスのエミリィを羨ましがっている |
Apetyan104 | 1915年6月24日(旧) | マリエッタ・シャギニャン | シャギニャンの送ってきた詩の感想を軽く述べている |
Apetyan105-1 | 1915年10月27日(旧) | エミリィ・メトネル | アンナとこまめに文通しているエミリィ・メトネルに対し、自分は全然手紙を送れていないことをさげすんでいる |
Apetyan105-2 | 1915年11月10日(旧) | エミリィ・メトネル | エミリィから送られてきた「自分は音楽と縁を切り、ニコライもありのままの自分になるように勧めた」手紙が深刻過ぎて、返事をできていないことの詫び |
Apetyan106 | 1915年11月16日(旧)以降 | エミリィ・メトネル | ラフマニノフの肖像画を送りつつ、彼の演奏の感想とそれにもかかわらずイリイン夫妻が不満げだった情報の共有 |
Apetyan107 | 1916年1月1日(旧) | エミリィ・メトネル | ホフマンの『花嫁選び』を見て正月を過ごしたことの共有 |
Apetyan108 | 1916年6月13日(旧) | エミリィ・メトネル | モスクワから移ったことの情報共有と、ショーペンハウアーの『余録と補遺』の読書に多くの実りを得つつも、ロッシーニをバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトらが嫉妬するなどの記述に(自分がオペラを作る才覚がないと思っていることもあり)不満げである。 さらに半年間作曲もできず、冷たいものに過剰反応してきた自分の人生を価値のあるものにするために、火箱というメタファーを使いつつも積み重ねを続けたいとまとまりのないままつらつらと書いている |
Apetyan109 | 1916年11月22日(旧) | エミリィ・メトネル | 作曲と教育の両立もできず、さらに新しい仕事も始めなければならないので不安げ。 一方で、エミリィが勧めた本に感謝しつつも、エミリィがそもそもスイスで働いていたりするのかと、母親を筆頭に家族が心配していることを伝えている |
Apetyan110 | 1916年12月7日(旧) | ロシア作曲家・音楽家奨励評議委員会 | グリンカ賞受賞の謝意と、報酬を送ってほしい依頼 |
Apetyan111 | 1917年2月21日(旧) | エミリィ・メトネル | ずっと手紙を書けていなかったことの謝罪 |
Apetyan112 | 1917年7月6日(旧) | アレクサンドラ・メトネル | 7月11日にモスクワに行くことを共有 |
Apetyan113-1 | 1917年8月(旧) | エミリィ・メトネル | 手紙を書ける精神状態ではないことの侘び |
Apetyan113-2 | 1917年9月(旧) | エミリィ・メトネル | ピアノ協奏曲第1番の作曲や、モスクワに戻ってきて荷解きなどで手紙を書けていなかったことの謝罪と、自分はピアニストだからこそ自分の考えを表明できるのだという表明。 なお、過去にサバネーエフに土臭いと言われたらしい |
Apetyan114 | 1917年12月7日(旧) | エミリィ・メトネル | エミリィの言及からペトロフスキーやキセロフに憤りつつも、引き続きピアノ協奏曲第1番の作曲に苦しめられていることの共有 |
Apetyan115 | 1918年3月14日(旧) | エミリィ・メトネル | エミリィ不在でピアノ協奏曲第1番の初演を終えてしまったことの悲しみと、母親の死の共有 |
Apetyan116 | 1919年2月16日~3月16日の間(旧?) | アレクサンドル・メトネル | ミハイル・アレクセーヴィチ・ビヒテルからアレクサンドルの様子を聴いたことの共有と、人民委員会音楽部の理事会などで忙しいことの吐露。 なお、ロストフのドン音楽院から誘われていたようだが、地方の音楽状況を鑑みて蹴ったらしい |
Apetyan117 | 1919年9月前半(旧?) | アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル | ブグリからモスクワ音楽院の現状を聴きつつも、自分が置いてくる羽目になった姪・弟子のイリーナの心配と、兄・アレクサンドルに職の斡旋の依頼をする。 また、姪・ヴェーラの夫であるニコライ・タラゾフへの連絡もついでに依頼している |
Apetyan118 | 1919年9月(旧?) | アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル | メトネルはモスクワ音楽院への復職に意向を変え、そのための会議への出席に送れることの謝罪。 また、引き続きアレクサンドルへのポストの斡旋を依頼している |
Apetyan119 | 1920年2月11日(旧?) | ミハイル・イッポリトフ゠イワノフ | 作曲に集中できないという状況が改善できないために、引き続き休職せざるを得ないことを述べている |
Apetyan120 | 1920年3月5日(新) | アンドレイ・サブロフ | 創作性を高めるために今はまだアウトプットではなくインプットを続けるべきだとアドバイスしている |
Apetyan121 | 1920年3月12日(新) | アレクサンドル・メトネル | 兄カールが去年前線で腸チフスで死んだことを知ってモスクワに行けないことを悔しがっていることと、父親からの何らかの手紙を受け取ったことの共有 |
Apetyan122 | 1920年6月7日(不明) | カール・メトネル(父) | コンサート活動ができていないことの謝罪 |
Apetyan123 | 1920年6月8日(新) | アレクサンドル・メトネル | アレクサンドルの誕生日を祝いつつも、ルナチャルスキーのアポイントメントが取れないなど、出国のの手配が進んでいることがわかる なお、タイーロフと会ってシェイクスピアを読み始めたらしい |
Apetyan124 | 1920年6月20日(新)/1920年6月7日(旧) | エミリィ・メトネル | ロシア赤十字経由で1年半ぶりにエミリィの手紙が届き、相変わらず手紙を書くのが苦労するので家族の近況だけを述べている。 翌日にアンナとの結婚から1年経つこと、ここしばらくどんな曲を作ったかということ、特にピアノ協奏曲第1番をエミリィの前で弾きたいということ、カールが既に死んでいるということを伝える。 なお、メトネルはブラームスを巨匠と述べ、彼の妹や娘のように扱われることを不満に思っている |
Apetyan125 | 1920年6月20日以降(新)/1920年6月7日以降(旧) | エミリィ・メトネル | 前回の手紙(Apetyan124)の後に、海外に住むことの不安を取り除いてほしそうな手紙を求めている |
Apetyan126 | 1921年2月下旬~3月上旬 | ニコライ・タラゾフ | タラゾフが教育的な立場に就いたことをはじめて知った驚きの共有や、イヴァン・イリインからも上司がほめていたと聞いた話を伝える |
Apetyan127 | 1921年3月27日(新)/3月14日(旧) | エミリィ・メトネル | 間もなくエミリィのもとに行ける興奮を伝える |
Apetyan128 | 1921年4月9日(新) | エミリィ・メトネル | しばらくコンサートの予定が多く入って西側に行くのが延期になったが、これは父親のために大金を工面するためであり、気持ちが変わったわけではないと謝罪 |
Apetyan129 | 1921年4月10日(不明) | セルゲイ・ラフマニノフ | ラフマニノフからのアメリカ行きの誘いの電報を、スタインウェイからの手紙よりも後に今更受け取った情報共有と、「ソフィア・サーチナが大体の経緯を教えてくれるが、実はヨーロッパ行きを既に決めてしまった後」だと伝える。 なお、メトネルのピアノ協奏曲第1番はこの頃まだ出版されていなかったらしい |
Apetyan130 | 1921年4月17日(不明) | ナザリー・ライスキー | ゴリデンヴェイゼルとライスキーを非難しつつも、謝意を述べ既にモスクワを離れたことを告げる |
Apetyan131 | 1921年5月21日以前 | ナザリー・ライスキー | ゴリデンヴェイゼルとライスキーの企画したメトネル作品のコンサートの成功を祝いつつも、次回も参加できないと断りながら楽曲の要望をしている |
Apetyan132 | 1921年7月17日以前 | ナザリー・ライスキー | 次回のコンサートのプログラムがまだ届かない不安を述べつつ、前回のライスキーの手紙が不安にさせたという理由でコンサートのリスケや事前のミーティングなどをしたいと述べている |
Apetyan133 | 1921年7月17日(不明) | ナザリー・ライスキー | 前回(Apetyan132)で催促したプログラムを見て、修正案を送っている。 なお、註を見た限り、一部を除いてライスキーは従ったようである |
Apetyan134 | 1921年7月17日以降 | ナザリー・ライスキー | 前回(Apetyan133)保留していたプログラムの残りの案を述べつつ、来週のミーティングの挨拶をあらかじめ送っている |
ドイツ(エストニア~一度目のアメリカまでを含む)時代
アペチャン編に収録済みの場合番号 | 年月日 | 宛先 | 内容の要約 |
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Apetyan135 | 1921年9月30日 | ソフィア・サブロワ(ソフィア・メトネル) | エストニアのレヴァルからエミリィに早く会いたい期待と、国の父親の心配を伝える。 なお、この際母方の祖父母(カール・ゲディケとポリーナ・ゲプハルト)の細密画を催促している |
Apetyan136 | 1921年10月4日 | セルゲイ・ラフマニノフ | エストニアのレヴァルから、かつて「すぐに旅立つから海外から詳細を送る」と述べたっきりになって時間が経った謝罪と、エミリィに間もなく会う情報共有を送っている。 加えてスタインウェイの手紙はしばらく英語が誰も読めなかったので、最近ようやくアメリカでの契約の誘いだと分かったが、英語のできないアメリカ生活の不安を述べつつ、リヒャルト・シュトラウスとバッティングさせないようになどと要求している。 なお、そろそろドイツでクーセヴィツキーを頼りに出版の計画に着手したいらしい |
Apetyan137 | 1921年10月5日 | エミリィ・メトネル | ドイツ入りのビザなどを手に入れたので、間もなく会えることと、会うのを延期させていたのは決して世界大戦による反独感情から来ているものでは無いことを伝える |
Apetyan138 | 1921年10月26日 | アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル | やっと手紙が書けたことと、29日にドイツに向かうことを述べている なお、メトネルは船旅の「フリードリヒ(船酔い」)におそらくエストニアで食べた甘いケーキをささげるだろうと冗談を言いつつも、ソ連でボレスラフ・ヤヴォルスキーが進めようとしている音楽教育制度改革の不安を添えている |
Apetyan139 | 1921年11月4日 | 親族一同 | 60時間の船旅でアンナがずっと船酔いで、自身も揺れで発狂しそうだったこと、それはそれとしてベルリンにたどり着けたことを情報共有する |
Apetyan140 | 1921年11月19日 | エミリィ・メトネル | エミリィが送ったニキシュを讃えるパンフレットを見て、自分は本質を忘れていないとエミリィを安心させようとしている |
Apetyan141 | 1921年11月26日 | エミリィ・メトネル | (どうやらエミリィがスクリャービンへの批評やアメリカの広告などを送ったらしく)スクリャービンに対する態度は西側のものとは思えない田舎臭さを感じ、けばけばしい広告によってすっかりアメリカ行きを不安視し始めている。 この点はラフマニノフが海外作品ばかり演奏している点でも補おうとしているが、ラフマニノフが取り上げるドホナーニのことは、リヒャルト・シュトラウスやレーガーよりも才能があると思っているらしい 最後に、ニーチェのワーグナー批判を読みつつ、もしニーチェがペトルーシュカ(ストラヴィンスキー)やティル・オイレンシュピーゲル(リヒャルト・シュトラウス)を聴いていたらとぞっとしている。 |
Apetyan142 | セルゲイ・ラフマニノフ | 1921年11月30日 | レヴァルにいたころに来たクーセヴィツキーからのパリのコンサートの申し出に対し、実際にベルリンに行って会ってみたらすでにアルセニーエフに決まっていたことを知った落胆を伝える。 さらに、クーセヴィツキーのところで出版によってギャラを得ようとしたものの、3日後にソ連側が許可してくれるか怪しいとあり、既に直接自分のところに来たツィンマーマンと新しい楽譜を出そうとしている。 ただし、「あのマックス・フォン・シリングスがギャラに満足しているのだから」に引っかかっており、初学者向けのステファン・ヘラーの価値もないクロイツァーやシリングスのコンサートでの徒労感から、ドイツの不満を爆発させている。 とはいえ、実はすでにアルベルト・ヤロシュとデンマークのハンセンからコンサートの約束があったらしい |
Apetyan143 | 1921年12月12日 | カール・メトネル(父) | 夢の中で父を見たので、リーゼマンに会ったことや、スイスからエミリィがやってくること、ユングに父についても聞いてもらう計画があることを伝える。 ただし、註で補足されている通り、これが書かれたのはすでに父の死後である |
Apetyan144 | 1921年12月18日 | エミリィ・メトネル | リーゼマン経由で、ニキシュに自分のピアノ協奏曲を今日見せることになったスケジュールができたことを共有 |
Apetyan145 | 1921年12月21日 | ソフィア・サブロワ(ソフィア・メトネル) | 祖国から届いた多くの手紙はちゃんと目を通していることを告げつつ、ドイツ生活の不満と祖国の父・姉への心配を述べる。 なお、詳しいことはアンナが述べると書いてあるが、註で引用されたアンナの手紙によると、ニキシュとの会談は成功したもののシーズンが終わっており、演奏のアポも取れず、出版計画もツィンマーマンが少額で小品を出したくらいの苦境にあったらしい |
Apetyan146-1 | 1921年12月30日 | ソフィア・サブロワ(ソフィア・メトネル) | ようやく父の死を知り、この間、そして今もなお祈ることすらできない環境を嘆いている |
Apetyan146-2 | 1922年1月2日 | ソフィア・サブロワ(ソフィア・メトネル) | ドレスデンへの移動で便りが途切れたことを詫びつつも、父の死亡の動揺と、同じく動揺していそうな姉の心配、およびやっと再会できたエミリィの様子を伝える |
Apetyan147 | 1922年1月2日 | アレクサンドル・メトネル | ドイツ音楽界を嘆きつつも、生活のためになんとか演奏活動で成功する必要がある決意を表明する。 なお、はるか前にドイツにいたにもかかわらず、クーセヴィツキーが自分のことを売り込んだりしていないことを不満に思っている |
Apetyan148 | 1922年2月12日 | セルゲイ・ラフマニノフ | ソフィア・サーチナからの言伝で、ようやくラフマニノフに手紙を書けることを述べつつ、クーセヴィツキーら頼りにならないドイツの出版界にあきらめを感じ、デンマーク行きを約束したことも公開し始めている。 なお、追伸でニコライ・オルロフをラフマニノフに売り込むロビー活動を行っている |
Apetyan149 | 1922年3月13日 | エミリィ・メトネル | フルトヴェングラーが振ったベートーヴェンの『献堂式』序曲に感激したものの、反面「第9」のような名曲があるようなドイツでやっていくことに自信を無くしている |
Apetyan150 | 1922年4月10日以前 | アレクサンドル・メトネル | マネージャー・シュヴァルツのおかげでコンサートの準備が進んでいることと、フルトヴェングラーがニキシュを継いでベルリンフィルに行くことを悔しがっている |
Apetyan151 | 1922年4月12日 | エミリィ・メトネル | コンサート本番は成功したものの、グラズノフと併記して自分をさげすむ批評家に反発している。 なお、メトネルがこの手紙を『Die Grundlagen der Einsteinschen Relativitäts-Theorie(1922年にアインシュタインが相対性理論をひろめるために公開した映画)』のパンフレットを使って書いたらしく、この映画を不安視しちょうどいいパンフレットを欲しがっているメモ書きが残されている |
Apetyan152 | 1922年4月20日 | ソフィア・サブロワ(ソフィア・メトネル) | ベルリンが祭りの最中であることを述べつつ、コンサートの成功とアメリカからの小包を受け取るように伝える |
Apetyan153 | 1922年4月20日 | アレクサンドル・メトネル | コンサートで利益は得たものの、批評家は冷たく、クーセヴィツキーからの音沙汰もないので、ツィンマーマンに出版させた『忘れられた調べ』の収入を得ながらラフマニノフを待っている状況を伝える |
Apetyan154 | 1922年5月15日 | セルゲイ・ラフマニノフ | あれだけラフマニノフを心待ちにしていたのに、6月に来ると思っていたので、到着の前日にチューリッヒのエミリィのもとに向かうことになったことの謝罪。 また、ロシアにいたころゲオルギー・コニュス(コニュス家とはホフマン経由で知り合ったことを初めて明かしたらしい)に紹介されたマネージャー・ベルンハルト・シュヴァルツに今は希望を抱いているという情報共有を伝える |
Apetyan155 | 1922年7月8日 | セルゲイ・ラフマニノフ | ノイエンドルフから、ずっと会えておらず、蓄音機で久しぶりに演奏が聴けて感激したことを述べ、シュヴァルツからあった通り何とかドレスデンで会えるようお願いしている。 なお、註によるとこのとき会ったかどうかは不明 |
Apetyan156 | 1922年7月12日 | エミリィ・メトネル | エミリィ・メトネルの書いた心理学も絡んだ書き物を読み、おそらくユングのタイプ論なども絡めた記載に感激していることを伝える |
Apetyan157 | 1922年8月27日 | エミリィ・メトネル | エミリィ・メトネルの書いた精神分析の論文を読んで感動した事実を先んじて共有し、ゲーテの詩などを歌曲にしていることを伝えている |
Apetyan158 | 1922年9月23日 | エミリィ・メトネル | ようやくベルリンに戻れたことと、アメリカ行きの契約を結んだこと、『忘れられた調べ』第一集を出したので欲しがっている人間をヒアリングしてほしい依頼などを伝える |
Apetyan159 | 1922年10月10日 | エミリィ・メトネル | フルトヴェングラーがあの「ソーセージ職人のような」ブルックナーを演奏するような指揮者だった(7番を聴いたらしい)ことで、かつての称賛を撤回し、信じられなくなったことを伝える。 なお、兄からの勧めでアレクサンダー・ヒェランの『Ringsum Napoleon』を読んで気に入ったとのこと |
Apetyan160 | 1922年11月3日 | エミリィ・メトネル | アルトゥール・ルリエーがドイツにやってきて、ブゾーニらのコミュニティの仲間入りしたこと、クーセヴィツキーがベルリンにコンサートにやってきたが自分にだんまりでもう信じられなくなってきたこと、アメリカ行きの契約書がまだ成立していないことがわかり、アメリカにすでに戻ったラフマニノフも頼れないことなど、不安視している出来事を列挙している。 ただし、コンサートがまだ予定されているので、安心させようとしている。 一方で、自身はあまり好意は持てなかったものの、ユングとエミリィが和解できそうなことの喜びと、イリインとも交流を再開させようという根回しも書いている |
Apetyan161 | 1922年11月6日 | セルゲイ・ラフマニノフ | アメリカ行きのツアーがご破算になり、シュヴァルツから攻撃的な手紙が行きそうなので、あくまでも熱意からくるものなので許してほしいという謝罪と、自身は何も望んでいないことを共有する。 一方で、クーセヴィツキーにはもう期待していないものの、ヴェルテミニヨン社でのピアノロール録音やポメランツェフとの演奏で生計は立てられており、シュヴァルツがフルトヴェングラーやブルーノ・ワルターとコンタクトさせようとすることもあり、演奏活動で作曲ができていないことを嘆いている |
Apetyan162 | 1922年11月14日 | エミリィ・メトネル | フランクフルトから、ヴェルテミニヨン社でのピアノロール録音は儲かったものの不快だったと述べている |
Apetyan163 | 1922年11月10日~23日 | アレクサンドル・メトネル | 手紙を受け取ったことを先行して送る手紙。 また、姪のイリーナの誕生日を祝っている |
Apetyan164 | 1922年12月13日 | エミリィ・メトネル | ホームシックを共有し、先日エミリィが送ってきたスタンダールの言葉をかみしめながら、エミリィを慰めつつ会いたい旨を伝える |
Apetyan165 | 1922年12月31日 | エミリィ・メトネル | ワルシャワから新年のあいさつをしつつ、コンサート漬けの毎日や、ポーランドで会ったヘルマン・アーベントロートの好印象などを軽く伝える |
Apetyan166-1 | 1922年12月31日(新)/1922年12月18日(旧) | ソフィア・サブロワ(ソフィア・メトネル)、アレクサンドル・メトネル | ワルシャワから新年の挨拶と、秋までには帰りたいことを共有 |
Apetyan166-2 | 1923年1月5日(新)/1922年12月23日(旧) | ソフィア・サブロワ(ソフィア・メトネル)、アレクサンドル・メトネル | コンサートは成功したが、虚しさを感じていることをワルシャワから送っている |
Apetyan166-3 | 1923年1月6日(新)/1922年12月24日(旧) | ソフィア・サブロワ(ソフィア・メトネル)、アレクサンドル・メトネル | ベルリンから、手紙はあまり書けないが心はいつも共にある旨を軽く共有 |
Apetyan167 | 1923年1月12日(新)/1922年12月30日(旧) | アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル | かの有名な、メトネルがドイツの主要な作曲家を叩いている手紙。 ゴリデンヴェイゼルからの手紙を受け、学長就任を祝いつつゴリデンヴェイゼルとゲディケに手紙を定期的に送る約束をする。 一方で、ヨアヒムがシュレーカーと組み、ブゾーニが教育的立場になり、シェーンベルクが重要な立場になるような、リヒャルト・シュトラウスに端を発するドイツ音楽の惨状に、ティル・オイレンシュピーゲルのように音楽の神殿で皆が糞を垂れ流していると皮肉っている(シュレーカーからは何度か接触を持たれたのだが、音楽を聴いて見切ったらしい)。 また、ワルシャワでの成功を受け、スウェーデンのツアーの後ロシアに戻ろうとしていることを告げている。 なお、ついでにゴリデンヴェイゼルが刊行したトルストイの記録の1巻を送るように依頼している |